おらがんまっち

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館山地区 上町

地域の紹介

 上町は、里見氏時代から城下町として商人が多く住む町方集落として栄えてきました。江戸時代からは、商人、職人、漁師、海運業者などが町内ごとに自立された町として活気が維持されてきました。
 現在では城山下から浜へと延びる小さな地区に、百五十世帯ほどの人々が暮らしています。他の地域同様、子ども達が少なくなっていますが、祭りに向けお囃子の稽古などに余念がなく、町内に佇むお地蔵さんに見守らているような、和やかな地区です。

自慢の山車

特異な意匠の囃子座正面の龍彫刻
 上町の山車は明治中頃に製作されたと伝えられており、彫刻は安房の名工初代後藤義光の高弟「後藤義雄」の作です。後藤義雄による山車彫刻は珍しく貴重な作品です。
 山車を見上げると、まず目に飛び込んでくるのが囃子座上を覆い尽くさんばかりの巨大な龍です。潔く扁額も排し、
囃子座側面の竹に虎の両面彫
顎を開いた龍の姿は勇壮で今にも飛び出してきそうな迫力で、さらに囃子座上側面には龍にも引けを取らない勇猛な虎が竹林とともに彫り出されています。また一切の妥協を許さない彫刻の技は裏側までも施され、そこに刻まれた鶴の彫刻は、囃子座で太鼓を叩く地区の人間以外はなかなか目にすることのできない代物となっています。
囃子座正面の龍彫刻は両面彫の丁寧な仕上げ。 「龍」の裏には「波に鶴」が彫られている
そしてこれら三面の彫刻はすべて巨木の塊から彫りだされているゆえに、重厚で見るものを圧倒させます。
 さらに、勾欄一段目の四隅には、真鍮製の擬宝珠に代わる一木彫の龍の彫刻が巻きついており、上町の山車の大きな特長となっています。この他にも四本の柱には「波と岩」、勾欄周りは「鯛や鰹」をはじめとした豊かな海が表現された無数の彫刻が所狭しと山車全体を彩っています。
擬宝珠の代わりの一木の龍彫刻
 上段幕は白の生地に鳳凰が、下段は波と千鳥の刺繍が施され、その上にそびえる人形は「国常立尊(クニトコタチノミコト)」であり、その御姿は勇壮な中にも優しを秘めた顔立ちが印象的です。
 昭和五十三年に山車小屋ができるまでは、祭礼の度に山車を解体して倉庫に納め、地区の人々の協力で組み立てていました。昭和五十四年に山車の大修理、幕の新調を行い、平成十一年には土呂幕の新調、平成二十六年には提灯および梶棒の新調が行われた上町の山車は、今も昔も地域の人々に愛される自慢の山車として脈々と受け継がれています。

●制作年:明治中期
●彫刻師:後藤義雄、後藤喜三郎橘義信
●人形:国常立神
●上幕:鳳凰
●大幕:波と千鳥
●提灯:上町の牡丹文字
●半纏:上町の牡丹文字

諏訪神社

関東大震災前の諏訪神社の扁額
旧鎮座地:館山市館山(現 上仲公園)
現在は館山神社に合祀されている

●祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)旧別当 長福寺(仲町)
●由緒 大正十二年八月までは現在の上仲公園地に上町と仲町の産土神としての諏訪神社が鎮座していました。しかし大正十二年(一九二三)九月一日に起きた関東大震災により諏訪神社が倒壊し、その後は、城山を背景とした館山町の中央たる清浄の土地に新築された、館山神社へ合祀されました。

旧諏訪神社にあった武志伊八郎信美(三代伊八)の彫刻
上町集会所には当時の諏訪神社に施されていた安房の名工・武志流三代目武志伊八郎信美作の龍の彫刻が残されています。

自慢の祭

昭和21年撮影 上町協進會
 上町の祭礼は例年八月一日、二日に行われる「館山のまつり」に山車を出祭します。古くは「上町協進會」という組織が祭礼の運営をしていた時代もあり、残されている昭和二十一年八月の写真にその面影を見ることができます。現在は区、壮年会、青年会等の各組織の協力のもと上町区が一体となって様々な運営を行っています。
 また山車の飾り付けや花折り、太鼓・笛の練習も含めた段階から応援に来てくれる〝祭り好きで熱い〞三十人を超える若衆達に支えられています。
五月に行われる試験曳き
また、祭前の五月には「試験曳き」が行われ、準備に余念がありません。
 上町のお囃子は、ぴっとこ・やたい・しちょうめ・へぐり・さんぎり、昔はお囃子によって「バチを変えて叩く」といったこだわりがありました。また以前にはしゃかん・ぴっとこの踊りも披露されていました。
山車にのせる前に 人形台に飾られる山車人形
太鼓の練習はお祭りの3週間前から行われ、集会所は入りきれないほどの多くのこども達で溢れます。さらに一年を通して毎週金曜日の夜に笛の練習会が集会所で行われ、十人ほどの笛吹きが日頃より腕を磨き合っています。
「上若」の大紋

 昭和五十年代前半に統一された半纏の大紋「上若」の牡丹文字は今も変わらず受け継がれ、伝承と伝統を重んじる深い心意気を感じさせます。
 二日間の山車曳廻しの中でも特に盛り上がりを見せるのは、八月二日の本祭で、夕方に館山神社前へ向かう前の海岸通りからの上り坂です。ここでは高揚感に溢れたまさに上町らしい祭りの場面に出会うことができます。
 上町の山車は、下段幕の傷みを防ぐなどの意味もあり、
館山神社へ入祭する上町山車
大幕下回り三方の床板が抜かれていて、子どもは乗れないようになっていますが、その分子ども達は大人に交じって綱を持ち曳き廻しに参加します。山車に乗れない分、どんな場面でも綱を持つこども達を排除しないという温かい志があります。
 大人から子どもまでが一体となり作り上げる、皆が楽しみ合える自慢の祭りです。
大人から子どもまでが一体となって盛り上がる曳き廻し

8/1・2 館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 上町(表面) 館山市館山地区 上町(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

館山地区 上須賀

地域の紹介

 上須賀は城山全体を含む館山地区で最も広い地区で、里見氏が築いた館山城下町を中心に広がる、政治文化の要として発展してきました。
 上須賀の「須賀」とは「洲処」という意味で「川や海を望む少し高い土地」のことで、城山や北下台と呼ばれる高い場所に集落がありまた。江戸時代には「浜上須賀」「岡上須賀」「北下台」に分かれていました。また、大正六年に航路標識として建てられた「正木燈」や、明治水産業の先覚者「関澤清明」の碑など、数多くの記念碑も残された歴史深い地区です。
 城山には、四季折々の自然が見られ、たくさんの観光客が訪れ、市民の憩いの場としても親しまれております。
 現在は、四つの組と二十四の班で構成され、四〇〇世帯の住民が暮らしています。
 鎮守である館山神社の行事を中心に、笑和会、青年会、子供会の連帯により親睦の絆が深く感じられる地区です。

自慢の神輿

吹返しをつけた神輿姿
 明治二十九年、旧八坂神社の神輿として制作されました。大工棟梁は北条南町の羽山権兵衛、錺師は長須賀の滝川嘉吉、塗師は相浜の鶴岡政吉、仲村清吉、彫刻師は初代後藤利兵衛橘義光と次男の後藤福太郎橘義道、三代目後藤義光によるものです。
 その後、昭和十一年、五十二年、平成二十年に大改装され現在に至っています。平成八年には、奉納百年祭が催行されました。
 金錺装飾と漆塗で美しく飾られた本体ときめ細やかで迫力のある見事な彫刻がところ狭しと施されています。

