なぜ館山は平和学習がさかんなの?

赤山地下壕

平和学習とはその名の通り、戦争から平和を学ぶことをいいます。日本は原爆が実際に兵器として使われた国でもあり、沖縄・広島・長崎を筆頭に世界中から多くの人々が平和学習に訪れます。そんななか、なぜ館山?なんて思う方いらっしゃいませんか? 館山というと鮨や海水浴といった穏やかなイメージが強いので、なんとなく戦争と結び付きづらいかもしれません。しかし、実はここ館山は、関東圏では最大級の平和を学ぶまちでも、あったのです。

(2012/05掲載:H)

戦争遺跡について

戦争遺跡は、数ある遺跡の中で最も身近で私たちの生活に直接関係している歴史の遺産であるにも関わらず、その残酷さ、虚しさ、そして何より未解決の問題が山積みであることから日常顧みられることはあまりありません。戦争にまつわる映画や本、芸術作品等を見聞きしたことがある人ならば、きっと遣る方ない思いにひしがれた経験があるはず。これを受け止めることは辛いものです。
それ故に、自分の住む町が戦時中どのような状況にあったのかということを学校ではなんとなく習った気もするけれども、積極的にはあまり知らない方も多いのではないかと思います。筆者もその一人で、大きな戦禍を被った土地についてはある程度の知識がありましたが、実家周辺の足元にある歴史を知らないばかりか、千葉県といった広い範囲でも一体何が起こっていたのか調べたこともありませんでした。
しかし現実には、当時の日本は「総力戦」で立ち臨んでいたわけですから、日本中どこを探してみても戦争と関わりのない土地が見つからないほどに、「戦跡」だらけなのだと想像できます。そのほとんどは新しい日本づくりの下に解体されてしまったと考えられますが、中でも後世に伝えるべく地域の方々から守られてきた戦跡は、今でもひっそりとその影を残しているのです。

館山の戦跡

それでは、ここ館山にはどんな戦跡が残っているのでしょうか。主な戦跡を簡単に見てみましょう。

赤山地下壕

館山海軍航空隊 赤山地下壕跡

お問い合わせ:豊津ホール
〒294-0033 千葉県館山市宮城192-1
TEL/FAX 0470-24-1911
海上自衛隊館山航空基地隊の南側にある、総長2kmにもなる巨大な地下壕。現存する資料がほとんどないため、いつ頃から何のために作られたのかは諸説あり確定していないが、全国的にみても珍しい航空要塞機能をもっている。2005年に館山市指定史跡。

掩体壕

掩体壕(えんたいごう)

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められた飛行機の倉庫です。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけとなります。戦時中は、この中に零戦などが安置されていました。

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕

お問い合わせ:安房文化遺産フォーラム
〒294-0045
千葉県館山市北条1721-1
TEL&FAX: 0470-22-8271

現在、福祉施設敷地内の小高い山の中腹にある地下壕の内部にある戦時中の抵抗拠点の一つとして作られた施設。本土決戦に備えた作戦命令によって1944年12月には完成していたとみられている。平和学習の団体のみ事前予約にて有料ガイドが可能です。

東京湾要塞洲崎砲台跡

東京湾要塞洲崎砲台跡

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
日本の近代化がはじまった明治時代。当時の政府にとって、外国の軍艦の侵入から首都東京を守ることが重要なことでした。
そのため、当時の陸軍は、東京湾岸にたくさんの砲台を築きます。こうして東京湾要塞が完成し、砲台のネットワークがつくられ、館山市内には、洲崎第1砲台(1932年完成)、洲崎第2砲台(1927年完成)、北側の富浦町に大房岬砲台(1932年完成)がつくられました。

館山海軍砲術学校跡

館山海軍砲術学校跡

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
館山海軍砲術学校は、1941(昭和16年)6月、陸上における対空射撃や、陸戦隊関係の戦術を教育する機関として、今の館山市佐野に開(ひら)かれました。太平洋諸島での上陸作戦を実践訓練するにふさわしい自然の砂丘ということや館山航空基地もすぐ近くにあるということで房総半島最南端の館山市布良・相浜から伊戸の間にある平砂浦海岸が、演習場に選ばれました。

