竹原地区 竹原

地域の紹介

 竹原区は館山市の東部内陸に位置する九重地区に属し、周囲を丘陵に囲まれる山裾の集落から見渡せば広大な平野部が広がり、九重地区の中でも一番の米作地域です。古くは条里制の跡も見られる古代から開拓された地域で、昭和に行われた圃場整理により田の大きさが整備され一層の農業の振興が図られた結果、機械化農業が進み現在は兼業農家が増えています。
 田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の五集落から成り立ち、現在は百二十世帯ほどで、各集落から選ばれた区長、氏子総代を総区長がまとめる形で竹原地区が運営されています。
 竹原の山の上から移された樹齢千年ともいわれる御神木のビャクシンが長年にわたって集落を見守っています。
 また、地域の方々から「お不動様」と呼ばれ親しまれている「滝ノ谷の不動様」、田村の「春光寺」といった史跡名刹に囲まれていて、豊かな自然と歴史に育まれながら、今も昔も五つの集落が手を携え協力しながら生活を営むつながりが受け継がれた、心暖まる地域です。

自慢の神輿と屋台

迫力のある胴ばめ彫刻
 竹原地区には、日枝神社の氏子である田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の竹原五組の人たちによって維持管理されている神輿と、田辺地区が所有している屋台があります。また、昭和三十五年に山荻地区から白木の神輿を譲り受けており、今は二基の神輿を持っていて、黒と朱で塗られた神輿を「黒」、白木の神輿を「白」と呼び、現在は「黒」の神輿で祭礼を行っています。
15枚菊紋などの飾り金具と見事な彫刻
 黒と朱に染められた神輿の制作年代は明治中頃と思われ、彫刻は房州後藤流の彫刻師で館山市国分の後藤喜三郎橘義信による見事なものが施されています。老朽化が進んだことで平成十二年と平成二十年の二回にわたって大修理が行われて、胴張め彫刻なども増やして見事に美しく重々しい姿になって現在に至っています。黒を基調として塗られた本体には十五枚菊紋をはじめとする金の飾り金具が美しく光っている自慢の神輿です。
 田辺地区が所有している屋台は昭和二十四年に南房総・御庄大工の岡田氏が制作しました。唐破風の屋根の懸魚に彫物をつけ、当時は正面の提灯には田辺地区の「た」の文字が入れられていました。
 一つの大太鼓と三つの小太鼓を載せて地区内をゆっくりと引き回される自慢の屋台です。

昭和24年に新造された竹原地区田辺の屋台
●屋根 : 延屋根方形普及一直線型 ●蕨手 : 普及型
●造り : 塗り ●露盤 : 桝型 ●棰 : 棰
●胴造 : 平屋台 ●舛組 : 五行三つ手 ●扉 : 前後扉
●鳥居 : 明神鳥居 ●台輪 : 普及型
●台輪寸法 : 三尺六寸三分 ●制作者 : 不明
●彫刻師 : 後藤喜三郎橘義信 ●制作年 : 明治時代

日枝神社

御神木のビャクシン「柏槇」
鎮座地:館山市竹原字山王八六〇
●祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)
●宮司 黒川 彰
●社格 旧指定村社
●神社紋 十五葉菊紋
●鳥居 両部鳥居
●境内坪数 五百四十坪
●氏子数 百二十戸
●例祭日 毎年十月十日

◎由緒

朱に塗られた両部鳥居
 竹原地区総社である日枝神社は、文徳天皇の仁寿二(八五二)年、近江国の日吉大社を勧請し、慈覚大師が創建したとされています。里見氏及び徳川氏より、社領五石を給わっていました。明治の初めの神仏分離令までは、「今宮山王大権現」といいましたが、明治三年に「日枝神社」と改称しました。大正時代中頃までは、競馬、流鏑馬が社前で行われていました。
拝殿からみた参道
 朱色に染まった鳥居脇に立つ御神木のビャクシン「柏槇」は、元は山上にあり、漁師たちの大切なヤマタテ(目印)とされた古木だったが明治の頃、落雷を受けた後に今の場所に移され、交通安全の護りとされています。六月には「虫送り神事」が執り行われています。また、神社拝殿には房州後藤流初代義光の直弟子で地元竹原出身の後藤利三郎橘義久が手掛けた神号額があります。
旧九重村真岡(現在の田辺)出身の後藤利三郎橘義久による神号額
 一月四日・歳旦祭、二月十一日・祈年祭、十月十日・例大祭、十一月二十三日・新嘗祭を、田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の五組の人達で執り行っています。 

自慢の祭

日枝神社の前で高々と差す神輿
 竹原地区の祭礼は、田村、相賀、滝ノ谷、横枕、田辺の各地区からの代表により祭礼委員会を組織し、会長、副会長、会計等の役員を中心に、近年より祭を盛り上げようと行っている打ち上げ花火の担当なども設け、五地区の総社である日枝神社の祭礼として神輿などの準備から運営までを皆が協力し合い執り行っています。
 以前の祭礼日は十月十日でしたが、古くは七月十四日に行われていた田辺地区の屋台の祭礼とも毎年協議し、現在は日枝神社の神輿、田辺の屋台が一緒になり合同祭として例年十月の第二日曜日に竹原地区全体の祭礼として挙行しています。
 祭礼日前日の祭典で神輿の御霊入れが行われ、祭礼当日の朝八時頃には、神輿団長を中心に威勢よく担ぎ出された神輿の渡御が始まります。竹原地区には現在、白木の神輿と黒と朱で塗られた神輿があり、白木の神輿は神社前に飾られ、塗りの神輿が今は主に担がれています。
 木遣り、そして神輿歌を歌いながら担ぐのが特徴で、近隣から手伝いに来てくれる担ぎ手とも力を合わせ互いの交流を重んじながら、相賀の八幡様や滝ノ谷の神明神社など、各地区ごとに勢い良く差す場所では、皆の気分も高揚し祭りはより活気に包まれます。
 田辺地区の屋台は、戦後しばらく時代の風潮で日枝神社の神輿とともに祭礼が行われない時期がありました。 昭和三十四年頃から屋台小屋にずっと閉まわれたままだった屋台は朽ちており、修復する為に動かない屋台を神社に飾り、地元の婦人会が盆踊りをしてくれるなど、多くの区民の「子ども達のために」という熱い思いが集結し、おかげで寄付も集まり、昭和五十二年頃、約十八年ぶりに屋台も小屋も修復され祭礼が復活。その少し前にすでに復活していた日枝神社の神輿とともに今日に至っています。
田辺の屋台を引く元気な子どもたち
 現在は田辺地区の中の「睦会」という組織が中心となり、屋台運行における進行、交通、会計など、準備から運営までの祭礼行事を地区が一体となって支えています。毎年祭礼前に二週間程行われる太鼓練習には、田辺だけではなく九重地区全体からも二〇人程の子ども達が集まり、馬鹿囃子や三切りなどの太鼓や笛の練習に熱心に励んでいます。また自分達が使う太鼓のバチ作りは地元の大工さんの所に手伝いに行き、花折りもします。他にも屋台に飾る人形や子ども神輿を手作りするなど、地域の皆で助け合い支え合う精神が息づく、優しい温かな伝統を残しています。
 祭礼当日、地区内全域を所狭しと練り歩いていた神輿も屋台も、夕方には日枝神社前に戻ってきます。そこに祭礼日が同じでずっと交流の続くお隣の江田地区の屋台も合流し、夜八時頃には花火も打ち上げられ、いよいよ竹原地区の祭礼もクライマックスを迎えます。
 揃った神輿の白張、屋台の半纏、そしてピンクの鉢巻きで統一された祭りの情景が、華やかで一体感のある風情を醸し出し、高揚した神輿の担ぎ手と屋台からのお囃子の響きが賑やかに共鳴し合う、笑顔に溢れた自慢のお祭りです。


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館山市竹原 竹原(表面) 館山市竹原 竹原(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