吹返し彫刻(後藤福太郎橘義道 作)
 また、上須賀の神輿の特徴として、神輿屋根四面に飾られる、後藤福太郎橘義道作の「吹き返し彫刻」は、美しい神輿をさらに神々しく惹き立てます。均整のとれた細部までこだわった美しさが自慢の神輿です。
 また、上須賀地区は大神輿に負けないくらいの美しく立派な子供神輿があり、祭礼時には大神輿と子供神輿の競演も見どころとなっています。


金錺装飾と漆塗と彫刻が美しく調和した神輿
●神社名:館山神社「旧八坂神社」
●屋根:延屋根方形一直線型
●蕨手:普及型
●造:漆塗
●露盤:桝型
●胴の造:二重勾欄
●舛組:五行三手
●扉:四方扉
●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:三尺八寸
●制作年:明治二十九年
●大工:羽山権兵衛
●錺師:滝川嘉吉
●塗師:鶴岡政吉、仲村清吉
●彫刻師:後藤利兵衛橘義光、後藤福太郎橘義道、後藤滝治義光(吹返し彫刻:後藤福太郎橘義道)
大神輿に負けない装飾が 施された立派な小神輿

館山神社

城山下に鎮座する館山神社
鎮座地:千葉県館山市館山二五二
●祭神 素戔嗚尊(すさのうのみこと)
●由緒 館山神社は、大正十二年(一九二三)の関東大震災で倒壊した、館山地区の新井・下町・仲町・上町・楠見・上須賀にあった各神社を合祀して、館山地区全体の鎮守社として昭和七年に現在の場所に社殿が創建された神社です。それ以前の上須賀地区の鎮守は、館山市立博物館裏の城山南側中腹にあった八坂神社で、その跡地は現在でも確認できます。
 館山神社拝殿内には、初代義光の弟子である後藤次郎橘治光による、長さ一軒以上はある迫力の龍彫刻が置かれています。
館山神社拝殿の龍彫刻(後藤次郎橘治光作)
 上須賀地区には、館山神社の他に琴平神社、上須賀稲荷神社、浅間神社の四社があります。琴平神社では四月十日に例祭が執り行われ、浅間神社では、例年楠見区と合同で六月三十日夜より七月一日午前零時に向けて潮垢離神事などが執り行われています。
北下台に鎮座する琴平神社
城山山頂に鎮座する浅間神社

自慢の祭

鎮守社である館山神社拝殿前でさす上須賀神輿
 例年七月に入ると、たてやまんまちに向けて氏子総代を中心に笑和会、青年会、子供会により地区をあげてのさまざまな祭礼準備が始まります。子供会では花作りから花売りを行い、神輿歌の練習も行なわれ当日に備えます。
 「咲いたぇー 桜に 何故駒つなぐ〜  駒がいさめばぇー 花が散る〜」
大神輿に負けない風格の小神輿の館山神社入祭
 上須賀地区には、子供達にも引き継がれている、古来から祭礼の際に唄われている「神輿の唄」 があります。百曲を超える曲目が用意されており、祭礼時にはだれかれともなく唄われながら神輿が担がれます。近年では「正調神輿の唄」を引き継ぐ者が少なくなってきているため、後世に正しく伝えるために平成五年に収録保存されました。
昭和11年大改装の時の祭礼写真
 上須賀神輿渡御は、遠い昔の年に一度の鎮守様への巡幸であった時代から、変わり移る幾多の変遷を経て今日まで継承されています。現在は、先住の方々の意思を受継ぎ青年会を中心とした心意気によって、子供からお年寄りまでの方々の親睦や連帯の絆を深める場として統率のとれた神輿渡御が行われています。
 夜の渡御では神輿本体がライトアップされ、息のあったもみ差しによって大きくまた小さく揺れる姿は、上須賀ならではの美しい自慢の祭です。

8/1・2 館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 上須賀(表面) 館山市館山地区 上須賀(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

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館山地区 青柳(あおやぎ)

地域の紹介

 「青柳」は、上真倉と下真倉にまたがった地域で、江戸時代の書物には上真倉村と下真倉村の小字としての記載が残されています。館山地区を流れる汐入川の東側に位置し、東は日枝神社、南は館山バイパスの下真倉南交差点、北は下真倉交差点とJR内房線との中間地点までで、七一八世帯、四区四十五班で構成された広い地域です。
 青柳区民館の近くには江戸時代の稲葉藩館山城の外郭としての役割もあった法連寺と長泉寺があり、幕末には長泉寺で寺子屋が開かれていました。また明治時代、安房郡の老篤農家五人を顕彰した「安房五郎」と言われる人の一人「秋山九右エ門」がこの地に住んでおり、養蚕の普及や道徳教育に尽力しました。
 青柳区には長寿会、壮年会、青年団の各組織があり、夏なぎや大晦日のおたきあげ、祭礼時の子どもたちへの指導などをそれぞれの協力のもと行っています。また青年団の役員交代は「ひやり」と呼ばれ、例年三月第一土曜日に行われるという仕来りが守られています。

自慢の神輿

 青柳区日枝神社の神輿は八月一、二日に行われる館山地区祭礼に出祭します。大神輿と小神輿があり、ともに朱と黒の漆に染められた本体に見事な装飾が施されています。

【初代後藤利兵衛橘義の彫刻】
胴羽目(右)「楠木正成 桜井の別れ」
 大神輿の彫刻は、安房の名工・初代後藤利兵衛橘義光八十四歳作で、義光次男の後藤福太郎と門人後藤定吉と共に制作されたものです。錺師は北條町の新三郎と長渚の嘉吉、大工は館山町の吉田竹治郎で、現青柳の「石井材木店」 前あたりを仕事場にしていたと伝えられています。
【初代後藤利兵衛橘義の彫刻】
胴羽目(左)「大田道灌と山吹の里」
 大神輿胴羽目右は、楠木正成・正行父子の「桜井の驛の別れ」の場面、胴羽目左には大田道灌「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の和歌にちなんだ名場面が彫られており、特に力強い雨の表現は圧倒的迫力を感じさせます。木鼻も四方、四対の籠彫りを抱えた力の入った彫刻となっています。また、神輿屋根裏には「扇垂木」と呼ばれる木地師の技倆の見せ場でもある扇形を成す垂木が施され、前後扉は色鮮やかな漆塗りに輝く金の錺金具と螺鈿細工が輝く、じっくりと見とれてしまうような美しい神輿です。
 屋根紋には、十五葉の菊紋が三つ施されており、旧山王社の威厳を伝えている自慢の神輿です。

神輿屋根裏の「扇垂木」
●地区名:青柳
●神社名:日枝神社
●屋根:延屋根方形一直線型
●屋根葺:黒漆
●蕨手:普及型
●造:漆塗り
金の錺金具と螺鈿細工
●露盤:桝型
●棰:扇棰
●胴の造:平屋台
●舛組:五行三手
●扉:前後扉
●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:三尺七寸
●彫師:初代後藤義光(補助/後藤福太郎、後藤定吉)
●錺師:北条町 新三郎、長渚 嘉吉
●制作年代:明治三十一年

日枝神社

青柳 日枝神社
旧下真倉村村社
館山市下真倉一番地
●祭神:大己貴神(おおなむち)
大山咋神(おおやまくいのかみ)
●宮司:酒井昌義
絵馬:「鏡ヶ浦図」 大正4年
●由緒: 日枝神社は、拝殿から城山とその裏に広がる鏡ヶ浦を望むことのできる高台に位置します。江戸時代には日枝神社の前身である山王社として下真倉に鎮座しており、明治の神仏分離令にともない山王社は日枝神社に改組され、大正三年に現在地に遷座されました。
日枝神社社号額(明治30年)
万里小路通房 揮毫
 「本宮」と書かれた日枝神社社号額は、初代義光の緻密な彫り物に囲まれ、その文字は明治天皇に仕えた伯爵・万里小路通房により明治三十年に揮毫されたものです。また、拝殿内には大きな「鏡ケ浦図絵馬」が大正四年に地元・道橋梅吉氏により奉納されています。

