地域の紹介
地区名の由来は、その昔この地域に大きな楠木が有り、漁師達の目印となっていたことから「楠見」と言われるようになったと言われます。戦国時代に館山城主の里見義康が、新井と楠見に市を開設して町場を設け、そこに上町、仲町、下町という町割りを行い、現在の館山地区の礎が作られました。近代には館山桟橋に汽船が発着し、活気ある港町としても栄えました。
漁民の崇敬が篤い「嚴嶋神社」が楠見集会所あたりにありましたが、関東大震災で倒壊し館山神社へ合祀されました。
楠見区は、館山神社境内から流れる楠見川を有する百四十世帯ほどの地区で、区内の道筋からは城山がよく見え、集会所脇に佇む「六地蔵尊」に見守られている温かい地区です。
自慢の山車
天に向かってそそり立つ四匹の鯱の彫刻は楠見区山車の大きな特徴です。鯱とは、古来より天守閣など飾られ、さまざまな災害から守るよう祈りが込められているものです。近隣地域を見てもこの鯱が彫られた山車屋台は見かけることがなく、大変貴重であると同時に、囃子座欄間上四隅に堂々と据えられた意匠と合わせ、楠見区の山車を唯一無二のものに仕立て上げています。
また「館楠」の山車額上の龍は翼を持った「飛竜」で、これもなかなかお目にかかることがない彫り物でさらに欄間には人々が平穏に暮らす様子が繊細に彫り込まれています。四本の柱は「鯉の滝登り」が見事に彫られていて、下勾欄には「亀」、中勾欄は「牡丹に獅子」、上勾欄は「鶴」が無数に彫られています。人形は仁政を敷いた「仁徳天皇」、下幕は「竹林の虎」、上幕は「龍」の刺繍が施され、山車全体で地域の平和と人々の暮らしの賑やかさが表現されています。
先代の山車は、明治三十三年に神奈川県横須賀市浦賀へ譲渡されたという記録があり、現在の山車は明治三十五年に制作、大工は館野の吉田竹治郎、彫刻は国分の名工・後藤喜三郎橘義信の作です。大正四年には横須賀港開港五十周年祭に出祭した記録も残っています。
館山地区の山車は踊りを披露するため囃子座が比較的広いが、その中でも楠見の山車の囃子座は大きく、毎年勇壮な「天狗踊り」が舞われています。
昭和五十六年に上下幕の新調、昭和六十一年人形修復、平成七年土台の修理、平成十四年に車輪の修理、平成二十一年に泥幕の新調、平成二十九年には提灯の新調がなされてきました。これらは地区住民の協力と熱い気持ちが脈々と受け継がれてきた証であり、未来を担う子どもたちに毎年の祭礼を通して楠見区の自慢の山車と誇りがしっかりと伝えられています。
●制作年:明治35年
●大工:吉田竹治郎(舘野)
●彫刻師:後藤喜三郎橘義信(国分)
●山車額:館楠 ●人形:仁徳天皇
●上幕:龍 ●大幕:竹林の虎
●提灯:巴紋に楠見 ●半纏:背中に楠見
嚴嶋神社
旧鎮座地 : 館山市館山字浜通735
現在は館山神社に合祀されている
●祭神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
旧別当 観乗院
●由緒
関東大震災以前は、現在の山車小屋付近に嚴嶋神社がありましたが、震災で倒壊し、その後嚴嶋神社は館山神社に合祀されました。神社の姿や由緒を語る史料はほとんど残されていませんが、館山仲町の名主を世襲で務めた岩崎家に保存されている「安房国安房郡真倉村高書明細帳」〈天明二年(1782)〉に、「弁天社地壱ヵ所 別当・観乗院」と弁天社(嚴嶋神社)があったことが記録されています。また、倒壊した楠見嚴嶋神社の材が現在の館山神社の一部に使用されており、館山神社の御神木は、嚴嶋神社境内にあった木を移したと言われています。
自慢の祭
楠見の祭礼は例年八月一日・二日に行われる「館山のまつり」に山車を出祭します。
自慢のお囃子と伝統の踊りの練習は、毎年祭礼前の七月十五日から行われ、集会所は多数の子ども達で溢れます。お囃子はぴっとこ・やたい・しちょうめ・へぐり・さんぎり・かまくら等から成り、踊りは若い衆の「天狗の舞」と、子ども達による「餅つき踊り」・「左官踊り」があります。お祭り期間以外でも四月〜十一月の第二、第四土曜日にお囃子の練習が行われ、年配の方から青年、子ども達へと楠見の伝統をしっかりと継承しています。
山車の曳き廻しは町内を廻る際にはゆっくりと曳き廻し、お神輿を迎える時には必ず「へぐり囃子」で迎える、という取り決めは今も変わらず受け継がれ、纏まりと伝統を重んじる高い心意気を感じさせます。
見せ場の一つでもある自衛隊前の急坂を、山車と藍染の半纏が一気に駆け上がる様は、若い衆の熱い想いと、地域の和を垣間見ることができ、過去に一度も止めたことがないそうです。
また、二日間の祭礼で見せる踊りは六回 (初日は夕食休憩で一回・館山神社脇の歩行者天国踊り舞台で二回。二日目は館山神社脇の歩行者天国踊り舞台で二回・山車小屋前で一回) もあり、夜の歩行者天国踊り舞台での踊りでは、餅投げも行われ毎年舞台の前は多くの観衆で賑わいます。
二日目の夜に町内に帰ってきた山車は再び館山神社へ入り、祭礼が無事に終わったことを報告します。
最後に山車小屋前の山車の上から区長さん祭礼委員長さん自らによる、地元の皆さんへ感謝の餅投げが行われ、その年の楠見の祭礼は感動と共に名残を惜しみながら終了します。
一度途絶えてしまった「天狗の舞」を復活させるなど、深い歴史と伝統を重んじ、老若男女分け隔てなく地域が一つになって守り伝えてきた、自慢のお祭りです。
館山のまつり
●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。
その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、嚴島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〟です。
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このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。