関澤明清顕彰碑

明治末期、ウィーンやフィラデルフィアの万国博覧会に参加して欧米の進んだ水産業を見聞した関澤明清は、殖産興業を標榜する日本にとって水産業振興策は欠かせない重要施策と考え、政府に提言するとともに、自ら館山に居住して関澤水産製造所を設立して漁業基地とし、米式捕鯨法を導入して近代捕鯨を営みました。また水産教育の必要性を説き、水産伝習所が解説されると初代所長となり、後進の指導にあたりました。鮭鱒の人工増殖・改良揚繰網・沿岸捕鯨の開発は後世に残した関澤の3大事業と呼ばれています。