自慢の祭

たてやまんまち唯一の羯鼓舞
 青柳地区のお祭りは一日目の大神輿(おおでん)と小神輿(こでん)の渡御に、たてやまんまち唯一の羯鼓舞があります。羯鼓舞は子ども達を中心に行われ、雄、雌、中と呼ばれる三匹の獅子についた太鼓と十人程で合奏される笛とで囃し、お浜入りと呼ばれる館山桟橋、館山神社神輿入祭の前に奉納され、青柳地区祭礼の見せ場のひとつです。
館山神社境内での渡御
 大神輿は、城山から鏡ヶ浦までが一望できる高台に鎮座する日枝神社拝殿脇の神輿庫から、二本棒にて狭い石畳の階段を担いで降り、鳥居前の境内にて脇棒を締め、四本棒にて氏子内への渡御が始まります。
初代義光の彫物が入った昼間用露盤
 館山神社入祭後には、四方に躍動感ある龍が彫られている昼間用露盤を夜用の露盤に取り替える「ますがえ」が幹事役によって行われる仕来りがあります。

 二日目の地回りでは地区内を隅から隅まで回り、神輿歌や神輿に威勢をつける時に歌われる木遣り歌、また甚句などの見せ場があります。

たてやまんまち御濱出渡御
 二日目夜に訪れる団長宅ではご馳走とお酒が振舞われ、高張提灯の周りを回りながら歌い踊る甚句の掛け声「どすこい、どすこい」が響き渡たり、青柳のお祭りは最高潮に達します。
 子どもから年配の方までがひとつになった自慢の神輿祭りです。

8/1・2 館山のまつり

館山神社境内に勢揃いした神輿
●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 青柳(表面) 館山市館山地区 青柳(裏面)

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館山地区 仲町

地域の紹介

 館山城の城下町として栄えた歴史ある町で、昭和の時代には館山劇場を始め、料亭、芸姑置屋、検番撞玉場、カフェなどが軒を並べ、歓楽街としての賑やかな頃もありました。現在は館山地区の商店街として、また城山を望む閑静な住宅地となっています。
 城山の麓にある上仲公園は、関東大震災前まで諏訪神社が鎮座しており、今でもその面影が残る区民の憩いの場所となっています。
 百七十五世帯ほどの人々が暮らす小さな地域ながら、何事にも子どもからご高齢の方までが一体となった交流の深さが伺える地区です。

自慢の山車

 山車は明治二十八年に地元大工の吉田竹次郎によって制作されました。山車全体に施される彫刻は、国分の名工・後藤喜三郎橘義信の手によるものです。正面中央に鳳凰を配し、高欄には龍虎麒麟、欄間に七福神、そして正面の二本柱には龍が巻きついた迫力ある彫刻が生き生きと彫られています。
 平成九年には大改修が行われ、平成二十五年には上幕と大幕が新調されました。山車人形は隣の下町区の山車人形「伊弉冉尊」と夫婦神と言われる「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」です。
 仲町の山車は、踊りを得意とすることから、囃子座の踊り場がたいへん広くなっています。
 お囃子は「ぴっとこ」と「しっちょめん」が中心となるため、お囃子に合うように高めの音の大太鼓をつけています。

山車新調時の設計図(館山市立博物館 蔵)

 また梶棒がよく切れるため「キリン(山車を浮かせて回転させる装置)」がついてないことや車体が低くされていることなど、特徴ある山車となっています。

●制作年:明治二十八年
●大工:吉田竹次郎
●彫刻師:後藤喜三郎橘義信
●山車額:仲町
●人形:伊弉諾尊
●上幕:鶴
●大幕:波に亀
●泥幕:波に千鳥
●提灯:巴紋に仲町
●半纏:狐面に仲町

山車新調時の彫刻案の下絵(館山市立博物館 蔵)
正面上部の後藤喜三郎橘義信による見事な彫刻

諏訪神社

関東大震災前の諏訪神社の扁額

旧鎮座地:館山市館山(現 上仲公園) 現在は館山神社に合祀されている
●祭 神 : 建御名方命 (たけみなかたのみこと)
旧別当 長福寺(仲町)
●由 緒 : 祭神・建御名方命は、武神として知られており、また農耕・狩猟の神として広く信仰を集めています。

社殿再建(嘉永五年)時の棟札

 昔は現在の上仲公園地に上町と仲町の産土神としての諏訪神社が鎮座していました。大正十二(一九二三)年に起きた関東大震災により諏訪神社が倒壊し、その後は館山神社へ合祀されました。仲町集会所には当時の諏訪神社の神社額が残っています。
 また当時の諏訪神社に施されていた安房の名工・武志流三代目武志伊八郎信秘作なる迫力のある龍や、木鼻の繊細な獅子・獏などの彫刻が、諏訪神社の別当寺であった仲町・長福寺堂内に今も大切に保存されています。

諏訪神社にあった三代伊八の彫刻

自慢の祭

伝統の踊りが自慢の仲町の祭り

 毎年八月一、二日に行われる 館山地区合同祭礼、通称「たてやまんまち」に出祭し、仲町区は区長をはじめ祭を主催し、五人の世話人達が主となり祭の準備が進められています。
 祭が近くなると、子ども達を中心に町内あげての熱心な踊りの稽古が続きます。
 祭礼時には「仲町区伝統踊り」として幾つもの踊りが披露されます。踊りのお囃子は「ぴっとこ」が基本で、昔は揃いの浴衣姿で祭を楽しんでいたそうで、小さい男の子は「ぴっとこ踊り」、女の子は「おかめ総踊り」、男女混ざっての「左官踊り、餅つき踊り、えびす鯛つり」、興にのると大人も踊る「餅つき踊り」、とりを飾る 「白狐の舞」など、他地区には見られないたくさんの演目が並びます。

独特の雰囲気の半纏の絵柄

 真夏の暑さを忘れさせる仲町区の熱演が祭に色を添え、たくさんの観客の目を多いに楽しませてくれます。
 山車には「キリン」が無く、町内の息の合った「かじ裁き」が行われ、曳き回しの時のお囃子は基本的にぴっとこ、屋台・ 四丁目ですが、仲町独自の「新式ぴっとこ」「新式四丁目」という珍しいお囃子があります。
 お囃子の音色と伝統の踊りが引き継がれる、「子どもからお年寄りまで安心して楽しめるお祭り」が仲町自慢の祭で す。

町内あげての踊りの練習
なごやかな曳き回しが行われる仲町山車

8/1・2 館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 仲町(表面) 館山市館山地区 仲町(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

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館山地区 笠名(かさな)

地域の紹介

 市域の中央部に位置する館山地区は、大きく館山と豊津の二つの地域に分かれますが、笠名地区は、その旧豊津村の四地区の中で宮城地区と大賀地区に隣接しています。
 蟹田川が流れ、その左岸一帯には弥生・土師の遺物を包蔵する笠名遺跡があり、また、昭和になってから建設された軍事施設、洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡等のある丘陵部と、現在は海上自衛隊第二十一航空群館山航空基地となっている海岸部から成り、古代の遺跡から近代の戦跡まで様々な時代の遺構が残る地域です。
 古くは農業と漁業を生業としてきましたが、現代は漁師はおらず、稲作をしている農家も三軒のみとなりましたが、市営住宅を含めて四四〇世帯程となる市内でも比較的住民の多い深い歴史を秘めた地区です。
 近隣には館山海上技術学校があり、神社は笠名区民の崇敬を集める神明神社、寺院は長泉寺と、平安時代の特徴をもつ木造阿弥陀如来立像を本尊とする安楽寺があります。また、かつて天神宮が祀られていましたが、洲ノ埼海軍航空隊開設によって神明神社に合祀された天神山には防空壕も残されています。
 区、氏子、青年会、青年会OBの明栄会等からなる地域の人々の結び付きは強く、祭礼はもちろん、青年会主催で行われる7月のバーベキューや八月の納涼大会、十二月のクリスマス会やお正月の初詣での接待等、区民が一体となった行事も多く、伝統と誇りを持ち、地域愛と元気に溢れる自慢の笠名区です。

