かんべレタス

かんべレタス

かんべレタス

レタスは夏の暑い時期に標高の高い土地で作られることが多いのですが、かんべレタスは冬に栽培されます。甘くてシャキッとしたレタスは生で食べられるのが一般的ですが、レタスをもっと活用してほしいとの思いから、レタスカレー、レタス巻き、レタススイーツ、レタスドレッシングなど、さまざまな料理が提案されています。

TEL 0470-22-2000
FAX 0470-23-3000
備考 <お問い合わせ>
館山市観光協会 TEL:0470-22-2000
メールアドレス info@tateyamacity.com

1. 安房いち(安房一周)

上級116.0km
獲得標高737m
発着場所JR館山駅/北条海岸 ~ 館山駅/北条海岸
文字通り、房総・安房エリア一周のルート。東京湾から、山間を走り太平洋へ。ぐるりと館山へ戻るコースは、100キロ超え。見どころ、寄りどころ満載、準備万端でGo!


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竹原地区 竹原

地域の紹介

 竹原区は館山市の東部内陸に位置する九重地区に属し、周囲を丘陵に囲まれる山裾の集落から見渡せば広大な平野部が広がり、九重地区の中でも一番の米作地域です。古くは条里制の跡も見られる古代から開拓された地域で、昭和に行われた圃場整理により田の大きさが整備され一層の農業の振興が図られた結果、機械化農業が進み現在は兼業農家が増えています。
 田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の五集落から成り立ち、現在は百二十世帯ほどで、各集落から選ばれた区長、氏子総代を総区長がまとめる形で竹原地区が運営されています。
 竹原の山の上から移された樹齢千年ともいわれる御神木のビャクシンが長年にわたって集落を見守っています。
 また、地域の方々から「お不動様」と呼ばれ親しまれている「滝ノ谷の不動様」、田村の「春光寺」といった史跡名刹に囲まれていて、豊かな自然と歴史に育まれながら、今も昔も五つの集落が手を携え協力しながら生活を営むつながりが受け継がれた、心暖まる地域です。

自慢の神輿と屋台

迫力のある胴ばめ彫刻
 竹原地区には、日枝神社の氏子である田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の竹原五組の人たちによって維持管理されている神輿と、田辺地区が所有している屋台があります。また、昭和三十五年に山荻地区から白木の神輿を譲り受けており、今は二基の神輿を持っていて、黒と朱で塗られた神輿を「黒」、白木の神輿を「白」と呼び、現在は「黒」の神輿で祭礼を行っています。
15枚菊紋などの飾り金具と見事な彫刻
 黒と朱に染められた神輿の制作年代は明治中頃と思われ、彫刻は房州後藤流の彫刻師で館山市国分の後藤喜三郎橘義信による見事なものが施されています。老朽化が進んだことで平成十二年と平成二十年の二回にわたって大修理が行われて、胴張め彫刻なども増やして見事に美しく重々しい姿になって現在に至っています。黒を基調として塗られた本体には十五枚菊紋をはじめとする金の飾り金具が美しく光っている自慢の神輿です。
 田辺地区が所有している屋台は昭和二十四年に南房総・御庄大工の岡田氏が制作しました。唐破風の屋根の懸魚に彫物をつけ、当時は正面の提灯には田辺地区の「た」の文字が入れられていました。
 一つの大太鼓と三つの小太鼓を載せて地区内をゆっくりと引き回される自慢の屋台です。

昭和24年に新造された竹原地区田辺の屋台
●屋根 : 延屋根方形普及一直線型 ●蕨手 : 普及型
●造り : 塗り ●露盤 : 桝型 ●棰 : 棰
●胴造 : 平屋台 ●舛組 : 五行三つ手 ●扉 : 前後扉
●鳥居 : 明神鳥居 ●台輪 : 普及型
●台輪寸法 : 三尺六寸三分 ●制作者 : 不明
●彫刻師 : 後藤喜三郎橘義信 ●制作年 : 明治時代

日枝神社

御神木のビャクシン「柏槇」
鎮座地:館山市竹原字山王八六〇
●祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)
●宮司 黒川 彰
●社格 旧指定村社
●神社紋 十五葉菊紋
●鳥居 両部鳥居
●境内坪数 五百四十坪
●氏子数 百二十戸
●例祭日 毎年十月十日

◎由緒

朱に塗られた両部鳥居
 竹原地区総社である日枝神社は、文徳天皇の仁寿二(八五二)年、近江国の日吉大社を勧請し、慈覚大師が創建したとされています。里見氏及び徳川氏より、社領五石を給わっていました。明治の初めの神仏分離令までは、「今宮山王大権現」といいましたが、明治三年に「日枝神社」と改称しました。大正時代中頃までは、競馬、流鏑馬が社前で行われていました。
拝殿からみた参道
 朱色に染まった鳥居脇に立つ御神木のビャクシン「柏槇」は、元は山上にあり、漁師たちの大切なヤマタテ(目印)とされた古木だったが明治の頃、落雷を受けた後に今の場所に移され、交通安全の護りとされています。六月には「虫送り神事」が執り行われています。また、神社拝殿には房州後藤流初代義光の直弟子で地元竹原出身の後藤利三郎橘義久が手掛けた神号額があります。
旧九重村真岡(現在の田辺)出身の後藤利三郎橘義久による神号額
 一月四日・歳旦祭、二月十一日・祈年祭、十月十日・例大祭、十一月二十三日・新嘗祭を、田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の五組の人達で執り行っています。 

自慢の祭

日枝神社の前で高々と差す神輿
 竹原地区の祭礼は、田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の各地区からの代表により祭礼委員会を組織し、会長、副会長、会計等の役員を中心に、近年より祭を盛り上げようと行っている打ち上げ花火の担当なども設け、五地区の総社である日枝神社の祭礼として神輿などの準備から運営までを皆が協力し合い執り行っています。
 以前の祭礼日は十月十日でしたが、古くは七月十四日に行われていた田辺地区の屋台の祭礼とも毎年協議し、現在は日枝神社の神輿、田辺の屋台が一緒になり合同祭として例年十月の第二日曜日に竹原地区全体の祭礼として挙行しています。
 祭礼日前日の祭典で神輿の御霊入れが行われ、祭礼当日の朝八時頃には、神輿団長を中心に威勢よく担ぎ出された神輿の渡御が始まります。竹原地区には現在、白木の神輿と黒と朱で塗られた神輿があり、白木の神輿は神社前に飾られ、塗りの神輿が今は主に担がれています。
 木遣り、そして神輿歌を歌いながら担ぐのが特徴で、近隣から手伝いに来てくれる担ぎ手とも力を合わせ互いの交流を重んじながら、相賀の八幡様や滝ノ谷の神明神社など、各地区ごとに勢い良く差す場所では、皆の気分も高揚し祭りはより活気に包まれます。
 田辺地区の屋台は、戦後しばらく時代の風潮で日枝神社の神輿とともに祭礼が行われない時期がありました。 昭和三十四年頃から屋台小屋にずっと閉まわれたままだった屋台は朽ちており、修復する為に動かない屋台を神社に飾り、地元の婦人会が盆踊りをしてくれるなど、多くの区民の「子ども達のために」という熱い思いが集結し、おかげで寄付も集まり、昭和五十二年頃、約十八年ぶりに屋台も小屋も修復され祭礼が復活。その少し前にすでに復活していた日枝神社の神輿とともに今日に至っています。
田辺の屋台を引く元気な子どもたち
 現在は田辺地区の中の「睦会」という組織が中心となり、屋台運行における進行、交通、会計など、準備から運営までの祭礼行事を地区が一体となって支えています。毎年祭礼前に二週間程行われる太鼓練習には、田辺だけではなく九重地区全体からも二〇人程の子ども達が集まり、馬鹿囃子や三切りなどの太鼓や笛の練習に熱心に励んでいます。また自分達が使う太鼓のバチ作りは地元の大工さんの所に手伝いに行き、花折りもします。他にも屋台に飾る人形や子ども神輿を手作りするなど、地域の皆で助け合い支え合う精神が息づく、優しい温かな伝統を残しています。
 祭礼当日、地区内全域を所狭しと練り歩いていた神輿も屋台も、夕方には日枝神社前に戻ってきます。そこに祭礼日が同じでずっと交流の続くお隣の江田地区の屋台も合流し、夜八時頃には花火も打ち上げられ、いよいよ竹原地区の祭礼もクライマックスを迎えます。
 揃った神輿の白張、屋台の半纏、そしてピンクの鉢巻きで統一された祭りの情景が、華やかで一体感のある風情を醸し出し、高揚した神輿の担ぎ手と屋台からのお囃子の響きが賑やかに共鳴し合う、笑顔に溢れた自慢のお祭りです。


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館山市竹原 竹原(表面) 館山市竹原 竹原(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

神戸地区 洲宮

地域の自慢

 洲宮地区は市内から国道410号線の切割を少し過ぎた辺りから、国道を挟み、洲宮川が平砂浦に注ぐ辺り迄の細長い地域です。以前は、砂地を生かした「洲宮の西瓜」がブランドとして多く生産されていましたが、今は花栽培農家に変わってきました。
 毎年一月一日に行われる「御田植祭」、八月の例大祭、九月の安房国司祭への出祭、風雨の災いが少ない事への感謝する「風祝い」、十一月の新嘗祭や御狩祭など毎月なにかしらの行事が多く行われています。
 現社地や南方の山「魚尾山(兎尾山とも)」からは、古代祭祀遺跡と伺える土器が発掘され、その歴史の深さを物語っています。祭礼時に「御浜出神事」が挙行される明神山あたりは、大昔は山麓まで海が迫っていて、今もこのあたりの畑から貝殻などが出土されています。
 古代からの生活が育まれてきた歴史を感じる、100世帯ほどの人達が営む長閑な自慢の地域です。

自慢の神輿

黒の漆の屋根に輝く五七の桐紋
 洲宮区自慢の神輿は八月初旬の洲宮神社例大祭、九月中旬の安房国司祭(やわたんまち)に出祭しています。
 昭和五十年と平成十一年には、室町時代に創業してから十六代五百年続いたと言われる行徳の浅子神輿店にて大修理が行われました。
 神輿の屋根には五七の桐紋が輝き、美しい黒の漆で塗られた神輿本体と、垂木、斗組、彫刻にはられた金箔、鳥居、囲垣などは朱で彩られていて、木肌が全く見えないのが特徴のひとつです。
金箔と朱で彩られた鳥居や囲垣
 担ぎ棒はやや短めにして、小回りがきくように、また安全性も考慮しています。屋根の勾配がやや深く膨らみのある丸びを帯びていて、胴部分はしまった形で、スマートかつバランスの取れた美しい意匠となっている自慢の神輿です。

●屋根:延べ屋根 ●蕨手:普及型 ●造:漆塗り
●露盤:桝型 ●垂木:扇形 ●胴の造:二重勾欄
●舛組:五行三手 ●扉:四方扉 ●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型 ●台輪寸法:3尺4寸
●制作者/制作年:不明

洲宮神社

洲宮神社
館山市洲宮字茶畑九二一
●祭神 天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)
●宮司 朝倉良次
安房神社祭神の后神で、元の名は「洲ノ神(すさきのかみ)」。
例祭 八月十一日、九月十四日(鶴谷八幡宮に出祭)

明治15年に作られた、洲宮神社の祭神「后神天比理乃咩命」と書かれた神名の額。書いたのは当時の内務省内務大書記官の桜井能監。関東大震災の時に半分破損した。

◎由緒
 安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀っています。平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記載された格式高い式内大社。「式内大社」については、当社と同神である西岬の洲崎神社との間で長らく論争となっています。また、祭神が西岬の洲崎神社と同神であることから洲崎神社が拝所、当社が奥宮である二殿一社であるとも言われています。
 もとは県道をはさんで反対側の魚尾(トオ)山に鎮座していましたが、文永十年(一二七三年)の火災で焼失したため、現在地に移転したと言われています。
 社領は里見氏の時代に洲宮村に三石、洲崎村に4石を寄進され、江戸時代も幕府から洲宮村で七石を寄進されていました。
 境内出土の祭祀用土製模造品と洲宮神社縁起、南北朝時代の木造天部立像が市の文化財に指定されているほか、毎年一月一日に農耕神事として行われる御田植神事も市の無形文化財に指定されています。

自慢の祭

安房国司祭で鶴谷八幡宮に入祭する洲宮神社
 洲宮の神輿が出祭するのは、八月の洲宮神社例祭と九月に行われる安房地域最大の祭礼「やわたんまち」です。
 「やわたんまち」初日の出発は午前八時ごろ。安房神社の神輿を追い越してはならない習わしのため、神社前を通り過ぎるのを待ってから渡御します。その昔は、鶴谷八幡神社まで全て担いで行きましたが、現在は館山病院周辺までトラックで運び、そこから市内各所を回って鶴谷八幡神社へ向かいます。天狗を先頭にした安房神社が鶴谷八幡神社へ入ると、いよいよ洲宮の鶴谷八幡神社入祭です。二の鳥居から本殿まで一気に走り抜ける姿は観客を大いに盛り上げます。
 境内でもみさしを繰り返したのち、御仮屋に神輿を鎮座させ、その後は決められた御旅所である山崎勝平さん宅で休憩します。区の役員たちは宿泊し、「宮番」と呼ばれる神輿の見張りを行います。かつては「八手(やて)」と呼ばれる八人が神輿の管理や道中の休憩所の世話、そして宮番時の炊事などを全て担当していましたが、現在は役員自ら分担しています。
 二日目はすべての神事が終わった後、午後五時に安房神社の還御が始まり、二番目に洲宮神社が還御します。一晩休んだ担ぎ手は力を取り戻し、境内でのもみさしは祭り全体のクライマックスを導きます。その際、安房神社の担ぎ手数名が残り洲宮神社を手助けするという慣習が今も残っていて、洲宮神社の祭神と安房神社の祭神が夫婦であるということでこのような場面が見られるのも「やわたんまち 」の醍醐味です。
 八月に行われる洲宮神社例大祭では、神社を出発した神輿は、その昔の神社跡地と言われる「明神山」という小高い山に登って、浜降神事(お浜入り)を行います。「浜降神事だけは必ず行わなければならない」と古くから伝えられてきた大切な神事です。
 
明神山で行われる「浜降神事」


元旦に執り行われる「御田植え神事」
 洲宮神社の伝統的な神事として、昭和四十四年に館山市無形文化財に指定され、毎年一月一日に執り行われる「御田植え神事」があります。氏子の古老を「作男(さうでえ)」と定め、耕作の「牛」として地区内の新婚や既婚の男子を一人決め、拝殿前の広場で餅や籾、苗などを供え、竹製の鍬を置いて、 「月もよし 日もよし神の御田うない申す」 と作男が三回唱えると、子どもたちが竹製の鍬でうなう所作をするなど、千葉県内でも有数の神事です。
 伝統と仕来りに守られた神輿祭や御田植え神事は、洲宮に暮らす人々の心に生きる自慢の祭です。

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館山市神戸 洲宮(表面) 館山市神戸 洲宮(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

房州人は、なぜアバラが1本足りないの!?

