館山地区 宮城

地域の紹介

宮城の浜で行われていた「宮城海苔」の養殖
(正面に見えるのは鷹の島:大正末から昭和初期)
 宮城地区は、沼地区と笠名地区に隣接した地区で、丘陵よりの岡方と海岸よりの浜方の集落からなります。江戸から大正時代までは「宮城海苔」の養殖が行われていました。
 関東大震災での海岸隆起と昭和五年の海軍基地埋め立てなどがあり宮城地区の地形は大きく変わりました。
 軍事施設の多い宮城地区では、館山海軍航空隊が太平洋戦争中に防空壕として建設した赤山地下壕跡や、航空機格納庫として作られた施設、宮城掩体壕跡などがあります。
 現在は三六〇世帯程からなる地域で、社務所には江戸時代からの宮城自治関係者一覧表や昭和の歴代役員の額などが飾られ、深い歴史を重んじ先人を敬う地域性を感じさせます。

自慢の神輿

 宮城区は、大神輿、中神輿、小神輿の三基の神輿を所有しています。大神輿は、大正十二年に地元大工山口政右ェ門家の手により制作され、彫刻は房州後藤流初代義光の弟子にあたる後藤源義定により施されました。
 中神輿は昭和三年十一月に地元大工である山口熊吉によって制作されました。

美しい素木の屋根に映える扇垂木と腰組造り
 大神輿は美しい素木作りで、大きく深い屋根に三つの右巴紋が輝いています。四手先造りの枡組と扇垂木の腰組造りで、その偉容を感じさせます。
 また、数多くの彫刻が施されており、分厚い胴羽目彫刻をはじめ、四方の堂柱には昇り龍、降り龍、子落としの獅子が細かく彫られており、木鼻には籠彫りを抱えた獅子、欄間には鶴や鳳凰などがところ狭しと溢れんばかりに施されています。また屋根上についている擬宝珠の台にも龍の彫物が回っています。
後藤源義定による見事な彫刻
 昭和五十七年と平成六年に大きな修理を行いながら、素木の美しさを保つために、毎年祭礼が終わるたびに拭き磨かれたその姿に、宮城区民の篤い思いが見える自慢の神輿です。

厚みのある胴嵌め彫刻
●宮城区:神輿
●制作年代:大正十二年五月
●制作者:地元大工山口政右ェ門 ●彫師:後藤源義定 
●屋根:方形普及一直線型 ●屋根葺:素木 
●蕨手:普及型 ●露盤:桝型 ●棰:扇形 ●造:素木造 
●胴の造:前後階段 ●舛組:五行三手 ●扉:前後扉 
●鳥居:明神鳥居 ●台輪:普及型 ●台輪寸法:三尺八寸三分

熊野神社

宮城熊野神社
鎮座地 : 館山市宮城字寺下一七二
●祭神 伊弉那美命(いざなみのみこと)
事解男命(いことさかのおのみこと)
速玉男命(はやたまのおのみこと)

神社額
●例祭日 八月一日
●鳥 居 神明鳥居
●宮 司 酒井昌義
●氏子数 三六〇戸


「奉幣社村社 熊野神社」
と書かれた石碑
●由緒
 神社拝殿に奉納されている向拝の龍の彫刻は、後藤利兵衛橘義光の弟子である後藤源義定作です。拝殿の中の脇障子にも大きな彫刻が嵌められいます。鳥居・狛犬・手水石などの全てが明治四十四(一九一一)年のもので、この年に丘陵部から現在地に移転したといわれています。
 例大祭は七月三十一日に行われ、神社行事である二月二十七日の祈年祭や十一月二十七日の新嘗祭が執り行われています。
 正月には神輿を飾り、初詣に来られた人に甘酒を振る舞っています。また、祭日には必ず神社入口に二本の日の丸を掲げています。

自慢の祭

猿田彦神を先頭に行列が行われていた
 例年八月一日、二日に行われる館山地区祭礼。初日の朝に、宮城熊野神社境内には、揃いの手甲、黄色い鉢巻をした神輿衣装姿の担ぎ手たちが神輿を取り囲みます。
♪ これが宮城の(ホイキタショイ)
   若い衆でござる(ヨイヨイ)
    稲の出穂より 良く揃た ♪
 高らかに響く木遣り唄とともに、素木の神輿が舞い上がり、待ちに待った館山神社への神輿渡御がいよいよ始まります。
館山神社拝殿での揉み差し
 宮城の神輿出祭は、区長、神社役員を筆頭に、昊友会(こうゆうかい)、子ども会などの地区民により執り行われます。この中の昊友会には三十人を超える青年が所属し、神輿を担ぐ役目を担っています。昊友会の「昊」とは、大きい様、盛んな様を意味する文字で、まさに宮城地区の青年の意気込みを現している名前です。
 その昔は、道案内役の猿田彦神(天狗)を先頭に、笛、太鼓、神官などの行列を作って神輿渡御を行っていました。
 神輿出祭は小神輿と大神輿が行い、大神輿は朝九時に熊野神社を出発し、町内を隈なく回って午後五時に館山神社へ入祭します。小神輿は大神輿と一緒に町内を回り、大神輿が区外へ出たときに合わせて熊野神社に戻ってきます。
館山神社入社のときは一気に拝殿へつける
 神輿を担ぐときの形は、 前を少し上げて後ろを低くし、走ったりすることはあまりなく、ゆっくりと大きく練り歩きながら渡御しますが、館山神社入祭で拝殿前へつけるときは、勇壮に走り、拝殿前まで一気につけます。そして素木の自慢の神輿を高く刺し上げたときが宮城神輿最大の見せ場となります。
 地区民全員が一体となって担ぎ上げる自慢の祭りです。

館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〟です。

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館山市館山地区 宮城(表面) 館山市館山地区 宮城(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。