 

自慢の神輿

 笠名区神明神社の神輿は館山十三地区合同祭に出祭します。
 初代の神輿は黒塗り総欅造りで、扉の上下の横桟には螺鈿細工が施された、大変重たい神輿であったと言われています。その初代神輿は曽呂村西神社へ売却されたと言われています。
 そして現在担がれている神輿は、昭和五年に笠名地区の大工・安藤茂左衛門家の七代目・安藤寅松と八代目・安藤治助によって製作されました。

高砂の松の翁・媼と鶴・亀

 彫刻は三代目・後藤義光の手によるもので、右は「高砂の松の翁・媼と鶴・亀」、左は「神武天皇東征のみぎり」で天皇の弓の先に金色の鳶が止まった時の状況を表した見事な彫物です。

神武天皇東征のみぎり

 始めは白木の神輿でしたが、平成十五年の修復で初代神輿と同じ黒塗りとなりました。野筋が二重構造になっているところや蕨手が鋳物で中の模様が巴と花模様になっているところなどは、他には見かけない意匠の笠名区民自慢の神輿です。

繊細で美しくバランスのとれた神輿

●屋根 延屋根方形普及一直線型
●屋根葺 黒漆
●蕨手 普及型
●露盤 桝型
●造 塗神輿
●胴の造 二重勾欄
●舛組 五行三手
●扉 前後扉
●鳥居 明神鳥居
●台輪 普及型
●台輪寸法 三尺八寸
●制作者 安藤茂左衛門家第七代寅松・八代治助
●制作年 昭和五年
●彫り師 三代後藤義光

神明神社

平成の大改修を終えた 笠名神明神社
館山市笠名四七番地
●祭 神 : 高皇産霊神・天照皇大神
●宮 司 : 加茂宮司
●由 緒 : 文献によると笠名の神明神社は平安時代の末期の嘉保年間(一〇九四年〜一〇九五年)に、当時の安房の國の國司であった源親元公の伊勢神宮
昔の笠名神明神社
遥拝所として創建されたと伝えられています。以来笠名地区の氏神様としておおよそ九百年の長きにわたり地区民の心の拠り所として存立してきました。明治の社格制度により村社に列格し現在に至っています。
 近代では大正六年三月に改築された後、風雨により本殿の傷みもひどくなり、平成二十五年より大改修に向けて地区内一体となり動き出し、平成二十七年十月に改修を完了しました。その後地区の竣工奉告祭を行い、さらに平成二十八年五月には館山地区の仲間とともに百年に一度と言われる祝賀会を盛大に執り行うことができました。

旧神明神社 神社額
百年に一度と言われた竣工祝賀祭

自慢の祭

館山神社拝殿前につけた笠名神輿

 毎年八月一日・二日に、十三地区八社の合同祭礼として催行される「館山のまつり」。笠名区では区が主催となり、青年会、明栄会を中心に準備が進められ、子ども達にも伝統の「木遣り唄」の稽古をつけます。
 神輿渡御の道沿いには、縄が張られ幣束を垂らすのは、「氏子の絆」を繋ぐと言う意味合いもあり、華になる拵えです。
 一日目は大殿が、二日目は中殿が区内を渡御します。「きれいな担ぎ」が自慢の笠名の神輿は、「七、七、七、五」の何とも言えない味わいの有る節回しの木遣り唄、笛が鳴ると唄が始まり、場の雰囲気で、「めでためでたのこの杯は、鶴が杓子で亀が飲む」など、三曲ないし五曲唄ってから担ぎ出されます。昔は若い衆が顔に白粉などの化粧をして担いだり、子ども達が踊ったりして、地区一体となって多いに楽しんだそうです。
 神輿出御を告げる法螺貝の音が響き渡ると「ホイキタ、ショイ」「ヨーイ、ヨイ」の掛け声と共に、神明鳥居をくぐり神輿渡御が始ります。神輿を差したまま「いっちゃ節」を唄ったりして道中渡御し、囃子唄を唄った後、最高の見せ場でもある、四尺近い大神輿を豪快に「空高く」投げ上げる、息の合った華麗な技を披露する笠名神輿の見所です。
 一月の新年会を初めとする区内の色々な行事で培われた区民のコミュニケーションがあればこそ、大輪の花が咲くような様が見られ、聞き惚れるような「木遣り唄」が見事に色を添える自慢の祭りです。

神輿を豪快に「空高く」投げ上げる
 
昭和20年代の笠名の輿丁たち

8/1・2 館山のまつり

館山神社境内に勢揃いした神輿

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 笠名(表面) 館山市館山地区 笠名(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

富崎地区 布良

たてやま おらがんまっち 富崎地区・布良

地域の紹介

青木繁が描いた「海の幸」
青木繁が描いた「海の幸」
 房総半島の最南端、平砂浦の端に位置し、古の昔、阿波忌部族の上陸地とされる「駒ケ崎」、その東方には「祖神天太玉命」を祀る男神山、「后神天比理刀命」を祀る女神山が聳えます。男神山には平成二十年まで布良鼻灯台が有り、航海安全を守ってきました。
 江戸時代には「押送船」で鮮魚を江戸に送るルートが確立され、江戸との交流が盛んに行われ、布良崎神社境内には日本橋蔵屋敷より石灯籠が奉納されています。
小谷家
小谷家
 明治の頃には鮪延縄漁が隆盛を極め、銀行や遊戯場、湯屋などが並び、二家に一軒は店だったと言われるほど、日本一人口密度が高い地区でした。
 港の沖合は漁種の豊富な布良瀬「鬼瀬」と呼ばれます。海で亡くなった亡霊が赤い光になって輝いていると伝承されるカノープス「布良星」も有名です。また、水産改革の実践や「内村鑑三」にも影響を与えた「富崎村長神田吉右衛門」、神社や漁港再建に尽力した「富崎村長満井武平」などを輩出しました。また、明治期の画壇に大きな影響を与えた青木繁がこの地に滞在して描いた「海の幸」は、国指定重要文化財に指定され、滞在先の「小谷家」は館山市指定文化財としてこの度、ノーベル賞を受賞された大村智氏らのご尽力により保存、公開されます。
阿由戸浜と青木繁記念碑
阿由戸浜と青木繁記念碑
 ドラマ「ビーチボーイズ」のロケ地になった「阿由戸浜」からは、右手に伊豆半島越に「富士山」が、左手に「大島」その間に、空が朱く染まる夕陽がしずむ頃、正に絶景が見られます。

自慢の神輿

自慢の神輿 大天皇と呼ばれる大神輿の制作年代は不明ですが、彫刻は国分の彫工・後藤喜三郎橘義信の作です。房総一の重量と言われる台輪4尺の大天皇と呼ばれる神輿、「歯を食いしばる」ほどの気合を入れて、力自慢達が担ぎ出します。
 十五年位前までは、担ぎ棒は今より左右4尺短く、一人の肩に重さがずっしりと掛かり、かなりきつかったと長老達は語ります。

檜の丸太で組んだ担ぎ棒
檜の丸太で組んだ担ぎ棒
 現在の担ぎ棒は、三芳の山に入り檜を数十本目当てをし、水気の少ない時期に切り出してきて、3年ほど寝かせた物を使っています。
 明治の頃には、今の大天皇よりさらに一回り大きな神輿があったそうです。