神戸地区 洲宮

地域の自慢

 洲宮地区は市内から国道410号線の切割を少し過ぎた辺りから、国道を挟み、洲宮川が平砂浦に注ぐ辺り迄の細長い地域です。以前は、砂地を生かした「洲宮の西瓜」がブランドとして多く生産されていましたが、今は花栽培農家に変わってきました。
 毎年一月一日に行われる「御田植祭」、八月の例大祭、九月の安房国司祭への出祭、風雨の災いが少ない事への感謝する「風祝い」、十一月の新嘗祭や御狩祭など毎月なにかしらの行事が多く行われています。
 現社地や南方の山「魚尾山(兎尾山とも)」からは、古代祭祀遺跡と伺える土器が発掘され、その歴史の深さを物語っています。祭礼時に「御浜出神事」が挙行される明神山あたりは、大昔は山麓まで海が迫っていて、今もこのあたりの畑から貝殻などが出土されています。
 古代からの生活が育まれてきた歴史を感じる、100世帯ほどの人達が営む長閑な自慢の地域です。

自慢の神輿

黒の漆の屋根に輝く五七の桐紋
 洲宮区自慢の神輿は八月初旬の洲宮神社例大祭、九月中旬の安房国司祭(やわたんまち)に出祭しています。
 昭和五十年と平成十一年には、室町時代に創業してから十六代五百年続いたと言われる行徳の浅子神輿店にて大修理が行われました。
 神輿の屋根には五七の桐紋が輝き、美しい黒の漆で塗られた神輿本体と、垂木、斗組、彫刻にはられた金箔、鳥居、囲垣などは朱で彩られていて、木肌が全く見えないのが特徴のひとつです。
金箔と朱で彩られた鳥居や囲垣
 担ぎ棒はやや短めにして、小回りがきくように、また安全性も考慮しています。屋根の勾配がやや深く膨らみのある丸びを帯びていて、胴部分はしまった形で、スマートかつバランスの取れた美しい意匠となっている自慢の神輿です。

●屋根:延べ屋根 ●蕨手:普及型 ●造:漆塗り
●露盤:桝型 ●垂木:扇形 ●胴の造:二重勾欄
●舛組:五行三手 ●扉:四方扉 ●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型 ●台輪寸法:3尺4寸
●制作者/制作年:不明

洲宮神社

洲宮神社
館山市洲宮字茶畑九二一
●祭神 天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)
●宮司 朝倉良次
安房神社祭神の后神で、元の名は「洲ノ神(すさきのかみ)」。
例祭 八月十一日、九月十四日(鶴谷八幡宮に出祭)

明治15年に作られた、洲宮神社の祭神「后神天比理乃咩命」と書かれた神名の額。書いたのは当時の内務省内務大書記官の桜井能監。関東大震災の時に半分破損した。

◎由緒
 安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀っています。平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記載された格式高い式内大社。「式内大社」については、当社と同神である西岬の洲崎神社との間で長らく論争となっています。また、祭神が西岬の洲崎神社と同神であることから洲崎神社が拝所、当社が奥宮である二殿一社であるとも言われています。
 もとは県道をはさんで反対側の魚尾(トオ)山に鎮座していましたが、文永十年(一二七三年)の火災で焼失したため、現在地に移転したと言われています。
 社領は里見氏の時代に洲宮村に三石、洲崎村に4石を寄進され、江戸時代も幕府から洲宮村で七石を寄進されていました。
 境内出土の祭祀用土製模造品と洲宮神社縁起、南北朝時代の木造天部立像が市の文化財に指定されているほか、毎年一月一日に農耕神事として行われる御田植神事も市の無形文化財に指定されています。

自慢の祭

安房国司祭で鶴谷八幡宮に入祭する洲宮神社
 洲宮の神輿が出祭するのは、八月の洲宮神社例祭と九月に行われる安房地域最大の祭礼「やわたんまち」です。
 「やわたんまち」初日の出発は午前八時ごろ。安房神社の神輿を追い越してはならない習わしのため、神社前を通り過ぎるのを待ってから渡御します。その昔は、鶴谷八幡神社まで全て担いで行きましたが、現在は館山病院周辺までトラックで運び、そこから市内各所を回って鶴谷八幡神社へ向かいます。天狗を先頭にした安房神社が鶴谷八幡神社へ入ると、いよいよ洲宮の鶴谷八幡神社入祭です。二の鳥居から本殿まで一気に走り抜ける姿は観客を大いに盛り上げます。
 境内でもみさしを繰り返したのち、御仮屋に神輿を鎮座させ、その後は決められた御旅所である山崎勝平さん宅で休憩します。区の役員たちは宿泊し、「宮番」と呼ばれる神輿の見張りを行います。かつては「八手(やて)」と呼ばれる八人が神輿の管理や道中の休憩所の世話、そして宮番時の炊事などを全て担当していましたが、現在は役員自ら分担しています。
 二日目はすべての神事が終わった後、午後五時に安房神社の還御が始まり、二番目に洲宮神社が還御します。一晩休んだ担ぎ手は力を取り戻し、境内でのもみさしは祭り全体のクライマックスを導きます。その際、安房神社の担ぎ手数名が残り洲宮神社を手助けするという慣習が今も残っていて、洲宮神社の祭神と安房神社の祭神が夫婦であるということでこのような場面が見られるのも「やわたんまち 」の醍醐味です。
 八月に行われる洲宮神社例大祭では、神社を出発した神輿は、その昔の神社跡地と言われる「明神山」という小高い山に登って、浜降神事(お浜入り)を行います。「浜降神事だけは必ず行わなければならない」と古くから伝えられてきた大切な神事です。
 
明神山で行われる「浜降神事」


元旦に執り行われる「御田植え神事」
 洲宮神社の伝統的な神事として、昭和四十四年に館山市無形文化財に指定され、毎年一月一日に執り行われる「御田植え神事」があります。氏子の古老を「作男(さうでえ)」と定め、耕作の「牛」として地区内の新婚や既婚の男子を一人決め、拝殿前の広場で餅や籾、苗などを供え、竹製の鍬を置いて、 「月もよし 日もよし神の御田うない申す」 と作男が三回唱えると、子どもたちが竹製の鍬でうなう所作をするなど、千葉県内でも有数の神事です。
 伝統と仕来りに守られた神輿祭や御田植え神事は、洲宮に暮らす人々の心に生きる自慢の祭です。

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館山市神戸 洲宮(表面) 館山市神戸 洲宮(裏面)

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神戸地区 中里

地域の自慢

 太平洋を望む平砂浦に注ぐ巴川の河岸段丘に展開する地区です。
 里見氏以前の有力武士がいたとされる室町時代作の「天田やぐら」と言われる4基のやぐらや、五輪塔などが残されており、八坂神社の別当寺である「金蓮院」のまわりの小字名には、寺にまつわる字名「塔の下」「塔〆」などがつけられています。
 農業を営むなか、田畑が少ないため、漁師の手伝いをするなどの「半農半漁」や、外へ勤める人が多く、昭和六十二年に安房地域で初めて開設された知的障害者施設「中里の家」を区民で温かく見守っています。
 毎年八月九日に行われる祭礼に向けて、一月二日の青年団が主となる「歌い初め」、十三日の「十三日こもり」、二月十四日の区民総出の「おびしゃ」、十一月二日の「日待ち」などのたくさんの行事を、四十二世帯ほどの人々で継承している自慢の地域です。

自慢の神輿

 中里区の神輿本体の近年の調査の折に、神輿胴体内に明治三十年の墨書きがあることがわかりました。
 そこには当時の役員面々の名前と一緒に
「神戸村中里区
 八坂神社
 神輿改造
 明治丗年
 八月八日
  祓式執行