「房州人はアバラが一本足りない」という言い回し、聞いたことありますか?
何気ない会話の中に、ポロっと登場したりすると何となくわかったような気がしつつ、
でもなんでアバラなの?  そんな風に過ごしてきた方も少なくはないでしょう。
実は館山市のマスコットキャラクター「ダッペエ」も、アバラ骨が一本ないのです!
これは館山人としては、ますます無視することはできませんね。
そこで、今回は「アバラが一本足りない」という言い回しの意味に迫ってみたいと思います。
館山市キャラクター「ダッペエ」
なんだか辞書を引いたらすぐに出てきそうなこのナゾ、ひとたびベールをめくってみれば南総の文化や風土と密接に関係していることがわかってきました―

(取材:東)

「アバラが一本足りない」 一般的にはどんな意味?

筆者は、さっそくこの言い回しについて、何らかの辞書的な定義はないものかとペラペラと関連図書を探りはじめました。しかし―、こんなによく耳にする言葉にも関わらず、ダイレクトな説明がどこにも見当たらないのです!
そこでまず一般的にはどのように使われているのかを地元の人に聞いてみました。

良い意味悪い意味

この調査でわかったことは、多くの人が、「良い」意味でも「悪い」意味でも状況に合わせてこの言い回しを自由に使っているということです。しかし、上に見られるとおり「~抜けている」という語感を房州人の気質と絡ませてうまく表現しているところは共通していて、なかなか両方とも的を射ているという意見も多く聞くことができました。大体上にあげたような性格が伝統的な房州人の性格なのかもしれませんね…!
とはいえ、これでは「なぜアバラ」なのかがわからないではありませんか!?
「本当に無かったりして??」なんてお腹を触ったそこのオチャメなあなた!折角ですからこの機会に大まかに説明できるようになってみましょう。

※房州人=安房(南房総)に住む人を指します。

(1)なぜ「アバラ」?

まずは、調査の原点ともなる「アバラ」の正体とはなにか、と的を絞りましたところ、この言い回しにそっくりなとある一節に出会いました。

房州船(者)かよ肋(アバラ)が足らぬ あばらどころか木(気)が足らぬ (「安房節」お座敷唄)

安房節記念碑

これは、旧安房郡の漁村で江戸末期の頃から唄われてきたとされる房州を代表する民謡「安房節」の一節です。安房節は、館山の布良・相浜地区の漁師の唄が発祥とされ、海で船員の士気を高めるために歌われたのが始まりと言われています。その後安房郡全体に広がるにつれて歌い手を変え、節を変えて伝わっていきました。そこで、ここでは誤解を避けるために、オリジナルの安房節を「正調安房節」、その後変化した安房節を「お座敷唄の安房節」として大きく分けたいと思います。今回取り上げたそっくりな一節は、お座敷唄の安房節であることに注意して下さい。コラム『房総のうた』より )
さて、この一節をみると「アバラ」が当時の船のアバラ(肋骨)であったことがわかります。船には竜骨、外板、甲板などの部位がありますが、内側の船を支える木を「肋骨」(あばら骨)といい、人体におけるアバラと同じような働きをしているそうです。つまり房州船には、当時アバラが足りなかった、そしてその船乗りの房州人も同じようにアバラがない上に気合も足りないのだとユニークに皮肉っているわけですね。

答え1

さて、早速ですが、この節とも非常に合致している言い伝えが千葉県の安房内房沿いにありました。この説は、様々な説がある中でもっともわかりやすく、多くの方に支持されているので、まず初めにご紹介します。

房州船に肋骨がなかったのは、内房の海が穏やかで肋骨がない船でもゆったり波に乗っていられることからきています。穏やかで温暖な地域である南房総では、そうした海にゆられて、気楽に暮らしていけるということから、「あばらどころか気が足らぬ」という後半の節が生まれたことも、つじつまが合いますね。
つまり、一つ目の答は、肋骨の足りない船でもゆっくり暮らしていける、という南房総の特徴から「房州人はアバラが一本足りない」という言い回しが登場したのでは、ということでした。これは、皆さんの使い方とも合致するのではないでしょうか??


しかし、少し調べてみると、疑問点が―。
それは次の点

房州船を含めた和船には、もともと肋骨がない

ということです。洋船と異なり、「和船」にはそもそも構造上アバラが一本もなかったという事実にはたと向き合うことになりました。
漁村で唄われた安房節ですから、歌い手が和船の構造を知らないはずがありません。つまり、房州船にはそもそもアバラがなかったのに、なぜあえてアバラが足りぬと歌ったのか、ということにひっかかってしまったのですね~。

これは謎だ!

ということで今回は、筆者と同じように立ち止まった方々向けに、調査によって得られた新たな仮説のような文脈(?)を紹介しようと思います。実に、この疑問をつきつめていくうちに、安房や東京湾の様々な歴史と絡み合った仮説となりましたので、なんとかついてきてくださいね~!

(2)房州船とは、歴史的高速船「押送船」ではないか?

安房節が生まれたころの歴史を調査してみますと、日本の船業界は大変革期を迎えていることがわかってきました。江戸末期といえば、ご存知「黒船来航」によってペリーが訪日したころとなります。日本は、江戸の平穏な日々から一転、明治維新による殖産興業や憲法制定によって近代化の道を超速急で歩み始めることとなりますね。
当時、船業界も例外なくその影響を受けていました。

1853年:ペリー来航⇒大船建造禁止令解禁(洋船への道が開かれる)
1870年:商船規則(洋船の持ち主を優遇する制度が作られる)

この二つの御触れを見ただけでも、建造される船の種類が西洋式に大きく変化していったことを物語っています。実際には洋船建造の技術力が発達していない日本ですので、洋船と和船が混在して東京湾を行き来していた時代が大正まで続いていたそうですが、かなりの勢いで洋船が流入してきていたことは間違いなさそうです。
それではそんな中、安房節に唄われる房州船とは、どんな船だったのか。

ペリーが来航した時の逸話が『ペリー提督日本遠征記』に残っています。
―ペリーが初めて久里浜に上陸するとき、案内役の浦賀奉行所のボート(押送船)の速力がはやく「その案内に遅れないようにするためには、わが逞しい漕ぎ手達を激励せねばならなかった」
ここで、ペリーがその速度を絶賛している船、押送船(おしょくりぶね)こそ安房で大活躍した船だったのです。押送船は、洋船よりも速かった! このことから、多くの和船が洋船に取って代わられる中、押送船だけは長い息で生き残ったのでした。

押送船についてもう少しみてみましょう。

押送船(模型)

押送船

(ア) 始まりは、戦国安房の覇者「里見氏」の水軍であり、海上交通に優れた房州人の背景がある。
(イ) 房州漁業は江戸前の新鮮な魚の大半を担っており、特にマグロは鮪延縄漁によって館山の布良地域がほぼ独占していた。
(ウ) 魚は鮮度が勝負。里見水軍仕込みの船乗りが危険を顧みず、速度の上昇に努めた。
(エ) 帆柱を三本立て、屈強男児7人で一斉に漕ぐという押送船が完成。当時陸路で4日かかった時間を、10時間に短縮した。

千葉の南端から日本橋まで、8~10時間で到着したというのですから、驚異的なスピードですよね。では、なぜそこまで速度を上げる必要があったかというと(イ)に記したマグロ漁が盛んだったからです。江戸末期から明治期にかけて、江戸前のマグロの大半が館山の布良から来ていたと言われています。今の価格で1本100万円はする本マグロが一週間に10本~20本と釣り上るわけですから、布良漁港の盛況ぶりは他に類をみないものでした。ただ―、その陰にはマグロ漁特有の危険と背中合わせで生活してきた漁師とその家族のドラマがあったのです。

コラム「布良星」

(3)安房節にこめられた房州女性のひた向きな思い

明治初期のマグロ漁というのは、俗にいうハイリスク・ハイリターンの典型的な職業でした。それは、一獲千金を狙う男たちの勇壮な夢でもあり、また裏では、還らぬ人の犠牲を伴う過酷な一面をも併せ持っていたのです。
マグロは、北の海で小魚をたっぷり食べて南へ帰る途中である11月から3月が最も美味しいと言われます。そのため築地や江戸前の実業家たちは、こぞってその時期のマグロを目指し、船のないものには資金を援助してまでマグロ漁を奨励しました。そのこともあって、なんと最盛期の布良には83隻のマグロ船が集結していたと言われます。
しかし、ちょうどこの11月から3月は、季節風の影響で海が荒れる時期です。港や町が賑わいを見せる反面、何百人もの船員が海にのまれて亡くなっていきました。そのこともあって、このマグロ船を別名「後家船」(ごけぶね)といいます。後に家を残す船、つまり妻子を残して永久に戻ってこない船、という意味をもっています。上のコラム「布良星」も合わせて、如何にマグロ漁が死と背中合わせになった職業であったかお分かり頂けるでしょう。

海女さん

問題は残された妻です。どんどん男が海にのまれていく様を目の当たりにしながらも、夫を港から送り出す房州女性、彼女達はどのような思いで生きていたのでしょうか。中嶋清一著『房州の民俗』(うらべ書房)をみてみましょう。

「古くからこの地方(布良)は、まぐろ漁業の根拠地で、出漁中、意外にも事故が多発したため、家庭を守る女房族が、出漁中の肉親の身を案じて、この唄(安房節)を歌ったともいわれる。」
「鉄道が完成するまでは、船が唯一の交通機関であった。房州の魚介類は、オショクリと呼ばれる和船で、江戸まで漕ぎ運んだものである。各浜で獲れた魚介類を、このオショクリの船着き場まで運ぶのが大変な仕事であった。カラカラと大八車を曳いて、二里、三里の山道を走りぬいてその船出に間に合わせたのが、カカア天下と言われる「房州女」であったという。ある時に上る月に向かって、またある時には、吹きすさぶ木枯にめげず、声を張り上げて、この安房節を唄って帰ったという」。(「安房節」から)
この文章は(2)の裏付けともなり、やはり当時の南房総では押送船(オショクリ)が活躍していたことが伺われます。布良で獲れたマグロは、大八車といわれる台車に乗って、館山の鏡ケ浦(現在の北条海岸)にある押送船まで運ばれました。その運び手となったのが、房州女性。危険をおかして獲ってきた夫のマグロを、雨の日も風の日も、引っ張って歩いたのです。
そして、道すがら歌われた唄がこの「安房節」であったと―
もう一度お座敷唄の安房節をみてみましょう。

「安房節」お座敷唄
・ハァ~ 房州館山 鏡ケ浦に 粋な安房節しゃ 主の声
チンチゲネヤ ソンソコダヨ 島の鳥が オロロンロン
・ハァ~ 沖じゃ寒かろ 着て行かにゃんせ わしが寝間着の 茶のどてら
チャンがもってきた いかなます オンダモチットばかり食ってべえかな
・ハァ~ 鮪とらせて 万祝着せて 詣りやりたい 高塚へ
キッタマッキの帆前船 上はデッキですべくるよ
・ハァ~ 房州船かよ あばらが足りぬ あばらどころか 木が足りぬ
キッタカマッキノ 帆前船 上はデッキですべくるよ アイヨー
・ハァ~ 沖の瀬の瀬の 瀬のあわび 海女が獲らなきゃ 瀬で果てる
ソダマキダヨ 杉葉だ つけぎ無ければ 火がつかぬ どうせおっだらはたきつけだ
・ハァ~ 港出る時 別れた袖が 沖の沖まで 気にかかる
八間間口の土蔵倉売ってもよいかかあ もたねば一生の損だよ ソウダソウダ
・ハァ~ 死んでしまおうか 縄船乗ろか 死ぬにゃましだよ 糸がよい
命とる虫や 変な虫だ 頭がのっぺらぼうで 髪がある 鉢巻している 青大将

こうして改めて読んでみると、なるほどという所がたくさん見つかりませんか?
初めに、「鏡ケ浦」が登場しますが、これは現在北条海岸のある館山湾の別称で、押送船が待機していた停船所です。房州女性によって、布良海岸から北条海岸まで、およそ10キロの道のりをマグロが運ばれました。「キッタカマッキノ帆前船」とありますが、まず「帆前船」とは西洋式の船を表しています。そして、「キッタカマッキノ」を「来たか末期の」と読み替えれば、つながりますよね。そうです、江戸末期から流入してきた外国船のことをいっています。続く3節からは直接、マグロ漁の厳しさ、夫を思う妻の思いが表れています。「詣りやりたい 高塚へ」の高塚とは「高塚不動尊」のことを指しており、房州女性は港で夫を送り出した後、無事を祈願しに参拝に行ったと伝えられています。それほど命がけの漁だったのですね。続く縄船とは延縄漁船の略語、つまりマグロ漁船です。
ただし、現実的な労苦を垣間見せる歌詞にも関わらず、実際の安房節は非常に前向きなメロディーとリズムで、和気あいあいと盛り上がる楽しい唄です。歌詞の内容について知るまでは、歌詞も明るい唄だろうと思ってしまうほど、今にも体を動かしたくなるリズムをもっています。折角なのでお座敷唄の安房節を一度聞いてみませんか?(上記歌詞のうち、3節と5節の録音)

安房節再生ボタン

どうでしょうか?みんなで手を合わせながら歌って踊っている姿が目に浮かびませんか。安房節がどのように歌われていたのかを知る今一つの文章を引用します。

「私が十二、三のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載にした大八車を、手ぬぐいで鉢巻した女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走ってきた。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く。そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底へ残っている」。(『房州のうた』小高さんの回想)

ここで歌われていたのが、正調安房節であったのか、お座敷唄の安房節であったのか、今となっては知る由もありませんが、海辺に響き渡る美しい歌声が聞こえてきそうですね。明治期の館山に住む子供たちにこうした印象を与え、年老いた後も思い出されるのですから、単なる唄を越えた人々の活気や強い溌剌とした生き様がほとばしっていたのではないかと想像されます。安房節は、いつ夫と離れ離れになるかわからない心境の中で、それでも「今」を楽しく生きる房州女性の強さやユーモア、そして肉親への深い愛情がこめられた唄だったのではないでしょうか。

答え2

さて、これまで一連の考察を共に追っていただいた読者の皆様、誠にありがとうございました。これまでの流れをまとめて、新しい仮説を提唱したいと思います!