房総一の重量と言われる大天皇
房総一の重量と言われる大天皇
●屋根:延屋根一直線型 ●蕨手:普及型
●造:塗神輿 ●露盤:桝型
●舛組:五行三つ手 ●扉:四方扉
●鳥居:明神鳥居 ●台輪:普及型
●台輪寸法:4尺 ●彫刻師:後藤喜三郎橘義信
●制作年:不明 
後藤喜三郎橘義信による彫刻
後藤喜三郎橘義信による彫刻
●他:昭和57年、平成21年に修複

布良崎神社

館山市布良大字西本郷三七九
布良崎神社
●祭 神 : 天富命天富命
     建速須佐之男命
     金山彦命
●例祭日 : 七月十九日、二十日
●本 殿 : 高床神明造
●鳥 居 : 神明鳥居
●神 紋 : 五七の桐
●宮 司 : 藤森益樹
●氏子数 : 布良地区二百十五戸
●責任役員 : 嶋田博信
●由 緒 : 祭神天富命、武皇の勅を奉じて沃土東方に求むべく、四国の忌部を率いてこ房総に地至り、即ち此布良一角を駒ケ崎と称す。駒ケ崎の東方海岸に聳ゆる二峯あり、海岸近きを男神山、他を女神山と称す。男神山に祖神天太玉命「安房神社」、女神山に御后天比理刀咩命「洲宮、洲崎神社」を祀る。命はこの本郷の地を出発点として現在の安房神社に祖神天太玉命を祀り、漸次開拓の歩を勧められ北上し、特に麻穀の播殖を奨励。亦建築並びに漁業の技術をも指導され、衣食住の神として崇敬厚い社なり。

漁師が伊豆から運んだ石を積み上げた石垣
漁師が伊豆から運んだ石を積み上げた石垣
神社拝殿から望む霊峰富士山
神社拝殿から望む霊峰富士山


自慢の祭

昔名残の姉さん衣装も見られる
昔名残の姉さん衣装も見られる
 毎年6月の終わりから、神社清掃、花つくりが始まり、祭り前日区民総出で、大幟立て、提灯枠取付けを行います。
 祭り当日、古式に倣い神職の祓い儀の後、拝殿に於いて楽人が奏でる音色の中、巫女舞を始めとする神事が粛々と進められます。
 午後より、子供達による小天皇の担ぎ出しが始まり、夕刻、須佐之男命を奉った大天皇が威勢よく宮出し、明治の画家「青木繁」も見たであろう行列「今は人も減り行列は縮小」が浜へと向かい、空が茜色に染まり、神輿が夕陽に当たり輝く頃、浜で祭典が挙行され、終わると担ぎ手達は、姉さん被りに姉さん化粧、艶やか長襦袢姿に変わり、お宮へと向かいます。担ぎ瘤が破けて血だらけになり、女の人に白粉(おしろい)を塗って貰うのも一つの自慢だったそうです。
 昔は人も多く、神田町、本郷、向と地区別に競う合うように担いでいました。
 神社拝殿より、二の鳥居と、一の鳥居を重ね合わせて見ると、ちょうど真ん中に「霊峰富士山」が見えるよう創られている神社、安房を開拓した忌部族を彷彿される祭祀です。
区民総出で立てられた大幟
区民総出で立てられた大幟
厳粛な祭典が行われる
厳粛な祭典が行われる
威勢のいい神輿渡御
威勢のいい神輿渡御

その昔の布良崎神社祭礼の姿を描いた 「布良崎神社御浜出行列の図」 (布良崎神社所蔵   近藤博 画)
その昔の布良崎神社祭礼の姿を描いた 「布良崎神社御浜出行列の図」 (布良崎神社所蔵 近藤博 画)


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館山市富崎地区 布良(表面) 館山市富崎地区 布良(裏面)

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おらがんまっち

那古地区 濱

たてやま おらがんまっち 那古地区・濱

地域の紹介

自慢の山車 那古寺から那古海岸にいたる道を、両側に挟んだ地域です。元禄大地震により、土地が隆起し、船形村名主正木九右衛門の指導により「那古浜新田」として開発され、大浜集落が形成されました。
 小字名に「中浜、中入会、上入会、下入会、大浜」などがあり、開発された地区が伺えます。坂東三十三観音結願寺 那古寺の門前町として多いに発展し、江戸と房州の物流の要となり、那古寺から港迄の道沿いには多くの商家、旅館などが立ち並び大変賑わいのある地域でした。鉄道の開通により、人、物の流れが変わり、昔程の賑やかさはありませんが先人から受け継いだ「浜弁財天」の祭礼文化をしっかり継承し、今も変わらず守っております。

自慢の山車

後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻
後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻
 濱組山車は弁財天山車とも呼ばれ、明治四十三年に地元浜町・山口仙太郎棟梁によって新造された濱組二代目の山車です。初代の山車は明治四十五年に国分萱野へ譲渡されました。
 自慢の彫刻は国分の彫工・後藤喜三郎橘義信によるもので、下高欄胴には弁財天にちなんだ安芸宮島にある厳島神社の風景他、多数の社寺伽藍が、他では見られない三面連続した構図で彫られています。中層胴には弁財天や恵比寿・大黒などの七福神、そして山車の前柱から扁額にかけては中国の伝説の故事にちなんで、鯉が滝を昇り切ったあと龍になるという「登竜門」が彫られています。また人形は弁財天、胴幕には水神ということから波と龍が描かれるなど、山車全体が関連づけられた意匠でまとめられています。
安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻
安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻
 また、四メートルの角棒を使った押上式一本棒の梶棒による山車の曳き廻しも自慢のひとつ。後輪の位置が真中に寄って付けられているため、梶棒で山車前部を持ち上げて山車自体を回すこともできます。梶が切りづらく操作の難しい梶棒ですが、その伝統を守っていくのも濱の自慢です。
 さらに、濱の御囃子を地に響かせるような二尺一寸の大太鼓も、濱の祭好きな人たちの大きな自慢のひとつです。

●製作年 : 明治43年
●棟 梁 : 浜町・山口仙太郎
●扁 額 : 者満町
●旧扁額 : 仲濱
●人 形 : 弁財天(昭和59年新調・京都)
●大 幕 : 波濤に昇り龍・降り龍(昭和60年新調・京都) 
●上 幕 : しめ縄(那古地区全山車共通、昭和60年新調・京都)
●提 灯 : 珠取龍の三指爪・は・三頭巴
●半 天 : 背に濱、襟に者満(はま)町
●彫刻師 : 後藤喜三郎橘義信

厳島神社

館山市那古字上入会七六六
厳島神社
●祭 神 : 宇賀弁財天
●鳥 居 : 明神鳥居
●由 緒 : 仲浜の出洲の祠に祀られていたものを、一七〇三年の元禄地震で隆起してできた現在の場所に移設し、文政七年に浜弁財天建立、天保六年に浜町・寺町の有志により南無大師遍昭金剛塔を建立するなどして徐々に整えられてきました。大正十二年の関東大震災で崩壊しましたが、区民の協力により昭和三年に再建されました。
 宇賀弁財天は弁財天と宇賀神(ウカノミタマ)が習合したもので、八臂に弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持った弁財天の頭上の宝冠に宇賀神が附けられ、併せて稲荷の鳥居が添えられています。宇賀神は古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂命といい、食物の神で特に稲の霊とされます。
 浜組は昔から浜辺との関わりが深い土地であるため、河川の神・水の神である弁財天が祀られ、宝冠の宇賀神と稲荷様は隆起してできた土地を開発してできた那古新田の守り神として信仰が寄せられました。そしてその信仰の篤さは山車に良く現れており、人形、胴幕、彫刻の全てが弁財天様に関連つけられた意匠になっています。

