Category Archives: おらがんまっち

おらがんまっち

富崎地区 布良

たてやま おらがんまっち 富崎地区・布良

地域の紹介

青木繁が描いた「海の幸」

青木繁が描いた「海の幸」

 房総半島の最南端、平砂浦の端に位置し、古の昔、阿波忌部族の上陸地とされる「駒ケ崎」、その東方には「祖神天太玉命」を祀る男神山、「后神天比理刀命」を祀る女神山が聳えます。男神山には平成二十年まで布良鼻灯台が有り、航海安全を守ってきました。
 江戸時代には「押送船」で鮮魚を江戸に送るルートが確立され、江戸との交流が盛んに行われ、布良崎神社境内には日本橋蔵屋敷より石灯籠が奉納されています。
小谷家

小谷家

 明治の頃には鮪延縄漁が隆盛を極め、銀行や遊戯場、湯屋などが並び、二家に一軒は店だったと言われるほど、日本一人口密度が高い地区でした。
 港の沖合は漁種の豊富な布良瀬「鬼瀬」と呼ばれます。海で亡くなった亡霊が赤い光になって輝いていると伝承されるカノープス「布良星」も有名です。また、水産改革の実践や「内村鑑三」にも影響を与えた「富崎村長神田吉右衛門」、神社や漁港再建に尽力した「富崎村長満井武平」などを輩出しました。また、明治期の画壇に大きな影響を与えた青木繁がこの地に滞在して描いた「海の幸」は、国指定重要文化財に指定され、滞在先の「小谷家」は館山市指定文化財としてこの度、ノーベル賞を受賞された大村智氏らのご尽力により保存、公開されます。
阿由戸浜と青木繁記念碑

阿由戸浜と青木繁記念碑

 ドラマ「ビーチボーイズ」のロケ地になった「阿由戸浜」からは、右手に伊豆半島越に「富士山」が、左手に「大島」その間に、空が朱く染まる夕陽がしずむ頃、正に絶景が見られます。

自慢の神輿

自慢の神輿 大天皇と呼ばれる大神輿の制作年代は不明ですが、彫刻は国分の彫工・後藤喜三郎橘義信の作です。房総一の重量と言われる台輪4尺の大天皇と呼ばれる神輿、「歯を食いしばる」ほどの気合を入れて、力自慢達が担ぎ出します。
 十五年位前までは、担ぎ棒は今より左右4尺短く、一人の肩に重さがずっしりと掛かり、かなりきつかったと長老達は語ります。

檜の丸太で組んだ担ぎ棒

檜の丸太で組んだ担ぎ棒

 現在の担ぎ棒は、三芳の山に入り檜を数十本目当てをし、水気の少ない時期に切り出してきて、3年ほど寝かせた物を使っています。
 明治の頃には、今の大天皇よりさらに一回り大きな神輿があったそうです。

房総一の重量と言われる大天皇

房総一の重量と言われる大天皇

●屋根:延屋根一直線型 ●蕨手:普及型
●造:塗神輿 ●露盤:桝型
●舛組:五行三つ手 ●扉:四方扉
●鳥居:明神鳥居 ●台輪:普及型
●台輪寸法:4尺 ●彫刻師:後藤喜三郎橘義信
●制作年:不明 
後藤喜三郎橘義信による彫刻

後藤喜三郎橘義信による彫刻

●他:昭和57年、平成21年に修複

布良崎神社

館山市布良大字西本郷三七九
布良崎神社
●祭 神 : 天富命天富命
     建速須佐之男命
     金山彦命
●例祭日 : 七月十九日、二十日
●本 殿 : 高床神明造
●鳥 居 : 神明鳥居
●神 紋 : 五七の桐
●宮 司 : 藤森益樹
●氏子数 : 布良地区二百十五戸
●責任役員 : 嶋田博信
●由 緒 : 祭神天富命、武皇の勅を奉じて沃土東方に求むべく、四国の忌部を率いてこ房総に地至り、即ち此布良一角を駒ケ崎と称す。駒ケ崎の東方海岸に聳ゆる二峯あり、海岸近きを男神山、他を女神山と称す。男神山に祖神天太玉命「安房神社」、女神山に御后天比理刀咩命「洲宮、洲崎神社」を祀る。命はこの本郷の地を出発点として現在の安房神社に祖神天太玉命を祀り、漸次開拓の歩を勧められ北上し、特に麻穀の播殖を奨励。亦建築並びに漁業の技術をも指導され、衣食住の神として崇敬厚い社なり。

漁師が伊豆から運んだ石を積み上げた石垣

漁師が伊豆から運んだ石を積み上げた石垣

神社拝殿から望む霊峰富士山

神社拝殿から望む霊峰富士山



自慢の祭

昔名残の姉さん衣装も見られる

昔名残の姉さん衣装も見られる

 毎年6月の終わりから、神社清掃、花つくりが始まり、祭り前日区民総出で、大幟立て、提灯枠取付けを行います。
 祭り当日、古式に倣い神職の祓い儀の後、拝殿に於いて楽人が奏でる音色の中、巫女舞を始めとする神事が粛々と進められます。
 午後より、子供達による小天皇の担ぎ出しが始まり、夕刻、須佐之男命を奉った大天皇が威勢よく宮出し、明治の画家「青木繁」も見たであろう行列「今は人も減り行列は縮小」が浜へと向かい、空が茜色に染まり、神輿が夕陽に当たり輝く頃、浜で祭典が挙行され、終わると担ぎ手達は、姉さん被りに姉さん化粧、艶やか長襦袢姿に変わり、お宮へと向かいます。担ぎ瘤が破けて血だらけになり、女の人に白粉(おしろい)を塗って貰うのも一つの自慢だったそうです。
 昔は人も多く、神田町、本郷、向と地区別に競う合うように担いでいました。
 神社拝殿より、二の鳥居と、一の鳥居を重ね合わせて見ると、ちょうど真ん中に「霊峰富士山」が見えるよう創られている神社、安房を開拓した忌部族を彷彿される祭祀です。
区民総出で立てられた大幟

区民総出で立てられた大幟

厳粛な祭典が行われる

厳粛な祭典が行われる

威勢のいい神輿渡御

威勢のいい神輿渡御


その昔の布良崎神社祭礼の姿を描いた 「布良崎神社御浜出行列の図」 (布良崎神社所蔵   近藤博 画)

その昔の布良崎神社祭礼の姿を描いた 「布良崎神社御浜出行列の図」 (布良崎神社所蔵 近藤博 画)



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館山市富崎地区 布良(表面) 館山市富崎地区 布良(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

那古地区 濱

たてやま おらがんまっち 那古地区・濱

地域の紹介

自慢の山車 那古寺から那古海岸にいたる道を、両側に挟んだ地域です。元禄大地震により、土地が隆起し、船形村名主正木九右衛門の指導により「那古浜新田」として開発され、大浜集落が形成されました。
 小字名に「中浜、中入会、上入会、下入会、大浜」などがあり、開発された地区が伺えます。坂東三十三観音結願寺 那古寺の門前町として多いに発展し、江戸と房州の物流の要となり、那古寺から港迄の道沿いには多くの商家、旅館などが立ち並び大変賑わいのある地域でした。鉄道の開通により、人、物の流れが変わり、昔程の賑やかさはありませんが先人から受け継いだ「浜弁財天」の祭礼文化をしっかり継承し、今も変わらず守っております。

自慢の山車

後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻

後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻

 濱組山車は弁財天山車とも呼ばれ、明治四十三年に地元浜町・山口仙太郎棟梁によって新造された濱組二代目の山車です。初代の山車は明治四十五年に国分萱野へ譲渡されました。
 自慢の彫刻は国分の彫工・後藤喜三郎橘義信によるもので、下高欄胴には弁財天にちなんだ安芸宮島にある厳島神社の風景他、多数の社寺伽藍が、他では見られない三面連続した構図で彫られています。中層胴には弁財天や恵比寿・大黒などの七福神、そして山車の前柱から扁額にかけては中国の伝説の故事にちなんで、鯉が滝を昇り切ったあと龍になるという「登竜門」が彫られています。また人形は弁財天、胴幕には水神ということから波と龍が描かれるなど、山車全体が関連づけられた意匠でまとめられています。
安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻

