地域の紹介
南総文化ホールから白浜に向かう県道86号線。それと並行に流れる長田川を境に広がる東西に、東長田・西長田があります。長田の歴史は古く、東長田にある谷(やつ)遺跡は、日本で最初に祭祀遺跡として紹介され、弥生時代の土器なども出土しています。西長田にある千田城跡は、里見義豊の弟・長田義房の居城と伝えられ、長田川の名前の由来とも考えられます。また、現在の山宮神社のことを江戸時代までは長田神社と呼んでいたそうです。
現在は、東長田が60戸、西長田が70戸とほぼ同じ戸数で、東長田には山宮神社、西長田には諏訪神社が鎮座します。西長田の諏訪神社の祭礼は現在は行われておらず、長田地区最大の行事である八幡祭礼出祭を東西長田が一体となり盛大に行っています。東西それぞれに区長・総代・世話人・青年がいますが、年番制を行い交代で役を務めています。
その他の行事としては、三月の「おびしゃ」、五月と八月の「道凪」「夏凪」という草払いを地区全体で行うなど、まとまりのある地区です。
自慢の神輿
神輿の製作年代は、安政六年(一八五九)八月吉日とされ、彫刻は明治二十年代に房州後藤流初代義光の手によって施されました。神輿全体に隙間なく嵌めこまれた分厚く精細で躍動的な彫刻がこの神輿を見事に際立たせています。
四方の欄間に這う龍、柱隠しの昇龍に降龍、さらに他の神輿にはあまり見られない「力神像」が四本の柱の下にどっしりと置かれ御霊を守っています。また屋根上の露盤、小脇隠しや腰枡なども所狭しとばかりに多彩な彫刻で埋めつくされた、自慢の神輿です。
「やわたんまち」渡御ですべての道程を担いでいく時、鶴谷八幡宮入祭での一の鳥居から拝殿まで一直線に参道を駆け抜ける時、長田の氏子たちが最も誇りを感じ、長田の神輿が最も光り輝く瞬間がやってきます。
●屋根 : 方形普及一直線型 ●蕨手 : 普及型 ●造 : 塗り神輿
●露盤 : 枡型 ●胴の造 : 平屋台 ●桝組 : 五行三手 ●扉 : 前後扉
●鳥居 : 明神鳥居 ●台輪 : 普及型 ●台輪寸法 : 三尺六寸
●見処 : 四隅の力士像他彫刻など
山宮神社
館山市東長田字前作一〇六一
●宮 司 : 代田健一
●例祭日 : 九月十五日
安房国司祭に準ずる
●本 殿 : 銅板葺神明造
●鳥 居 : 神明鳥居
●氏子数 : 百三十世帯
●祭 神 : 大山祇命
八重事代主命
●由 緒 : 朱鳥元年(六八六)、神主秋山家の遠い祖先にあたる中臣鎌足の子である中臣幸彦が摂津国三島より移住し、三島の鴨神社祭神の「大山祇命」をお迎えし、当社を創建したとされています。また養老二年(七一八)に安房国に班田使という役人がやってきたとき、神田として七町八反歩の土地が寄進され、三島の鴨神社にお祀りされている「八重事代主命」を大山祇命と一緒にお祀りしました。
時代が流れる中で源頼朝、里見義成からも厚い寄進を受け、江戸時代には徳川将軍家から十石の神社地の御朱印の証文をいただいています。明治になってからは幕府にもらった土地はお取り上げになってしまいましたが、その後は豊房村から幣束や祭事費用が供進される社格となりました。
江戸時代までは山宮大明神、長田大明神とも呼ばれていましたが、明治元年からは山宮神社と改められ、現在に至ります。
自慢の祭 安房国司祭出祭
東西の長田地区あげての最大の祭礼が例年九月に鶴谷八幡宮で行われる安房国司祭への神輿出祭です。山宮神社古文書によると「延久三年(一〇七一)の秋、安房国の八幡の海岸へはじめて神輿を出す神事が行われた」とあり、およそ千年に渡ってこの神事が続けられていることになります。「長田の神輿」とも呼ばれる山宮神社の神輿が、それぞれの時代でどんなふうに八幡まで担がれていたのかは定かではありませんが、現在も強いこだわりを持って引き継がれている伝統は、鶴谷八幡宮拝殿までの全ての道程を担いで渡御することです。
八幡祭礼出祭にあたっては、東西の長田地区が順番に務める「年番」によって仕切られます。明治十二年の資料によれば、「輿丁や神具持ちは東西長田村が均等に出すものとし、輿丁は三十人、神具持ちは十人、合わせて四十人に限る」とあります。現在では東西長田地区からそれぞれ総代、世話人、青年、婦人会、子ども会等が総出で祭礼に参加します。
八幡祭礼初日の早朝に、黒の手甲、黒の足袋、「長田」の文字と朱の巴紋が染められた豆絞りの白丁姿の青年達が山宮神社に集まってきます。出祭神事が執り行われた後、朝七時出発。仕来りにより年番区内を通り抜け、途中立ち寄りながら鶴谷八幡宮までのおよそ12キロのすべての道程を担いで渡御します。
午後三時半、いよいよ八幡入祭の時がきます。八幡に入る時には「走る神輿」としての誇りを胸に、神輿の前を低くしながら一の鳥居から拝殿まで一気に走り抜けます。そして拝殿前では八幡出祭の喜びを力強い大きな揉みさしで御祝いします。その後神輿を御仮屋へ納め、御旅所にて疲れを癒やします。
翌日、八幡祭礼二日目の午後七時頃に還御の時がきます。多くの観衆を前に最後のハレの舞台に力が入ります。そして鶴谷八幡宮を後にして山宮神社までのおよそ9キロの道程を渡御と同じにすべての道を担いで帰ります。東長田観音院から山宮神社までは、油断すると足を外してしまうような二本棒の神輿が通れるぎりぎりの道幅で、暗闇の中で担いで通れるのは、歴史の中での経験に支えられた「長田の神輿」ならではの至難の業です。山宮神社へ帰ってくると、祭の終わりを惜しむかのように神社の回りを幾度も幾度も回ります。
東西長田の自慢の祭が終わるのは、今でこそ日付が変わる頃ですが、少し昔までは薄っすらと東の空が明るんでくる頃だったそうです。
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このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。