(ⅰ)なぜアバラなの?

江戸末期から明治にかけて西洋式の船が急激に流入してきましたが、房州では押送船という最速の和船が活躍していました。安房節にて「帆前船」(西洋船)との対比で「房州船」が歌われているように、当時すでに房州にも西洋式の船が出入りしていたようですが、その大きな違いは「アバラがないこと」だったのです。今でも和船と洋船の構造の違いとして肋骨がないことが大きなポイントとなっています。

(ⅱ)「房州人はアバラが~」は、房州女性の強さと前向きな生き様の表れ?

上述しましたように、この言い回しを含む安房節は、房州女性の、夫への思いが強く込められた唄です。夫はいつ死ぬかわからない、だから女は一人で生きていけるように働かねばならない。実際に明治期の房州女性は、半農半漁の生活といって、農業もやるし海女の仕事もするといった働きぶりだったようで、男の収入に頼らずとも生活できたと言われます。こんなことから「カカァ天下の房州女」などと呼ばれるようになったのかもしれませんね。
この安房節は、その後形を変えて安房郡中に広がることになります。この唄のイメージが何か南房総人の気質とフィットしたのでしょう。もちろん現代人のイメージとして挙げられた「温厚や天然気質」または「ぶっきら棒で抜けている」という性格も、安房節のリズムと結びつくはず。しかし、特筆すべきは、苦しみや不安を歌い飛ばし「今」を楽しむ房州風土ではないでしょうか? 明日何が起こるかわからない、だけどそんなに不安がっても楽しくないじゃないか、そんなら歌って笑うっぺ、といった気持ちが伝わってきます。そのため筆者は今回「アバラが一本足りない」の意味に

「前向きで、クヨクヨしない房州人」

を提案したいと思います。みんなで助け合いながら歌い合って、「今」を生き抜いた房州女性、海岸沿いの力強い足取りの裏側には、アバラが一本抜けてしまうほどの肉親への愛情があったことを忘れてはなりませんね!


募集!

今回の謎となった「アバラが一本足りない」という言い回しの意味や、それにかかわる南房総の歴史の中で、調査にかかわる新たな情報を知っている方、是非ご一報ください。検討を重ねて認められた場合には、このwebページにあなたの新説を載せることも!? ドシドシご応募ください。

紹介!

「押送船」
この謎に登場した高速船「オショクリブネ」ですが、実物の模型を館山市博物館分館で見ることができます。東京湾を駆け抜け、江戸の食卓を支えたこの船を一度見に行ってみてはいかがでしょうか。

【館山市博物館分館】
〒294-0036 館山市館山1564-1
電話 0470-24-2402  FAX 0470-24-2404



「安房節記念碑」
記念碑館山市相浜には、マグロ漁にて命を落とした多くの方の勇姿や生き様を後世に残すために、平成5年1月に安房節記念碑が建てられました。安房節は、今回の謎でもそうであったように、明治期の安房人の文化や気風を多く伝える大切な文化財です。みんなで安房節を守っていきましょう 。

コラム「房総のうた」

安房節は…「野趣にみち、間の長い荒げ刷りな感じだが、どこか哀愁を漂わせている。しかも、囃子がどの歌も違い、方言や地名が入っている点が特色だ。安房節を研究している日本交通常務の松尾譲治さんは、「…安房節は富崎、相浜、布良、神戸、館山、船形など限られた地域で歌われたものだが、館山より相浜、布良あたりの方が、男っぽく漁師の歌らしい。現在では漁師、芸者、民謡の先生とそれぞれ節回しが違う」と話す。」 この指摘に見られる通り、安房節は広がるにつれて、地域ごと歌い手ごとに独自性をもった唄となっている。
『房総のうた』p21 朝日新聞千葉支局 未来社1983年

コラム「布良星」

布良星ギリシャでは「カノープス」、中国では「南極老人星」と呼ばれている星を、日本では「布良星」といいます。
マグロ漁が盛んだった布良では、多くの方が海で命を落としました。そこで、真南の水平線上に、たまに赤く見えるこの星は、漁師の魂が漂ったものだとの言い伝えが広まり、布良星と言われるようになったとのことです。
(写真提供:浦辺 守さん)

赤いピン=記事で紹介した周辺の見どころ


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なぜ伊豆大島は近くて遠いの?

 

館山から西南西に40キロ。
沖合に浮かぶ大きな島、それが伊豆大島です。
洲崎から布良にかけての海岸線からくっきりと見えるこの島ですが、
どういう訳か館山とはあまり交流が盛んではないようです。
なぜでしょうか?
毎年花の季節にだけ運航される館山からのジェット船。
今回はこの近くて遠い島、伊豆大島のことをおもいきり紹介しちゃいましょう!

(2012/02掲載:K)

「三原山」と「椿」、伊豆大島を知っていますか?

まず、伊豆大島について少々お勉強を。ただ「大島」と呼ばれることも多いこの島ですが、日本各地に点在するたくさんの「大島」と区別するため、正式名称は「伊豆大島」となっています。現在も活動中の活火山、三原山を島の中央にいだき、くさやの干物やツバキ、アシタバなどの特産品が有名です。縄文時代から人が住んでいたという痕跡が残っており、古くは『日本書紀』にも登場。歴史ある島であることは間違いありません。
鎌倉時代以降は流刑地としての歴史が続きます。いわゆる島流しですね。戦に敗れた源為朝や赤穂浪士の遺族たちなど、歴史上の偉人やその家族たちも数多くこの地に流されています。この流刑地としての歴史は、江戸時代後期まで続きました。

近代になってからは、文化面でもたびたび脚光を浴びることになります。たとえば波浮港(はぶみなと)は野口雨情作詞・中山晋平作曲の『波浮の港』で一躍有名になったほか、川端康成の名作『伊豆の踊子』に登場する旅芸人一座のモデルが、当時この港にあった「港屋旅館」に滞在していたことでも知られています。この旧港屋旅館は資料館として残されており、旅芸人一座の滞在当時の様子を再現した人形や、そのほかの関連資料が展示されています。

コラム「2分でわかる『伊豆の踊子』」

また、かの名曲『アンコ椿は恋の花』の舞台もこの伊豆大島です。ちなみに「あんこ」とは目上の女性に対する敬称のこと。お姉さんを意味する「姉っこ」がなまったものだとされています。椿は島の特産品で、春の椿祭りが有名なだけでなく、椿油の産地としても知られています。
ところで、伊豆大島はどの都道府県に属するかご存知でしょうか? 伊豆七島というくらいですから伊豆=静岡とお思いの方も多いでしょうが、正解は東京都です。江戸時代には伊豆国に属しており、明治の廃藩置県の際には韮山県の管轄に。その後の府県統合で明治4年に足柄県、同9年には静岡県の管轄になります。それが明治11年には東京府に移管されました。その理由としては、お金のかかる離島の統治は静岡県には荷が重く、財政的に余裕があった東京都が引き受けることになったという話もあります。現在では八丈島や御蔵島を含む伊豆諸島のほか、小笠原諸島までもが東京都になっています。

そんなこともあり、伊豆大島を走る自動車は品川ナンバー。島ののどかな風景のなかに都会を象徴するかのような品川ナンバーがずらっと並びます。ちょっとおかしな感じがしますね。

コラム「椿とくさや 島を支える名産品たち」

おこりんぼうの神様、島の歴史は噴火の歴史


伊豆大島の歴史を語る際に避けては通れないのが火山です。三原山は現在も活動を続ける活火山であり、歴史的に見ても大きな噴火を何度も経験しています。噴火の際に吹き上がる火柱は「御神火様」として信仰の対象となっているほど。そもそも島の中央にある三原山自体が1777年の安永噴火で誕生した山で、全島避難となった昭和61年(1986)の大噴火は記憶に新しい人も多いでしょう。この時には館山からも赤い溶岩がよく見え、風向きによっては火山灰が飛んでくることもあったそうです。

これまでほぼ35年以内おきに大きな噴火が起こっていますが、今のところ火山活動は落ち着いており、三原山噴火口は絶景のトレッキングコースとして親しまれています。また、島には世界でも珍しい火山博物館があり、島の火山活動の歴史や噴火のメカニズムなどをわかりやすく紹介しています。
車を走らせていると、山も海岸線も安房地域の景観とは全く異なることに気づきます。この景観を見るだけでも、島を訪れる価値はありそうです。

コラム「火山活動は毎日チェック!」

館山と伊豆大島、交流の歴史を探ってみる

さてこの伊豆大島、安房地域との関わりはどれほどあるのでしょう? 後で詳しく紹介しますが、館山と伊豆大島の定期航路の運航が始まったのは平成18年2月。それまでは公共交通機関では直接行き来できなかったことになります。ただし、漁師など海を自由に行き来できる人たちの往来は少なからずあったはずです。そこで、館山と伊豆大島、思いつくままに比較してみました。

方言は?
伊豆大島の方言は北部伊豆諸島の方言とされるもので、どちらかというと伊豆方言に近いものだそう。安房方言とは似ても似つきません。料理は?
伊豆大島には同じ伊豆諸島の八丈島発祥とされる「島寿司」に似た「べっこう寿司」というものがあります。これはメダイなどの白身魚のヅケを握ったもので、辛みは青とうがらし。江戸前の流れをくむ館山の房州鮨とはまるで違うものです。干物についても大島の「くさや」は何年も使い続けている「くさや液」に漬け込みますが、これは安房地域には見られない製法です。どうやら食文化の交流はあまりなかったようです。祭りは?
館山では地区ごとの神社が神輿や山車をもち、夏は祭り一色になりますが、伊豆大島ではこのような習慣は見られません。毎年春の椿まつりでは「江戸みこし」という催しがありますが、これらの神輿は東京から運んできたもの。担ぎ手も島以外の人が多く、どちらかというと観光神輿といってもいいでしょう。また、安房地域で見られる「かっこ舞」のような雨乞いの祭りも見られません。

いかがです? 残念ながら類似性はあまり見つけることができませんでした。これだけ類似点がないということは、少なくとも双方の文化が成立する過程においては密な交流はなかったのでしょう。また、婚姻などについても、安房から大島へ、あるいは大島から安房に嫁いだという話はほとんど例がないようです。
理由のひとつは、間に横たわる海峡が海の難所だったということも考えられます。とはいえ、江戸時代後半になると伊豆大島から江戸に向けて魚を運ぶ押送船が走っていたので、漁師さんたちにとっては安房と大島の往来はお手のものだったはずです。漁師さんレベルでの交流はあったものの、文化の伝播にまでは至らなかったということでしょうか。今も昔も海で隔てられているというのは、我々が思う以上に往来が大変だということでしょう。

コラム「安房と大島 曲亭馬琴の2つの名作」

季節限定の直行便! 船が文化のかけ橋に?

さて、この近くて遠い伊豆大島ですが、毎年春の時期だけ館山からジェット船でアクセスできるようになります。正確にいうと、東京と伊豆大島を結ぶ船が館山に立ち寄り、さらには伊豆半島の下田へ向かいます。館山から伊豆大島まではわずか55分。日帰りも十分に可能な距離ですね。
館山~伊豆大島~下田を結ぶこのラインは別名「海のフラワーライン」。いずれの町も「ひと足早い春」が自慢の温暖な気候で、館山のポピーや菜の花、伊豆大島の椿、下田周辺の河津桜と、趣の異なる春の花めぐりを楽しめるというわけです。

東海汽船の航路図
 都心からなら館山と伊豆大島を組み合わせた1泊2日プランも十分可能ですし、2泊3日で下田も組み入れることも可能です。館山からでも、ちょっと忙しくなりますが、1泊2日で伊豆大島と下田を巡るスケジュールだって組めそうです。春に限っていえば「近い島」と言ってもよさそうですね。
この季節にはジェット船の運航会社である東海汽船をはじめ、旅行会社各社が海のフラワーワインを使ったツアーを企画しています。高速船の運航は4月1日までですので、興味のある方はお早目に旅行プランを練っちゃいましょう。ひょっとしたら、伊豆大島と館山の文化の意外な共通点なんかも見つけることができるかもしれませんね。

コラム「ジェット船はこうやって走ります!」

東海汽船のホームページへ

伊豆大島のみどころはこちら!

最後になりましたが伊豆大島のみどころを紹介しておきます。どうです、館山に劣らず魅力的な島だと思いませんか?