安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻

 また、四メートルの角棒を使った押上式一本棒の梶棒による山車の曳き廻しも自慢のひとつ。後輪の位置が真中に寄って付けられているため、梶棒で山車前部を持ち上げて山車自体を回すこともできます。梶が切りづらく操作の難しい梶棒ですが、その伝統を守っていくのも濱の自慢です。
 さらに、濱の御囃子を地に響かせるような二尺一寸の大太鼓も、濱の祭好きな人たちの大きな自慢のひとつです。

●製作年 : 明治43年
●棟 梁 : 浜町・山口仙太郎
●扁 額 : 者満町
●旧扁額 : 仲濱
●人 形 : 弁財天(昭和59年新調・京都)
●大 幕 : 波濤に昇り龍・降り龍(昭和60年新調・京都) 
●上 幕 : しめ縄(那古地区全山車共通、昭和60年新調・京都)
●提 灯 : 珠取龍の三指爪・は・三頭巴
●半 天 : 背に濱、襟に者満(はま)町
●彫刻師 : 後藤喜三郎橘義信

厳島神社

館山市那古字上入会七六六
厳島神社
●祭 神 : 宇賀弁財天
●鳥 居 : 明神鳥居
●由 緒 : 仲浜の出洲の祠に祀られていたものを、一七〇三年の元禄地震で隆起してできた現在の場所に移設し、文政七年に浜弁財天建立、天保六年に浜町・寺町の有志により南無大師遍昭金剛塔を建立するなどして徐々に整えられてきました。大正十二年の関東大震災で崩壊しましたが、区民の協力により昭和三年に再建されました。
 宇賀弁財天は弁財天と宇賀神(ウカノミタマ)が習合したもので、八臂に弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持った弁財天の頭上の宝冠に宇賀神が附けられ、併せて稲荷の鳥居が添えられています。宇賀神は古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂命といい、食物の神で特に稲の霊とされます。
 浜組は昔から浜辺との関わりが深い土地であるため、河川の神・水の神である弁財天が祀られ、宝冠の宇賀神と稲荷様は隆起してできた土地を開発してできた那古新田の守り神として信仰が寄せられました。そしてその信仰の篤さは山車に良く現れており、人形、胴幕、彫刻の全てが弁財天様に関連つけられた意匠になっています。

自慢の祭

二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車

二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車

 仲濱と大濱の二つの町内会が一つとなり祭礼を催行しているのが濱組の特徴です。町内会は別でも現在は壮年会・青年団は普段より一つの組織として活動しており、祭礼に限らず一月のおびしゃや、十月の甘酒祭り(神輿)等、年中行事も一緒に執り行っています。
 以前は仲濱、大濱の二つの地区で一つの青年団が組織され、団長はそれぞれから一人づつ二人が選出されていました。今でこそ地域ごとの区別はありませんが青年団長は二人が選出され、二年間まとめ役としての任を負います。祭礼の準備から片付けまで青年団が中心となりますが、当日は二人の青年団長のどちらか一人が進行長、もしくは梶棒長となり協力して山車の運行にあたります。基本的にはこの二人の青年団長が一緒に、その後の祭礼会計や濱組全体としての祭礼責任者である総代の役職を担っていくことになります。
太い梶棒を使って山車を回転させる

太い梶棒を使って山車を回転させる

 出祭する「那古観音祭礼」一日目の宵祭では、山車の町内曳き廻しの中で地元地域ではありますが現在でも海岸の防波堤まで山車を運行し、昔は各町内も集まっていた「お浜出」の様子を髣髴とさせます。夕方には寺赤組の山車と一緒に隣の船形地区川名と根岸区まで曳き廻しを行っており、隣接する町内との交流も大切にしています。また、濱組のこだわりとして祭典が執り行われる元々の本祭日である七月十八日には、山車を那古寺境内まで寄せています。
 濱組の山車の特徴と言えば固定された前輪と、その為方向転換に使われる太い梶棒です。山車そのものを動かす為の力強いその操作は、屈強な青年団員達が務めます。また「さす」と言われる山車の前方を勢いよく高く上げる動きは、ここぞという場面で行われ、その梶棒を担ぎ上げる姿にこれぞ濱組という祭りに懸ける熱い気概を感じます。
前方を勢いよく高く上げる独特な動き

前方を勢いよく高く上げる独特な動き

 山車の曳き廻しでは、現在では珍しくホイッスルや拡声器は使わず肉声のみで連携を図り士気を高め合い、梶棒の操作と合わせ昔ながらの伝統を守り受け継いでいます。
 濱組には木遣りの名人も多く、この地域でも一、二と言われる大きな大太鼓を叩くバチさばきやお囃子は、見るもの聞くものを魅了します。青年団が中心で教えている太鼓の練習には三十人を超えるこども達が毎年参加をし、多くの伝統が引き継がれていく自慢のお祭りです。


凝った意匠の提灯

凝った意匠の提灯

珠取龍三指爪の襦袢

珠取龍三指爪の襦袢

昔ながらの半纏

昔ながらの半纏



那古観音祭礼

 例祭日はもともと七月十七日(宵祭)と十八日(本祭)で、十八日に祭典が執り行われていますが、山車・屋台の引き回しは、原則七月十八日以降の直近の土・日に行われるようになりました。日程は毎年、六地区の代表が集まる総代会議で決定されます。古くは各町独自で行っていた祭りを明治三十年(一八九七)より那古観音の縁日に合わせ東藤、大芝、芝崎、浜の四町合同の祭りとなり、その後明治四十三年に寺赤、大正十二年に宿が加盟し今日に至っています。
 那古祭礼規約に基づき、一年交代の年番町が祭礼の運営を取り仕切り、本祭は終日六台の山車・屋台がそろって合同で引き回しを行うなど大変統一性があります。各地区とも赤を基調とした提灯、山車の高覧幕は〆縄に三連の細縄と五折の御幣とお揃いのデザインであることも那古地区が一体となった演出美を感じます。
 この祭礼の大きな見どころは、大太鼓の技を競い合うお囃子であり、それぞれの地区の叩き手の華麗なバチ捌きと勢いを、また祭礼を締めくくる年番渡しで行われる伝統の「締めことば」もぜひご堪能ください。

那古寺本堂前での年番渡し

那古寺本堂前での年番渡し



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館山市那古地区 濱(表面) 館山市那古地区 濱(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

豊房地区 長田

たてやま おらがんまっち 豊房地区・山宮神社

地域の紹介

山宮神社近くの風景

深い緑におおわれた山宮神社近くの風景

 南総文化ホールから白浜に向かう県道86号線。それと並行に流れる長田川を境に広がる東西に、東長田・西長田があります。長田の歴史は古く、東長田にある谷(やつ)遺跡は、日本で最初に祭祀遺跡として紹介され、弥生時代の土器なども出土しています。西長田にある千田城跡は、里見義豊の弟・長田義房の居城と伝えられ、長田川の名前の由来とも考えられます。また、現在の山宮神社のことを江戸時代までは長田神社と呼んでいたそうです。
 現在は、東長田が60戸、西長田が70戸とほぼ同じ戸数で、東長田には山宮神社、西長田には諏訪神社が鎮座します。西長田の諏訪神社の祭礼は現在は行われておらず、長田地区最大の行事である八幡祭礼出祭を東西長田が一体となり盛大に行っています。東西それぞれに区長・総代・世話人・青年がいますが、年番制を行い交代で役を務めています。
 その他の行事としては、三月の「おびしゃ」、五月と八月の「道凪」「夏凪」という草払いを地区全体で行うなど、まとまりのある地区です。

