館山地区 新井

たてやま おらがんまっち 館山市館山地区 新井

地域の紹介

 新井地区は市域の中央部に位置し、近世以降安房地方の中心地として、また館山城の城下町として栄えた館山地区にあり、下町と長須賀地区に隣接し、江戸時代は真倉村の浜方集落で新井浦と呼ばれていた歴史深い地区です。
 現在も新井海岸には館山市立博物館分館などを含む「みなとオアシス〝渚の駅たてやま〞や、日本一の長さを誇る「館山夕日桟橋(館山港多目的観光桟橋)」など館山市を代表する多くの施設があります。
明神丸【御舟の大きさ等】
●全長:8.3m
●全幅:2.07m
●全高:3.76m
●後部七つ道具含む高さ:4.26m
●総重量:2,360kg
●彫刻:後藤喜三郎橘義信

自慢の御舟「明神丸」と「新井の御船歌」

勇壮な鷲と明神丸の舟先
 初めて御舟が造られたのは明治二十年代と言われており、紅い御舟のいわれは遠く律令時代、海魔調伏を願い紅く塗ったとされています。里見時代末期に商港となった高之島湊は、新井の島と呼ばれた高ノ島・沖ノ島と新井浦に挟まれた海域で、里見水軍の拠点にもなっており、そのお舟手がいたことから軍舟と呼ばれています。百年以上もの間小規模の修復を重ね、近年では平成五年に大修復を行い更に年番の平成十八年には漆の塗り替え、提灯の新調などを行い、代々受け継がれ大切にされてきた御舟です。御舟先端にクロスして飾り付けられている毛槍は白熊の毛が使われており、朱塗りは本漆で、また御舟の特徴である後部の薙刀、陣笠、吹流し、纏、番傘、諏訪梶の神紋の赤旗、明神丸の白旗の七つ道具が自慢です。
隅々まで美しさにこだわった明神丸の後姿 平成二十年二月二十五日に館山市無形民俗文化財に指定された「新井の御船歌」は古くは諏訪神社の祭礼で演じられていました。現在は二月上旬に行われる初午での歌い初めと、八月一日、二日に行われる館山地区の祭礼の際に多くの場所で演じられています。その他にもNHKの民謡番組や安房の伝統芸能まつり、里見氏関連行事など、多くの出演依頼があり、皆に愛される自慢の御船歌です。また、昭和四十七、八年頃に「新井船歌保存会」が組織されるまでは、御船歌は区の長男にだけ教えるという形での継承形態が残っており、深い伝統を感じさせます。

諏訪神社

諏訪神社諏訪大明神の額
●祭神:八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
●旧鎮座地:安房郡館山町大字館山字東(大正期)
  現在は館山市館山一〇二二番地の一辺り。現在は館山神社に合祀されている。
●宮司:酒井昌義
●由緒:諏訪神社の祭神・八坂刀売神は諏訪の神である建御名方神の后神です。神道の女神と言われ、諏訪大社他、各地の諏訪神社にも祀られています。新井と下町の氏神だった諏訪神社は、大正十二年九月一日に発生した関東大震災によって倒壊してしまいました。その後は館山神社に合祀され現在に至っています。諏訪神社は現在の館山商店街協同組合(TSCホール)近辺にあったそうです。新井集会所には御舟「明神丸」の名前の由来となった諏訪大明神の額が残されております。この額の裏には文化四年の墨書きが残されており、その歴史の深さを物語っています。

自慢の祭り・若衆

紅で描かれた「あらい」の半纏を纏った若衆の威勢の良い曳き廻し 新井の祭りと言えば一番の魅力だと言われる速い勇壮な曳き廻しと若衆の威勢の良さ、そして手際の良い「キリン」さばきなど迫力に溢れ、舵が切れないながらも御舟の機敏なやり回しは、見る者に感動を呼び込む「祭りを愛する熱い仲間達」という印象を持つ人は少なくないでしょう。走りに危険がないようにと平成元年頃から変えたという他の町とは一風変わった地下足袋と脚絆のスタイルや、「裸」という衣装をまとった新井若衆ここ一番の決め時には筋骨隆々、黒く焼けた上半身となり、裸という衣装をまとった若衆はまさに新井の自慢です。「武・走・裸・道」という四文字に込めた精神は今も若衆の中に生きています。
 また、里見水軍の流れを汲んだ出陣太鼓が特徴で、新井のお囃子で「速ばか」と言えば、この地域で一般的に叩か「あらいの半纏れている「速ばか」や「御舟ばか」ではなく、それは「新井の速ばか」であり、そのばち捌きやリズム、腹にくる響きは理屈ではない聞けばわかる士気の高揚する自慢のお囃子です。
 そして八月二日の本祭での館山神社入祭から御浜入りの曳き廻しでは、年番に関係なく先頭で走ることが館山のまつりの伝統であり、同じく本祭の午後三時半頃に一気に駆け上がる赤山の坂や、夜の歩行者天国での速い走りは是非皆さんに見て頂きたい「これぞ新井」という場面です。

【大正14年、六輪の明神丸】

大正14年、六輪の明神丸 この時代は御舟の先端に現在のような舵棒はなく、てっこ棒のみで舵を切り、ブレーキをかける役目もしていました。舵を切ったりブレーキをかけたりする時に、てっこ棒を突っ込む左右の桁の部分は、てっこ棒を引っ掛かり易くする為に、片側三輪ある各車輪の間(中央の車輪の前後)の桁の下部を切り欠いてあるのが特徴といえます。浜上(はまじょ)と呼ばれる土地の屈強な男達が軽々と重いてっこ棒を操り、舵取り、ブレーキ、今で言う交通等の役目も担っていました。走行中は、この浜上と呼ばれる人達で御舟の周りはバリケードのようになり、誰も寄りつけなかったといいます。また、太鼓や笛等お囃子の役目をする者は、岡上(おかじょ)と呼ばれていました。当時は土地に生まれた人でないとなかなか祭りに入る事が許されず、土地に生まれた人のみが若頭(五十代)になる事ができ、よそから来た人は「高張り三年」と言われ、三年は高張りの役目をしないと受け入れて貰えなかったといいます。

【昭和30年、四輪の明神丸】

昭和30年、四輪の明神丸 御舟の先端には一本の舵棒がついており、舵が切れない分「キリン」が装着され、現在と同じように曳き廻しが行われていました。この写真の一本舵棒の前は、U字型の舵棒で、左右から人が付いて操作していた時代もあったといいます。下町の交差点は「キリン」を使わず一発で、舵棒だけで曲げるというこだわりは、今も昔も変わっていません。

8/1.2 館山のまつり

祭りの起源
大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併
し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下)、諏訪神社(上)、厳島神社、八坂神社他三社倒壊のため、協議により七社の合祀を決め、昭和七年館山神社として創建されました。現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。
館山神社に集まった館山地区の山車と明神丸

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館山市館山地区 新井(表面) 館山市館山地区 新井(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。