三原山

島の中央に位置する標高758mの活火山。平成10年(1998)5月に噴火口を一周する「おはち巡りコース」が開通し、ここから見る深さ200mの噴火口は圧巻です。三原山頂口から噴火口までは、徒歩45分~60分ほど。お鉢めぐりは45分ほどかかります。


都立大島公園

東京ドーム1.5倍の園内に8700本ものツバキが咲き誇る国内最大規模の椿の公園。海側の海岸遊歩道からは房総半島も一望。65種の動物を飼育する動物園では伊豆諸島に生息するキョンなどを見ることができます。椿のさまざまな用途を斬新な展示で紹介する椿資料館も併設。


波浮港(はぶみなと)

かつては遠洋漁業の中継地として栄え、旅館前の町並みは情緒たっぷり。
見晴台からは港の風景を一望でき、『伊豆の踊子』の主人公たちのモデルとなった旅芸人一座が
実際に滞在していた港屋旅館は、資料館として公開されています。


郷土資料館

大島の自然や文化を300点ほどの貴重な資料で紹介。海との関わり、火山活動、土器・石器、民家と民具など幅広く、付近には当時の暮らしを再現した古民家もあります。


ふるさと体験館

椿油搾り体験、草木染め体験、あした葉摘み取り体験など、大島の自然や文化の体験施設。一番人気は椿油の搾油。種をつぶす、蒸す、絞るの各工程を順に体験できます。田舎ならではのゆとりある休日を楽しめます。


火山博物館

世界でも数少ない火山専門の博物館。三原山はもちろん、
日本や世界の他の火山についてさまざまな展示で解説。大島の自然風土を映像で紹介するコーナーもあります。


椿花ガーデン・リス村

広大な敷地に椿の花が咲き乱れる椿園。リスやウサギの餌やり体験では、
体にまとわりつく愛らしいリスたちと戯れることができます。芝生広場からは伊豆方面の眺望が抜群。


筆島

海上から30mほど突き出した筆のような形の岩山。200万年ほど前の火山活動で、溶岩が冷えて固まったものだとされています。周辺はサーフスポットとしても人気。


地層切断面

高さ30m、幅600mもあるむき出しの地層面。度重なる噴火による堆積物が造り上げた自然の造形美で、地元では「バウムクーヘン」とも呼ばれています。そのダイナミックな景観は世界中の火山研究家たちにも広く知られています。


コラム「椿とくさや 島を支える名産品たち」

伊豆大島の名産品としては筆頭にあげられるのは「椿油」でしょうか。椿の実の中の黒い種を搾ったもので、食用に使われるほか、歴史的には平安時代から黒髪の手入れに使われていたという記録があります。また、最近では優れた保湿力から化粧品としても注目を浴びています。体にやさしい天然油で、皮膚にしっとりと馴染みます。
 食べもので有名なのは「くさやの干物」です。これはくさや液」に漬け込んだ生魚を干したもので、独特のにおいが特徴です。「くさや液」は各店秘伝のもので、店によっては数百年前から続く液に塩を足しながら伝統の味を守り続けています。魚はムロアジやトビウオなどが使われています。
また、手軽なおみやげには牛乳せんべいはいかがでしょう。伊豆大島はかっては良質なバターの生産地として知られるほど牛乳の生産が盛んでした。消費しきれない牛乳の有効利用として始まったという牛乳せんべい。素朴な味わいが人気です。
いずれも島内の土産店で買うことができます。ぜひ郷土の物産をお試しください。※2012年7月追記
読者より、「牛乳せんべいは大正の中頃、昭和天皇が御来島なさるのに献上するために発案されたもの」との情報をお寄せいただきました。

コラム「2分でわかる『伊豆の踊子』」

 ノーベル文学賞作家、川端康成の自伝的小説。これまでに何度もテレビドラマや映画の題材としても取り上げられているので、ご存じの方も多いと思います。
孤独感を抱える第一高等学校の学生(私)は伊豆への一人旅に出かけ、天城越えの途中、峠の茶屋で出会った旅芸人の一行と出会います。学生は道中何度も顔を合わせることになった旅芸人たちと次第に言葉を交わすようになり、彼らとの交流のなかで14歳の薫という踊子に次第に心魅かれていきます。結局「私」のお金の都合により、下田で別れ別れになってしまいますが、あどけない少女へと寄せる淡い恋心が、せつなく伝わってきます。
物語の中には伊豆の名所が次々に登場し、それらの舞台は観光名所にもなっています。学生にもう少しお金があれば旅芸人たちと一緒に伊豆大島に来ることになっており、そうすると伊豆大島にも「名作の舞台」がいくつか増えていたに違いありません。

コラム「火山活動は毎日チェック!」

 これまでに何度も大きな噴火を経験している大島では、火山活動の動向は日常生活に想像以上に深く関わっています。
まず、天気予報ならぬ噴火予報。これは噴火災害軽減のために気象庁が発表しているもので、平成19年(2007)から始まりました。また、三原山を含む活火山の活動状況は噴火警戒レベルで表示され、1(平常)~5(避難)まで5段階表示。現在の三原山は警戒レベル1。「火山活動は静穏」ですので、火口近くへの登山なども許されています。
当然といえば当然なのですが、島民の噴火への意識は相当高く、1986年の噴火の際には、避難勧告が出る以前にかなりの世帯が避難所へと向かったそうです。

コラム「安房と大島 曲亭馬琴の2つの名作」

 江戸時代の戯作者、曲亭馬琴の傑作として知られる『南総里見八犬伝』は、館山では知らない人はいないほどの人気の作品です。じつはこの曲亭馬琴、伊豆大島を舞台にした作品も残しているのです。タイトルは『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』。『南総里見八犬伝』の少し前に発行されており、これも馬琴の代表作のひとつに数えられています。
題材となったのは、大島に流された源為朝(みなもとのためとも)の物語。大島に流されたあと琉球に渡り、初代琉球王舜天(しゅんてん)になるまでの話が、壮大なスケールで描かれています。馬琴の出世作ともなったこの作品。当時は『南総里見八犬伝』よりも人気があったとも伝えられています。大島と安房の国、意外なところで共通点を見つけることができました。

コラム「ジェット船はこうやって走ります!」

館山と伊豆大島をわずか55分で結ぶジェット船。ほかの船とどう違うんでしょうか?
ジェット船は「水中翼船」と呼ばれるもので、文字通り水中に翼をもつ船です。推進力はスクリューではなくジェットエンジン。後方に海水を吹き出すことで高速での移動を可能にしています。
図のように停泊時と低速度時は通常の船と同じく海に浮かんだ状態。水中翼は前方の海上に出ています。速度を上げるにつれて水中翼は海中に沈み、やがて離水。船体は完全に海面から離れ、快適な翼走状態に入ります。こうなると非常に安定していて揺れはほとんど感じないほどです。これなら船酔いに弱い方も安心ですね。ただし、低速度時はほかの船と同じように揺れます。船に弱い方は最後に乗船し最初に下船するなど、できるだけ船の中にいる時間を少なくするといいでしょう。
ジェット船には飛行機と同じような座席が付いていて全席指定席です。もし窓側の席に座ることができたら、出航後船が水を切るときにできる白い泡に注目してみてください。最初は船の前の方で水を切っていますが、徐々に後ろに下がり、やがて見えなくなります。それが離水の瞬間です。ふわっと浮き上がる感覚こそありませんが、なかなか珍しい体験といえるでしょう。

(資料提供:(株)東海汽船)

なぜ館山には移住者が多いの?

都会暮らしの閉塞感もあってか、
田舎暮らしを希望する人が急激に増えているそうです。
都心を離れ、海や山など自然豊かな土地を目指す、
その移住先として館山が注目されているのです。
かくいう筆者も最近移住してきた者の一人。
なぜ館山はこんなに人気があるのでしょう?
移住者の声から人気の秘密を探ってみました。

(2012/04掲載:K)

移住者は館山を目指す!

少し古い話になりますが、「田舎暮らし」という言葉がメディアを賑わせるようになったのは、1990年代だったように思います。未曾有の好景気に包まれ、大量生産、大量消費がよしとされる風潮が延々と続きました。世に言うバブル時代。ご存知のとおり、その時代は泡がはじけるように突然消え去り、不景気の時代へと突入したわけです。人々はここで「お金」を追い求め続ける張り詰めた生活を見直し、「ゆとり」ある生活を目指しました。これが田舎暮らしブームの始まりです。
ここで少し「移住」と「引っ越し」の違いについて考えてみましょう。辞書を引くと「移住」とは「他の土地へ移り住むこと」。移住と引っ越しの境界線はきわめて曖昧なのですが、ここでは「都会から田舎への引っ越し」、それも仕事の都合や短期的な滞在ではなく、あくまでも自分の意志で、ある程度の覚悟をもって居を移すこととさせていただきます。つまり、移住者とは都会から田舎へ覚悟をもって引っ越しした人、ということになります。
そうした場合の移住先として、館山はかなりの人気があるようです。まずは館山に移住した皆さんに話をお聞きして、館山のどこに魅かれたのかを探ってみることにします。

中屋勝義さんの場合

中屋勝義さん

東京で会社を経営していた中屋さんは釣り好きが高じてリタイヤを機に館山に移住。館山を選んだのは父親の縁があったから。東京の家は売り払い、館山市内の八幡神社近くに家を購入しました。移住当初は毎日のように釣りに出かけていましたが、なぜか数年で興味をなくしてしまったといいます。
次にのめり込んだのが農業。1年間ほど農業団体が主催する講習会に参加して技術を学び、自宅から少し離れた場所に畑を借りました。自然農法による野菜作りを目指し最終的には150坪ほどの畑で40種ほどの野菜を育てていました。作物は朝市などで販売していましたが、手仕事での畑はこの広さが限度。商業的にやるには規模を拡大したうえでの機械化が必要になりますが、そこまでの覚悟ができなかったこともあり、農業は6年間ほどでやめてしまいました。そのころ始めたのがイラストです。最初は朝日を浴びる蜘蛛の巣や、害虫の絵を書いていたそうです。
畑をやめてからは博物館の仕事を手伝うようになります。神社やお寺のイラストを描いたところ評判になり、これまでに神社やお寺のほか、祭りや山車、神輿、さらには館山に残る戦争遺跡など多くの作品を描きました。移住してから開花したイラストの才能。今後はこれらの作品を出版する計画のほか、ガイドサービスや体験施設の運営などの構想をもっており、着々と準備を進めていらっしゃいます。ここ館山での第2の人生はまだまだ忙しくなりそうです。

亀谷美紀さんの場合

亀谷美紀さん

ミキティの愛称で親しまれる亀谷さんと南房総との出会いは20年以上も昔。白浜にあるリゾートホテルへ、夏のアルバイトに訪れたのがきっかけでした。白浜の海と太陽とホテルのスタッフたちが気に入り、それから毎年、夏になると白浜を訪れるようになります。8年目からは正月も来るようになり、夏と冬の季節アルバイトの白浜通いは14年ほどになりました。館山通いと並行して、稚内、石垣島、伊勢志摩などのリゾートホテルで働いたこともあり、生活のために渡米した経験もあります。
それから白浜に移住することになるのですが、きっかけは些細なことでした。地元広島で体調を崩し、気持ちが塞いでいたときに頭に浮かんだのが白浜の海だったのです。季節ごとに通うのではなく本格的に白浜に住むことを思い立ち、社員になることを勧めてくれていた上司に電話。就職の話はすぐにまとまり、白浜に越してきました。幸いにも、住む場所、仕事、気の合う友人など、移住に必要な要素は最初からすべて満たされていたそうです。移住について、この地域の魅力についての問いに次のように答えてくれました。
「私の場合、移住は何の気負いもなく進んだので本当に幸運でした。館山を含めた南房総地域はうまく言えないけど、ラクに呼吸ができる場所と言ったらいいかな。海と太陽が身近に感じられる場所、そして住む人の心が温かい場所。そんな場所だと思います。」
長年勤めたホテルは昨年退職し、今は新しい生活に向けての準備期間中だそう。「人の心に土足で入り込むのが得意」と友人に軽口を叩かれるほど社交的なミキティのこと。今後もこれまで以上に館山の生活を満喫してくれそうです。

山崎さんご夫妻の場合

山崎誠さん、民さん、健太郎君

昨年7月に東京から一家で越してこられた山崎さんご夫妻。館山市南端近くにある相浜という集落でパン屋を営んでいます。ご夫妻はいずれも両親の仕事などの関係で日本各地に住んだ経験があり、移住先はかなり広範囲に探したといいます。鴨川や小豆島なども候補に挙がっており、共通しているのは暖かい土地であることと行政などの移住相談窓口があること。最終的に館山に決めたのは、地域に溶け込んでいる先輩移住者の生活ぶりを実際に目にすることができたのが大きかったそうです。移住先を館山に絞ってから家探しを始めましたが、パン屋を開くために改装できる賃貸物件はなかなかみつからず、2年間ほど費やしたのちに中古住宅を購入。一部を改装し昨年11月に「富崎ベーカリー」をオープンしました。移住を考え始めた当初、誠さんは就農を目指していましたが、自家製酵母を研究しているうちにパン作りが面白くなり、結局ご夫妻でパン屋をきりもりすることになりました。
館山での暮らしは東京でのそれとは180度違うもの。夜の暗さと静けさは東京では考えられなかったことで、魚や野菜などをいただく機会が多いことから食費は大幅に減ったといいます。移住前は地域に溶け込めるかどうかが心配でしたが、そんな不安はすぐに吹き飛びました。今では知り合いも増え、すっかり地域に溶け込んでいる様子です。「地域の人に子育てしていただいている感じ」という民さん。「皆さん何かと気にかけてくれるので、居心地はいいです」とは誠さん。パン屋の売り上げも順調に伸びているそうで、新生活の滑り出しはまずまずといえそうです。
明るい人柄のご夫婦と健太郎君の3人暮らし。館山の生活はまだ始まったばかりですが、海辺での田舎暮らしを存分に楽しんでいるようです。
(富崎ベーカリーの詳細情報は記事の最後に掲載しています)

東洋平さんの場合

東洋平さん

たてやまGENKIナビ地域レポーターとして活躍する東さんも移住者の一人です。学生時代から音楽活動を続けていた東さんの移住は、レコーディングのために館山に通ったのがきっかけでした。館山の人や自然に触れるうちにこの土地を気に入り、軽い気持ちで移住を決めたそう。音楽を学びたいということもあって、卒業後すぐに友人と2人で館山に越してきました。広い一軒家をシェアして始まった館山の暮らし。音楽も学びつつ、草刈りや民宿の手伝いなどさまざまなアルバイトを経験することになります。切り詰めれば月8万円ぐらいの収入があれば暮らせたそうで、半年間ほどアルバイトで食いつなぐ「その日暮らし」を楽しみました。
地域レポーターとしての仕事がみつかったのは「かなり幸運だった」という東さんは、館山での暮らしをどう感じているのでしょう。
「自然は豊かだし、地元の人たちもみんな温かい。住むには最高の場所だと思います。若者世代の移住は、家族での移住に比べるとハードルが低く、軽い気持ちで越してくることも可能です。就職事情は厳しいですが、アルバイトはたくさんあるので、生活するだけならそれほど困ることもないでしょう。まずはアルバイトをしながらじっくりと職を探すのも一つの方法かもしれません。」
一方で、仕事を与えてもらうのではなく自分で作りだす必要性も感じており、特に農業分野での可能性にも注目しているそう。将来的には社会起業家を目指すという東さん。今後も地元のイベントに積極的に関わるなど、地域の役に立つ仕事を続けていきたいと話します。

豊かな自然と利便性、館山はそのバランスが絶妙

移住者が話す館山の魅力にはいくつかの共通点があります。豊かな自然があること以外でまず目につくのが「利便性」です。
館山市は人口5万人足らずの町。房総半島の南端近くにあり、悪くいえば「どんづまり」の場所にあります。とはいえ、かつては地域の中心的役割を担っていた時代もあったほどで、駅周辺や館山バイパス沿いには商業施設が並び、近隣からも多くの人が買い物に訪れています。いわば、現在も商業的には南房総地域の中心的役割を果たしているといってもいいでしょう。ある程度の買い物は館山市内でこと足りますので、それは大きなポイントのひとつといえそうです。
次に東京との距離が挙げられます。館山に移住した人の多くは東京を中心とした首都圏を拠点に生活していた人たち。親兄弟、親戚、友人たちの多くは首都圏に住んでいるので、あまり首都圏から離れすぎると行き来が大変になってしまいます。館山から首都圏へはJRのほか、高速バスが東京駅、横浜駅などを結んでいます。東京駅までは最短でわずか1時間30分。昼間は2時間以上かかることもありますが、日帰りの往復はもちろん、毎日の通勤だって無理すればできない距離ではありません。

