地域の紹介
明治二十二年に船形村と川名村が合併してできた船形地区は、船形小学校の校歌の一節に「港をいでて 音高く 櫓拍子そろえ 進む船よ…」とあるように、古くから漁業の町として栄えてきました。船形のシンボル的存在の崖観音や日本三大うちわの一つに数えられている「房州うちわ」のまちとしても知られています。
そんな船形地区の中心的位置にある大塚区、その昔は現在の船形駅前十字路から小学校前付近辺りは「汐切山」と呼ばれる高台になっており、松林に覆われていたそうです。その後時代とともに、銀行や郵便局、学校、船着場等の施設が集まった船形の心臓部として栄えてきました。
現在では百七十八世帯からなる、市内最大の船形漁港を中心とする港町として館山の観光の一翼も担っている地区です。
自慢の山車
●製作年:明治三十五年
●彫刻師:後藤利兵衛橘義光
●彫刻:昇り龍、降り龍、七福神、二十四孝、他多数
●上幕:富士に雲龍
●大幕:前に大青牡丹文字、迦陵頻三面(羯鼓、笙、にょう鉢)
●泥幕:波に千鳥
●人形:神武天皇
●提灯:三つ巴
●全長:四・一m
●全幅:二・四m
●全高:四・九m(人形上げ時約十m)
●重量:四t
●大太鼓:一尺九寸五分
●半纏:大(大塚)青(青年)の文字
大塚の自慢は何といっても房総最大級を誇る山車です。この山車の基となったのは、江戸時代末期に相模の国・浦賀で造られた山車で、当時三浦に出稼中の船形の漁師がこの山車の事を聞きつけ、明治二十年代に買い求めたものと言われています。
その後、房州後藤流初代・後藤利兵衛橘義光に彫刻を依頼し、明治三十五年に完成しました。その姿は「初代義光の傑作」とも言われています。
初代義光が残したこの壮大な山車を飾る彫刻は、二本の柱に巻きつく昇り龍・降り龍、十二体もの力士像をはじめ全二十五面に及ぶ欄干高欄の様々な彫刻、さらには上部高欄を彫刻をもってうめつくした他に例のない作りや、山車正面から見える六重の彫刻の調和美は見事なものです。
平成二年には彫刻以外の全ての修復と囃子台の前を長くする改修が行われました。そして平成二十一年には胴幕が新調され、さらに美しく重厚な総欅造りの山車になりました。これからも大塚の誇りとして区民の皆から愛され、受け継がれていく自慢の山車です。
大塚神明神社 館山市船形字宇田川三八七
●祭神:天照大御神
●由緒: 大正十二年の関東大震災以前までは大塚神明神社の下までが由緒汀線であり、その場所は岬になっていました。昔は白木造りの社殿でしたが、潮風のせいか痛みが激しく、現在はコンクリート造りの社殿に再建されています。また、南西からの強風にあおられた波を防ぐための石垣が、根岸の竃神社から大塚神明神社を通り、柳塚の弁天様の先まで続いていました。現在もこの石垣は当時のままの姿で残っています。
一月十五日に一番近い日曜日には御歩射が行われ、五月十三日に近い日曜日には神明神社の宵宮が行われています。
自慢の祭
大塚区では祭礼で中心的な役割の青壮年会の他に熟年会や老人会、子供達を含め、幅広い世代の人が一団となって祭礼を盛り上げています。縄周りと呼ばれる「宵祭り」には小山車を引き回し、大きい山車では入れない町内の隅々にまでお囃子が響き渡ります。
例年七月の第四土・日に行われる船形地区総氏神である諏訪神社の例大祭に出祭するときには、安房随一の山車とともに大塚青年団は、藍染め半纏の背中に抜かれた「大青」の文字を誇りに、大塚ならではの威勢のよい引き回しを魅せます。囃子台の屋根上では巨大な二本の「大漁」の旗が力強く振られ、引き回しに花を添えます。船形の祭の代名詞とも言える「御浜出」がなくなってからも、その曳き回しの心意気は、現在の若者たちにしっかりと伝えられています。
本祭りの夜も更けた頃、引き回し最後の見せ場である山車小屋までの坂登りで、四トンを超える山車を最後の力を振り絞って引き上げる大塚青年団のその勇姿は圧巻です。大塚の山車には後ろにも縄が付けられていて山車小屋の前では、前と後とでの引き合いが始まります。祭を終わらせまいとして前に引っ張る子供達に大人たちも加わり、祭が終わってしまうのを惜しみます。
船形諏訪神社の例大祭
●祭礼日 七月第四土曜日・日曜日
船形地区の総氏神である諏訪神社の例大祭には、大塚、堂の下、浜三町、柳塚、根岸、川名の六地区から、山車、屋台、御船が出祭します。昔は、宵祭、本祭、過ぎ祭の三日間執り行われていましたが、現在は宵祭と本祭の二日間だけになりました。
船形の祭の見せ場は、なんと言っても「御浜出」です。仲宿の浜から砂浜に入り、山車・屋台の前車輪部に丸太で組んだやぐら入れ、持ち上げては引っ張る、また持ち上げては引っ張るの繰り返しで、堂の下の浜まで引きずり進みます。山車・屋台の屋根上では漁師町の心意気を示す大漁旗が威勢よく打ち振られ、朝方まで行われたこともしばしばだったそうです。御神輿ならいざ知らず、山車、屋台までが浜に入るこのお祭りは他に類がなく、その光景は勇壮かつ豪快で、担ぎ手、引き手、観客が一体となった感動の連続でした。しかし昭和五十二年、この浜に防波堤が作られたため、六地区が競った浜出しができなくなり、昭和六十二年堂の下区が行った御浜出が最後となりました。
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このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。