自慢の神輿

自慢の神輿

自慢の神輿

 神輿の製作年代は、安政六年(一八五九)八月吉日とされ、彫刻は明治二十年代に房州後藤流初代義光の手によって施されました。神輿全体に隙間なく嵌めこまれた分厚く精細で躍動的な彫刻がこの神輿を見事に際立たせています。
 四方の欄間に這う龍、柱隠しの昇龍に降龍、さらに他の神輿にはあまり見られない「力神像」が四本の柱の下にどっしりと置かれ御霊を守っています。また屋根上の露盤、小脇隠しや腰枡なども所狭しとばかりに多彩な彫刻で埋めつくされた、自慢の神輿です。
「やわたんまち」渡御ですべての道程を担いでいく時、鶴谷八幡宮入祭での一の鳥居から拝殿まで一直線に参道を駆け抜ける時、長田の氏子たちが最も誇りを感じ、長田の神輿が最も光り輝く瞬間がやってきます。
●屋根 : 方形普及一直線型 ●蕨手 : 普及型 ●造 : 塗り神輿 
●露盤 : 枡型 ●胴の造 : 平屋台 ●桝組 : 五行三手 ●扉 : 前後扉 
●鳥居 : 明神鳥居 ●台輪 : 普及型 ●台輪寸法 : 三尺六寸
●見処 : 四隅の力士像他彫刻など
美しくバランスの取れた彫金と彫刻

美しくバランスの取れた彫金と彫刻

柱隠しに踊る重厚な龍彫刻

柱隠しに踊る重厚な龍彫刻

柱下四隅に鎮座する力士像

柱下四隅に鎮座する力士像

 


山宮神社

館山市東長田字前作一〇六一
三宮神社
●宮 司 : 代田健一
●例祭日 : 九月十五日
      安房国司祭に準ずる
●本 殿 : 銅板葺神明造
●鳥 居 : 神明鳥居
●氏子数 : 百三十世帯

本殿入口まわりの彫刻

本殿入口まわりの彫刻

●祭 神 : 大山祇命
      八重事代主命
●由 緒 : 朱鳥元年(六八六)、神主秋山家の遠い祖先にあたる中臣鎌足の子である中臣幸彦が摂津国三島より移住し、三島の鴨神社祭神の「大山祇命」をお迎えし、当社を創建したとされています。また養老二年(七一八)に安房国に班田使という役人がやってきたとき、神田として七町八反歩の土地が寄進され、三島の鴨神社にお祀りされている「八重事代主命」を大山祇命と一緒にお祀りしました。
 時代が流れる中で源頼朝、里見義成からも厚い寄進を受け、江戸時代には徳川将軍家から十石の神社地の御朱印の証文をいただいています。明治になってからは幕府にもらった土地はお取り上げになってしまいましたが、その後は豊房村から幣束や祭事費用が供進される社格となりました。
 江戸時代までは山宮大明神、長田大明神とも呼ばれていましたが、明治元年からは山宮神社と改められ、現在に至ります。


自慢の祭 安房国司祭出祭

待ちに待った安房国司祭へ出発

待ちに待った安房国司祭へ出発

 東西の長田地区あげての最大の祭礼が例年九月に鶴谷八幡宮で行われる安房国司祭への神輿出祭です。山宮神社古文書によると「延久三年(一〇七一)の秋、安房国の八幡の海岸へはじめて神輿を出す神事が行われた」とあり、およそ千年に渡ってこの神事が続けられていることになります。「長田の神輿」とも呼ばれる山宮神社の神輿が、それぞれの時代でどんなふうに八幡まで担がれていたのかは定かではありませんが、現在も強いこだわりを持って引き継がれている伝統は、鶴谷八幡宮拝殿までの全ての道程を担いで渡御することです。
拝殿へと疾走する長田の神輿

拝殿へと疾走する長田の神輿

 八幡祭礼出祭にあたっては、東西の長田地区が順番に務める「年番」によって仕切られます。明治十二年の資料によれば、「輿丁や神具持ちは東西長田村が均等に出すものとし、輿丁は三十人、神具持ちは十人、合わせて四十人に限る」とあります。現在では東西長田地区からそれぞれ総代、世話人、青年、婦人会、子ども会等が総出で祭礼に参加します。
 八幡祭礼初日の早朝に、黒の手甲、黒の足袋、「長田」の文字と朱の巴紋が染められた豆絞りの白丁姿の青年達が山宮神社に集まってきます。出祭神事が執り行われた後、朝七時出発。仕来りにより年番区内を通り抜け、途中立ち寄りながら鶴谷八幡宮までのおよそ12キロのすべての道程を担いで渡御します。
子どもから大人まで総出で行われる「やわたんまち」

子どもから大人まで総出で行われる
「やわたんまち」

 午後三時半、いよいよ八幡入祭の時がきます。八幡に入る時には「走る神輿」としての誇りを胸に、神輿の前を低くしながら一の鳥居から拝殿まで一気に走り抜けます。そして拝殿前では八幡出祭の喜びを力強い大きな揉みさしで御祝いします。その後神輿を御仮屋へ納め、御旅所にて疲れを癒やします。
 翌日、八幡祭礼二日目の午後七時頃に還御の時がきます。多くの観衆を前に最後のハレの舞台に力が入ります。そして鶴谷八幡宮を後にして山宮神社までのおよそ9キロの道程を渡御と同じにすべての道を担いで帰ります。東長田観音院から山宮神社までは、油断すると足を外してしまうような二本棒の神輿が通れるぎりぎりの道幅で、暗闇の中で担いで通れるのは、歴史の中での経験に支えられた「長田の神輿」ならではの至難の業です。山宮神社へ帰ってくると、祭の終わりを惜しむかのように神社の回りを幾度も幾度も回ります。
 東西長田の自慢の祭が終わるのは、今でこそ日付が変わる頃ですが、少し昔までは薄っすらと東の空が明るんでくる頃だったそうです。
鶴谷八幡宮境内で、この日を迎えられた喜びを力強く大きな揉み刺しで表す

鶴谷八幡宮境内で、この日を迎えられた喜びを力強く大きな揉み刺しで表す


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館山市豊房地区 長田(表面) 館山市豊房地区 長田(裏面)

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おらがんまっち

館山地区 新井

たてやま おらがんまっち 館山市館山地区 新井

地域の紹介

 新井地区は市域の中央部に位置し、近世以降安房地方の中心地として、また館山城の城下町として栄えた館山地区にあり、下町と長須賀地区に隣接し、江戸時代は真倉村の浜方集落で新井浦と呼ばれていた歴史深い地区です。
 現在も新井海岸には館山市立博物館分館などを含む「みなとオアシス〝渚の駅たてやま〞や、日本一の長さを誇る「館山夕日桟橋(館山港多目的観光桟橋)」など館山市を代表する多くの施設があります。
明神丸【御舟の大きさ等】
●全長:8.3m
●全幅:2.07m
●全高:3.76m
●後部七つ道具含む高さ:4.26m
●総重量:2,360kg
●彫刻:後藤喜三郎橘義信

自慢の御舟「明神丸」と「新井の御船歌」

勇壮な鷲と明神丸の舟先
 初めて御舟が造られたのは明治二十年代と言われており、紅い御舟のいわれは遠く律令時代、海魔調伏を願い紅く塗ったとされています。里見時代末期に商港となった高之島湊は、新井の島と呼ばれた高ノ島・沖ノ島と新井浦に挟まれた海域で、里見水軍の拠点にもなっており、そのお舟手がいたことから軍舟と呼ばれています。百年以上もの間小規模の修復を重ね、近年では平成五年に大修復を行い更に年番の平成十八年には漆の塗り替え、提灯の新調などを行い、代々受け継がれ大切にされてきた御舟です。御舟先端にクロスして飾り付けられている毛槍は白熊の毛が使われており、朱塗りは本漆で、また御舟の特徴である後部の薙刀、陣笠、吹流し、纏、番傘、諏訪梶の神紋の赤旗、明神丸の白旗の七つ道具が自慢です。
隅々まで美しさにこだわった明神丸の後姿 平成二十年二月二十五日に館山市無形民俗文化財に指定された「新井の御船歌」は古くは諏訪神社の祭礼で演じられていました。現在は二月上旬に行われる初午での歌い初めと、八月一日、二日に行われる館山地区の祭礼の際に多くの場所で演じられています。その他にもNHKの民謡番組や安房の伝統芸能まつり、里見氏関連行事など、多くの出演依頼があり、皆に愛される自慢の御船歌です。また、昭和四十七、八年頃に「新井船歌保存会」が組織されるまでは、御船歌は区の長男にだけ教えるという形での継承形態が残っており、深い伝統を感じさせます。