神輿内面の墨書き
 北条町北条
   大 工 羽山権之助
   彫刻師 後藤利平義光
 北条町長須賀
   金物師 滝川嘉吉
 冨崎村相濱 
   塗 師 中村清次郎」
と書かれています。
 この墨書きには「神輿改造」の文字が見えることから、中里区では明治三十年以前から神輿を持っていて、その神輿を明治三十年八月に大工、彫刻師、金物師、塗師が関わっての大幅な修理あるいは改装が行われ、今に伝わっていると思われます。
 神輿本体は小ぶりながら、塗りや金物も美しく仕上がられていて、それぞれの場所に後藤利兵衛橘義光の彫刻がきっちりと納まっているバランスのとれた風格のある自慢の神輿です。

●屋根:延屋根方形一直線型 ●蕨手:普及型 
●造:塗神輿 ●露盤:桝形 ●胴の造:平屋台 
●舛組:五行三手 ●扉:四方扉 ●鳥居:明神鳥居 
●台輪:普及型 ●台輪寸法:3尺6寸6分
●神輿製作:明治30年(1897)
●彫刻師:後藤利兵衛橘義光(83歳) 
●大工:北条町北条・羽山権之助
●金物師:北条町長須賀・滝川嘉吉 
●塗師:冨崎村相濱・中村清次郎

きっちりと納められた後藤利兵衛橘義光による彫刻


八坂神社

千葉県館山市中里字下台一一七
●祭神 建速須佐之男尊(たけはやすさのうのみこと)
●宮司 浅倉良次
●例祭日 八月九日
●境内神社 稲荷神社
●境内坪数 252坪


◎由緒
 昔は祭神は「牛頭天皇」ともいわれ、中里八坂神社は天王様とも呼ばれています。
 境内には、石棒や元文元年(一七三六)の棟札、安永二年(一七七三)の手水石や力石三個などが残されており、創建は不詳ながら、江戸時代中期からの史跡が多く残っています。
 社殿裏には、青面金剛像を刻んだ庚申塔や牛頭天皇の石宮、浅間様の小さな祠があり、氏子たちの信仰心の篤さが伺えます。

自慢の祭

安房神社一の鳥居前での勇壮な“もみ”
 およそ四十戸あまりの子どもからお年寄りまで区民総出で行われる中里の神輿祭は、毎年八月九日に神輿御魂入れを行い、十日には安房神社を目指して渡御が行われる。中里の神輿は、前を低くして走るのが特徴ですが、近年に担ぎ棒を檜の長いものに替えてさらに担ぎやすくなりました。
 その昔は、 八月九日に八坂神社を出発して安房神社へ向かい、その日は安房神社の御仮屋へ泊まり、翌日に安房神社と中里の二社の神輿で相濱の海岸へ御濱出へ行ったそうです。
安房神社へ入祭
 安房神社一の鳥居から二ノ鳥居までのおよそ参道が松の木だった頃は、その参道を一気に駆け抜けて、本殿につけたということです。
 現在では、十日だけの渡御になっており、区内廻りでは中里の家子ども神輿をお借りして大神輿と一緒に区内を回ります。そして安房神社へ参拝した後、区内に戻ってからは全部の家の前で神輿を高々とさしながら区内をくまなく回ります。
 そして八坂神社へ戻ってきてからは、最後の盛り上がりで、集会場の前のおよそ200メートルの道を、多いときには十往復以上も走り、祭の余韻を楽しみます。
 子どもからお年寄りまでの地区民が一体となった、温かい自慢の祭りです。

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館山市神戸 中里(表面) 館山市神戸 中里(裏面)

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西岬地区 香

地域の紹介

 鏡ヶ浦の南に位置しする地区で、「香」と書いて「こうやつ」と読み、そのいわれは昔、谷のほうから良い香がしたからではないかと言い伝えられており、現バス停の標識名には「香谷」と書かれています。また、平城京跡で発見された奈良の都へアワビを運んだ荷札にも、香の語源と思われる「賀宝(かほう=かほり=かおり)」という地名と、「塩海(しおみ)」という地名が書かれていました。
 市の指定文化財になっている応永八年(1401)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、里見の出城と伝承される「要害」、室町時代の作と考えられる金剛寺にある「如意輪観音像」、今もはっきりと痕跡が見られる旧海軍航空隊の「掩体壕跡」などが残る歴史深い地区です。
 海水浴客が多かった昭和の頃までは民宿も多く、漁師も大勢いましたが、今は少なくなり長閑な風景が広がる、百世帯ほどの人々が暮らす海沿いの地区です。

自慢の神輿

房州後藤流三代後藤義光の彫刻
 香の神輿は昭和五年(1930)に製作された白木の美しい神輿で、富浦の宮大工により製作され、飾りは北条長須賀の滝川錺師によるものです。そして、神輿本体には千倉町の房州後藤流三代目後藤義光による彫刻がところ狭しと施されています。特に「神武天皇東征の図」などの胴羽目に施された彫刻は、どれも神輿本体から飛び出して来るような厚彫りの見事なもので、三代後藤義光の代表作ともいえる彫刻です。
 神輿の重量はおよそ米俵9俵(約540キロ)と言われ、白木の大きな屋根には金に染められた桜紋が輝きます。
 平成三年(1991)には行徳・中台にて大殿神輿の大修理が行われ、同時に子供神輿も奉製されました。そして平成十二年(2000)には、大殿神輿奉製七十周年記念が行われています。
 祭礼日には白木の屋根に光る大きな「桜紋」が、夏の陽射しに照らされ誇らしげに揺れる自慢の神輿です。

房州後藤流三代後藤義光の彫刻
●屋根:延屋根 ●方形:普及一直線型
●蕨手:普及型 ●造:白木
●露盤:桝型 ●棰:棰
●胴の造:二重勾欄 ●桝組:五行三手
●扉:前後扉 ●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型 ●台輪寸法:三尺五寸 
神武天皇東征の図
●制作年:昭和五年 ●制作者:富浦の宮大工
●彫金:長須賀・滝川 ●彫り物:三代目後藤義光

浅間神社

香 浅間神社
千葉県館山市香字稲荷森九八三
●祭神 木花咲耶姫命 (このはなのさくやびめ)
●宮司 酒井昌義
●例祭日 毎年七月十五日

◎由緒
 神社入り口には、寛政十三年(一八〇一)に地元の弥惣兵衛が奉納したと刻される手水石が残っています。

海岸へ向かう参道にある浜鳥居
 浅間神社下から海岸へ向かう参道には、浜鳥居が置かれ、そこには文政十年(一八二七)に奉納された石灯籠が立っています。
 また、裏山山頂にある奥の院の手水石には、天保十一年(一八四〇)の文字が刻まれています。
 拝殿の中には元禄時代に修復したとされる木札がも残っており、江戸時代中期からの深い歴史がうかがわれます。
 毎年、五月三十一日の早朝に、氏子たちが男道、女道とに分かれて浅間神社を参拝し、御三幅の掛け軸を拝みの御本尊として「お富士講」が今でも連綿と行われています。

自慢の祭

香海岸の渡御
 「浅間神社」と書かれた大幟が浜鳥居参道の両脇に立てられると、香の祭礼が始まります。
 昔の香の祭礼は、七月十四日に祭典と宵祭を行い、十五日が本祭、十六日には納めが行われ、三日間にわたり祭礼が行われており、十七日に御霊返しを行っていました。
 当時は大殿と中殿を擁し、きらびやかな装束に兜をかぶった天狗やおかめを先導役にたてて行列をなし、西岬地区見物の海南鉈切神社まで渡御し、香、潮見、浜田、 見物の4地区とで合同祭礼が執り行われたこともありました。
浜鳥居の前の参道を抜けて海辺へ
 その当時に立てた大幟はじめ、神輿行列に加わったと思われるおかめの面や衣装なども、現在、神社境内にある旧集会所でにて大切に保管されています。
 香の現在の祭礼は、青年団員からなる「香会(かおりかい)」が中心となって準備から神輿渡御までを執り行っています。少子高齢化などの影響により、神輿の担ぎ手も子ども少なくなりましたが、手伝いの人たちを入れておよそ50~60人の人たちによって、午後一時から夕方までの時間に神輿渡御が行われます。
大切に保管されている昔の衣装など
 昔ながらの神輿唄をとぎれることなく唄いながら、はじめに浜鳥居を抜けて、その後は町内各家を隈なく回ります。その神輿渡御の姿は、昔と変わらぬ伝統を継承した、香の風景に溶け込んだ自慢の祭です。