軍都館山の軍事施設
軍都館山の軍事施設

また、昨年の大震災でも第一線で救助や物資輸送などに向かった海上自衛隊館山航空基地隊ですが、この基地は本庁舎をみても1930年に「館山海軍航空隊」として誕生した軍の施設が基になって出来ているものです。現在の敷地を見てみると、大規模な埋め立てによって造成された航空基地であったことがおわかり頂けるでしょう。
こうして注目してみると、館山には物々しい戦跡が数多く点在していることに気付きます。この他にも、東京湾要塞の砲台群や全国で唯一の兵器整備養成学校「洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)」、水上特攻艇「震洋」や人間魚雷「回天」を配備していたという第1特攻戦隊の基地跡など、明らかに他の戦跡地帯を、その規模においても数においても凌いでいることがわかるんですね。それでは、館山は戦時中一体どんな場所だったのでしょうか?

館山の歴史から戦争と平和をみる

NPO法人安房文化遺産フォーラム
NPO法人安房文化遺産フォーラム

館山を含む安房地域の文化財や戦跡を発見・調査し保全に取り組んできた「NPO法人安房文化遺産フォーラム」という団体があります。代表の愛沢伸雄さんは安房地域の高校社会科の教員をなされていましたが、1990年代から「地域まるごと博物館」として足元にある安房の歴史を掘り起こしての授業実践や文化財の保全活動を行ってきました。阪神淡路大震災後法律が整備され、全国で様々なNPOが立ち上がったのと同時期に「NPO法人安房文化遺産フォーラム」を立ち上げ、現在では地域の方々と協働して年間200組以上の団体を受け入れてガイドツアーを行っています。

高校生への座学 夕日海岸ホテルにて
高校生への座学 夕日海岸ホテルにて

このガイドツアーの特徴は、ガイドの内容を座学としてしっかり学んだ上で実際に見て、触れてみる体験がセットになっていることです。多くの文化財や戦跡は、それがなぜ貴重なものであるかを前もって知っていない場合、サラッと通り過ぎてしまうほど自然に存在していて、なおかつデリケートな史実が含まれています。またこうした文化財は民有地に存在するものも多く、普段は非公開の場合が多々あります。そんな時、彼らの座学付きのガイドであることを条件に立ち入りや公開を許可されている場所もあるんですね。
今回館山の歴史から戦争と平和を理解するために、筆者も事務局長池田恵美子さんの座学に参加させて頂きました。その内容と直接質問させて頂いた膨大な情報から抽出して館山の歴史を追ってみたいと思います。

館山に戦跡が多いのはなぜか?

他の記事でも時おり触れておりますが、館山は明治期にはマグロ延縄漁にてマグロの日本最大級の漁獲量を誇り、海水浴や転地療養の場としても栄えていました。この館山に大きな変化を与えた出来事は、1919年の鉄道開通と、1923年の関東大震災であるそうです。
鉄道の開通によって海上交通の要衝としての機能が陸上による物資輸送へ移って行きます。その直後に関東大震災が関東圏を襲いますが、なんと館山は99%の家屋が全半壊や焼失し、町全体を一から建てなおさねばならない状況に迫られていました。また一方、この地震によって地層が隆起して、海岸線が遠浅となり、高ノ島には歩いて渡れるようになったのです。

館山海軍航空基地建設
館山海軍航空基地建設(たてやまフィールドミュージアムより)

折しも世の中は第一次世界大戦終結直後で、戦勝国としての日本は軍事力の増強に力を注ぎこんでいました。そこで目が付けられたのが、この高ノ島までの隆起した沿岸地帯です。鏡ケ浦と呼ばれるほどに穏やかな館山湾は、水上飛行機の離着陸にも極めて適しており、また地図で見れば明らかなとおり、館山は東京湾の入口であり、首都防衛にとって非常に重要な位置にあるのです。
そこで1930年に埋め立てて航空基地になったのが、現海上自衛隊館山航空基地隊である館山海軍航空隊。基地は「陸の空母」と呼ばれる実戦航空隊でした。もちろんこれ以前の日清・日露戦争中にも、東京湾要塞として西岬地区に洲崎第1・2砲台が建てられるなど、着々と軍事施設が完成していきます。