諏訪神社

諏訪神社諏訪大明神の額
●祭神:八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
●旧鎮座地:安房郡館山町大字館山字東(大正期)
  現在は館山市館山一〇二二番地の一辺り。現在は館山神社に合祀されている。
●宮司:酒井昌義
●由緒:諏訪神社の祭神・八坂刀売神は諏訪の神である建御名方神の后神です。神道の女神と言われ、諏訪大社他、各地の諏訪神社にも祀られています。新井と下町の氏神だった諏訪神社は、大正十二年九月一日に発生した関東大震災によって倒壊してしまいました。その後は館山神社に合祀され現在に至っています。諏訪神社は現在の館山商店街協同組合(TSCホール)近辺にあったそうです。新井集会所には御舟「明神丸」の名前の由来となった諏訪大明神の額が残されております。この額の裏には文化四年の墨書きが残されており、その歴史の深さを物語っています。

自慢の祭り・若衆

紅で描かれた「あらい」の半纏を纏った若衆の威勢の良い曳き廻し 新井の祭りと言えば一番の魅力だと言われる速い勇壮な曳き廻しと若衆の威勢の良さ、そして手際の良い「キリン」さばきなど迫力に溢れ、舵が切れないながらも御舟の機敏なやり回しは、見る者に感動を呼び込む「祭りを愛する熱い仲間達」という印象を持つ人は少なくないでしょう。走りに危険がないようにと平成元年頃から変えたという他の町とは一風変わった地下足袋と脚絆のスタイルや、「裸」という衣装をまとった新井若衆ここ一番の決め時には筋骨隆々、黒く焼けた上半身となり、裸という衣装をまとった若衆はまさに新井の自慢です。「武・走・裸・道」という四文字に込めた精神は今も若衆の中に生きています。
 また、里見水軍の流れを汲んだ出陣太鼓が特徴で、新井のお囃子で「速ばか」と言えば、この地域で一般的に叩か「あらいの半纏れている「速ばか」や「御舟ばか」ではなく、それは「新井の速ばか」であり、そのばち捌きやリズム、腹にくる響きは理屈ではない聞けばわかる士気の高揚する自慢のお囃子です。
 そして八月二日の本祭での館山神社入祭から御浜入りの曳き廻しでは、年番に関係なく先頭で走ることが館山のまつりの伝統であり、同じく本祭の午後三時半頃に一気に駆け上がる赤山の坂や、夜の歩行者天国での速い走りは是非皆さんに見て頂きたい「これぞ新井」という場面です。

【大正14年、六輪の明神丸】

大正14年、六輪の明神丸 この時代は御舟の先端に現在のような舵棒はなく、てっこ棒のみで舵を切り、ブレーキをかける役目もしていました。舵を切ったりブレーキをかけたりする時に、てっこ棒を突っ込む左右の桁の部分は、てっこ棒を引っ掛かり易くする為に、片側三輪ある各車輪の間(中央の車輪の前後)の桁の下部を切り欠いてあるのが特徴といえます。浜上(はまじょ)と呼ばれる土地の屈強な男達が軽々と重いてっこ棒を操り、舵取り、ブレーキ、今で言う交通等の役目も担っていました。走行中は、この浜上と呼ばれる人達で御舟の周りはバリケードのようになり、誰も寄りつけなかったといいます。また、太鼓や笛等お囃子の役目をする者は、岡上(おかじょ)と呼ばれていました。当時は土地に生まれた人でないとなかなか祭りに入る事が許されず、土地に生まれた人のみが若頭(五十代)になる事ができ、よそから来た人は「高張り三年」と言われ、三年は高張りの役目をしないと受け入れて貰えなかったといいます。

【昭和30年、四輪の明神丸】

昭和30年、四輪の明神丸 御舟の先端には一本の舵棒がついており、舵が切れない分「キリン」が装着され、現在と同じように曳き廻しが行われていました。この写真の一本舵棒の前は、U字型の舵棒で、左右から人が付いて操作していた時代もあったといいます。下町の交差点は「キリン」を使わず一発で、舵棒だけで曲げるというこだわりは、今も昔も変わっていません。

8/1.2 館山のまつり

祭りの起源
大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併
し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下)、諏訪神社(上)、厳島神社、八坂神社他三社倒壊のため、協議により七社の合祀を決め、昭和七年館山神社として創建されました。現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。
館山神社に集まった館山地区の山車と明神丸

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館山市館山地区 新井(表面) 館山市館山地区 新井(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

館山地区 上真倉

たてやま おらがんまっち 館山市館山地区 上真倉

地域の自慢

自慢の神輿 上真倉地区は館山地区の東端の汐入川中流左岸に位置し、館山城の東より館山バイパス左右までの広範囲の地域です。主に農業地域で、中世には実倉(稲の倉)が多くあったため、「真倉」の字を充てているそうです。昔は穀倉地帯だったのですが、現在では急速な住宅地化がすすみ、町内は第一町内から第三町内まで分かれて、世帯数は800を超える、広域で、住民の多い地域です。
 江戸時代には北下台村、根古屋村、上真倉村、下真倉村を合わせて一村とし、真倉村と呼んでいました。明治四年に上真倉村と根古屋村が合併し現在の上真倉村となりました。
 館山城下に位置したことから、真倉村は里見家の直接の支配地だったことや館山城の外郭としての役割があったため、多くの寺院があります。住民たちは由緒ある地域として誇りを持ち、地域を愛し、祭りを愛し、神輿を大切にする、そんな人情にあふれた自慢の地域です。

自慢の神輿

初代後藤義光による見事な鴉天狗の彫刻初代後藤義光による見事な鴉天狗の彫刻●地区名 上真倉区
●神社名 神明神社
●屋根  方形普及一直線型
●屋根葺 白木
●蕨手  普及型
●棰   棰
●造り  地組四方正面造
●鳥居  明神鳥居
●台輪  普及型
●台輪寸法 四尺
●彫刻師 後藤利兵衛橘義光
白木の美しさにこだわる自慢の神輿 上真倉区神明神社の神輿は館山地区の祭礼に出祭しています。絢爛豪華な白木の彫刻神輿。館山一大きいと言われる狛犬や龍の彫刻、彫り物の厚みがとても深く、圧倒的な立体感と白木の輝きの調和が見事です。
 彫刻は名工初代後藤利兵衛橘義光八十五歳作。左右一面に施された牛若丸とカラス天狗の鞍馬山修行の場面を力強く表現した彫刻は特に見応えがあります。
 館山祭礼は真夏に行われるため、白木神輿は特に手入れをしっかりと行います。彫り物以外の胴体に関しては約三十年に一度の御神輿の新調を行います。白木にこだわりをもち、短期で交換することで本来の白木の美しさを保っています。白木神輿の夜の輝きは、さらに特別な美しさを演出しています。
 初代後藤義光の繊細で力強い彫刻と白木の美しさが輝く神輿が、上真倉の自慢です。

神明神社 館山市上真倉字羽鳥一八一九

神明神社祭礼日の上真倉神明神社祭神:祭神天照皇大神、素戔鳴命、高皇産霊尊
由緒: 後深草天皇建長元巳酉年(1249)、安房郡司安西孫八郎が当国四郡の男女崇拝宮として伊勢大御神をこの地に遷されたといわれている。
【神社行事】
・三月第一日曜日…御日待(おひまち)、春の祈祷、祭典を行う
・八月一日・二日…館山地区祭礼
・八月お盆前後……二日間にわたる盆踊り。やぐらを囲んで延べ五百名位参加し、現並木区長が制作した「さなぐら音頭」を揃いの袢纏を着て踊りを披露する。
・十月………………里見祭り
・十二月第一日曜…餅つき大会
・年末年始…………(除夜祭)神明神社のお守り、お札を販売。また神輿の披露も行う。