自慢の祭

二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車
二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車
 仲濱と大濱の二つの町内会が一つとなり祭礼を催行しているのが濱組の特徴です。町内会は別でも現在は壮年会・青年団は普段より一つの組織として活動しており、祭礼に限らず一月のおびしゃや、十月の甘酒祭り(神輿)等、年中行事も一緒に執り行っています。
 以前は仲濱、大濱の二つの地区で一つの青年団が組織され、団長はそれぞれから一人づつ二人が選出されていました。今でこそ地域ごとの区別はありませんが青年団長は二人が選出され、二年間まとめ役としての任を負います。祭礼の準備から片付けまで青年団が中心となりますが、当日は二人の青年団長のどちらか一人が進行長、もしくは梶棒長となり協力して山車の運行にあたります。基本的にはこの二人の青年団長が一緒に、その後の祭礼会計や濱組全体としての祭礼責任者である総代の役職を担っていくことになります。
太い梶棒を使って山車を回転させる
太い梶棒を使って山車を回転させる
 出祭する「那古観音祭礼」一日目の宵祭では、山車の町内曳き廻しの中で地元地域ではありますが現在でも海岸の防波堤まで山車を運行し、昔は各町内も集まっていた「お浜出」の様子を髣髴とさせます。夕方には寺赤組の山車と一緒に隣の船形地区川名と根岸区まで曳き廻しを行っており、隣接する町内との交流も大切にしています。また、濱組のこだわりとして祭典が執り行われる元々の本祭日である七月十八日には、山車を那古寺境内まで寄せています。
 濱組の山車の特徴と言えば固定された前輪と、その為方向転換に使われる太い梶棒です。山車そのものを動かす為の力強いその操作は、屈強な青年団員達が務めます。また「さす」と言われる山車の前方を勢いよく高く上げる動きは、ここぞという場面で行われ、その梶棒を担ぎ上げる姿にこれぞ濱組という祭りに懸ける熱い気概を感じます。
前方を勢いよく高く上げる独特な動き
前方を勢いよく高く上げる独特な動き
 山車の曳き廻しでは、現在では珍しくホイッスルや拡声器は使わず肉声のみで連携を図り士気を高め合い、梶棒の操作と合わせ昔ながらの伝統を守り受け継いでいます。
 濱組には木遣りの名人も多く、この地域でも一、二と言われる大きな大太鼓を叩くバチさばきやお囃子は、見るもの聞くものを魅了します。青年団が中心で教えている太鼓の練習には三十人を超えるこども達が毎年参加をし、多くの伝統が引き継がれていく自慢のお祭りです。


凝った意匠の提灯
凝った意匠の提灯
珠取龍三指爪の襦袢
珠取龍三指爪の襦袢
昔ながらの半纏
昔ながらの半纏


那古観音祭礼

 例祭日はもともと七月十七日(宵祭)と十八日(本祭)で、十八日に祭典が執り行われていますが、山車・屋台の引き回しは、原則七月十八日以降の直近の土・日に行われるようになりました。日程は毎年、六地区の代表が集まる総代会議で決定されます。古くは各町独自で行っていた祭りを明治三十年(一八九七)より那古観音の縁日に合わせ東藤、大芝、芝崎、浜の四町合同の祭りとなり、その後明治四十三年に寺赤、大正十二年に宿が加盟し今日に至っています。
 那古祭礼規約に基づき、一年交代の年番町が祭礼の運営を取り仕切り、本祭は終日六台の山車・屋台がそろって合同で引き回しを行うなど大変統一性があります。各地区とも赤を基調とした提灯、山車の高覧幕は〆縄に三連の細縄と五折の御幣とお揃いのデザインであることも那古地区が一体となった演出美を感じます。
 この祭礼の大きな見どころは、大太鼓の技を競い合うお囃子であり、それぞれの地区の叩き手の華麗なバチ捌きと勢いを、また祭礼を締めくくる年番渡しで行われる伝統の「締めことば」もぜひご堪能ください。

那古寺本堂前での年番渡し
那古寺本堂前での年番渡し


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館山市那古地区 濱(表面) 館山市那古地区 濱(裏面)

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おらがんまっち

豊房地区 長田

たてやま おらがんまっち 豊房地区・山宮神社

地域の紹介

山宮神社近くの風景
深い緑におおわれた山宮神社近くの風景
 南総文化ホールから白浜に向かう県道86号線。それと並行に流れる長田川を境に広がる東西に、東長田・西長田があります。長田の歴史は古く、東長田にある谷(やつ)遺跡は、日本で最初に祭祀遺跡として紹介され、弥生時代の土器なども出土しています。西長田にある千田城跡は、里見義豊の弟・長田義房の居城と伝えられ、長田川の名前の由来とも考えられます。また、現在の山宮神社のことを江戸時代までは長田神社と呼んでいたそうです。
 現在は、東長田が60戸、西長田が70戸とほぼ同じ戸数で、東長田には山宮神社、西長田には諏訪神社が鎮座します。西長田の諏訪神社の祭礼は現在は行われておらず、長田地区最大の行事である八幡祭礼出祭を東西長田が一体となり盛大に行っています。東西それぞれに区長・総代・世話人・青年がいますが、年番制を行い交代で役を務めています。
 その他の行事としては、三月の「おびしゃ」、五月と八月の「道凪」「夏凪」という草払いを地区全体で行うなど、まとまりのある地区です。

自慢の神輿

自慢の神輿
自慢の神輿
 神輿の製作年代は、安政六年(一八五九)八月吉日とされ、彫刻は明治二十年代に房州後藤流初代義光の手によって施されました。神輿全体に隙間なく嵌めこまれた分厚く精細で躍動的な彫刻がこの神輿を見事に際立たせています。
 四方の欄間に這う龍、柱隠しの昇龍に降龍、さらに他の神輿にはあまり見られない「力神像」が四本の柱の下にどっしりと置かれ御霊を守っています。また屋根上の露盤、小脇隠しや腰枡なども所狭しとばかりに多彩な彫刻で埋めつくされた、自慢の神輿です。
「やわたんまち」渡御ですべての道程を担いでいく時、鶴谷八幡宮入祭での一の鳥居から拝殿まで一直線に参道を駆け抜ける時、長田の氏子たちが最も誇りを感じ、長田の神輿が最も光り輝く瞬間がやってきます。
●屋根 : 方形普及一直線型 ●蕨手 : 普及型 ●造 : 塗り神輿 
●露盤 : 枡型 ●胴の造 : 平屋台 ●桝組 : 五行三手 ●扉 : 前後扉 
●鳥居 : 明神鳥居 ●台輪 : 普及型 ●台輪寸法 : 三尺六寸
●見処 : 四隅の力士像他彫刻など
美しくバランスの取れた彫金と彫刻
美しくバランスの取れた彫金と彫刻
柱隠しに踊る重厚な龍彫刻
柱隠しに踊る重厚な龍彫刻
柱下四隅に鎮座する力士像
柱下四隅に鎮座する力士像
 


山宮神社

館山市東長田字前作一〇六一
三宮神社
●宮 司 : 代田健一
●例祭日 : 九月十五日
      安房国司祭に準ずる
●本 殿 : 銅板葺神明造
●鳥 居 : 神明鳥居
●氏子数 : 百三十世帯

本殿入口まわりの彫刻
本殿入口まわりの彫刻
●祭 神 : 大山祇命
      八重事代主命
●由 緒 : 朱鳥元年(六八六)、神主秋山家の遠い祖先にあたる中臣鎌足の子である中臣幸彦が摂津国三島より移住し、三島の鴨神社祭神の「大山祇命」をお迎えし、当社を創建したとされています。また養老二年(七一八)に安房国に班田使という役人がやってきたとき、神田として七町八反歩の土地が寄進され、三島の鴨神社にお祀りされている「八重事代主命」を大山祇命と一緒にお祀りしました。
 時代が流れる中で源頼朝、里見義成からも厚い寄進を受け、江戸時代には徳川将軍家から十石の神社地の御朱印の証文をいただいています。明治になってからは幕府にもらった土地はお取り上げになってしまいましたが、その後は豊房村から幣束や祭事費用が供進される社格となりました。
 江戸時代までは山宮大明神、長田大明神とも呼ばれていましたが、明治元年からは山宮神社と改められ、現在に至ります。