くまなく地区内を巡行する大神輿
大神輿と小神輿

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館山市西岬 香(表面) 館山市西岬 香(裏面)

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那古地区 芝崎

地域の自慢

 那古山の南側に位置する地区で、江戸時代には那古寺の寺領であり寺赤、宿、芝崎として、内房随一の観光・商業地であり、また、那古寺の門前町としてもおおいに栄えていました。
 那古寺の境外仏堂で寺領区域内の「芝堂」と呼ばれる墓地には、全国各地から商人が集まってきたとみられる「大和屋」、「越後屋」などの墓碑銘が数多く見受けられます。
 毎年一月の第二日曜日に区内十一斑が持ち回りで「おびしゃ」が集会所で行われます。古式に則り、入口に「山王大権現」、「千手観音菩薩」と書かれた幟を立て、集会所の床の間を背に右から「千手観世音」「日吉山王宮」「千手観世音菩薩」と書かれた三幅の掛軸を前にして行われます。区所有の有文書には、江戸時代の貴重な「おびしゃ」の記録が多く残されており、また十五日講と呼ばれる昔からの行事も受け継がれています。
 昭和の頃までは、職人さんが多く住まわれていた地区で、明寿会、壮年会、青年団、さくら会、子供会などの組織をもとに、百十五世帯余りの人々が暮らす、古い仕来りが受け継がれている地区です。

自慢の山車

囃子座前柱の「高砂」
 芝崎自慢の山車は、那古町内の山車の中でも小ぶりながらもバランスの美しい山車で、明治三十年以前の山車と云われています。
 そもそも芝崎町内は狭い道が多く、町内の隅々までお祭りを届けようと山車全体が小ぶりになっています。昭和二十二年までは固定式一本棒の舵棒をつけていましたが、現在では狭い道を曳き廻すために舵棒を90度曲げることのできる仕組みに変わっています。
 山車彫刻は囃子座の上で翼を大きく広げた鳳凰が前方を見守り、前柱の相生の松、上に鶴、下に高砂の尉と姥が立つ姿、下高欄胴の亀など、おめでたい彫刻が主体となっており四隅の金剛力士の彫刻も豊かな表情で見る人たちを飽きさせない、芝崎自慢のひとつです。
初代後藤義光作の力士彫刻
 人形は天照皇大神でそのすらりとした気品あるたち姿と慈愛に満ちたまなざしは見る人を魅了します。
 また高欄を上げる際の人形と高欄が一緒に上がる仕組みは今も昔も変わらない仕組みになっています。
 平成二十八年に新調した桁の欅の扱いには、トクサで磨いて真綿で仕上げ蜜蝋(みつろう)をすり込むというこだわりをもち、平成二十九年には大幕とどろ幕を新調しました。また山車全体の骨組みも修復しましたが、山車の寸法を昔と変えないことにこだわった結果、美しいバランスのとれた自慢の山車は健在です。

こだわりの扱いをしている欅の桁
●地区名:芝崎
●神社名:日枝神社
●制作年:明治三十年以前
●彫刻師:初代後藤義光、後藤義房
●人形:天照皇大神 
●上幕:注連縄 ●大幕:雲に唐獅子牡丹図
●提灯:芝崎に桜花 ●半纏:芝崎の大紋

日枝神社

那古寺境内にある日枝神社
館山市那古六七一番地(那古寺観音堂境内)
●祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)
●宮  司 加茂信昭
●例祭日 四月十四日

「おびしゃ」に使われる三本の掛軸
●由緒
 那古観音堂の奥に日枝神社があります。神仏分離令(慶応四年)までは山王大権現といい、那古寺の裏鬼門を守護する境内鎮守堂でしたが、その後、社号を日枝神社と改称しました。現在は明治維新まで那古寺の寺領であった寺赤・宿・芝崎の三区が其々の氏神として管理しています。
安永四年六月の文字と寄進された方々十八名の名前が刻まれている灯籠
 境内には江戸時代に寄進された四角型灯籠一対とさらに昭和四十年十二月吉日の日付けが入った一対の狛犬があります。向かって右の狛犬、阿形像の台石表面には「奉納」、裏面には「那古芝崎 日の出屋」と刻まれています。
 現在、一月の第二日曜日には芝崎集会所の三本の掛け軸の前で「おびしゃ」が行われます。
 同じく、四月第二日曜日の日枝神社例祭日には「甘酒まつり」も行われて、子供神輿が町内を一巡します。

自慢の祭

那古祭礼での曳き廻し
 「那古観音祭礼」は那古寺の門前町を中心とした六町内の五台の山車と一台の屋台の引き廻わしにより行われます。寺院が取り仕切る祭礼は千葉県では成田山新勝寺と補陀洛山那古寺との二か所と伺います。全国的にも珍しいケースではないでしょうか。
 芝崎組は青年団より総代(祭礼の最高責任者)を二名選出し、十数名からなる団員の献身的な働きにより、準備から運営まで青年団が中心となって祭礼を執り行っています。
 また、交通、防犯、会計等の役割は壮年会も協力し、子供会のお母さん達は祭礼当日門口に飾る花を子供達と一緒に作ったり、祭礼終了後の後片付けにも積極的に参加します。町内会では山車の通り道の小枝払いを行う等町内が一体となって祭礼を盛り上げています。
 祭礼初日の宵祭では町内を隈なく山車の引き回しを行い、地域中に子どもたちの元気な声とお囃子の音色が賑やかに響き渡ります。町内には狭い道も多く、その為那古地区の中ではもともと小振りに作られている山車ですが更に太鼓や提灯までも一度はずして入って行く場所もあります。町内の隅々まで山車の姿やお囃子の音を届けたいという優しさと地域の絆を大切にする深い思いが伝わってきます。
 毎年祭礼前に行われる太鼓の練習会には、小さな子から小中学生まで多くの子ども達が集まり、子どもを会場まで送ってきた若いお母さんも興に乗って参加して一頻り太鼓を敲いたりと、和気藹々とした雰囲気の中で青年団の熱心な指導が連日行われています。また一方「太鼓はゆっくり叩くのが基本」など、子ども達にしっかり芝崎伝統の桴さばきを伝えたいと青年団自体の太鼓の練習会も毎月一回続けています。
 他にも木遣りの歌詞の保存をしたり、手持ちの扇子を作ったり、格調高い伝統のお祭りを心掛けています。更に、祭礼当日頂いたお祝いのお礼に青年が手造りの木札を配ったり、「からし色の襦袢」を揃えるなど感謝の念と連帯感を大切にする芝崎組です。
大人たちに見守られている芝崎の子どもたち
 町内会は平成二十六年に町内の皆様の絶大なるご支援ご協力を得て、芝崎山車修繕実行委員会を発足させました。山車が出来て以来凡そ百年振りの大修繕と聞いております。今年漸く五カ年計画終了の節目を迎えました。青年達が見守る中、今この山車に乗って大幕の周りでのんびりとお祭りを満喫している幼い子供達、綱を引く子、太鼓を敲く子、この子達の子、孫、ひ孫、玄孫の時代になってもこの子達の楽しかった故郷の祭りの思い出が代々語り継がれていくような、そんな穏やかな平和な時代がいつまでも続きますようにと今の芝崎の大人たちの祈りを込めて令和元(二〇一九)年七月の御披露目を迎えます。
 思いやりと地域の絆、伝統と芝崎らしさを尊重した活気と笑顔に溢れる自慢のお祭りです。

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館山市那古 芝崎(表面) 館山市那古 芝崎(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