自慢の祭

昔の文化を残した豆しぼりの手拭い 上真倉の祭礼は例年八月一日「館山のまつり」に神輿を出祭します。昔の祭礼は八月一日・二日・三日と三日間行われ、広い上真倉地区の全てのお宅を神輿がまわっていたそうです。また昭和三十年代頃までは、「お浜出」にて海にも入っていたという、本当に神輿を担ぐことが好きな方が多い地区で、現在の二日間の祭礼で約三〇キロもの長い距離を担いでいます。地区の人々が一丸となって祭礼を行う
 そんな神輿好きな地区で特に自慢できることは、「祭礼を休んだ事がない」ということです。戦時中にもお神輿を担いだという写真が神社集会場に飾られています。
 上真倉には「共和会」(52歳までの青年約50名)、「眞和会」(59歳までの40名)、「長寿会」(60歳以上の50名)の三つの組織があり、昔から共和会を中心として祭礼を運営し、様々な準備を行っています。祭礼衣裳は白丁に黒足袋、それと昔の文化を残した豆絞りの手拭を大切にしています。
 若い世代に神輿の手入の仕方や担ぎ方を伝えながら、上真倉の自慢と誇りである白く美しく輝く白木の神輿を自慢の祭りとともに次代へ継承して行きます。
地区の隅々まで神輿を担ぎ込む館山神社境内にて威勢のいい揉み差しを繰り返す

8/1.2 館山のまつり

祭りの起源
大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により四社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。
館山神社境内での神事

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館山市館山地区 上真倉(表面) 館山市館山地区 上真倉(裏面)

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おらがんまっち

神戸地区 佐野

たてやま おらがんまっち 館山市神戸地区 佐野

地域の紹介

自慢の神輿 JR館山駅から南へ10キロほど行った、平砂浦に注ぐ佐野川の川沿いに広がる地域で、地名のおこりは砂丘から下った砂原(砂野「さの」)ともいわれています。名前の由来のとおり、平砂浦からの砂との戦いの歴史を持つ稲作地区です。明治二十年には佐野小学校が開校し、戦時中には館山海軍砲術学校が開設され、戦争遺跡が今でも多く残されています。また佐野川に生息していた「オオウナギ」は館山市の天然記念物に指定されています。最後に目撃されたのは昭和三十三年で、重さ4・3kg、胴囲26・7cm、体長1・18mのオオウナギでした。
 神社は熊野神社、寺院は千葉院があります。昔は村芝居や花火が行われた賑やかさがあり、年に五人ほど村の経費でお伊勢参りをしていました。現在は百二十一戸からなる豊かな自然に囲まれた農作地域となっています。

自慢の神輿

小脇の「昇り龍」「天の岩戸」の図を彫った胴羽目
●地区名:佐野 
●神社名:熊野神社
●地屋根:方形普及一直線型 
●屋根葺:黒漆
●蕨手:普及型 
●露盤:桝型 
●造り:白木造り
●胴の造り:平屋台 
●桝組:五行三手 
●扉:前後扉  
●鳥居:明神鳥居 
●台輪:普及型 
●彫刻師:後藤利兵衛橘義光
 佐野地区熊野神社の神輿は百二十年以上前の明治二十六年(一八九三)に製作されました。朱と黒の漆に染められた風格ある神輿です。
 その風格をさらに引き立てているのが、どれも生き生きとした姿で彫られている彫刻の数々です。これらの彫刻は房州後藤流初代・後藤利兵衛橘義光の手によるものです。
後藤義光晩年(七十九歳)の作で、その後、孫の後藤義孝によってさらに手が加えられ現在の姿に完成されました。
胴羽目、小脇、柱隠しと彫刻が並ぶ露盤に巻きつく龍の彫刻初代後藤義光刻銘と欄間彫刻

熊野神社 館山市佐野字向一八二六

熊野神社
●祭神:櫛御気野命「くしみけぬのみこと」
●宮司:藤森益樹
熊野神社●由緒
 旧神戸村の村社。昭和十六年三月十四日、神饌幣帛料供進社に指定されています。佐野地区のほぼ中央の小高い場所に位置する鎮守で、境内には文化七年(一八一〇)の文字が刻まれた灯篭があります。
また、狛犬は楠見の俵石工の作品で、昭和十三年(一九三八)、陸軍近衛歩兵と海軍機関兵(二十歳)として出征する二人の縁者の無事を祈願して奉納したものと言われています。本殿の神社額は神道家で内務大書記官の桜井能監の書とあります。社殿左の石宮は、天保二年(一八三一)に越後から来た行者量海が本願となり、乙浜村の元宮太平らが奉納したものです。奥殿は昔のままの姿が今に残されています。
熊野神社狛犬参道と鳥居

自慢の祭

威勢のよい揉み 昭和三十年代中頃以前は、十月九日に例祭が執り行われていました。それ以後に祭礼日が八月十日に変更になりました。当時は安房神社例祭へ出祭していましたが、例祭日を変更してからは佐野地区単独で祭礼を行うようになり現在に至ってます。
 祭礼の準備は地区の人たちが協力して行われますが、中心になるのは二十代から四十代までの人達で組織される「佐野青年団」です。現在は十八人と少ない団員ですが、団長を中心にまとまった組織になっています。
 神輿渡御は午後三時頃から午後九時までの予定となってはいますが、実際には時間を過ぎてもなかなか終わることはありません。
「あげー」の掛け声で高く刺す
 担ぎ棒は二本棒で、前を低くして担ぐのが佐野神輿の特徴です。威勢のいい揉み刺しを繰り返しながら広い地区内を回ります。高く刺すときの「あげー」の掛け声は、佐野独特のものです。
 近年は担ぎ手が不足していますが、手伝いの担ぎ手の方々を迎え、伝統ある佐野熊野神社の祭礼をしっかりと継承しています。


熊野神社に掛けられた長提灯熊野神社へ安房神社の神輿を迎える

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館山市神戸地区 佐野(表面) 館山市神戸地区 佐野(裏面)

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おらがんまっち

船形地区 大塚

たてやま おらがんまっち 館山市船形地区 大塚

地域の紹介

自慢の山車 明治二十二年に船形村と川名村が合併してできた船形地区は、船形小学校の校歌の一節に「港をいでて 音高く 櫓拍子そろえ 進む船よ…」とあるように、古くから漁業の町として栄えてきました。船形のシンボル的存在の崖観音や日本三大うちわの一つに数えられている「房州うちわ」のまちとしても知られています。
そんな船形地区の中心的位置にある大塚区、その昔は現在の船形駅前十字路から小学校前付近辺りは「汐切山」と呼ばれる高台になっており、松林に覆われていたそうです。その後時代とともに、銀行や郵便局、学校、船着場等の施設が集まった船形の心臓部として栄えてきました。
現在では百七十八世帯からなる、市内最大の船形漁港を中心とする港町として館山の観光の一翼も担っている地区です。

自慢の山車

囃子台柱に巻きつく昇り龍と下り龍囃子台柱に巻きつく昇り龍と下り龍
●製作年:明治三十五年
●彫刻師:後藤利兵衛橘義光
●彫刻:昇り龍、降り龍、七福神、二十四孝、他多数
●上幕:富士に雲龍
●大幕:前に大青牡丹文字、迦陵頻三面(羯鼓、笙、にょう鉢)
●泥幕:波に千鳥
●人形:神武天皇
●提灯:三つ巴
●全長:四・一m
●全幅:二・四m
●全高:四・九m(人形上げ時約十m)
●重量:四t
●大太鼓:一尺九寸五分
●半纏:大(大塚)青(青年)の文字

彫刻で埋められた上高欄

大塚の自慢は何といっても房総最大級を誇る山車です。この山車の基となったのは、江戸時代末期に相模の国・浦賀で造られた山車で、当時三浦に出稼中の船形の漁師がこの山車の事を聞きつけ、明治二十年代に買い求めたものと言われています。
その後、房州後藤流初代・後藤利兵衛橘義光に彫刻を依頼し、明治三十五年に完成しました。その姿は「初代義光の傑作」とも言われています。
調和のとれた六重の彫刻
初代義光が残したこの壮大な山車を飾る彫刻は、二本の柱に巻きつく昇り龍・降り龍、十二体もの力士像をはじめ全二十五面に及ぶ欄干高欄の様々な彫刻、さらには上部高欄を彫刻をもってうめつくした他に例のない作りや、山車正面から見える六重の彫刻の調和美は見事なものです。
平成二年には彫刻以外の全ての修復と囃子台の前を長くする改修が行われました。そして平成二十一年には胴幕が新調され、さらに美しく重厚な総欅造りの山車になりました。これからも大塚の誇りとして区民の皆から愛され、受け継がれていく自慢の山車です。