それでいて、少し街を離れれば豊かな自然が残っています。西と南を囲む海は澄んでいて、昔ながらの里山の風景もあちこちに見られます。都心との距離と自然の豊かさ。そのバランスが絶妙に噛み合っているのが、館山の最大の魅力なのでしょう。
豊かな自然とはいえ、山はそれほど深くなく、海は見た目の美しさでは南の島のサンゴ礁の海にはかないません。街も日常生活に不便を感じることはなくても、都会の品揃えには到底及びません。ともすれば「中途半端」とも言えますが、この間口の広さ、懐の深さは他の土地にはない魅力です。そういう意味では「田舎暮らしの初心者向き」の土地といえるかもしれません。

幅広い年齢層に支持される土地

鏡ヶ浦の夕景

ひとことで「移住者」といっても大きく分けると3つのタイプに分けられます。まず第1に定年退職後の第2の人生を田舎で過ごそうとする人たち。都心で働く人のなかには老後は田舎でのんびり暮らしたいという人がかなりの割合でいらっしゃいます。都心との2拠点生活をされる方も多く、共通していえるのは経済的には比較的ゆとりがあるということ。生活費は貯蓄や年金などで賄えるので、館山には働く場所を求めてはいません。家庭菜園や釣り、ゴルフなどの趣味三昧の生活を送ることができ、少し文化的な生活が恋しくなったら時々都心に出る。そんな生活で日々楽しく過ごしていらっしゃる方が多いようです。
次に子育て世代の移住者。子供は未就学児や小学校の低学年のうちに移住する人が多いようです。彼らは生活の重きを「教育」に置いている場合が多いのですが、彼らの求める教育とは子供たちをガチガチの受験戦争に放り込むことではなく、豊かな自然のなかで子供らしい感性を養わせるということ。田舎で育った子供たちは、こと学力に関しては都会で塾通いの毎日を送る子供にはかなわないかもしれません。それでも自然を身近に感じながら育つことで、学力だけではない何かが養われるはずです。
そしてもう一つのグループが若者たち。釣りやサーフィンなど趣味が高じて移住する人もいれば、農的生活に憧れてこの地を目指す場合もあります。共通して言えるのはフットワークの軽さと「この土地で何か新しいことをしたい」という思い。都心で安定した収入を得ること以上に、この土地がもつ何かを感じ取っているのでしょう。若い彼らのパワーが、館山に少なからずの影響を与えているのは間違いないようです。

移住を支援します! NPO法人「おせっ会」

おせっ会理事長 八代健正さん

このように移住者に人気のある館山ですが、この街に移住した人たちの多くがお世話になっているのが移住支援団体「おせっ会」です。行政とも連携しつつ「空き家バンク」を立ち上げたり「移住体感ツアー」を実施するなどその活動は精力的。また、常時移住相談にも応じており、館山への移住を考える人たちにさまざまな情報を提供するとともに、多くの人たちを迎え入れてきました。まさに、縁の下の力持ち的存在といってもいいでしょう。今回は理事長である八代健正さんに、館山の移住の現状をお聞きしました。
そもそもこの活動を始めたのは「このままでは館山はダメになる」との思いからだったそう。他の地方都市同様ここ館山でも少子高齢化が進んでおり、特にかつての漁村地域においてはこのまま放っておくと数十年後には地域ごと消滅してしまいそうな状況です。それを打破するには子育て世代を呼び込むこと。それによって「年齢のバランスが取れたコミュニティが復活するはず」とおっしゃいます。最初は個人的に活動していましたが、商工会議所青年部の会合で話したところ思いのほか反響があり、2009年にNPO法人として発足しました。現在は理事16名、会員数70名ほどで運営されています。

圧倒的に多いのが子育て世代、最近は若者の相談も増加

「おせっ会」はこれまで多くの人たちの移住相談を受けてきましたが、圧倒的に多いのが子育て世代からの相談だといいます。移住を考える際に一番考えなくてはならないのは「住居」と「仕事」、さらに子育て世代だとこれに「教育」が加わります。子育て世代は、他のどの世代よりも考えなくてはならないことが多いこともあり、誰かに相談する必要性が高いのでしょう。
それが最近、特に3.11の後は未婚の若者からの相談が増えたといいます。あの大参事によってそれまでの価値観がどこかで崩れ去り、生活スタイルを見直すきっかけになったのかもしれません。移住への思いを語る彼らは一様に「何かをしたい」という希望に満ちているそう。リーマンショック直後は経済的に都会で生活できなくなった人からの相談が一時的に増えたこともありましたが、その現象とは一線を画しているようです。
この活動をしていていちばん嬉しいのは、移住してきた人たちが楽しく生活している姿を見ること。いちばん悲しいのは、彼らの辛そうな姿を見ることという八代さん。これまで移住してきた人たちのなかにも、地域とうまくいかなかったり、経済的に立ち行かなくなったりで移住そのものを断念した例が少なからずあるそうです。そんなこともあって、現在「おせっ会」ではすべての移住希望者に「計画シート」を記入していただくことにしています。これによって「移住後のライフスタイルをイメージすることができ、移住の是非の判断材料になると同時に自分たちの覚悟のほどを再確認できる」といいます。

超えるべきハードルの数々、移住を手放しで喜べない事実も

移住相談を受けて感じるのは、多くの方が間違った印象をもってらっしゃるということだそう。例をいくつか紹介してみましょう。
まず多いのは生活費について。田舎暮らしは生活費が劇的に安くなるというイメージが強いようですが、実際に安くなるのは住居費のみ。野菜や魚などをいただく機会が増えると食費も多少抑えられますが、日用品の値段や水道光熱費はむしろ都会よりも高い場合もあります。
また、都会の生活は経済的に苦しいが田舎ならなんとかなると思っている人も多いようです。これも大きな間違いで、仕事は圧倒的に都会の方が多く、収入面では都会には到底及びません。これは館山出身の若者が仕事の都合でやむなく故郷を離れていくことを考えると容易に想像がつきます。
最近では、移住者へのアドバイスとして「移住の目的を見失わないための計画性」を強調しているそうです。たとえば、農業をやるために移住してきたつもりが、生活費のためにアルバイトに明け暮れる。のんびり暮らそうと移住したものの収入が低いのでかけ持ちで仕事するようになり、自由時間はむしろ減ってしまったなど。これでは本末転倒です。こちらでの生活を確立しようとすると「仕事」は避けては通れない重大な要素であり、それが移住を断念する一番の要因にもなっています。
「おせっ会」としても今後は「仕事がない」状況を伝えるだけではなく、仕事の提案もできるような団体にしていきたいとの思いが強くなっているそう。とはいえ、観光以外の大きな産業がなかなか育たない館山にあって雇用を生み出すのは容易ではありません。そんな八代さんが提案するのが「片手間型多角経営」。片手間というと印象が悪いかも知れませんが、簡単にいうと「空いた時間を利用していろいろなことでお金を稼ぐ」ということ。「そういったビジネスモデルを構築できれば移住者はもっと増えるはず」と、八代さんは熱く語ります。

究極の安らぎ生活を目指して

これまでの話から、良くも悪くも「館山に移住する」ということが見えてきたような気がします。もちろん乗り越えるべきハードルはたくさんありますし、必ずしも楽しいことばかりではないでしょう。それでも、ざっと周りを見渡してみると、移住した人たちは実に生き生きと毎日を暮らしていらっしゃいます。
私ごとながら移住者の一人として、館山での生活の魅力を紹介させていただきましょう。
まず野菜と魚がおいしすぎること。鳥の鳴き声や風や空気から季節の移り変わりを実感できること。陽が昇り沈む様子を目の当たりにできること。静寂のなか満天の星空を眺められること。また、地域と自分との関わりは都会では考えられないほどに強く、希薄な人間関係に慣れた自分にとっても居心地は悪くありません。いつものように当たり前に過ぎてゆく時間さえもが濃密で、毎日ワクワクしながら生活しています。生活そのものが楽しいといっても言い過ぎではありません。
得るものと失うもの、これらを天秤にかけてみて、得るものが少しでも多いならば思い切って移住してみるのも悪くない選択かもしれません。そう思い立ったらまずは「おせっ会」に連絡を。「館山暮らし」の現状について、的確なアドバイスをいただけるはずです。また、今後もさまざまなテーマで移住体験ツアーを実施予定です。詳細は下記ホームページにて順次発表します。お楽しみに。

NPO法人「おせっ会」

富崎ベーカリー

移住して2011年11月にオープンした自家製酵母のパン屋さん。パン屋の立地としては決して有利な場所とはいえないものの、地元を中心にすでに多くのリピーターを獲得し滑り出しはまずまず。

住所 館山市相浜254
電話 0470-28-0221
営業時間 月・木・金曜10:00~16:00

 

なぜダッペエはゆるキャラではないの?

館山市マスコットキャラクター ダッペエ

館山市マスコットキャラクター「ダッペエ」ってご存知ですか?
黄色の肌に、まん丸のお目目。長いお鼻に真っ赤なくちびるが特徴的な、子供から大人までに大人気のキャラクターです。近年地域PRや活性化を目的としてたくさんのマスコットキャラクターが誕生しておりますが、彼らはその愛らしい姿や立ち振る舞いから「ゆるキャラ」と総称されています。
しかしその中で、実はこのダッペエ、デザインからプロフィールに至るまで「ゆるキャラ」とは一線を画した独創性に溢れているのです。 「だっぺぇオフィシャルサイト

(2012/04掲載:H)

ダッペエってどんなキャラクターなの?

まずは、ダッペエそのものをまだ御存知ない方もいらっしゃると思いますので、このダッペエについて簡単におさらいしてみましょう。

ダッペエプロフィール

チーバくん誕生日で大集合
チーバくん誕生日で大集合

ダッペエの名前の由来は、房総に伝わる方言からきています。もちろん地方によって多少変化はありますが、関西弁で「~や」、九州弁で「~けん」などという有名な語尾を、房総の方言では「~だっぺ」といいます。今でも生来地元で過ごされている方などと話せば、この愛らしい大らかな口調と接することができます。もちろんダッペエは房州弁を語りますので、この言葉で更新されるダッペエブログは見ものです。

里見まつりにて震災の義援金呼びかけ
里見まつりにて震災の義援金呼びかけ

そして分類は、「犬」。なぜ犬かといえば、家系の特徴にも表れているように、館山が『南総里見八犬伝』ゆかりの町だからです。江戸時代の文豪曲亭馬琴による『南総里見八犬伝』は、「八房」と呼ばれる犬と、「伏姫」という名の姫の物語から始まる長編傑作。ダッペエは、この八房の「親戚の末裔の知り合いの親戚」ということで、八犬伝との関係は間違いなさそうです。

あばらが一本足りないダッペエ
あばらが一本足りない ダッペエ

そして最後に「あばらが一本足りない」ということ。房州の慣用句ともいえるこの「あばらが一本足りない」という表現は、一般に「穏やかで温厚な房州人気質」を意味する言葉として使われています。なぜアバラ?ということが引っかかる方には、拙記事「房州人は、なぜアバラが一本足りないの?」を是非お読みください。このアバラには房州の歴史が凝縮されています。
実は、このアバラが足りないということは、ダッペエの身体にも表れているんです。お腹のあたりをよくみてください。黒い穴が見えますか?これはアバラが抜けてしまった穴なんですよね。そしてまた、もっとよく見るとこの穴、半円になっていることがわかります。これは、ダッペエの胴体が「D」の形をしているからなんだそうです。「D?」なぜだと思われる方は、ダッペエの頭をご覧ください。「ぺ」の字になっていることをお気づきになりましたでしょうか。つまり、「D」と「ぺ」で「ダッペエ」なんです。身体そのものが名前になっていたんですねぇ。
ちなみに自然と「ダッペエくん」などと呼びたくなりますが、房州気質の彼に「君付け」は似合わない、とのことで呼ぶ時は「ダッペエ」と呼んであげて下さいね!

このように、ダッペエは名実ともに房州を代表する特徴をもって館山市に誕生したとってもユニークなマスコットキャラクターなんですね!

ダッペエ誕生の軌跡

それでは、このダッペエはどのようにしてこの世に誕生したのでしょうか。まさにこの始まりがダッペエの「ゆるキャラ」ならぬ鍵を秘めているのではないか、と狙いを定め筆者は館山市役所商工観光課を訪ねてみることにしました。
ダッペエの窓口を務められている担当者の方にお会いしたところ、異動の多い市役所の人事の中、ダッペエ誕生劇をよく知っている方は、今はここにはいらっしゃらないとのお話しをお聞きしました。ただし、ここで担当者の方から衝撃的な事実を打ち明けられることに!

ダッペエは何キャラなの?

「ダッペエは、脱力系キャラと言われているんです。」

なんと、「ゆるキャラ」ではないダッペエは、「脱力系キャラ」だった!?