終戦までの道のり

翌1931年いわゆる「十五年戦争」の始まりとなる満州事変が勃発して以降、日本は対外膨張戦略に従って国際規約を逸脱した単独行動をとって軍備を増強していきます。この間館山海軍航空隊では、パイロットの育成や航空機の開発を急速に進め、1937年からはじまる日中戦争では海を渡って長距離飛行の末にいわゆる「渡洋爆撃」を成功させその技術の高性能さを世界に知らしめます。
しかし、そもそもの資源に限りがあった日本はこの頃から強行手段をとって全国から物資を集めるようになり、1938年には「国家総動員法」が発令されることになります。

第一条
「戦時に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」

花づくり禁止令

 房総館山は、温暖で日照量の多い気候を生かして、冬から初夏にかけて花卉栽培が盛んで、多くの人々が花を見に訪れます。「日本の道100選」に選ばれている房総フラワーラインや花海街道など、花にまつわる話題には尽きることがありません。
ただ、実は戦時中、この花栽培を揺るがす出来事が起きていたことをご存知でしょうか。上記の国家総動員法を受けて、地方長官が農作物の種類を指定して作付けすることができる「臨時農地管理令」によって、物資に困窮していた日本は花栽培を禁止して多くはイモ栽培に変更を命じたのです。
これは非常に厳重な法令だったそうで、「政策の徹底化を図り、花の苗や種を焼却するだけでなく、作っている花は全部抜き取りを強制され…畑の隅に種苗用にと少しでも残せば、国家を裏切る行為として『非国民』呼ばわりされた」(『足もとの地域から世界を見る』愛沢伸雄著)ということです。
しかし、当時の花農家さん達はこのお触れに屈せず、花の種を捨てるにも種が保存される形で、または誰も足を踏み入れることのない山奥に隠すなどして抵抗をし、貴重な種苗を守り抜きました。今日の花栽培はそうした人々の勇気から成り立っていることを忘れてはならないでしょう。

その他、ウミホタルの軍事的利用、カジメやアラメなどの海藻が火薬原料として利用されたことなど、NPO法人安房文化遺産フォーラムによって調査し発掘された当時館山に関連する事例は数知れません。

沖縄に続く本土決戦は館山だった

 「ひめゆりの塔」や「硫黄島の戦い」に代表される映画や小説、戯曲に至るまで多くの作品に伝えられている沖縄戦は、それらが戦争の末期の惨状を伝えることもあり、誰もが一度は見聞きしている衝撃的な史実として今も私たちに戦争の意味を語りかけます。
ただこの戦いが戦争の末期として語られるのは後世の特権で、戦時中はもちろんその後の展開も想定しながら戦局が進んでいました。もはや本土防衛上及び戦争継続のために必要不可欠である「絶対防衛圏」はことごとく破られ、直前に押し寄せた敵軍の蹂躙する様を感じた当時の人々はいかようであったのでしょうか。

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕の見学
洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕見学

ところで、房総半島は太平洋に対して突き出た玄関口として地理的な役割を歴史的に担ってきたことをご存知でしょうか。重ねて首都に最も近い上陸地点でもあり、当時は沖縄戦後の本土上陸は房総半島が狙われるのが明らかであると考えられていたんですね。
そのため、沖縄に10万の兵が送り込まれた後、安房にはなんと総勢7万の兵が配備されていたのです。戦況不利とみた1945年の4月には館山の那古に「東京湾要塞司令本部」が置かれ、いよいよ本土決戦が待ち構えられました。皇居や大本営を、最も海から遠い場として選定された「松代」に移す計画も急速に進められ、もはや最後の一兵卒まで立ち向かう覚悟で沖縄戦線以後の計画が進められていたとのことです。
そして8月、広島・長崎と二つの原爆が落とされ、15日に玉音放送が伝えられることにより、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏を認めます。

館山にて本土で唯一の「直接軍政」

 日本での終戦は天皇の玉音放送が発せられた8月15日として知られていますが、国際的には終戦が確定したのは9月2日です。これは東京湾上の戦艦ミズーリ号にて降伏文書調印式が正式に行われた日であり、マッカーサーの三布告が突き付けられたことはほとんど知られていませんが、内容は以下のとおりです。