大塚神明神社 館山市船形字宇田川三八七

大塚神明神社汐切山の上にある大塚神明神社
●祭神:天照大御神
●由緒: 大正十二年の関東大震災以前までは大塚神明神社の下までが由緒汀線であり、その場所は岬になっていました。昔は白木造りの社殿でしたが、潮風のせいか痛みが激しく、現在はコンクリート造りの社殿に再建されています。また、南西からの強風にあおられた波を防ぐための石垣が、根岸の竃神社から大塚神明神社を通り、柳塚の弁天様の先まで続いていました。現在もこの石垣は当時のままの姿で残っています。
今でも残る神明神社下の石垣
一月十五日に一番近い日曜日には御歩射が行われ、五月十三日に近い日曜日には神明神社の宵宮が行われています。

自慢の祭

自慢の総欅造りの重厚な山車 大塚区では祭礼で中心的な役割の青壮年会の他に熟年会や老人会、子供達を含め、幅広い世代の人が一団となって祭礼を盛り上げています。縄周りと呼ばれる「宵祭り」には小山車を引き回し、大きい山車では入れない町内の隅々にまでお囃子が響き渡ります。
地区一体となった引き回し 例年七月の第四土・日に行われる船形地区総氏神である諏訪神社の例大祭に出祭するときには、安房随一の山車とともに大塚青年団は、藍染め半纏の背中に抜かれた「大青」の文字を誇りに、大塚ならではの威勢のよい引き回しを魅せます。囃子台の屋根上では巨大な二本の「大漁」の旗が力強く振られ、引き回しに花を添えます。船形の祭の代名詞とも言える「御浜出」がなくなってからも、その曳き回しの心意気は、現在の若者たちにしっかりと伝えられています。

平成21年に新調された胴幕

平成21年に新調された胴幕


本祭りの夜も更けた頃、引き回し最後の見せ場である山車小屋までの坂登りで、四トンを超える山車を最後の力を振り絞って引き上げる大塚青年団のその勇姿は圧巻です。大塚の山車には後ろにも縄が付けられていて山車小屋の前では、前と後とでの引き合いが始まります。祭を終わらせまいとして前に引っ張る子供達に大人たちも加わり、祭が終わってしまうのを惜しみます。

大塚の半纏

大塚の半纏

船形諏訪神社の例大祭

御浜出で勇壮な引き回しを行う大塚の山車●祭礼日 七月第四土曜日・日曜日
船形地区の総氏神である諏訪神社の例大祭には、大塚、堂の下、浜三町、柳塚、根岸、川名の六地区から、山車、屋台、御船が出祭します。昔は、宵祭、本祭、過ぎ祭の三日間執り行われていましたが、現在は宵祭と本祭の二日間だけになりました。
船形の祭の見せ場は、なんと言っても「御浜出」です。仲宿の浜から砂浜に入り、山車・屋台の前車輪部に丸太で組んだやぐら入れ、持ち上げては引っ張る、また持ち上げては引っ張るの繰り返しで、堂の下の浜まで引きずり進みます。山車・屋台の屋根上では漁師町の心意気を示す大漁旗が威勢よく打ち振られ、朝方まで行われたこともしばしばだったそうです。御神輿ならいざ知らず、山車、屋台までが浜に入るこのお祭りは他に類がなく、その光景は勇壮かつ豪快で、担ぎ手、引き手、観客が一体となった感動の連続でした。しかし昭和五十二年、この浜に防波堤が作られたため、六地区が競った浜出しができなくなり、昭和六十二年堂の下区が行った御浜出が最後となりました。
川名の浜に集合した船形地区の山車・御船

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館山市船形地区 大塚(表面) 館山市船形地区 大塚(裏面)

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おらがんまっち

豊房地区 出野尾

たてやま おらがんまっち 豊房地区 出野尾

地域の紹介

のどかな風景が広がる出野尾地区 豊房地区大戸交差点過ぎ、県道86号線右側一体に位置し、かつては海が近く迄せまっており、市内の他の洞穴遺跡とほぼ同じ位の高さに貝塚遺跡があります。
 鎌倉文化と強く結びついた中世の密教道場であった小網寺を中心とした集落で、鎮守の十二社神社から坂を下ると、弘法大師が修行したとの伝説がある、弘法谷また法華谷とも呼ばれている処に地元の人々が奉納した弘法大師像が祀られており、地蔵さんの脇に「山百合」が咲き、水田が映えるのどかな風景が広がります。
 里見氏の館山落城にまつわる伝説が残る「十三騎塚」、お大日と呼ばれる石碑群信仰の篤い集落の息吹が感じられる地区です。

自慢の神輿
●地区名:出野尾 
●神社名:十二社神社 
●屋根:述屋根方形一直線型 
●蕨手:普及型 
●造り:白木造り 
●露盤:桝型 
●棰:棰型 
●胴の造り:平屋台 
●桝組:五行三手 
●扉:前後扉
●鳥居:明神鳥居 
●台輪:普及型 
●台輪寸法:三尺四寸 
●彫刻師:初代後藤義光
●先代神輿は昭和二十九年に藤原地区に売却。先代神輿の彫物の一部を残し昭和四十九年に修理羽目板の彫り物「天照大神」、狛犬は前後で違う。

後藤利兵衛橘義光の彫刻

自慢の祭: 昔は十月十七日が例祭日でした。当時の神輿渡御においては、氏子一軒ずつを回り、狭い軒先まで入れるように担ぎ棒が今のより短かったそうです。各家で挨拶、接待を受け、渡御の終わりは明け方近くまでになったそうです。
 当時は屋台も出祭し、接待してくれる家の前で高張提灯のまわりを、相撲甚句、高砂などの唄を歌い、踊りを披露していました。人参、蓮、椎茸等の具をのせた手前の鮨、煮しめ、からナマス、お赤飯、茹でた落花生、湯で渋抜きした渋柿など、各家の自慢の料理が振る舞われました。神輿渡御がはじまる
その後、接待などを順番にするようになりました。
 現在は十月第二土曜日に挙行される例祭では古茂口、南条、大戸の各屋台とともに、豊房地区合同祭として出祭しています。
 神輿が小網坂を登る頃には、近隣から多勢の助っ人で、賑合う神輿ぶり。
 出野尾地区十二社神社の神輿は、美しい素木に大きな金の桐紋を誇らしげにつけ、房州後藤流彫刻の祖である後藤利兵衛橘義光による力強い彫刻が施されている自慢の神輿です。
 四月中旬には「春日待(ひやり)」と呼ばれる親睦会、年に数回行う草薙、少ない氏子の人達の結束が強く感じられる谷津田のお祭りです。
地区の皆で神輿の準備

十二社神社

十二社神社十二社神社
●鎮座地 館山市出野尾宮ノ下四七五
●祭 神 
天御中主尊 「あめのみなかぬしのみこと」
国常立尊  「くにのこたちのみこと」
国狭槌尊  「くにさつちのみこと」
面足尊   「おもだるのみこと」
天忍穂耳尊 「あめのおしほみみのみこと」
他七柱
神社額
●例祭日 十月十七日(現在は十月第二土曜日)
●鳥 居 神明鳥居
●本 殿 銅板葺屋根
●境内坪数 百七十七坪
●神事    例祭日に、神輿渡御
●神紋    五三の桐
●宮司    富浦 瀧淵神社 代田健一(正木 諏訪神社 加茂信昭)
●氏子数   二十八世帯
●由緒: 出野尾地区の中心部に鎮座する熊野系の神社。創建不明。かつては十二社権現と呼ばれたが、明治の神仏分離で十二社大神に改められた。鳥居と石段は大正六年(一九一七)、手洗石は明治五年( 一八七二)の奉納。境内には青面金剛像を刻んだ庚申塔がある。念仏修行仲間十五人によって延享四年(一七四七)に建てられたもの。また一山講中によって明治時代に建てられた石宮もある。