ダッペエがひときわ異色な風貌とプロフィールを併せ持つマスコットキャラクターであることは知っていたものの、ダッペエが「脱力系キャラ」であることは知らなかった筆者は、未だよく掴み切れていないこの「脱力系」という新しい「ゆるさ」にみるみるうちに惹かれていきました。
ただし、この「脱力系」という真意も誕生期に立ち会っている方がよくご存知のはず。ということで、すぐさま当時の商工観光課課長であった方を探して頂くこととなりました。

館山市農水産課長 荒井毅さん
館山市農水産課長 荒井毅さん

そして、探し当てた方が、現農水産課 荒井毅課長。この方、以前「地産地消」をテーマにしている謎でも取材させて頂いた方であり、つい最近も農水産課から立て続けに4冊のガイドブックを発刊された立役者であらせられます。
この荒井課長が商工観光課課長時代にマスコットキャラクター制作にも関っていたのですね!驚きでした。

マスコットキャラクター誕生秘話

 当時商工観光課課長であった荒井さんは、各地で多くのマスコットキャラクターが登場する中、館山市にもイメージとなるキャラクターができないものかと思案していました。

The World of GOLDEN EGGS
The World of GOLDEN EGGS

そんなある日偶然、荒井さんの手元に同級生の務めるちばぎん総合研究所発行の「マネジメントスクエア」という機関誌が届きます。総合研究開発機構による房総の濃密な経営情報誌をペラペラとめくる中、目に飛び込んできたのが、The World of GOLDEN EGGSなどでデザイン業界に閃光を放ちつつあるデザイナーの作品でした。それにしてもなぜ房総の情報誌で取材されているんだろうかと思い、詳しく読んでみると、この記事のテーマが「千葉県の有名人」。まさか、と思いつつ読み進めると、なんとこのデザイナーの方の出身が館山市だったのです。

平生からアートに触れて過ごす荒井さんは、もちろんこの方の作品を好んで視聴されていたとのことで、同郷にこのようなクリエイターの方がいることに喜びを覚えるとともに、すぐさま、ちばぎん総研に務める同級生に連絡をいれました。すると同窓ならではのやりとりの中で、このデザイナーの方を直接取材された記者の方と連絡をとることができ、そしてご紹介されたのが・・・

studio crocodile代表 文原聡さん(奥さんの書かれた似顔絵)
studio crocodile代表 文原聡さん

studio crocodile代表 文原聡さんだったのです。

日産noteのCMでの「低燃費少女ハイジ」やカルピスソーダの「RODY kids」などなど、今やTVを見たり街中を歩いていたら必ずと言っていいほどどこかで触れることのできるstudio crocodile作品達。その独特のデザインと不思議な空間を次々と生み出すスタジオの代表を務められているのが文原聡さんです。
この方が館山出身であること、そしてstudio crocodile作品が掲載された機関誌を偶然に読んだ荒井さんのアートへの造詣と、御取次してくれた友人の方々のご縁。こうした連鎖反応が次々と結ばれることによって他に類をみることのない独特のキャラクター「ダッペエ」誕生の礎が築かれることとなりました。

荒井さんが直接文原さんに連絡をとると、文原さんも故郷館山へ貢献できるということならば、ということで二つ返事でキャラクター制作の依頼を受けてくれたということで、その日から荒井さんと文原さんによるダッペエデザインの原案が組み立てられることになります。2009年4月のことでした。

ダッペエ制作にまつわる秘話

  その後荒井さんは、文原さんに館山を象徴するイメージを何点か伝えたのみで、総合的なプロデュースはすべてstudio crocodileにお任せする方針を取りました。そうした初期の案に従って、着々とマスコットキャラクターが仕上がっていきます。「ダッペエ」という名前も初めの頃に、文原さんが命名されたそうです。そして年度末にさしかかった頃、いよいよstudio crocodileらしい作風に仕上がりつつあるサンプルを市役所内限定で公開し、そこから出た意見をもとに最終段階に入りました。
そんな中、荒井さんは2010年度から農水産課に異動することが決まり、ダッペエについては当時商工観光課副課長であった石井博臣さんに引き継がれることとなりました。しかし、これまでの経緯を考えればダッペエの日の目を見る時も近い、というお心持で安心して引き継ぎなされたようです。

ところが・・・
ダッペエ

石井さんに引き継がれて間もなく、文原さんから一通の連絡が届きました。それは、これまで創り上げてきたダッペエを白紙に戻し、創りなおすとの内容でした。
これまで荒井さんの横で、初期ダッペエが出来上がっていく様子を誰よりもよく知っていた石井さんは、ここまで完成度の高い作品を白紙に戻す!?ということで、大変驚かれたようです。荒井さんの驚きも想像に難くありません。「何があったのだろか?」その理由もわからぬまま、文原さんの新しいサンプルを待つこと数カ月。初期サンプルとは全く一新されたダッペエが送られてきました。

2010年12月6日ダッペエ登場記者会見(金丸市長と)
2010年12月6日ダッペエ登場記者会見

これまで創られてきたダッペエがわずかの影も残さない、完全に新しく息を吹き込まれたダッペエ。これが、今我々の知るところのダッペエです。こうなると、初期バージョンをみたい心がくすぐられますが残念ながら、非公開のためそれは叶いません。
ただし、一年をかけて創り上げてきた作品を、一気に覆すほどの文原聡さんの感性、そして郷土への愛を感じずにはいられないでしょう。ちなみにダッペエは、当初から正規の発注ができないことを承知の上で引き受けて頂いた末、最終的にはボランティアでの制作として市に還元頂いたそうです。

まさにアートの真髄とも言えるこの一連の制作秘話、いかがでしょうか。聞いてびっくり玉手箱ですよね。ダッペエがここまで独特のキャラクターであることも頷けるのではと思います。

それにしても、なぜ突然デザインを一新されたのでしょう?

そこで筆者は、お忙しい中無理を押し切って、この点について直接文原さんにお聞きしました。今回の謎の答とともに、この点をお教え頂いて最後を締めくくりたいと思います。

ダッペエ作者文原聡さんに聞く 脱力系にこめられた思い!

一年をかけて積み上げられたデザインを一新されたのはなぜなんですか?

「初期のデザインは、確か『海』や『花』をモチーフにして作っていましたが、それだけだと観光地にありがちなアイディアであり、他の観光地と同じなのではないかと思うようになりました。そこで、東日本で良く使われ、館山の人にもなじみ深い『だっぺ』と呼ばれるキャラクターならではの館山らしさを前面に押し出すように、里見八犬伝の犬を組み合わせたものにしました。」

ダッペエがゆるキャラではなく、脱力系キャラなのはなぜですか?

「ダッペエをメディアで取り上げていただく際になぜか『脱力系』というくくりにされてしまう事はあまり好きではないんですが、ここで伝えたかったのは、館山が紋切型の「癒し」の場ではなく、独特な場であることです。癒しを与える観光地が今たくさんありますが、館山に“癒し”を求めて来るのではなく“脱力”しに来てもらえるようにすれば、館山らしさが一層出て、他との差別化ができるのではという提案をしました。」

RODY kids
RODY kids

館山で育った文原聡さん。世界を股にかけるデザイナーの感性から見た独特の館山を、マスコットキャラクターを通してお伝えくださったのだと思います。
どちらの質問への答えも館山オリジナルであることがキーワードとなっていることが印象的ですが、これは非常に大事なポイントなのではないかと思います。そこでしか味わうことのできない食、自然、空気、体験などたくさん楽しみ方がありますが、こうしたことを求めて人々は館山を訪れるのではないでしょうか。館山らしさに磨きをかけて、よく知ってもらうことで、一層来てくれた方々に喜んでもらえるようになるといいですね。

ダッペエGOODS 続々登場

待ちに待ったダッペエGOODSがいよいよ店頭に並ぶようになりました。まだ購入できる御店は少ないものの、これからたくさんの所で見られるようになるそうです。現在ダッペエGOODSを手に取ることができる場所は以下になります。
また、直接製造会社に問い合わせてみることも可能なようです。是非カタログをご覧ください!

ダッペエGOODS販売店

ダッペエGOODS カタログ
ダッペエGOODS カタログ

館山市観光協会
住所:千葉県館山市北条1879-2
TEL:0470-22-2000

ホーム

亀屋本店
住所:千葉県館山市北条1882
TEL:0470-23-0586
HP :http://www.kameyahonten.com/tateyama/

里見の湯
住所:千葉県館山市下真倉305-1
TEL:0470-25-1126
HP :http://www.satominoyu.com/

金谷the Fish
住所:千葉県富津市金谷2288
TEL:0439-69-2161
HP :http://www.thefish.co.jp/

 

なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?

館山にゆかりのある芸術家の中でも、ひときわ色あせない輝きを放ち続ける青木繁。
明治時代を代表する洋画家であり、日本の近代化を象徴するかのような疾風怒濤の29年間を突き進んだ天賦の才人です。彼の残した不朽の名作『海の幸』が館山の布良(めら)で描かれたこと、御存知ですか?
今回は、青木繁の人物像や思想を浮かび上がらせると共に、『海の幸』が制作される裏側にスポットライトを当てて謎の答に迫ってみたいと思います。

(2012/05掲載:H)

10分でわかる青木繁の人物像と人生

青木繁は、日本で初めて国の重要文化財に指定された西洋画『海の幸』の作者であり、満28歳という短い年月の中で、後世に衝撃を与え続ける人生を突き進んだ、史上稀にみる「天才」として知られています。ただ、美辞麗句を並びたてるばかりでは、何ゆえにそこまで賛美される人物なのかわかりにくい方もいるはず。そこで今回は、青木繁の世界への入口として、その人生をまとめてみました。

幼少期

 1882年、福岡県久留米市で下級武士の息子として青木繁は生まれます。当時の下級武士といえば、徳川幕府が崩壊し、頼み綱の殿様も支えてくれる家来もいなくなり、着るものも剥がれて路頭に迷うものが続出する没落士族社会の中にありました。繁の父は、「代言」といって現在でいう弁護士のような職についたため一家離散とまではいかなかったものの、下級武士の苦労を身に染みて経験したといいます。
そんな家庭に生まれ育った繁は、学で身を立たせようという願いのもと、4歳を迎えるとすぐに祖父と父によって厳格な教育指導を受けるのです。

「如何な寒中にも朝まだくらいうちに縁側の板に机を持ち出して読書させられる、まだ6.7歳の幼心にも、成人のような負けじ魂が固く養われていた。こんな風で小学から中学と進んでゆく中に、他の人の将来何をして身を立てようかと考えていたが、自分はそんな問題よりも、『男子とは何ぞや。』若しくは『我は如何にして我たり得べきか。』というような問題に深く頭を悩ますようになった。そしてその後に襲い来たものは幼稚ながら『人生』の根本問題であった。」

繁は後にこう振り返ります。広い知見や独創力は、この時期をもって素養として育まれ、また同時に気性の荒い親譲りの克己とした精神力や激しい情動も磨かれていきました。ある時、繁の父が言うことを聞かない繁に薙刀(なぎなた)を突き付けたのに対し、繁は「お突きなさい」といって動かなかったという逸話さえ残っています。
そんな家庭教育の毎日を送っていた繁には、唯一ともいえる楽しみがありました。絵を描くことです。

日本近代美術 巨匠2人の出会い

 日本美術史において極めて重要な影響を後世に与え続ける画家の一人に、坂本繁二郎がいます。青木繁と坂本繁二郎が、同じ福岡県久留米市にて生まれた同級生であることは広く知られていますが、彼らの出会いは、2人が9歳で入学した久留米高等小学校のことでした。繁二郎はすでにその頃から非凡な画才を認められ、自身も幼くして画家を志して画塾に通っていました。
事前学習を経て5歳で尋常小学校に入った繁は、どんな科目でも一番でした。先天的ともいえる圧倒的な自負心はこの頃に一層培われたのかもしれません。しかし、その繁に初めての敗北感を与えたのが高等小学校で同じクラスになった繁二郎の絵。まだ10歳にも満たない少年が、自分より秀でた技術をもって、しかも将来の夢までもっている。このことは繁にとって衝撃的で新鮮な出来事でした。

画家の道を選ぶ

 繁二郎は母子家庭で家は貧しく、中学校(現在でいう高校)に進むことができませんでしたが、繁は久留米中学明善校に進学して文学に目覚めることになります。友人らで同人誌『画藻(がも)』を発行し、詩を書き、挿絵を描く日々に没頭する日々を送りますが、こうした学外の活動に力を入れるようになると必然、学校の成績が如実に悪くなっていきます。あれほど優秀だった成績もいつしか落第点を取り、教師と喧嘩して白紙で答案を出すようになりました。
ここに至って繁は、この先の人生について真剣に悩み、画家の道に進むことを決心するのです。少し長いですが、回想記をみてみましょう。

「僕は大体中学で何の学科も相応にできるので、その中の一つを選んで一生を賭すのは自分というものがはなはだ惜しいように思われた。…軍人は面白いが、当時僕は歴山大帝(アレキサンダー大王)を崇拝していたので、あのような男子にならねばならぬ、しかし今日では軍人になったところで、一つの戦争を業とする人間で、とうてい歴山大帝の心事は実現しえるものではないことを考えた。
・・・この時に考えてみたのが哲学であり宗教であり文学であったが、最後に来たったものは芸術であった。それと同時にその実行であった。芸術的創作ということが非常な響きをなして胸に伝わり、ハルトマン(ドイツの哲学者)の『物の社会は物がこれを造り、ただ仮象の社会のみは人がこれを創作し、人類のみこれを楽しむ』という言葉がわが稚なごころに血潮をわきかえらせた。これこそ男子の事業だ。そしてこの中に千万の情懐を吐露し得るのだ。われは丹青の技(画技のこと)によって歴山帝もしくはより以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉のごとき男子たり得るのだと、こう決心した。」

これが今でいう高校生の抱えていた問題意識とすると唖然としてしまいますが、青木繁という人物が学生時代から自分の中に潜む能力に気付き、それに見合う人生を模索していたのかがわかると思います。空前の大帝国によってほぼ世界征服を成し遂げたアレキサンダーと自分を比較して、それ以上の功績を絵画において達成しようと志しているのですから、際限のない情熱と野望に充ち溢れていたことが伝わってきます。

ただし、そんな繁にも一筋縄にはいかない壁が立ちふさがっていました。父の存在です。
これまで画塾へ通っていたことも、毎日のように創作に耽っていたことも隠し通してきた繁ですが、ここにきて父にその後の人生展望を打ち明けねばならない時がきました。父は案の定取り合うことなく、
「美術とはなんだ。武術の間違いだろう?」
と一蹴されたことは有名な逸話として語られています。
ただし繁はめげることなく、母親を説得し、また伯父に想いの果てを伝えることによって、父との不和を解消し信頼を勝ち取る中で、ようやく東京行きを認めてもらえることになりました。

上京 そして東京美術学校へ入学

 当時の日本美術界は、大きな動乱の中にありました。江戸時代は鎖国であったため、洋画がほとんど流入してこなかった上に、明治16年(1883)には洋画教育が廃止されます。西洋画教育を復活させたのは、欧米に留学していた黒田清輝で、彼らの尽力によって明治29年(1896)になって、ようやく東京美術学校に洋画科が置かれることになりました。
鹿児島県出身で世界を見聞して日本に戻り、新風を巻き起こした黒田清輝、この人の存在が青木繁にとって大きかったことは言うまでもありません。1898年、繁は縁もゆかりもない東京へ単身飛び込んで行きました。不同舎という画塾にて改めて絵を学ぶこと2年、念願の東京美術学校洋画科選科に入学します。