自慢の祭 安房国司祭出祭

待ちに待った安房国司祭へ出発
待ちに待った安房国司祭へ出発
 東西の長田地区あげての最大の祭礼が例年九月に鶴谷八幡宮で行われる安房国司祭への神輿出祭です。山宮神社古文書によると「延久三年(一〇七一)の秋、安房国の八幡の海岸へはじめて神輿を出す神事が行われた」とあり、およそ千年に渡ってこの神事が続けられていることになります。「長田の神輿」とも呼ばれる山宮神社の神輿が、それぞれの時代でどんなふうに八幡まで担がれていたのかは定かではありませんが、現在も強いこだわりを持って引き継がれている伝統は、鶴谷八幡宮拝殿までの全ての道程を担いで渡御することです。
拝殿へと疾走する長田の神輿
拝殿へと疾走する長田の神輿
 八幡祭礼出祭にあたっては、東西の長田地区が順番に務める「年番」によって仕切られます。明治十二年の資料によれば、「輿丁や神具持ちは東西長田村が均等に出すものとし、輿丁は三十人、神具持ちは十人、合わせて四十人に限る」とあります。現在では東西長田地区からそれぞれ総代、世話人、青年、婦人会、子ども会等が総出で祭礼に参加します。
 八幡祭礼初日の早朝に、黒の手甲、黒の足袋、「長田」の文字と朱の巴紋が染められた豆絞りの白丁姿の青年達が山宮神社に集まってきます。出祭神事が執り行われた後、朝七時出発。仕来りにより年番区内を通り抜け、途中立ち寄りながら鶴谷八幡宮までのおよそ12キロのすべての道程を担いで渡御します。
子どもから大人まで総出で行われる「やわたんまち」
子どもから大人まで総出で行われる
「やわたんまち」
 午後三時半、いよいよ八幡入祭の時がきます。八幡に入る時には「走る神輿」としての誇りを胸に、神輿の前を低くしながら一の鳥居から拝殿まで一気に走り抜けます。そして拝殿前では八幡出祭の喜びを力強い大きな揉みさしで御祝いします。その後神輿を御仮屋へ納め、御旅所にて疲れを癒やします。
 翌日、八幡祭礼二日目の午後七時頃に還御の時がきます。多くの観衆を前に最後のハレの舞台に力が入ります。そして鶴谷八幡宮を後にして山宮神社までのおよそ9キロの道程を渡御と同じにすべての道を担いで帰ります。東長田観音院から山宮神社までは、油断すると足を外してしまうような二本棒の神輿が通れるぎりぎりの道幅で、暗闇の中で担いで通れるのは、歴史の中での経験に支えられた「長田の神輿」ならではの至難の業です。山宮神社へ帰ってくると、祭の終わりを惜しむかのように神社の回りを幾度も幾度も回ります。
 東西長田の自慢の祭が終わるのは、今でこそ日付が変わる頃ですが、少し昔までは薄っすらと東の空が明るんでくる頃だったそうです。
鶴谷八幡宮境内で、この日を迎えられた喜びを力強く大きな揉み刺しで表す
鶴谷八幡宮境内で、この日を迎えられた喜びを力強く大きな揉み刺しで表す


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館山市豊房地区 長田(表面) 館山市豊房地区 長田(裏面)

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おらがんまっち

館山地区 新井

たてやま おらがんまっち 館山市館山地区 新井

地域の紹介

 新井地区は市域の中央部に位置し、近世以降安房地方の中心地として、また館山城の城下町として栄えた館山地区にあり、下町と長須賀地区に隣接し、江戸時代は真倉村の浜方集落で新井浦と呼ばれていた歴史深い地区です。
 現在も新井海岸には館山市立博物館分館などを含む「みなとオアシス〝渚の駅たてやま〞や、日本一の長さを誇る「館山夕日桟橋(館山港多目的観光桟橋)」など館山市を代表する多くの施設があります。
明神丸【御舟の大きさ等】
●全長:8.3m
●全幅:2.07m
●全高:3.76m
●後部七つ道具含む高さ:4.26m
●総重量:2,360kg
●彫刻:後藤喜三郎橘義信

自慢の御舟「明神丸」と「新井の御船歌」

勇壮な鷲と明神丸の舟先
 初めて御舟が造られたのは明治二十年代と言われており、紅い御舟のいわれは遠く律令時代、海魔調伏を願い紅く塗ったとされています。里見時代末期に商港となった高之島湊は、新井の島と呼ばれた高ノ島・沖ノ島と新井浦に挟まれた海域で、里見水軍の拠点にもなっており、そのお舟手がいたことから軍舟と呼ばれています。百年以上もの間小規模の修復を重ね、近年では平成五年に大修復を行い更に年番の平成十八年には漆の塗り替え、提灯の新調などを行い、代々受け継がれ大切にされてきた御舟です。御舟先端にクロスして飾り付けられている毛槍は白熊の毛が使われており、朱塗りは本漆で、また御舟の特徴である後部の薙刀、陣笠、吹流し、纏、番傘、諏訪梶の神紋の赤旗、明神丸の白旗の七つ道具が自慢です。
隅々まで美しさにこだわった明神丸の後姿 平成二十年二月二十五日に館山市無形民俗文化財に指定された「新井の御船歌」は古くは諏訪神社の祭礼で演じられていました。現在は二月上旬に行われる初午での歌い初めと、八月一日、二日に行われる館山地区の祭礼の際に多くの場所で演じられています。その他にもNHKの民謡番組や安房の伝統芸能まつり、里見氏関連行事など、多くの出演依頼があり、皆に愛される自慢の御船歌です。また、昭和四十七、八年頃に「新井船歌保存会」が組織されるまでは、御船歌は区の長男にだけ教えるという形での継承形態が残っており、深い伝統を感じさせます。

諏訪神社

諏訪神社諏訪大明神の額
●祭神:八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
●旧鎮座地:安房郡館山町大字館山字東(大正期)
  現在は館山市館山一〇二二番地の一辺り。現在は館山神社に合祀されている。
●宮司:酒井昌義
●由緒:諏訪神社の祭神・八坂刀売神は諏訪の神である建御名方神の后神です。神道の女神と言われ、諏訪大社他、各地の諏訪神社にも祀られています。新井と下町の氏神だった諏訪神社は、大正十二年九月一日に発生した関東大震災によって倒壊してしまいました。その後は館山神社に合祀され現在に至っています。諏訪神社は現在の館山商店街協同組合(TSCホール)近辺にあったそうです。新井集会所には御舟「明神丸」の名前の由来となった諏訪大明神の額が残されております。この額の裏には文化四年の墨書きが残されており、その歴史の深さを物語っています。