金剛山小網寺
●金剛山小網寺: 小網坂と呼ばれる急坂を登ると、和銅三年(七一〇)行基が創建したと伝えられる真言宗金剛山小網寺(古称では金剛山大荘厳寺)本堂の大きな銅板瓦屋根が見えてきます。密教道場として隆盛を極め「安房の高野山」と言われるほど栄えていました。県有形文化財の鋳銅密教法具が、市博物館に寄託されています。
木鼻の獅子彫刻 里見義実は師壇の契り厚く寺領を寄進し、徳川家光からは朱印地二十五石を与えられ、西岬、神戸地区中心に三十三の末寺を抱えていたとのことです。参道より、朱色の仁王門をくぐると苔むした急な石段の上に、館山市有形文化財の「聖観音立像」が祀られている、明治初期に建てられた観音堂「安房国札第三十二番札所」があります。本堂の前にかかる梵鐘は、鎌倉の名工物部国光作の「国重要文化財」です。
手挟み鳳凰彫刻 「はるばると のぼりてみれば 小あみ山 かねのひびきにあくるまつかぜ」
 と、ご詠歌にも詠まれている名鐘の響きが聞こえます。
 本堂向拝には、親を見つめる子どもを抱く躍動感溢れる龍の彫刻、肘木には籠彫の亀、鯉。巻毛の流れが精細な木鼻の獅子、獏、桁隠に飛龍、手鋏に羽を広げた鳳凰、麒麟が両側から見られ、欄間に鳥、獅子に牡丹と必見の価値ある、初代後藤義光作なる彫刻がすばらしいです。
物部国光作の梵鐘 国重要文化財
本堂向拝を飾る見事な彫刻

豊房のまつり

祭礼日 十月第二土曜日
豊房地区合同祭 豊房地区のお祭りは農村地帯らしく豊年満作を祝う秋祭りです。出野尾地区の十二社神社、大戸の白幡神社、南条地区の八幡神社、古茂口地区の日枝神社の祭礼は、ともに「豊房のまつり」と呼ばれています。この四社の中で年番を中心に毎年祭礼の取り決めを行い、例年十月十七日に開催されてきました。近年は、少子高齢化の影響から十月第2土曜日へと移行し、神輿の出祭と屋台の曳き廻しが行われています。
 午後三時頃にはJA安房豊房支店の駐車場に、大戸・南条・古茂口の屋台、そして出野尾の神輿が勢ぞろいし、祭りは佳境を迎えます。年番渡しが執り行われ、各地区そろって祭りの喜びを分かち合います。

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豊房地区 出野尾(表面) 豊房地区 出野尾(裏面)

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おらがんまっち

西岬地区 見物

たてやま おらがんまっち 西岬地区 見物

地域の紹介

海南刀神社の本殿裏にある二つに割れた巨岩 「高さ5メートルもあろう大岩に垂直に走る一閃の切れ目」。見物地区に鎮座する海南刀神社の本殿裏にある二つに割れた巨岩には、その昔神様が手斧で切り開いたという伝説が残ります。
 東京湾に突き出た西岬地区の中心地である見物地区には、明治二十二年の西岬村誕生から昭和二十九年館山市との合併までの村制時代にはモダンな庁舎であった西岬村役場が置かれていました。その他にも明治十三年創設の郵便局や農協があり、沿道にはパチンコ屋や団子屋が並び賑わいを見せ、また地区内にはたばこの乾燥工場もあり、たばこの生産が行われていた時代もありました。
 「見物」の地名の由来は、その昔刀切大神が三浦半島より上陸した際に、村人総出で見物し出迎えという説他ありますが、それらの由来どおり岬の灯台へとつながる海岸からの眺めは抜群で、農業、漁業に加え、南房総国定公園区域の指定から観光にさらなる力を入れ、新たな発展を目指しています。

金箔の飾りと彫刻で埋められた美しい大殿の装飾輿

自慢の神輿

●神社名:海南刀切神社
●屋根:延屋根方形普及一直線型
●蕨手:普及型
●造り:漆塗り
●露盤:桝型
●棰:棰 
●胴の造り:二重勾欄
●桝組:五行三手
●扉:四方扉
●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:3尺5寸
●制作年:不明(昭和初期に他地区と交換したと伝えられる)


自慢の神輿

大殿、中殿、小殿と三基の神輿が並ぶ 見物地区は、大殿、中殿、小殿と三基もの神輿を擁し、神社の境内にその三基の神輿が並ぶ姿は圧巻です。大殿の神輿は朱色と黒に染められ、全体が無数の金色の飾り細工に覆われており、屋根の四隅には鳳凰が配され、中央には五七の桐紋が光ります。神輿の
威容と担ぎの機動性に配慮された大きさの神輿には、地区外からも毎年多くの担ぎ手が駆けつけます。
 白木作りの中殿には、柱や軒面をはじめ数多くの彫刻が所狭しと並んでおり、長い時代を経た趣が漂っています。
 小殿は、金、赤、黒の配色で珍しい唐破風造りの屋根になっており、最近では地元の小学校の生徒に声をかけ皆で担がれる人気の神輿です。

海南刀切神社(かいなんなたぎりじんじゃ) 館山市見物字刀切七八八

海南刀切神社朱に染まった明神鳥居が力強い海南刀切神社●祭神:刀切大神「元は豊玉姫命」
●社格:旧村社
●例祭日:7月15日 
●本殿:銅板葺 
●鳥居:明神鳥居 
●境内坪数:183坪
●神紋:五七の桐 
●宮司:石井三千美 
●世帯数:105世帯

四神が彫り込まれた狛犬

由緒: 刀切大神が祭神であり、もともとは浜田の由緒船越鉈切神社と一神で豊玉姫命を祀っていました。彫刻で彩られた立派な拝殿には、東には天照大神の天岩戸開、西には素戔嗚尊の大蛇退治の彫刻がはめられ、向拝下正面には絵に描いたような龍が、南東西には十頭もの獅子と十四の孝子の図等の彫刻が刻まれており、これらは房州後藤流彫工の後藤庄三郎忠明(北條産)の傑作で、明治十六年ごろのものと推定されています。 拝殿内部には岩崎芭人作の絵も描かれており 、その他にも境内にある石灯籠は天保七年(一八三六)長須賀村の石工鈴木伊三郎の作、狛犬は天保十年(一八三九)楠見村の石工田原長左衛門が江戸京橋の彫工兼吉とともに彫った力作で、台座に彫りこまれた白虎、朱雀、青龍、玄武の四神も大変珍しく必見です。
 昭和四十五年ごろの海岸道路の新規開通に伴い神社の敷地が四分の一程度接収
されており、以前は拝殿からまっすぐ伸びた参道に鳥居が三つ並び、そのうちの一つは御影石でできた立派なものであったといわれています。また鎮守の森には刀切大神を護っていたとされる「巌屋小七」というキツネが明治の中頃まで住みついていたといわれる大変神秘的で厳かな神社です。

後藤庄三郎忠明の彫刻

後藤庄三郎忠明の彫刻

祭典の後、いよいよ始まる神輿渡御

地域の祭: 見物地区の例祭は七月十五日とされており、現在でもその伝統を守り続け祭典、神輿渡御を行っています。(子供神輿は直前の日曜日に実施している。)平成十八年までは、市指定無形民俗文化財である鞨鼓舞が奉納されており、踊りと神輿を合わせた華やかなお祭りでした。
 鞨鼓舞とは、例祭で奉納される獅子舞で、雨乞いのための儀式とされています。見物地区に限らず安房地方は地形上、川がすぐ海に注ぎ込んでしまうため水源に乏しく、溜池を作る場所もないところでは、農業用水を天水に頼らざるを得ない状況にありました。市指定無形民俗文化財である鞨鼓舞
鞨鼓舞は、人々の願いを映し出す素朴な農耕儀礼であったといわれています。奉納はまず、庚申信仰の「身代り猿」を上部左右に掲げた大きな日の丸の幟旗、海南刀切神社の幟旗を建て、金銀の幟棒に牛頭天皇(すなわち素戔嗚尊)と記して、神社の別当寺であった東傳寺から始まります。明治の初め頃までは、東傳寺から刀切神社まで奴さんが毛槍を放り投げ大名行列の先頭で練り歩き、鞨鼓舞は東傳寺、旧八幡様で踊ったあと、海南刀切神社へと向かい奉納されました。市指定無形民俗文化財である鞨鼓舞
その後は地区内を回り、また戦前には水不足に悩む近隣の村へも踊りに出かけていたといわれています。
 踊りは、鞨鼓3人、ササラ4人、注連縄持ち、太鼓笛数人によって行われるもので、獅子が腰につけた鞨鼓を打ちながら踊ります。花笠をかぶった少女が笛に合わせてすり鳴らすササラは、鞨鼓舞の獅子頭
雨の音を、花笠から垂れる七色の紙は雨を表すといわれます。大勢の子供がいた昔は、鞨鼓に選ばれ踊ることが大きな憧れであり、例祭の二週間ほど前からは練習が行われ、笛の音が聞こえてくるとワクワクしたという古老の声もお聞きしています。
地区の人々が一致団結して行う祭の準備