家を追われつつ上野図書館へ通う学生時代

 晴れて黒田清輝に直接絵の手ほどきを受けることになった繁は、早くからその画才に嘱望を受けていたものの、実家の経済状況がひっ迫することなどから仕送りがなくなり、家賃を支払うことができず、悲惨な生活を強いられていました。
しかし、この貧しさゆえの不屈の精神ともいえるのでしょうか、この当時繁は美術学校と上野図書館に入り浸り、西洋画の研究と、これまでの芸術思想により一層核心的な根拠を与えていきます。青木繁がその作品のテーマとしたのは「神話」でした。この点は『海の幸』にも関るので、後述したいと思います。

第一回白馬賞受賞

青木繁作『自画像』石橋財団石橋美術館蔵

一心不乱に制作に向かい合うさなか、1903年いよいよ繁の画作を世に問う日がやってきました。黒田清輝などによって日本画の芸術振興のために始められた展覧会「白馬会」ですが、第八回展覧会より「白馬賞」が設けられることになったのです。繁はこの展覧会へ「黄泉比良坂」など十数点を出品します。そのすべてが古事記やインド古代宗教から取材した作品でした。
西洋画家が一堂に出品した白馬会において、繁はなんと第一回「白馬賞」を受賞することになります。写生画ではなく、繁の描く抽象的なテーマによる構想画が受賞したということも世間からみれば革命的な出来事だったといいます。
これによって青木繁の名は一躍世に広まることになり多くの芸術家が青木を訪れ、また自身でも「青木グループ」という画学生の集団を作るなど、まさに「美術のアレキサンダー」を夢見た繁の第一歩となりました。

福田たねとの出会い

福田たね
福田たね

繁は東京美術学校に入学してからも、入学前に修練を積んでいた不同舎へたびたび出入りします。この一つには裸婦モデルを求めたためだったと言われていますが、他にも同窓の坂本繁二郎が繁より2年遅れて上京してすぐに不同舎に入門したことも関っていました。才気あふれる同郷の旧友と改めて画を磨き合えることに対して「久留米から日本のルネッサンスがおこる」とも語り喜ぶほどでした。
福田たねが不同舎に入門してきたのはこの頃で、繁は雷が落ちたようにたねに一目ぼれをします。たねのデッサンを指導したり補筆する中でたねも繁の画才に惚れ込み、ちょうど繁が白馬賞を受賞する頃には二人は親密な関係となっていました。

『海の幸』館山市布良(めら)にて誕生

 内に秘めた画才を華々しく開花させた東京美術学校での学生生活も4年間の日々が過ぎ去り、1904年(22歳)に卒業を迎えることになりました。通例美術学校を卒業すると、郷里に戻り美術関係の仕事についたり中学校の美術の先生になったりして収入を得るのが常でしたが、繁は職に就くと自由に絵が描けなくなることを理由に就職を拒否しました。あくまで芸術家であるという自負の基に、いよいよ自分の能力を最大限に解き放つ作品を描こうと心に期していたのです。
7月に卒業するとすぐに、繁は福田たね、坂本繁二郎、森田恒友らと共に制作旅行を企画します。向かう先は千葉県館山市にある布良海岸。かねてから青木グループの一員でもあり、同じ久留米出身の詩人高島宇朗から、房総先端の布良海岸の素晴らしさを聞いていた青木は踊るような心持で布良を目指すのです。

布良 阿由戸(あゆと)の浜
布良 阿由戸(あゆと)の浜

今回のテーマともなっている青木繁の一大傑作『海の幸』は、ここ館山の布良海岸にて制作されます。滞在期間はわずか2カ月でしたが、短い人生の中で精神的にも芸術的感性においても最も優れた幸福な時期であったと伝えられているこの期間に、青木繁はどのようにして『海の幸』を描いたのでしょうか。
この答は後段に譲ることとして、ここでは繁がいかに布良海岸に魅せられたのか伺うことができる手記を見てみましょう。

ここに来て海水浴で黒ん坊だ。ここは万葉にある「女良」だ。近所に安房神社という官幣大社がある。古い土地だ。
漁場としても有名な荒っぽい所で冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って、二カ月も沖で暮らして漁をするそうだ。沖ではクジラ、ヒラウオ、カジキ、マグロ、フカ、キワダ、サメがとれる。みな二十貫から百貫(1貫は3.75キログラム)のものを釣るのだ。恐ろしいような荒っぽいことだ。…
雲ポッツリ、またポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!はやりたる潮!
童謡「ひまにゃ来て見よ、平沙の浦わぁー、西は洲の崎、東は布良アよ 沖を流るる黒瀬川アー
サアサ、ドンブラコッコ スッコッコ!!」
これが波のどかな平沙浦だよ。浜地にはスイカなどよくできるよ。ハマグリも水の中から採れるよ。晴れると大島利島シキネ島が列をそろえて沖を十里にかすんで見える。
それから浜磯ではモクツ、モク、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリグサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャク、ホラノカヒ、サザエ、アカニシ、ツメッケイ等だ。
まだまだその外に名も知らぬものが倍も二倍もある。
今は少々制作中だ。大きい。モデルをたくさん使っている。いずれ東京に帰ってからごらんに入れるまで黙っていよう…

故郷福岡に帰省している友人梅野満雄に宛て書かれた手紙です。ここで制作中として書かれている絵が『海の幸』。青木繁が布良の浜で大きく手を広げて全身で自然を感じている様が浮かび上がるような文章ですよね。

青木繁
青木繁

この『海の幸』は、秋の第9回白馬会展で出品され、黒田清輝・和田英作・岡田三朗助・藤島武二など錚々たる面々の作品中に飾られました。結果、開幕と同時に繁が期待した以上の強烈な反響が巻き起こり、画壇・文壇や新聞・雑誌に至るまで注目を一身に集め、青木繁の名は天下に轟くことになります。

後半生に重なる悲劇

 青木繁という人間は、一方で類まれなる芸術感性に優れた天才として有名ですが、他方その自由な発想を支えた奔放な性格を併せ持っていました。情熱的な直観を頼りに突き進むのですが、実生活についてはほとんど顧みることなく、繁の感性を尊ぶ支援者によって支えられてきたといっても過言ではありません。学生時代の家賃は友人に払わせ、また収入のあてもないのに窮迫した実家の姉と弟を引き取るなど、計画性のない生活を繰り返していく中で自身へのプライドと現実とが悪循環を始めます。
もう少し時代を経れば、という「もし」は尽きませんが、当時油絵はほとんど売れなかったのです。今では国の重要文化財に指定されている『海の幸』でさえ、画の大きさや価格などから引き取り手が見つからず、実生活への還元はほとんどありませんでした。
(百円で国木田独歩が購入する話もあった。)
こうした中、絵具などの画材入手の費用もままならず、福田たねの妊娠、父の危篤、実家の抱える多額の負債等、予期せぬ出来事が立て続けに起こり、準備のない繁の精神的な疲労もピークを迎えるようになります。

わだつみのいろこの宮

青木繁作 『わだつみのいろこの宮』 石橋財団石橋美術館蔵
青木繁『わだつみのいろこの宮』 石橋財団石橋美術館蔵

後半生で描かれた作品は、前半生のものと作風に変化が見られます。多くは青木繁の人生と連動して勢いを失ったという見方もありますが、向い風にあいながらなおも芸術に対して「高傑な偉大な真実な」態度をもって創られた作品に『わだつみのいろこの宮』を挙げることができます。この作品も『海の幸』に次いで今では、国の重要文化財として指定された大作です。
実は、この作品にも前述した館山市布良での体験が関係しています。布良の海にて水中奥深くから見上げた太陽の美しさを脳裏に残し続けた繁は、『古事記』上巻の物語をモチーフにして海底の宮殿での出来事を絵におさめる着想を得ていました。その後多くの海で海底の観察を続け、制作に至るまでに3年を要したというこの作品は、発表直後『海の幸』に次ぐ好評を受けて青木繁の画才は有識者の中で確定したと言われます。夏目漱石がかの『それから』という小説の中で、主人公に「青木という人が、海の底にたっている女の人を描いたが、あれだけが、よい気持ちに出来ていると思った」と主人公に語らせていることでも有名です。
しかし、この作品は博覧会において提出された240点の中で1等7人、2等6人、3等10人のうち、3等の末席という結果となりました。この数カ月延々と行われた鑑査に関しては他の分野においても多くの異議が出されており学会内部の複雑な事情が指摘されていますが、この結果に一番納得がいかなかったのは当の青木繁本人でした。折しも「わだつみのいろこの宮に就いて」というタイトルの文章を新聞に寄稿して、日本固有の芸術観について作品の意義を強調していたさなかであり、その落胆ぶりといったら他に例をみないものだったということです。

繁は、この評価に対し画壇に向けて痛烈な批判を加えていきます。もともと素行に問題のあった繁にとってこうした行動は自らの首を絞めるようなものでした。青木繁という天才の存在は蚊帳の外へ追いやられ他の新星の登場を尻目に見る影もなく久しく葬り去られます。それから60年、1969年になってようやく『わだつみのいろこの宮』は国の重要文化財として指定されることとなりました。(『海の幸』は1967年。)

放浪から病死

 もちろんその後も制作意欲が衰えたわけではありませんでした。また、これまでの自分を改めて本気で働こうと決心もした繁でしたが、持ち前の気性に折り合いがつかず、家族と衝突を繰り返し放浪の旅に出ることになります。展覧会にも出品しますが、問題にされることもなく落選し1年後にはすでに進行していた肺結核に蝕まれた身体から喀血。療養を続けますが、少し良くなれば無断で外出を繰り返すなどして体調を悪化させ、とうとう1911年病床の中、齢28歳にてその人生の幕を閉じました。


短いながらも浪漫主義を象徴するような疾風怒濤の29年間、大きな出来事のみを抽出した青木繁の人生でしたが、いかがでしたでしょうか。もちろんより詳しく青木繁の実像に迫りたい方は、関連図書をお読みになることをお勧めします。ここで参考した図書は以下の通りです。

『青木繁全文集 仮象の創造[増補版]』青木繁著/中央公論美術出版2003年
『青木繁・坂本繁二郎』谷口治達著/西日本新聞社1995年
『青木繁とその情熱』かわな静著/てらいんく2011年
『青木繁と画の中の女』中島美代子著/TBSブリタニカ1998年
『青木繁 その愛と彷徨』北川晃二著/講談社1973年
『芸術新潮 特集没後100年青木繁』新潮社発行2011年7月版

なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?

さて、青木繁の人生を概観したところで本テーマの答に進みたいと思います。文章中にも登場したことではありますが、改めてその真相に迫ってみたいと思います。

①同郷の詩人高島泉郷による布良海岸の勧め

まずは、青木グループに属していた泉郷(本名:高島宇朗)が以前布良の海を見たことがあったこと。「青きうしほをかきわけて われは都へかへるなり 安房の島山いざさらば」
と歌に残しているように、泉郷は眼前に体験した布良の海を細かに繁に語りました。このことが繁を布良に駆り立てるきっかけとなったことは間違いないようです。

②青木繁の芸術思想上のテーマが日本神話にあったこと

幼少の頃から文学に強い関心をもち、日本芸術を背負って立つ者として情熱を燃やしていた繁は、世界のなかにおける日本を意識していました。そしてスカンジナビア、アイスランド、パレスチナからインドに至るまで世界各国に伝わる神話を研究した結果、彼は神話に反映されている先人の心が、芸術の中にみられる「仮象」と深く繋がっていることを思想の核心としていました。
館山の布良には昔から多くの神話が伝えられています。万葉集や古事記などに精通していた繁は、こういった点からも布良に愛着がありました。梅野満雄に宛てた手紙以外にも、神話の描出を目的とした旅行であることを示す文章がたくさん残っています。
作品『海の幸』は古事記の物語「海幸彦、山幸彦」をモチーフとして当初2部作を描こうと想定されていたものでした。しかし、ある日坂本繁二郎が布良漁港における大漁を目の当たりにしてその様子を繁に伝えます。その時、神々との苦闘の中で命がけの漁を終えた男たちが浜辺を家路へ帰る姿が突如として繁の中にイメージされ1週間足らずでいっぺんに描きあげられたと伝えられています。
また、実際には漁の様子を見ていない繁が何を参考にしていたのかという点で、最近の研究では布良・相浜地区の祭りにおける神輿を担ぐ姿が関係しているのではないかと提起されています。この点も非常に興味深いところです。

③マグロ延縄漁の発祥の地 布良村(めらむら)

鮪延縄漁発祥の地 記念碑
鮪延縄漁(まぐろはえなわりょう)発祥の地 記念碑

館山の布良は、江戸末期から明治期にかけて全国で一番のマグロ漁獲量を誇る漁港があった村です。江戸前の鮨は、その大半が布良でとれたマグロをもとに作られていたそうで、全盛期には83隻ものマグロ船が停泊していた記録もあります。一本100万円と言われるマグロがどんどん釣れるわけですから当時の村は空前の隆盛ぶりを誇っていました。
卒業旅行に来た青木繁一同は、後先構わずほとんど無一文の状態で旅路を進めていました。しかし案の定金銭的な底がつきた彼らは、初めに宿泊していた旅館をでなければならないことになります。

小谷家住宅
小谷(こたに)家住宅

青木繁が『海の幸』を描いた場所である館山市布良にある「小谷家(こたにけ)」ですが、1904年に一同が滞在した家屋ですので、必然老朽化が進んでいます。しかし、小谷家なくしては『海の幸』は誕生しなかった、ということでこの建物全体を文化財として保存していこうという活動が現在各方面から進められています。
この保存会活動の歴史も長く、その発端は没後50年を記念して布良に建立された「青木繁記念碑」が一時取り壊しの危機にあった時、これを守るための活動だったそうです。ここにその保存会活動の簡単な年表を見てみましょう。

1904年 青木繁『海の幸』を制作 in 布良
1911年 青木繁逝去

1961年 館山ユースホステル設立
1962年 記念碑建設建立(没後50年記念)
1967年 『海の幸』国の重要文化財に指定
1969年 『わだつみのいろこの宮』国の重要文化財に指定

1998年 館山ユースホステル営業停止
同時に隣接する「青木繁記念碑」が国有地であることを理由に解体・撤去の問題が浮上
→館山市が国有地の借地料を支払いを引き受けることで解体をまぬがれる

2000年~ 当時、富崎地区連合区長会長であった故吉田昌男さんらの尽力により、以後記念碑を守る
ための活動が活発化する。

2005年 「青木繁《海の幸》100年から布良・相浜(あいはま)を見つめるつどい」開催
シンポジウムにて小谷家当主より「100年前に青木繁が泊まって《海の幸》を描いた住宅を
地域の子どもたちのために残していきたい」との思いが述べられる。

