稲村城跡

 里見氏初代義実が文明18年(1486)に築城をはじめたと伝えられ、五代義豊までが居城とした里見氏の城跡です。三代義通のあと国政を執った義通の弟実蕘を義通の子義豊が攻め、その義豊は実蕘の子義蕘に討たれるという、一族間の争いを演じた城で、天文3年(1535)に廃城になったといいます。
 曲輪・土塁・堀切などの城郭遺構が発掘調査によって確認され、周囲には「堀ノ内」・「要害」・「箕輪」などの地名も残っています。
 城跡の周囲からは、宝篋印塔2基が出土し、城跡北方尾根の崖下には五輪塔が安置され、そこから元応元年(1319)銘の板碑が出土するなど、稲村城跡の地の歴史的一端を垣間見せる資料が多数あります。
 また、城跡東南には「水神の森」とよばれる小叢林があり、義豊の首を埋めたところと伝えられています。