船形地区 川名

地域の紹介

川名地区を流れるどんどん川
 館山市の北の端に位置し、江戸時代前には「河名」の地名で呼ばれていた古くからある地域です。江戸中期の元禄大地震で隆起した土地を当時の船形村、川名村、那古村の住民たちが開墾し、古川新田、川名新町、那古浜新田などの造成やどんどん川の治水工事を行い、新しい浜の土地「新町」ができ、そこへ住民が移り住みました。
 明治十二年、船形村と川名村が合併し船形村となり、明治三十年に船形町と改称、昭和十四年に館山市と合併し現在に至ります。
 江戸時代に四国から勧請された金刀比羅神社を中心に町が栄え、昭和の頃は料亭、遊郭などが立ち並び、地曳網漁やあぐり網漁が盛況で活気が溢れる漁師町で、大漁時には獲った生簀の数の大漁旗をあん船(網船)が掲げで帰港しました。
 現在は百四十七世帯ほどが暮らす漁師町の面影が残る町で、神社の行事を中心に親密さが伺える地区です。

自慢の山車

 無数の彫刻に覆われた重厚感にひときわ目を引かれる川名の山車。囃子座左右の極太の柱の見事な龍が「忠君愛国」の扁額を挟み、その上の桐の木に鳳凰が鎮座しています。左右の欄間には後醍醐天皇と楠公、後方の柱には牡丹と獅子が彫り込まれ、さらに柱と欄間の角にも龍、山車幕高覧の上にも獅子がはめ込まれ、四方が彫物に囲まれた囃子座に上がれば、自分が彫り物の中に身を置いているような錯覚を感じます。
 四体の力神が支える下高覧には、枠には収まりきらないような生き生きとした龍、中高覧は雲間に麒麟、波間に鯛と千鳥、上高覧は波間に鯛、欄干に絡む龍の彫物と、漁師町としての川名ならではの意匠となっています。中高覧と上高覧の四段は彫物で一体化しており見事な造形美を作り出しています。

鳳凰と龍に囲まれた迫力ある山車正面
 人形は臨月の神功皇后、下方に目を向ければ、左右90度近くまできれる梶棒と土台の桁前方が反りあがっているのが特長的で、桁の反りは昔、砂浜へ山車を入れる「御浜出」の際に曳きやすくしたものと言われています。
 幕には竹林の虎と龍の刺繍が施され、後方には川名区の中でも海側の漁師町であることから「川浜」と呼ばれていた通称がその誇りとともに刺繍されており、提灯にも同じく「かわはま」の文字が描かれています。
 川名には大山車と金毘羅神社の夜宮に引き廻す小山車があります。現在の大山車は二台目で昭和十一年七月にお披露目されました。昭和三十三年には地元館山の長須賀にて幕を新調し、昭和五十六年人形の衣装新調、平成二十年には美術大学の協力で幕の修復が行われています。
見事な彫刻と「川浜」と書かれた幕
 その間道路の舗装に伴い低くなった鉄橋の高さに山車の高さを合わせるために全高を低く抑えたり、区民の意見により祭礼が休止された期間もありましたが、現在では新たに発足した青壮年会を中心に区民総出で準備や当日の引き廻しを行い、活況を呈した漁師町の豪華な山車と賑やかなお祭りの風情を今に伝えています。

●制作年:昭和十一年七月
●彫刻師:後藤義孝(三代目後藤義光の弟)
●山車額:忠君愛国 ●人形:神功皇后 

御浜出の際に曳きやすくされた反った土台
●上幕:注連縄 ●大幕:竹林の虎と龍
●提灯:かわはま ●半纏:天狗の羽団扇

金刀比羅神社

千葉県館山市川名字新町七五三の一
●祭神 大物主神(おおものぬしのみこと)
●宮司 石井三千美
●例祭日 七月九日
●由緒 

「四國之本社御分離昭和二十四年」と刻まれた「金刀比羅神社」の石碑
大正十年に建てられた「琴平神社」の石碑
 金刀比羅神社は、江戸時代末期に四国からきた漁師たちが「海の神様」として漁業、航海など海上の安全の守り神である大物主神を祀る金比羅神社を船形の人と協力して建てられたと伝わっています。その後、四国から神宝を移し、地区民により何度か修復されて現在に至っています。
 手水舎は天保十五年(1844)五月に奉納されており、大鳥居の前には、大正十年に建てられた「琴平神社」の石碑と、「四國之本社御分離 昭和二十四年七月十日」と刻まれた「金刀比羅神社」の石碑が両側に立てられています。
拝殿扉にある紋
 社殿は内削ぎの千木に七本の鰹木をのせた堂々とした神明造。拝殿の二枚の扉には金で塗られた「○に金」の文字が光っています。
 山の中腹を切り開いて造られた小高い境内地からは鏡ヶ浦が一望でき、昔から川名の人々の篤い崇敬を受けてきた歴史を感じさせる風格のある神社です。

自慢の祭

木遣りの後の威勢のよい曳き廻し
 川名区は、青壮年会を中心に会長が祭礼委員長を務め、区や子ども会等、区民が一体となって祭を盛り上げ、準備から片付けに至るまで取り組んでいます。
元々は船形地区の総氏神である諏訪神社の例大祭と、川名地区の氏神様である金刀比羅神社の祭礼は別に行われていましたが、現在では船形地区の五地区とともに諏訪神社の例大祭に大山車を出祭しています。宵祭の日中には小出車も区内を所狭しと曳き廻され、届けられたお囃子の音色が街中に響き渡ります。
2尺の大太鼓が鳴り響く
 金刀比羅神社の祭礼も毎年七月九日の金刀比羅神社祭礼も宵宮の夜、行事の潮ごりを青壮年で神社から砂浜間を三度甚句を歌いながら裸足で行います。
 祭礼前には、金刀比羅神社の社務所にて太鼓の練習が行われ、以前は「浜友会」という子ども達の太鼓の会が活動していた時期もありましたが、今は青壮年会を中心に、ばか・さんぎり・速ばか・大漁節等のお囃子を子ども達に教え伝統を伝えています。
 特に合同曳き廻しで他地区とお囃子で競り合う時や、坂道を上がる時の木遣りの後の曳き廻しでは、威勢の良い速ばかを叩くのが特徴です。
伝統として継承されている「提灯迎え」の儀式
 川名区では木遣りがこよなく愛され、多くの歌い手が自慢の喉を披露して祭礼に趣を添えます。昔は我先にと大勢が同時に歌い始め、最後に残った者がその時の木遣りを取るという競い合いや、引き綱の両側で交互に歌い合い、一方が「あざが付くほど、つねっておくれ、あとでのろけの、種にする」と歌えば、もう一方は「あざが付くほど、つねってみたが、色が黒くて、わからない」と返し、都々逸(どどいつ)のような楽しみ方は川名区らしい深い味わいを感じさせます。
 また宵祭での、川名・船形地区側の川名区と根岸区、隣り合う那古地区側の濱組と寺赤組との間で互いに交わされる「提灯迎え」の挨拶は、現在でも大切な伝統として継承されています。
 漁師町として威勢が良かった川名区の祭礼と、立派な山車を今に伝えつつ、神社紋と同じ天狗の羽団扇の半纏の大紋もそのままに、威風に満ちた自慢のお祭りです。

船形諏訪神社の例大祭

浜出しで勇壮な曳き廻しを行う川名の山車
●祭礼日 七月第四土曜日・日曜日
 船形地区の総氏神である諏訪神社の例大祭には、川名、大塚、堂の下、浜三町、柳塚、根岸の六地区から、山車、屋台、御船が出祭します。
 昭和五十年初め頃までの船形祭礼の見せ場は、なんと言っても山車を砂浜に入れて曳き回す「浜出し」でした。山車の前車輪部に丸太で組んだやぐら入れ、持ち上げては引っ張り、また持ち上げては引っ張るの繰り返しで引きずり進みます。屋根の上では大漁旗が威勢よく振られ、船形の漁師たちの熱い心意気があふれ、その光景は勇壮かつ豪快で、担ぎ手、引き手、観客が一体となった感動の連続でした。しかし昭和五十二年、この浜に防波堤が作られたため、六地区が競った浜出しができなくなり、昭和六十二年堂の下区が行った浜出しが最後となりました。