青木繁記念碑
青木繁記念碑

2007年 小谷家住宅 館山市指定文化財へ申請
2008年 「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」発足
2009年 小谷家住宅 館山市有形文化財(建造物) 指定
2010年 NPO法人 青木繁「海の幸」会発足

2011年 没後100年青木繁展が全国で催される。
しかし、大震災の影響で基金活動は自粛。

2012年 ふるさと納税制度に「小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」が組み込まれる。
2012年 青木繁「海の幸」オマージュ展

「海の幸」会会員の芸術家による 青木繁「海の幸」オマージュ展

期間 2012年6月29日(金)~9月2日(日)
休館日 月曜日、第4金曜日
場所 渚の博物館(館山市立博物館分館)
展示構成 第1章 NPO法人青木繁「海の幸」会の文化財保存活動(パネル展示)
第2章館山市有形文化財「小谷家住宅」(パネル展示)
第3章青木繁の作品 未発表のものを含め布良で描かれたデッサンなど展示予定
第4章青木繁「海の幸」オマージュ作品展示
問合せ先 渚の博物館 TEL/FAX 0470-24-2402
HP NPO法人青木繁「海の幸」会

このように、まさに現在進行形にて「小谷家住宅」の保存活動が活発化してきています。去年は、青木繁没後100周年として全国各地で展示会が行われておりましたが、東日本大震災の影響によって基金活動にも積極的な取り組みができない状況にありました。その意味では、その保存会活動は今年から再出発したといえるのかもしれません。
小谷家住宅は、築100年を越えて老朽化が進み早急に修築を行わない限り倒壊の危険性が高まっています。まずは、青木繁の人生、そしてその作品に触れて、いかに『海の幸』という作品が後世に残されるべき作品であるかを各々の尺度で感じ取った上で、みんなの力を合わせて「小谷家住宅」を守っていくことができたら素晴らしいことだと思います。是非、上記「オマージュ展」なり美術館へ足を運ぶなりして、青木繁の世界に足を踏み入れて頂けたらと思います。

『青木繁とその情熱』作者 かわな静さんの願い

最後になりますが、昨年2011年の7月に『青木繁とその情熱』を刊行された南房総市富浦町在住、かわな静さんのお話しをご紹介します。

かわなさんがこの本を書かれたきっかけは何ですか?

かわな 静さん
かわな 静さん

「もともと教員をやっておりまして房南中学で教えている時などは、モニュメントが近くにあることぐらいは知ってたのですが、そこまで青木繁について詳しかったわけではありませんでした。
そんな時安房博物館が開催していた『安房学講座』に参加して、小谷家住宅へ行ったんです。実際に青木繁が滞在した部屋に入りますと、妙な感動を覚えましてね。突如舞い降りたように青木繁を調べ出すようになったのです。
私は日本児童文芸家協会に所属してまして、児童書を何冊か書いておりましたので、これも若い子に読んでもらえるようなわかりやすい本にできたらと思っていました。」

この本は、どのような願いをもとに書かれたのですか?

かわな 静さん

「そうですね、私も教員をやってきて思うことですが、今の少年少女は早く挫折する子が多いと感じてきました。みんなが同じように生活して消極的に育っているので、なかなか個性が育ちにくいのではと思います。
そんな中、この青木繁という人物の強烈な個性や作品はとても良いテーマになるのではと思ったんですね。青木繁の強い意志をもってやりぬこうとする生き様は人の心を揺すぶってなりませんから。できれば、中学生・高校生の間に青木繁に触れて、個性的に生きる素晴らしさを感じてほしいと思いました。
また、一方では教育の問題でもあると思うんです。青木繁の父・祖父は今では信じられないほどの厳しい教育を繁に施します。昔の家はみんなそうだったんです。社会に出て憂き目をみないよう、家庭で子供を育て上げた。こうした親のあり方も、いい悪いではなく、改めて学ぶべき価値があるのではないでしょうか。」

本記事でも参考にさせて頂いた『青木繁とその情熱』ですが、すべて事実関係を綿密に調べ上げられた上で書かれている物語形式の伝記となっています。手にとって一気に読み上げることができるにも関らず、凝縮された青木繁の人生が目の前に迫ってくるような素晴らしい本です。思春期のお子さんに是非読んでもらいたい一冊だと思います。

『青木繁とその情熱』
『青木繁とその情熱』かわな 静著

『青木繁とその情熱』かわな 静著
発行所:株式会社てらいんく
<販売店>
【館山市宮沢書店本店】
住所:千葉県館山市北条1415-1
TEL:0470-23-7771
株式会社てらいんくHP

なぜ館山に自衛隊があるの?

海上自衛隊館山航空基地

鏡ヶ浦ともよばれる館山湾。
海岸線のほぼ中央にある平坦な埋立地に、自衛隊の基地があります。
なぜ館山に自衛隊があるのでしょう?
今回は館山にある自衛隊基地の歴史と役割について考えてみました。

(2012/06掲載:K)

前身は館山海軍航空隊

館山市にある自衛隊基地。正式名称は海上自衛隊館山航空基地といいます。そもそもここに自衛隊基地が置かれているのは、館山の地理的条件と大いに関係があります。
館山は房総半島の先端に位置していることから、西の三浦半島と並んで東京湾の、つまりは首都防衛の要となる土地です。古いところでは江戸時代末期、ロシアのラックスマンが松前に来航して以来、国防の重要性に気付いた幕府は東京湾に6つのお台場を築きます。そのうちのひとつが館山の洲崎(すのさき)であり、のちのペリー来航によっていよいよ警戒を強めた幕府は7門の砲台を設置。海上の監視が強められることになりました。

昭和5年の本部庁舎

明治へと時代が移ると海防の重要性はさらに高まります。第一次世界大戦を経て、軍事力増強に力を注ぐ日本は館山に航空基地の建設を検討します。そこで白羽の矢が立てられたのが現在館山航空基地のある場所でした。
大房岬(たいぶさみさき)と洲崎に抱え込まれるような形をした館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られます。外洋にも近く、しかも水上機の離着陸にも適したこの場所はまさに航空基地建設にうってつけだったようです。現在基地のある場所は以前は海だったのですが、1923年の関東大震災で地盤が隆起したことによって遠浅の海岸になっていました。そこで、沖合にあった高ノ島(現在の鷹ノ島)を抱き込むような形で埋め立て、基地を建設したのです。そして昭和5年(1930)、館山海軍航空隊は発足します。

出撃前の整列

航空隊はこれから第2次世界大戦終結まで、パイロットの育成や航空機の開発などを担当。多くの軍人がここから戦地へと出撃していったのです。

海上警備隊から館山航空隊へ

館山航空隊開隊記念式典

昭和20年(1945)に終戦を迎えると大日本帝国海軍は解体されます。基地の跡地には、昭和21年2月までアメリカ陸軍騎兵第一師団が駐留したのち、館山航空標識所や農林統計調査事務所が開設されたほか、火災で焼失してしまった安房水産高校も施設の一部を利用しています。
なにせ40万坪という広大な敷地、館山市でも水産業などの産業基地にしてはという意見もあったそうですが、海上自衛隊(当時は海上警備隊)が新たな基地建設の意向を示したために再び航空隊基地を置くことで決着をみます。そうしたなか、昭和28年(1953)7月、館山航空隊設立仮事務所が開設され、同年9月には館山航空隊が正式に開隊しました。その年の12月には盛大な開隊式が執り行われ、すでに配備されていたヘリコプターによる航空ショーなどが開催され好評を博したそうです。
こうして開設した館山の自衛隊基地。現在までの歩みを簡単に見ていきましょう。

昭和28.7.15 館山航空隊設立仮事務所開設
昭和28.9.16 館山航空隊開隊
昭和28.12.1 館山航空隊開隊式
昭和33.12.16 館山術科教育隊新編
昭和35.1.16 館山術科教育隊、下総へ移転
昭和36.9.1 第21航空群新編
第211、第221教育航空隊開隊
昭和40.3.25 小松島航空隊新編 第21航空群隷下に編入
昭和43.11.30 第221教育航空隊 小月へ移転
昭和48.2.20 第121飛行隊新編(第101航空隊内)
昭和49.2.16 第211教育航空隊 鹿屋へ移転
昭和49.11.27 第121航空隊新編
昭和56.3.27 第122航空隊新編 第21航空群隷下に編入(大村)
昭和62.12.1 小松島航空隊新編 呉地方隊へ編入
第122航空隊 第22航空群(新編)に編入
平成1.3.17 第124航空隊新編
平成10.3.20 第124航空隊、第123航空隊に編成替(隊番号の変更)
平成10.12.8 第21支援整備隊廃止、第21整備補給隊新編
平成13.3.24 舞鶴航空基地隊、舞鶴航空分遣隊、舞鶴整備補給分遣隊新編
平成20.3.26 第21航空群部隊改編
第101航空隊、第121航空隊、第123航空隊廃止
第21航空隊(館山)新編
第73航空隊(硫黄島航空分遣隊、大湊航空分遣隊)新編
隷下に編入( UH-60J型 ヘリコプター配属)
舞鶴航空基地隊、第123航空分遣隊、第2整備補給分遣隊廃止
第23航空隊(舞鶴)新編
大湊航空隊廃止、第25航空隊(大湊)新編

海上自衛隊館山航空基地の役割

館山航空隊は戦後の航空部隊としては日本で最初の部隊です。その後組織はめまぐるしく変わってはいるものの、館山の基地は航空基地ということには変わりなく、現在では海上自衛隊最大のヘリコプター基地となっています。ではここで基地の役割について見ていきましょう。
まずは海上自衛隊の編成図をご覧ください。

このように複雑な体系をしていますが、館山の基地を使用しているのは海上自衛隊の航空集団の中の第21航空群というところです。この第21航空群はさらにいくつかの部隊から編制されており、館山を使用しているのは司令部と4つの部隊ということになります。
おもな任務は次のとおりです。

海上防衛・沿岸警備
SH-60

艦載型ヘリコプターの母基地としての役割を担っています。有事には護衛艦にヘリコプターを搭載し、艦艇と一体となって海上防衛や沿岸警備にあたります。

災害派遣
救難訓練

さまざまな災害の際に被災者救助にあたります。昨年の東日本大震災でも被災された方々の救助を行いました。

 

急患輸送
急患輸送

おもに伊豆諸島や小笠原諸島などにおいて、島内で診療できない急患を本土の病院へ輸送します。都知事の要請により出動するもので出動回数は1500回を超えています。

 

海外派遣
アデン湾

海賊対処法に基づきソマリア沖アデン湾の安全確保のための部隊を派遣しています。

 

後方支援

航空機の整備、補給基地としての役割や、航空機の安全な運航をサポートするための航空管制なども重大な任務です。

 

こうしてみると、単に国防のためだけではなく、有事の際には幅広く活動してくれていることがよくわかりますね。

 

館山市との関わり

このようにさまざまな任務を帯びた自衛隊基地ですが、館山との関わりはどのようなものがあるのでしょうか? 直接的な館山市との関わりといえば、まずは自衛官の皆さんそのものの存在です。基地で勤務する自衛官の数はおよそ1000名にものぼるとのことで、その家族のみなさんも加えると自衛隊関連の方々だけで館山市の人口の4~5%ほどにも上ることになります。また、以前館山基地に勤務した経験のある方が、除隊後館山に戻ってくるケースも少なからずあるようです。人口が微減し続けている状況下では、その抑制にもひと役買ってくれていることになりますね。

ヘリコプター体験搭乗

また、自衛隊基地は市内で行われるさまざまなイベントにも参加・協力してくれています。たとえば今年の7月1日(日)に開催される「たてやま海まちフェスタ」では基地の一般開放を行います。当日はヘリコプター体験搭乗、フライトシミュレータ体験、「交通艇」乗船体験などの体験型イベントのほか、ヘリコプターの地上展示や館空カレーの販売など各種イベントを計画しています。また今年は7月8日(日)に開催される館山わかしおトライアスロン、通称「タテトラ」では、競技会場として基地の一部を開放してくれています。このほかにも、ヘリコプターの編隊飛行を見られる秋のヘリコプターフェスティバルや、冬のクリスマスコンサートなどさまざまなイベントを開催しています。

 

観光地?としての自衛隊基地

館山航空基地資料室

このように館山市民と深く関わりのある自衛隊基地。あまり知られていないようですがイベント以外でも一般の方の基地見学も受け入れてくれているんです。
こちらは事前申し込みが原則となっていますが、実際に使われている航空機や資料室などを見学することができます。資料室には膨大な数の自衛隊関連の模型や自衛官の制服の変遷を示す展示、基地の歴史紹介パネルなどがあり、自衛隊や館山航空基地についての知識や情報を多角的に得ることができます。また、制服を着用しての撮影コーナーや部隊ワッペンの販売なども行っており、軍事マニアや航空マニアならずとも楽しめる内容です。実際、自衛隊基地見学をコースに組み込んだツアーも数多くあるそうで、そういう意味では館山市の観光素材のひとつともいえそうです。

制服着用コーナー

敷居が高いと思われがちな自衛隊ですが、この機会に一度じっくりと基地について考えてみてはいかがでしょうか。自衛隊や基地への印象が少し変わるかもしれませんね。

 

たてやま海まちフェスタ

日時:毎年7月に行われます。
場所:渚の駅、海上自衛隊館山航空基地など

ヘリコプター体験搭乗の事前公募

当日体験搭乗いただく方を下記要領にて事前公募中!応募締切日は6月19日(火)必着です。
対象:小学生~26歳まで(小学生は保護者1名同伴での搭乗が必要となります)
方法:お一人様1枚の往復ハガキに、住所、氏名(ふりがな)、年齢、学年、電話番号、保護者氏名(小学生のみ)を記入のうえ下記まで郵送願います。
郵送先:〒294-8501 千葉県館山市宮城無番地 海上自衛隊 第21航空群司令部 広報室
問合せ先:第21航空群司令部 広報室0470-22-3191(内線:208)
自衛隊基地一般見学
基地内は事前予約により一般の見学も可能。予約は希望日の2週間前までに!
見学対応時間:月~金曜の9:00~12:00、13:00~16:00(土・日曜、祝日は要問合せ)
所要時間:上記時間内で1時間~1時間30分程度(人数によって多少変動あり)
予約・問合せ先:
〒294-8501 千葉県館山市宮城無番地 館山航空基地 第21航空群 司令部・広報室
電話0470-22-3191(内線208) (電話は平日8:30~16:00にお願いします)
メールアドレス:21aw-ckouhou@inet.msdf.mod.go.jp

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