大井地区 手力雄

たてやま おらがんまっち 館山市大井地区 手力雄

地域の紹介

大井地区は九重地区の東端に位置し国道128号線を挟む丘陵地の麓に広がります。御狩谷、角田、赤立、東根、西根の五つの集落からなる、およそ五十戸ほどの地域です。地域内には古代の横穴古墳群、灯籠塚、中世大井氏居城である大井城跡など、古代からの豪族の拠点であったと考えられる数々の史跡が残されています。また、平安時代の地名としてある「安房国安房郡大井郷」は当地周辺と考えられています。
現在は、江戸時代の頃から始まったとされる苗木生産から発展した造園業や手入れの行きとどいた梨畑、正月用の千両の栽培をしている竹小屋、色とりどりの花卉栽培などの特色ある農業が行われています。
馳川盛義氏による史料「大井之誇」の序文に書かれている「大井に生まれたものは大井を知らなければならない。故郷を知って故郷を守るのは愛国の至情である」という言葉のとおり、先人たちの地域への熱い思いが守り継がれ連綿と息づく「誇り」ある地域です。

自慢の神輿

「波の伊八」こと武志伊八郎信由の彫刻
大井地区手力雄神社の神輿は、安房国司祭(やわたんまち)に出祭しています。美しい朱と黒の漆に染められ、凝った細工の枡組や所狭しとばかりに付けられた彫金の数々、そしてそれらと調和した見事な彫刻が生き生きと配されています。
平成十五年の大改修の際、この彫刻の裏に「彫工伊八作 武志伊八郎信由 長狭打墨住」という墨書き銘が発見されました。柱四隅の狛犬八体と戸脇の龍八体の彫刻がそれです。そして更に、柱隠しの龍と安房国司祭で御仮屋に納めたときだけ神輿軒面と野筋につけられる龍の彫刻は、房州後藤流・初代後藤義光の手によるものです。房州後藤流・初代後藤義光の彫刻
「波の伊八」と「初代義光」自慢の神輿という名工二人の彫刻がふんだんにつけられた神輿は他では見ることができません。大井地区手力雄神社の氏子たちの深い崇敬があればこそできた、すばらしい自慢の神輿です。

大井地区 手力雄神社の神輿●地区名:大井
●神社名:手力雄神社
●屋根:述屋根
●蕨手:普及型
●造り:漆塗り
●露盤:桝形
●棰:棰
●胴の造り:二重勾欄
●桝組:四行二手
●扉:四方扉
●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:四尺
●彫刻:武志伊八郎信由、後藤利兵衛橘義光
●観処:武志伊八郎と初代後藤義光の彫刻など

手力雄神社 千葉県館山市大井字船田一一二九

手力雄神社千葉県指定有形文化財の本殿社格:旧郷社
鳥居:両部鳥居
社紋:のぼり藤
宮司:黒川邦保
氏子数:五十三戸
境内坪数:六百坪
祭神:御正座 天手力雄命
(あめのたぢからおのみこと)
左座 天御中主命
(あめのみなかぬしのみこと)
右座 太田命
(おおたのみこと)

長い歴史を感じさせる境内由緒:手力雄神社は神武元年、忌部族が鎮祭、養老二(七一八)年、舍人親王により創建された古社と伝承されています。鎌倉、室町、戦国の時代を通じて、御祭神は武勇の神として崇拝され、各武将の間で信仰が厚く七〇貫文の社領を有し、里見時代、徳川時代には四十三石三斗の寄進を受け、その朱印状が現存しています。現在の社殿は天正十二(一五八四)年、里見義頼が造営。元禄十六(一七〇三)年の元禄大地震により破損。宝永六(一七〇九)年に修理・改修されたものです。本殿の建築様式は三間社流造、全体が朱塗りに施され、彫刻も極彩色、屋根は檜皮葺(もとは柿葺)など中世末の装飾法と江戸中期の特色が見られることから千葉県指定有形文化財になっています。拝殿に向かって左側に聳え立つ周四・五m、樹高三十七m、樹齢およそ七百年と推定される「大杉」は、館山市天然記念物に指定されています。手力雄神社の御神木として古来から氏子たちによって愛護されてきました。
御神木の「大杉」五十戸たらずの集落での旧郷社・手力雄神社の維持・継続には、古来より氏子たちの並々ならぬ信仰心と地域への厚い想いが込められています。

主な祭典:
一月三日 歳旦祭(新春祭典)
二月十七日 祈年祭(としごいの祭)
九月十四、十五日 安房国司祭出祭
十月九日 例大祭(秋季例大祭)
十一月二十三日 新嘗祭

早朝の「発輿祭」安房国司祭出祭:大井地区の人々にとって、やわたんまち安房国司祭(千葉県無形民俗文化財)への神輿出祭は最も大きな、そして特別な想いのある祭礼です。この神輿渡御は神社古文書などによると延久三年(一〇七一)頃より始まったとされ、およそ一千年にもわたりその伝統が連綿と現在まで引き継がれています。
出発前、心躍る大井のみなさん安房国司祭出祭には、大井の人達全員が一丸となってとりかかります。
「夏なぎ」後の氏子総会から準備が始まり、総代打合せ、出祭神社神職・総代会議、神輿団役員会議、団長会議などなど、細かな準備が続きます。
そして迎える当日、未明に「御霊遷」、早朝に「発輿祭」を執り行なった後、鶴谷八幡宮への「渡御」が始まります。白丁と紫の手甲を身につけた神輿団員にかつがれた神輿は、北条の街中を練り歩いた後、いよいよ鶴谷八幡宮へ入祭。長い参道を拝殿前まで一気に走り抜け、もみさしを繰り返し、高々とさしながら「大井の神輿」の最も誇らしげな姿が観衆の目前で踊ります。特に湊地区の子安神社の神輿とのもみさしの競演は勇壮で見応えがあります。
鶴谷八幡宮境内で子安神社神輿との「もみ・さし」そして神輿が御仮屋へ納まると手力雄神社の神職による「着輿祭」が執り行なわれた後、力綱が解かれ神輿屋根に龍の彫刻が飾られ、神輿団員たちは「宿(やど)」で疲れを癒します。
翌日の早朝四時から「朝祈祷」が執り行われ、午後には北条地区の山車が入祭します。山車が帰った後の午後五時より安房神社神輿を皮切りに「還御」が始まります。
御仮屋に納まり龍の彫刻が飾られる滝の口神輿の還御の後、大井の神輿の鶴谷八幡宮境内での最後のもみさしに力が入ります。そして波が引くように神社をあとにし、大井への帰路につきます。
手力雄神社についてから、惜しむように最後のもみさしが行われ、大井の神輿の「安房国司祭出祭」の終わりの時を迎えます。
手力雄神社に還御

 

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大井地区(表面) 大井地区(裏面)
このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。
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