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館山市船形 川名(表面) 館山市船形 川名(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

館山地区 大賀

地域の自慢

 大賀区は、館山祭礼地区西の端で、西岬との境に位置します。かつては、沖ノ島、鷹の島を望む名勝地と知られ、人家もまばらで「原」と呼ばれた農耕地が広がっていました。原の中ほどの小高い丘に「天王様」と呼ばれた社があり、丘の下には古墳時代の横穴墓が残されています。昭和の時代、洲の崎海軍航空隊が開設された事で、辺りの景色が一変され、今は県道より山側は、昭和三十七年に開設された「国立海上技術学校」があり、その回りは碁盤目のように整備された土地に住宅が立ち並び、旧海軍の砲台跡地には、昭和四十年に深津牧師の尽力で開設された「かにた婦人の村」があります。
 海側には、古くから崇拝され続けている真言宗智山派の寺院「積蔵院」があり、江戸時代後期には寺子屋が開かれていました。現在では浜近くに、ホテルや大学の研修施設が立ち並んでいます。
 江戸時代初期に創建された地区の鎮守様の「御瀧神社」を柱として、三百八十五世帯ほどが暮らすのどかな海辺の地区です。

自慢の神輿

 大賀には昭和三十二年に地元大賀の「孫平」という大工によって作られた「中神輿(ちゅうでん)」がありましたが、地区の方々の篤い思いにより、 平成二十年に浦安市行徳の神輿制作会社「中台」の制作により現在の白木の大神輿が新調されました。その屋根には、三つの左三つ巴が光り、重厚な台輪に腰組作り、白木の神々しさと美しさには目を見張るものがあります。
 御瀧神社の祭神である水波能売命(みずはのめのみこと)に因んで、見事な龍の彫刻が数多く施されているのも特徴のひとつです。また、ふんだんに施された飾り金具の一つ一つにも神輿職人のこだわりが光り、大賀区の人々の熱意と情熱が作り上げた自慢の神輿です。

中神輿
●神社名:御瀧神社
●屋根:延方形普及一直線型
●蕨手:普及型 ●造:白木
●露盤:桝型 ●棰:棰
●胴:二重勾欄前後階段
●桝組:五行三手
●扉:前後扉 ●鳥居:明神鳥居
●台輪:普及型
●台輪寸法:三尺八寸
●制作者:中台祐信
●制作年:平成二十年五月
●地区名:大賀
飾り金具にも神輿職人「中台」の技が光る
 
たくさんの龍が彫られている神輿彫刻

御瀧神社

館山市大賀字曽根三八九
●祭神
水波能売命(みずはのめのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
●宮  司 酒井昌義
●例祭日 八月一日 
●境内神社 稲荷神社
●境内坪数 266坪

●由緒
 御瀧神社の創建は、昭和三十五年まで境内にあった黒松の巨木が樹齢二百数十年といわれていたことから、江戸時代初期に創建されたと思われます。境内には、江戸時代初期の山王大権現の石碑や、庚申講青面金剛石像が今も残され、歴史の深さを物語っており、昔から農業や漁業を営んできた村人たちの篤い信仰心が根付く歴史ある神社です。

山王大権現の石碑
万治二年(1659)
 
庚申講青面金剛石像
亨保十二年(1727)

自慢の祭

館山神社拝殿へつける御瀧神社神輿
 大賀区の祭礼は氏子役員を頭に青年会を中心として、区、常盤木会(六〇歳以上)、中高生など百人からなる区民と、南房総市千倉町から応援にきてくれる谷津青年会や自衛隊の方々などの多くの参加者で毎年盛大に執り行われています。
 祭礼が近づくと子供から大人までが一緒になり、三つの「木遣り」と二〇程からなる「神輿唄」の練習が行われます。最近は女性も唄うようになり、この「神輿唄」で足並みを揃えることが伝統になっています。
 例年七月三十一日の祭典で神輿御霊入れの儀式を行い、八月一日の「館山のまつり」に出祭します。
館山神社境内での威勢のいい揉み差し
 一日の午前中には子供神輿である「小神輿(こでん)」が近隣の里見区や地元を渡御し、子供同士の交流の場と共に元気な声が響き渡ります。大人の神輿は昭和三十二年に地元大賀の「孫平」という大工によって作られた「中神輿(ちゅうでん)」でしたが、現在は区民の熱い願いを込めて平成二十年に竣工した三尺八寸の自慢の「大神輿(おおでん)」が担がれています。
 合同祭礼では出祭する十三地区の中で、昔から一番初めに館山神社入祭をしています。担ぎ方は前を高くするのが特徴で、近年では女性の担ぎ手も交え「神輿唄」で足並みを揃えての威勢のいい渡御を行います。
揃いのタオル
 八月二日には青年会主体で平成二十五年に修復された「中神輿(ちゅうでん)」を出祭し、柏崎、笠名との三地区による「懇親祭」を行っています。大賀の御瀧神社に集合した後、笠名の神明神社でゆっくりと親睦を深め、柏崎を送る際には宮城の坂で、大賀、笠名の仲間も一緒に綱を握りお舟を引きます。名残惜しさを噛み締めながら友情を確かめ合う二十年も続く大切な行事となっています。
 今の時代に区民の力で立派な神輿を新調できたという地域の絆を重んじながら、皆が一体となって伝統を守り継ごうという熱き心意気の溢れる自慢の祭りです。

館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〟です。

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館山市館山地区 大賀(表面) 館山市館山地区 大賀(裏面)

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館山地区 宮城

地域の紹介

宮城の浜で行われていた「宮城海苔」の養殖
(正面に見えるのは鷹の島:大正末から昭和初期)
 宮城地区は、沼地区と笠名地区に隣接した地区で、丘陵よりの岡方と海岸よりの浜方の集落からなります。江戸から大正時代までは「宮城海苔」の養殖が行われていました。
 関東大震災での海岸隆起と昭和五年の海軍基地埋め立てなどがあり宮城地区の地形は大きく変わりました。
 軍事施設の多い宮城地区では、館山海軍航空隊が太平洋戦争中に防空壕として建設した赤山地下壕跡や、航空機格納庫として作られた施設、宮城掩体壕跡などがあります。
 現在は三六〇世帯程からなる地域で、社務所には江戸時代からの宮城自治関係者一覧表や昭和の歴代役員の額などが飾られ、深い歴史を重んじ先人を敬う地域性を感じさせます。

自慢の神輿

 宮城区は、大神輿、中神輿、小神輿の三基の神輿を所有しています。大神輿は、大正十二年に地元大工山口政右ェ門家の手により制作され、彫刻は房州後藤流初代義光の弟子にあたる後藤源義定により施されました。
 中神輿は昭和三年十一月に地元大工である山口熊吉によって制作されました。

美しい素木の屋根に映える扇垂木と腰組造り
 大神輿は美しい素木作りで、大きく深い屋根に三つの右巴紋が輝いています。四手先造りの枡組と扇垂木の腰組造りで、その偉容を感じさせます。
 また、数多くの彫刻が施されており、分厚い胴羽目彫刻をはじめ、四方の堂柱には昇り龍、降り龍、子落としの獅子が細かく彫られており、木鼻には籠彫りを抱えた獅子、欄間には鶴や鳳凰などがところ狭しと溢れんばかりに施されています。また屋根上についている擬宝珠の台にも龍の彫物が回っています。
後藤源義定による見事な彫刻
 昭和五十七年と平成六年に大きな修理を行いながら、素木の美しさを保つために、毎年祭礼が終わるたびに拭き磨かれたその姿に、宮城区民の篤い思いが見える自慢の神輿です。

