富崎地区 相浜

たてやま おらがんまっち 館山市富崎地区相浜 御座船 浪除丸

地域の紹介

 相浜地区は、館山市の南部に位置し、大神宮村の西、巴川の河口左岸一帯で、西側は海を臨みます。かつては、地引網が盛んな漁村でした。師走には、名物「ナマダ干し」が見られます。市内で唯一太平洋「外房」に面した海水浴場が有り、良く晴れた日には、富士山の遠望が見事です。日本の道100選に選ばれている「房総フラワーライン」には、きれいな花が咲き誇り、ドライバーの目を楽しませてくれます。

自慢の御船 浪除丸

「相浜」半纏二種と「相歌」の半纏 御船は朱塗りで他地区の御船と比べて水押の角度が緩い川遊び船です。造船年代は詳しくはわかりませんが、宝永年間に江戸の浜離宮にあった将軍家の川船から、幕府御用船匠が図面を取り建造したと伝わっています。
後藤義信作の船尾龍彫刻 現在の御船は明治三十年代に改修を加えられたもので、彫刻は安房郡国分村の名工後藤喜三郎橘義信の作。台車は六輪木車で、軸受は檜無垢材で加工されています。てっこ棒で方向変換するので木車でないと摩擦に絶えらません。
 水押には緋毛氈が掛けられ、先端には鳳凰の金カンザシが付けられています。障子に囲まれた屋形の中では船歌が歌われます。船尾には武具が並びます。
船首水押しかんざしの鳳凰 祭囃子はゆったりとした調子で、船歌にあわせて上品に叩かれます。近年では、子供たちへの指導も復活し、船歌も後継者を育てながら伝統を大切に継承していこうとしています。
 何よりも地元に住む全ての人々の自慢の祭りだから。
浪除丸

相濱神社(千葉県館山市相浜四二)

相浜神社相浜神社祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)
宇豆彦命(うずひこのみこと)

例大祭:祭礼日 三月最終土曜日(宵祭)、最終日曜日(本祭)江戸時代から続けられているという祭事で、お不動さんの縁日が当られています。古くは御輿があり、安房神社例大祭の浜降「磯出」神事の先導役をつとめていました。現在は曳船神事の御船祭だけが行われています。

白く塗られた神明鳥居が美しい相浜神社由緒:創建された年代は不肖でありますが、養老年間(奈良時代)には安房神社を中心に御浜に御輿が集ったといわれており、御輿がこの浜で「相(合)う」ところから「相浜」の地名がつけられたと言われています。
 感満寺は旧浪除神社の別当寺で、開基は文武天皇三(六九九)年、役行者です。宝亀元(七七〇)年、本尊不動明王が勧請され関東三不動として信仰が厚かったといわれています。
 文政十三(一八三〇)年の由緒書によると感満寺には本堂、仁王門、鳥居があり浪除神社も感満寺境内にあったと推測されています。
 明治初年の神仏分離令で寺号を廃し、その後楫取(かんどり)神社を合祀し相浜神社となりました。祭神の日本武尊は景行天皇の息子で西国、東国鎮護に活躍しましたが、悲運の最期をとげ、神として勧請されました。「大鳥」「鷲」「白鳥」という名前のつく神社に祀られていることが多いようです。
 楫取神社の祭神・宇豆彦命は神武東征神話で水先案内人として活躍した「航海の神様」であり、大和国造となる歴史上の人物です。大和系の海人族で、紀州の漁法も指導した漁師の神様でもあります。
 拝殿の絵馬は壇ノ浦源平合戦の板絵で、絵師は雪舟等楊の三世等淋の門人で要山等栄。文政年代の絵師。
 また、館山市立博物館には、作者・年代等詳細は不明ですが、相浜神社にあった、「七福神」の彫刻が収蔵されています。
昔ながらに女装した男衆が屋根の上で踊る 七福神彫刻(部分)

自慢の「相浜音頭」

 平成八年五月二十六日、第三十五回郷土民謡民舞春季大会において、合唱の部で見事文部大臣賞に輝きました。作詞は、地元の鈴木馨さん、作曲は東芝専属民謡歌手の小澤千月さん。「数年前には富崎に伝わる漁撈歌、安房節を復活させた」小さな地区にでっかい栄冠です。

相濱神社の御輿

安房神社の例大祭において、浜降「磯出」神事の先導役をつとめた相浜神社の御輿。
写真は昭和59年3月本殿屋根改修記念のもの。
相濱神社の御輿地区名……相浜
神社名……相浜神社
屋根………延屋根 黒漆
蕨手………普及型
造り………塗神輿
露盤………桝型
木棰………棰
胴の造り…平屋台
桝組………五行三手
扉…………四方扉
鳥居………明神鳥居
台輪………普及型
台輪寸法…三尺六寸

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相濱地区(表面) 相濱地区(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。