&#9312一切の権限が連合国軍最高司令官の権力の下に置かれること。
&#9313裁判権の一切を連合国軍が所持すること
&#9314米軍の通貨を円と共に法定通貨とすること

進駐軍(写真提供=安房文化遺産フォーラム
進駐軍(写真提供=安房文化遺産フォーラム)

すごい内容ですよね。今となっては考えもつかない圧政がしかれそうな状況でしたが、当時の外務官の尽力によってこの布告は撤回されました。しかし、その翌日、米軍は館山に上陸し、上記項目のように一切の権限を譲渡するように指令を出し、館山を「直接軍政」の配下にいれるのです。突然の直接軍政に驚いた日本政府は、またも米占領軍総司令部(GHQ)に対して公約から外れていることを懸命に訴えます。訴えは聞き入れられ軍政は解除されますが、沖縄以外の本土で唯一、ここ館山に直接軍政がしかれていたことは後に分かった衝撃的な事実でした。
実はこのことは、愛沢先生が安房高に所蔵されていた当時の日誌から発見したことです。全国に散在していたほとんどの戦争資料は敗戦が決まった瞬間に焼き捨てられるなどして、闇に葬られたため、戦時中の日本の姿は今も謎に包まれていることが多いといいます。しかし、この直接軍政の事例は地域に残るさまざまな記録を多角的に検証した結果、未解明の問題や知られざる真実が浮き彫りになった証左として、とても意義深い発見といえるのではないでしょうか。

館山での平和学習

このように、館山は震災による壊滅的な倒壊や、地殻変動による隆起、そして太平洋に突き出た立地など諸々の要因が重なって、首都防衛の最前線として戦時中に重要な戦略的役割をまかされた町だったのです。これによって、現在発見されているだけでも約50か所の戦跡があり、しかもその内の18か所が「近代史を理解するうえで欠くことができない遺跡」であるAランクとして評価されるほどの価値をもっています。

NPO法人安房文化遺産フォーラム理事長 愛沢伸雄さん
NPO法人安房文化遺産フォーラム理事長 愛沢伸雄さん

もちろんこれらの戦跡は戦後当初から存在していたわけではありません。この記事にて紹介した「NPO法人安房文化遺産フォーラム」など地域の団体によって学術的な調査を受けて発掘され、地域住民との合意のもとで保全されて初めて、教育の題材として用いられる戦争遺跡として指定されることになります。こうした保全活動は、一見文化財なのだから当たり前のことだと思われがちですが、最初に述べたとおり戦争という負のイメージのつきまとう遺跡の性格上、地域住民によって意識的に守られ語り継がれない限りは難しく、実は一筋縄にはいかない労苦を伴います。
事務局長の池田さんは、高校生対象の座学の中で、「戦争が未だ世界から無くならないことには、兵器などの製造によって利益を上げる軍需産業が大きなシェアをもっているからなんです。だから私たちは、地域を活性化する意味でも戦争のない世の中を創っていくためにも平和産業(ピースツーリズム)を実現したいと思っています」と語られていました。つまり、戦跡は途方もなく重くのしかかる負の遺産であったとしても、それをもとにして実体験として学び合う中で、明るい未来を作り上げようという立場で戦跡を見つめていく、こうした営みが地域を活性化させ、はては平和な未来を実現させていく最も現実的な手段なのだということです。NPOでは今後、「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書など、全国的にみても非常に評価の高い戦跡についての調査報告を行っている館山市などと連携して、より一層「平和産業(ピースツーリズム)」が地域に貢献できるよう取り組んでいきたいとの展望をお話頂きました。
館山は、もちろん海や山の幸に恵まれ自然の中で身体を癒すことのできる観光地ですが、そんな館山が同時に関東最大の平和学習の町だということが広く知られていくのはまだまだこれからというところ。みなさんもぜひ一度、館山の戦跡ガイドツアーを体験なさってみてください。そしてまた、自分の地域にも館山に見たような驚きの発見があるはず!国民みんなの遺産を、それぞれの地域が独自に保全していくことができるようになるといいですね。

NPO法人安房文化遺産フォーラム

〒294-0045
千葉県館山市北条1721-1
TEL&FAX: 0470-22-8271
http://bunka-isan.awa.jp/