厚みのある胴嵌め彫刻
●宮城区:神輿
●制作年代:大正十二年五月
●制作者:地元大工山口政右ェ門 ●彫師:後藤源義定 
●屋根:方形普及一直線型 ●屋根葺:素木 
●蕨手:普及型 ●露盤:桝型 ●棰:扇形 ●造:素木造 
●胴の造:前後階段 ●舛組:五行三手 ●扉:前後扉 
●鳥居:明神鳥居 ●台輪:普及型 ●台輪寸法:三尺八寸三分

熊野神社

宮城熊野神社
鎮座地 : 館山市宮城字寺下一七二
●祭神 伊弉那美命(いざなみのみこと)
事解男命(いことさかのおのみこと)
速玉男命(はやたまのおのみこと)

神社額
●例祭日 八月一日
●鳥 居 神明鳥居
●宮 司 酒井昌義
●氏子数 三六〇戸


「奉幣社村社 熊野神社」
と書かれた石碑
●由緒
 神社拝殿に奉納されている向拝の龍の彫刻は、後藤利兵衛橘義光の弟子である後藤源義定作です。拝殿の中の脇障子にも大きな彫刻が嵌められいます。鳥居・狛犬・手水石などの全てが明治四十四(一九一一)年のもので、この年に丘陵部から現在地に移転したといわれています。
 例大祭は七月三十一日に行われ、神社行事である二月二十七日の祈年祭や十一月二十七日の新嘗祭が執り行われています。
 正月には神輿を飾り、初詣に来られた人に甘酒を振る舞っています。また、祭日には必ず神社入口に二本の日の丸を掲げています。

自慢の祭

猿田彦神を先頭に行列が行われていた
 例年八月一日、二日に行われる館山地区祭礼。初日の朝に、宮城熊野神社境内には、揃いの手甲、黄色い鉢巻をした神輿衣装姿の担ぎ手たちが神輿を取り囲みます。
♪ これが宮城の(ホイキタショイ)
   若い衆でござる(ヨイヨイ)
    稲の出穂より 良く揃た ♪
 高らかに響く木遣り唄とともに、素木の神輿が舞い上がり、待ちに待った館山神社への神輿渡御がいよいよ始まります。
館山神社拝殿での揉み差し
 宮城の神輿出祭は、区長、神社役員を筆頭に、昊友会(こうゆうかい)、子ども会などの地区民により執り行われます。この中の昊友会には三十人を超える青年が所属し、神輿を担ぐ役目を担っています。昊友会の「昊」とは、大きい様、盛んな様を意味する文字で、まさに宮城地区の青年の意気込みを現している名前です。
 その昔は、道案内役の猿田彦神(天狗)を先頭に、笛、太鼓、神官などの行列を作って神輿渡御を行っていました。
 神輿出祭は小神輿と大神輿が行い、大神輿は朝九時に熊野神社を出発し、町内を隈なく回って午後五時に館山神社へ入祭します。小神輿は大神輿と一緒に町内を回り、大神輿が区外へ出たときに合わせて熊野神社に戻ってきます。
館山神社入社のときは一気に拝殿へつける
 神輿を担ぐときの形は、 前を少し上げて後ろを低くし、走ったりすることはあまりなく、ゆっくりと大きく練り歩きながら渡御しますが、館山神社入祭で拝殿前へつけるときは、勇壮に走り、拝殿前まで一気につけます。そして素木の自慢の神輿を高く刺し上げたときが宮城神輿最大の見せ場となります。
 地区民全員が一体となって担ぎ上げる自慢の祭りです。

館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〟です。

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館山市館山地区 宮城(表面) 館山市館山地区 宮城(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

館山地区 楠見

地域の紹介

 地区名の由来は、その昔この地域に大きな楠木が有り、漁師達の目印となっていたことから「楠見」と言われるようになったと言われます。戦国時代に館山城主の里見義康が、新井と楠見に市を開設して町場を設け、そこに上町、仲町、下町という町割りを行い、現在の館山地区の礎が作られました。近代には館山桟橋に汽船が発着し、活気ある港町としても栄えました。
 漁民の崇敬が篤い「嚴嶋神社」が楠見集会所あたりにありましたが、関東大震災で倒壊し館山神社へ合祀されました。
 楠見区は、館山神社境内から流れる楠見川を有する百四十世帯ほどの地区で、区内の道筋からは城山がよく見え、集会所脇に佇む「六地蔵尊」に見守られている温かい地区です。

自慢の山車

囃子座上にそそり立つ鯱の彫刻
 天に向かってそそり立つ四匹の鯱の彫刻は楠見区山車の大きな特徴です。鯱とは、古来より天守閣など飾られ、さまざまな災害から守るよう祈りが込められているものです。近隣地域を見てもこの鯱が彫られた山車屋台は見かけることがなく、大変貴重であると同時に、囃子座欄間上四隅に堂々と据えられた意匠と合わせ、楠見区の山車を唯一無二のものに仕立て上げています。
 また「館楠」の山車額上の龍は翼を持った「飛竜」で、これもなかなかお目にかかることがない彫り物でさらに欄間には人々が平穏に暮らす様子が繊細に彫り込まれています。四本の柱は「鯉の滝登り」が見事に彫られていて、下勾欄には「亀」、中勾欄は「牡丹に獅子」、上勾欄は「鶴」が無数に彫られています。人形は仁政を敷いた「仁徳天皇」、下幕は「竹林の虎」、上幕は「龍」の刺繍が施され、山車全体で地域の平和と人々の暮らしの賑やかさが表現されています。
山車額の上から見下ろす飛龍
 先代の山車は、明治三十三年に神奈川県横須賀市浦賀へ譲渡されたという記録があり、現在の山車は明治三十五年に制作、大工は館野の吉田竹治郎、彫刻は国分の名工・後藤喜三郎橘義信の作です。大正四年には横須賀港開港五十周年祭に出祭した記録も残っています。
 館山地区の山車は踊りを披露するため囃子座が比較的広いが、その中でも楠見の山車の囃子座は大きく、毎年勇壮な「天狗踊り」が舞われています。
 昭和五十六年に上下幕の新調、昭和六十一年人形修復、平成七年土台の修理、平成十四年に車輪の修理、平成二十一年に泥幕の新調、平成二十九年には提灯の新調がなされてきました。これらは地区住民の協力と熱い気持ちが脈々と受け継がれてきた証であり、未来を担う子どもたちに毎年の祭礼を通して楠見区の自慢の山車と誇りがしっかりと伝えられています。

様々な彫刻で埋め尽くされている
●制作年:明治35年
●大工:吉田竹治郎(舘野)
●彫刻師:後藤喜三郎橘義信(国分)
●山車額:館楠 ●人形:仁徳天皇 
●上幕:龍 ●大幕:竹林の虎 
●提灯:巴紋に楠見 ●半纏:背中に楠見

嚴嶋神社

「安房国安房郡真倉村高書明細帳」 (部分 館山市立博物館 蔵)
旧鎮座地 : 館山市館山字浜通735
現在は館山神社に合祀されている
●祭神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
旧別当 観乗院
●由緒
 関東大震災以前は、現在の山車小屋付近に嚴嶋神社がありましたが、震災で倒壊し、その後嚴嶋神社は館山神社に合祀されました。神社の姿や由緒を語る史料はほとんど残されていませんが、館山仲町の名主を世襲で務めた岩崎家に保存されている「安房国安房郡真倉村高書明細帳」〈天明二年(1782)〉に、「弁天社地壱ヵ所 別当・観乗院」と弁天社(嚴嶋神社)があったことが記録されています。また、倒壊した楠見嚴嶋神社の材が現在の館山神社の一部に使用されており、館山神社の御神木は、嚴嶋神社境内にあった木を移したと言われています。