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西岬地区 見物(表面) 西岬地区 見物(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

おらがんまっち

北条地区 高井

たてやま おらがんまっち 館山市北条地区 高井

地域の紹介

新興住宅地でありながらも田畑が広がる高井地区 高井地区は館山市の北部に位置し、北条地区では一番古く、古墳時代から生活がされている地域と言われています。明治時代の初めに「高井村」「桑原村」「古川新田村」が合併し「高井村」となり、明治二十二年には北条町と高井村が合併されました。現在では北条地区内の高井区として近年、新興住宅も増え五百五十戸を超える広い地域です。
自慢の神輿 北端部宮作、宿内には土師器の散布する古墳時代の遺跡があり、八世紀ころ「行基」が、館山に仏教を普及に来られた時の同行人が、高井に居を構えました。
 神社は高皇産霊神社があり、桑原村にあった天神社を合祀している村社。寺院は善浄寺があり、鎌倉時代の終わり頃に作られたとされる木造地蔵菩薩立像を本尊にしており、他に薬師堂があり、境内には幕末の医師高木抑斎の墓があります。

自慢の神輿

胴に嵌められた繊細な彫刻 高皇産霊神社(たかみむすびじんじゃ)の神輿は、安房国司祭(やわたんまち)に出祭します。滑るような黒の漆に金の装飾と彫刻が相まったとても美しい神輿です。曲線が優美な延屋根には金箔に施された五七の桐紋が輝いています。胴部正面欄間には朱に塗られた日章の彫刻がつけられ、龍の彫刻が巻きつく居垣は、細部に渡る繊細な彫刻により迫力がさらに増しています。横の唐戸部にも七福神と高皇産霊神社の鳥居の彫刻が見事に取りつけられております。「高井」の衣装はこの彫刻の日章マークが手甲と鉢巻きにデザインされ、高井のシンボルマークとなっています。
 平成二十三年には神輿の大改修を行い、両側の唐戸に彫刻が取り付けられ、胴部も高くなり更に重みと高さが増してより大きくなりました。
 黒と朱の漆と金の輝きがとても美しい、高井地区自慢の神輿です。

綺羅びやかな姿を誇る自慢の神輿●屋根:延屋根方形、普及一直線型、黒漆
●蕨手:普及型
●造り:塗神輿
●露盤:桝型
●棰:棰
●桝組:四行二手 
●胴の造り:二重勾欄 前後階段
●扉:前後扉
●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:四尺
●制作者:明治二十五年、丸山町の神輿職人
●彫刻:三代後藤義光(階段部分の「波に兎」は後藤義光か)
●見処:階段部分の波に兎の彫り物

高皇産霊神社(たかみむすび) 館山市高井字下宮作一七五

高皇産霊神社高皇産霊神社●宮司:酒井昌義
●例祭日:九月十四日
●神事:九月十五日(安房国司祭に出祭)
●本殿:瓦葺神明造
●鳥居:明神鳥居
●境内坪数:二百四十六坪
●氏子数 五百三十四戸

祭神: 高皇産霊尊「高御産巣日神」とも「高木神」「産霊(むすび)」の文字に示すように天地万物を生成する力を神格化した神。昭和初期に「菅原道真公」を合祀。
由緒: 創建は不詳。鶴谷八幡宮は鎌倉時代に府中から八幡に遷座し、国司祭に於いて莫越山神社の神輿が高井神社で休憩されていた事や、善浄寺の本尊「地蔵菩薩立像(鎌倉時代末から南北朝期のものとされる)」から鎌倉末から南北朝期あるいは江戸時代後期ごろまでには、現地に遷座したと推察される。石灯籠には、嘉永二年楠見浦石工田原長佐衛門作の銘有り。

地域の人々が一体となって行われる盆踊り大会地域の自慢: 江戸期よりの倣いで、莫越山神社の神輿と二基、社旗、五色旗、高張提灯、真榊、猿田彦、奉楽、辛櫃、宮司、役員等と行列を組み、八幡宮へと入祭する祭事を今も続けてきた事が、なによりの自慢です。明治二十五年、二代目の神輿を作って以来、何度となく修理修復し、その都度地区の人達の篤い思いが随所に見られる、重く、彫り物が冴える神輿になりました。
 毎年夏の八月の第一土曜日には高井地区盆踊り大会が行われています。高井地区の盆踊りは昼から青年部三十名程で準備を行い、夕方から徐々に地区の方が集まります。焼きそば、イカ焼き、かき氷や金魚すくい、くじ引きなど十種類以上の模擬店には毎年行列が出来き、青年部のメンバーは大忙しになります。子供たちとの交わりがあり青年部のメンバーも忙しいのを忘れながら頑張っています。
高井・高皇産霊神社(左)と莫越山神社(右) 共に鶴谷八幡宮へ入祭 また、踊り子たちによる踊りとカラオケ大会など神社の境内には地区の人達を含め、延べ五、六百人程が集まる盛大な盆踊り大会が開催され、区民の良き想い出となる一コマでもあります。
 他にも、四月には花見、六月のボーリング大会、七月の高井子供会祭礼、十月と二月にはソフトボール大会などと多彩な行事が行われ、手甲、鉢巻にデザインされている旭日のように、輝きが増す地区でもあります。

「やわたんまち」出発前の晴れやかな輿丁たち安房国司祭出祭: 高井地区は白張や鯉口シャツに白い足袋、黒字に黄色い高井の字と赤の旭日模様の手甲に白とあずき色の旭日模様の鉢巻を巻いた統一されている衣装になります。近年では神輿大改修した際に四本柱を交換し、交換前の四本柱を木札にして焼印された木札を首から下げるのも衣装の一つとなり皆同じ衣裳に身を包み祭礼が始まります。
神輿を先導する猿田彦の神 やわたんまち安房国司祭へ神輿渡御する際には莫越山神社と二基で出祭するのですが、渡御の際に、天狗とお練り演奏を行いながらの渡御が現在でも伝統行事として行われています。
 八月下旬ごろより青年部の演奏者達が神社集会場に集まり、笛・鼓・大太鼓の練習に励み、祭礼当日早朝に奏楽(笛・鼓・大太鼓)をしながらの御霊遷を行い発輿祭が行われています。神輿渡御の際のお練りは笛・大太鼓を演奏しながら天狗と一緒に歩いて入祭します。
 渡御の際は鳥居から境内を走りながら八幡神社前まで行き「さし」ます。次に「さし」たまま安房神社へ向かい更に「さし」、最後に高皇産霊神社御借屋に行き「さし」、それから競うような「もみ」がはじまります。境内では莫越山神輿と高井神輿が神輿歌に合わせて神輿が真横になる程にもみを繰り返します。高井若衆の力強く担ぐ姿は観客を魅了します。
 二日目の神輿還御は古来の順に還御していき、高皇産霊神社は最後から二番目の九社目に出発します。八幡宮から太鼓の合図と同時に境内へ出て「もみさし」を繰り返し、時間と共に八幡宮を後にして地元高井まで帰ります。高皇産霊神社についてからは来年まで担げないという思いとともに最後の「もみさし」が行われ、高井の神輿「安房国司祭出祭」の終わりを迎えます。

安全な渡御を祈念した神事 鶴谷八幡宮入祭後、御仮屋に鎮座

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館山市北条地区 高井(表面) 館山市北条地区 高井(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。