自慢の祭り・若衆

紅で描かれた「あらい」の半纏を纏った若衆の威勢の良い曳き廻し 新井の祭りと言えば一番の魅力だと言われる速い勇壮な曳き廻しと若衆の威勢の良さ、そして手際の良い「キリン」さばきなど迫力に溢れ、舵が切れないながらも御舟の機敏なやり回しは、見る者に感動を呼び込む「祭りを愛する熱い仲間達」という印象を持つ人は少なくないでしょう。走りに危険がないようにと平成元年頃から変えたという他の町とは一風変わった地下足袋と脚絆のスタイルや、「裸」という衣装をまとった新井若衆ここ一番の決め時には筋骨隆々、黒く焼けた上半身となり、裸という衣装をまとった若衆はまさに新井の自慢です。「武・走・裸・道」という四文字に込めた精神は今も若衆の中に生きています。
 また、里見水軍の流れを汲んだ出陣太鼓が特徴で、新井のお囃子で「速ばか」と言えば、この地域で一般的に叩か「あらいの半纏れている「速ばか」や「御舟ばか」ではなく、それは「新井の速ばか」であり、そのばち捌きやリズム、腹にくる響きは理屈ではない聞けばわかる士気の高揚する自慢のお囃子です。
 そして八月二日の本祭での館山神社入祭から御浜入りの曳き廻しでは、年番に関係なく先頭で走ることが館山のまつりの伝統であり、同じく本祭の午後三時半頃に一気に駆け上がる赤山の坂や、夜の歩行者天国での速い走りは是非皆さんに見て頂きたい「これぞ新井」という場面です。

【大正14年、六輪の明神丸】

大正14年、六輪の明神丸 この時代は御舟の先端に現在のような舵棒はなく、てっこ棒のみで舵を切り、ブレーキをかける役目もしていました。舵を切ったりブレーキをかけたりする時に、てっこ棒を突っ込む左右の桁の部分は、てっこ棒を引っ掛かり易くする為に、片側三輪ある各車輪の間(中央の車輪の前後)の桁の下部を切り欠いてあるのが特徴といえます。浜上(はまじょ)と呼ばれる土地の屈強な男達が軽々と重いてっこ棒を操り、舵取り、ブレーキ、今で言う交通等の役目も担っていました。走行中は、この浜上と呼ばれる人達で御舟の周りはバリケードのようになり、誰も寄りつけなかったといいます。また、太鼓や笛等お囃子の役目をする者は、岡上(おかじょ)と呼ばれていました。当時は土地に生まれた人でないとなかなか祭りに入る事が許されず、土地に生まれた人のみが若頭(五十代)になる事ができ、よそから来た人は「高張り三年」と言われ、三年は高張りの役目をしないと受け入れて貰えなかったといいます。

【昭和30年、四輪の明神丸】

昭和30年、四輪の明神丸 御舟の先端には一本の舵棒がついており、舵が切れない分「キリン」が装着され、現在と同じように曳き廻しが行われていました。この写真の一本舵棒の前は、U字型の舵棒で、左右から人が付いて操作していた時代もあったといいます。下町の交差点は「キリン」を使わず一発で、舵棒だけで曲げるというこだわりは、今も昔も変わっていません。

8/1.2 館山のまつり

祭りの起源
大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併
し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下)、諏訪神社(上)、厳島神社、八坂神社他三社倒壊のため、協議により七社の合祀を決め、昭和七年館山神社として創建されました。現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。
館山神社に集まった館山地区の山車と明神丸

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館山市館山地区 新井(表面) 館山市館山地区 新井(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

館山地区 上真倉

たてやま おらがんまっち 館山市館山地区 上真倉

地域の自慢

自慢の神輿 上真倉地区は館山地区の東端の汐入川中流左岸に位置し、館山城の東より館山バイパス左右までの広範囲の地域です。主に農業地域で、中世には実倉(稲の倉)が多くあったため、「真倉」の字を充てているそうです。昔は穀倉地帯だったのですが、現在では急速な住宅地化がすすみ、町内は第一町内から第三町内まで分かれて、世帯数は800を超える、広域で、住民の多い地域です。
 江戸時代には北下台村、根古屋村、上真倉村、下真倉村を合わせて一村とし、真倉村と呼んでいました。明治四年に上真倉村と根古屋村が合併し現在の上真倉村となりました。
 館山城下に位置したことから、真倉村は里見家の直接の支配地だったことや館山城の外郭としての役割があったため、多くの寺院があります。住民たちは由緒ある地域として誇りを持ち、地域を愛し、祭りを愛し、神輿を大切にする、そんな人情にあふれた自慢の地域です。

自慢の神輿

初代後藤義光による見事な鴉天狗の彫刻初代後藤義光による見事な鴉天狗の彫刻●地区名 上真倉区
●神社名 神明神社
●屋根  方形普及一直線型
●屋根葺 白木
●蕨手  普及型
●棰   棰
●造り  地組四方正面造
●鳥居  明神鳥居
●台輪  普及型
●台輪寸法 四尺
●彫刻師 後藤利兵衛橘義光
白木の美しさにこだわる自慢の神輿 上真倉区神明神社の神輿は館山地区の祭礼に出祭しています。絢爛豪華な白木の彫刻神輿。館山一大きいと言われる狛犬や龍の彫刻、彫り物の厚みがとても深く、圧倒的な立体感と白木の輝きの調和が見事です。
 彫刻は名工初代後藤利兵衛橘義光八十五歳作。左右一面に施された牛若丸とカラス天狗の鞍馬山修行の場面を力強く表現した彫刻は特に見応えがあります。
 館山祭礼は真夏に行われるため、白木神輿は特に手入れをしっかりと行います。彫り物以外の胴体に関しては約三十年に一度の御神輿の新調を行います。白木にこだわりをもち、短期で交換することで本来の白木の美しさを保っています。白木神輿の夜の輝きは、さらに特別な美しさを演出しています。
 初代後藤義光の繊細で力強い彫刻と白木の美しさが輝く神輿が、上真倉の自慢です。

神明神社 館山市上真倉字羽鳥一八一九

神明神社祭礼日の上真倉神明神社祭神:祭神天照皇大神、素戔鳴命、高皇産霊尊
由緒: 後深草天皇建長元巳酉年(1249)、安房郡司安西孫八郎が当国四郡の男女崇拝宮として伊勢大御神をこの地に遷されたといわれている。
【神社行事】
・三月第一日曜日…御日待(おひまち)、春の祈祷、祭典を行う
・八月一日・二日…館山地区祭礼
・八月お盆前後……二日間にわたる盆踊り。やぐらを囲んで延べ五百名位参加し、現並木区長が制作した「さなぐら音頭」を揃いの袢纏を着て踊りを披露する。
・十月………………里見祭り
・十二月第一日曜…餅つき大会
・年末年始…………(除夜祭)神明神社のお守り、お札を販売。また神輿の披露も行う。

自慢の祭

昔の文化を残した豆しぼりの手拭い 上真倉の祭礼は例年八月一日「館山のまつり」に神輿を出祭します。昔の祭礼は八月一日・二日・三日と三日間行われ、広い上真倉地区の全てのお宅を神輿がまわっていたそうです。また昭和三十年代頃までは、「お浜出」にて海にも入っていたという、本当に神輿を担ぐことが好きな方が多い地区で、現在の二日間の祭礼で約三〇キロもの長い距離を担いでいます。地区の人々が一丸となって祭礼を行う
 そんな神輿好きな地区で特に自慢できることは、「祭礼を休んだ事がない」ということです。戦時中にもお神輿を担いだという写真が神社集会場に飾られています。
 上真倉には「共和会」(52歳までの青年約50名)、「眞和会」(59歳までの40名)、「長寿会」(60歳以上の50名)の三つの組織があり、昔から共和会を中心として祭礼を運営し、様々な準備を行っています。祭礼衣裳は白丁に黒足袋、それと昔の文化を残した豆絞りの手拭を大切にしています。
 若い世代に神輿の手入の仕方や担ぎ方を伝えながら、上真倉の自慢と誇りである白く美しく輝く白木の神輿を自慢の祭りとともに次代へ継承して行きます。
地区の隅々まで神輿を担ぎ込む館山神社境内にて威勢のいい揉み差しを繰り返す

8/1.2 館山のまつり

祭りの起源
大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により四社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。
館山神社境内での神事

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館山市館山地区 上真倉(表面) 館山市館山地区 上真倉(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。