自慢の祭

盛り上がる太鼓の叩き合い
 楠見の祭礼は例年八月一日・二日に行われる「館山のまつり」に山車を出祭します。
 自慢のお囃子と伝統の踊りの練習は、毎年祭礼前の七月十五日から行われ、集会所は多数の子ども達で溢れます。お囃子はぴっとこ・やたい・しちょうめ・へぐり・さんぎり・かまくら等から成り、踊りは若い衆の「天狗の舞」と、子ども達による「餅つき踊り」・「左官踊り」があります。お祭り期間以外でも四月〜十一月の第二、第四土曜日にお囃子の練習が行われ、年配の方から青年、子ども達へと楠見の伝統をしっかりと継承しています。
 山車の曳き廻しは町内を廻る際にはゆっくりと曳き廻し、お神輿を迎える時には必ず「へぐり囃子」で迎える、という取り決めは今も変わらず受け継がれ、纏まりと伝統を重んじる高い心意気を感じさせます。
一気に駆け上がる威勢のいい曳き廻し
 見せ場の一つでもある自衛隊前の急坂を、山車と藍染の半纏が一気に駆け上がる様は、若い衆の熱い想いと、地域の和を垣間見ることができ、過去に一度も止めたことがないそうです。
 また、二日間の祭礼で見せる踊りは六回 (初日は夕食休憩で一回・館山神社脇の歩行者天国踊り舞台で二回。二日目は館山神社脇の歩行者天国踊り舞台で二回・山車小屋前で一回) もあり、夜の歩行者天国踊り舞台での踊りでは、餅投げも行われ毎年舞台の前は多くの観衆で賑わいます。
 二日目の夜に町内に帰ってきた山車は再び館山神社へ入り、祭礼が無事に終わったことを報告します。
復活された「天狗の舞」
 最後に山車小屋前の山車の上から区長さん祭礼委員長さん自らによる、地元の皆さんへ感謝の餅投げが行われ、その年の楠見の祭礼は感動と共に名残を惜しみながら終了します。
 一度途絶えてしまった「天狗の舞」を復活させるなど、深い歴史と伝統を重んじ、老若男女分け隔てなく地域が一つになって守り伝えてきた、自慢のお祭りです。

館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。
 その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、嚴島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
 現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〟です。

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館山市館山地区 楠見(表面) 館山市館山地区 楠見(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。

館山地区 上町

地域の紹介

 上町は、里見氏時代から城下町として商人が多く住む町方集落として栄えてきました。江戸時代からは、商人、職人、漁師、海運業者などが町内ごとに自立された町として活気が維持されてきました。
現在では城山下から浜へと延びる小さな地区に、百五十世帯ほどの人々が暮らしています。他の地域同様、子ども達が少なくなっていますが、祭りに向けお囃子の稽古などに余念がなく、町内に佇むお地蔵さんに見守らているような、和やかな地区です。

自慢の山車

特異な意匠の囃子座正面の龍彫刻
上町の山車は明治中頃に製作されたと伝えられており、彫刻は安房の名工初代後藤義光の高弟「後藤義雄」の作です。後藤義雄による山車彫刻は珍しく貴重な作品です。
囃子座側面の竹に虎の両面彫
山車を見上げると、まず目に飛び込んでくるのが囃子座上を覆い尽くさんばかりの巨大な龍です。潔く扁額も排し、顎を開いた龍の姿は勇壮で今にも飛び出してきそうな迫力で、さらに囃子座上側面には龍にも引けを取らない勇猛な虎が竹林とともに彫り出されています。また一切の妥協を許さない彫刻の技は裏側までも施され、そこに刻まれた鶴の彫刻は、囃子座で太鼓を叩く地区の人間以外はなかなか目にすることのできない代物となっています。

囃子座正面の龍彫刻は両面彫の丁寧な仕上げ。 「龍」の裏には「波に鶴」が彫られている

そしてこれら三面の彫刻はすべて巨木の塊から彫りだされているゆえに、重厚で見るものを圧倒させます。
さらに、勾欄一段目の四隅には、真鍮製の擬宝珠に代わる一木彫の龍の彫刻が巻きついており、上町の山車の大きな特長となっています。この他にも四本の柱には「波と岩」、勾欄周りは「鯛や鰹」をはじめとした豊かな海が表現された無数の彫刻が所狭しと山車全体を彩っています。

擬宝珠の代わりの一木の龍彫刻

上段幕は白の生地に鳳凰が、下段は波と千鳥の刺繍が施され、その上にそびえる人形は「国常立尊(クニトコタチノミコト)」であり、その御姿は勇壮な中にも優しを秘めた顔立ちが印象的です。
昭和五十三年に山車小屋ができるまでは、祭礼の度に山車を解体して倉庫に納め、地区の人々の協力で組み立てていました。昭和五十四年に山車の大修理、幕の新調を行い、平成十一年には土呂幕の新調、平成二十六年には提灯および梶棒の新調が行われた上町の山車は、今も昔も地域の人々に愛される自慢の山車として脈々と受け継がれています。
●制作年:明治中期
●彫刻師:後藤義雄、後藤喜三郎橘義信
●人形:国常立神
●上幕:鳳凰
●大幕:波と千鳥
●提灯:上町の牡丹文字
●半纏:上町の牡丹文字

諏訪神社

関東大震災前の諏訪神社の扁額

旧鎮座地:館山市館山(現 上仲公園)
現在は館山神社に合祀されている

●祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)旧別当 長福寺(仲町)
●由緒 大正十二年八月までは現在の上仲公園地に上町と仲町の産土神としての諏訪神社が鎮座していました。しかし大正十二年(一九二三)九月一日に起きた関東大震災により諏訪神社が倒壊し、その後は、城山を背景とした館山町の中央たる清浄の土地に新築された、館山神社へ合祀されました。

旧諏訪神社にあった武志伊八郎信美(三代伊八)の彫刻

上町集会所には当時の諏訪神社に施されていた安房の名工・武志流三代目武志伊八郎信美作の龍の彫刻が残されています。

自慢の祭

昭和21年撮影 上町協進會

上町の祭礼は例年八月一日、二日に行われる「館山のまつり」に山車を出祭します。古くは「上町協進會」という組織が祭礼の運営をしていた時代もあり、残されている昭和二十一年八月の写真にその面影を見ることができます。現在は区、壮年会、青年会等の各組織の協力のもと上町区が一体となって様々な運営を行っています。
また山車の飾り付けや花折り、太鼓・笛の練習も含めた段階から応援に来てくれる〝祭り好きで熱い〞三十人を超える若衆達に支えられています。

五月に行われる試験曳き

また、祭前の五月には「試験曳き」が行われ、準備に余念がありません。
上町のお囃子は、ぴっとこ・やたい・しちょうめ・へぐり・さんぎり、昔はお囃子によって「バチを変えて叩く」といったこだわりがありました。また以前にはしゃかん・ぴっとこの踊りも披露されていました。

山車にのせる前に 人形台に飾られる山車人形

太鼓の練習はお祭りの3週間前から行われ、集会所は入りきれないほどの多くのこども達で溢れます。さらに一年を通して毎週金曜日の夜に笛の練習会が集会所で行われ、十人ほどの笛吹きが日頃より腕を磨き合っています。

「上若」の大紋

昭和五十年代前半に統一された半纏の大紋「上若」の牡丹文字は今も変わらず受け継がれ、伝承と伝統を重んじる深い心意気を感じさせます。
二日間の山車曳廻しの中でも特に盛り上がりを見せるのは、八月二日の本祭で、夕方に館山神社前へ向かう前の海岸通りからの上り坂です。ここでは高揚感に溢れたまさに上町らしい祭りの場面に出会うことができます。
上町の山車は、下段幕の傷みを防ぐなどの意味もあり、

館山神社へ入祭する上町山車

大幕下回り三方の床板が抜かれていて、子どもは乗れないようになっていますが、その分子ども達は大人に交じって綱を持ち曳き廻しに参加します。山車に乗れない分、どんな場面でも綱を持つこども達を排除しないという温かい志があります。
大人から子どもまでが一体となり作り上げる、皆が楽しみ合える自慢の祭りです。

大人から子どもまでが一体となって盛り上がる曳き廻し


8/1・2 館山のまつり

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 上町(表面) 館山市館山地区 上町(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。