道場山勧修院 【真言宗】 千手観世音菩薩
ご詠歌「朝日さす 夕日かがやくこの堂へ まいる人こそ仏(ほとけ)なるらん」
観音堂は1㎞余り山奥のリョウガイ山と称する所にあったが、宝暦2(1752)年栄雅(えいが)の時に現在地へ移されたといわれ、跡地には今も観音堂の痕跡が残っている。旧観音堂付近には滝ノ上・鐘つき堂・稚児墓(ちごはか)などの地名があり、その昔の巡礼路(みち)が今も残っている。勧修院と呼ばれるようになったのは元禄の頃であるという。大正12(1923)年の関東大震災により諸堂は全壊したが、同14年12月に旧本堂と庫裏(くり)が再建された。平成2(1990)年に庫裏の新築工事が行われ、観音堂(現本堂)も平成20年に再建され、行基の作と伝えられる本尊の千手観音菩薩像や弘法(こうぼう)・興教(こうぎょう)両大師坐像、不動明王立像などが安置されている。なお旧本堂には大日如来坐像、向拝(ごはい)には木造の仁王像一対が安置されている。また観音堂を意味する「大悲(だいひ)殿(でん)」の額は、地元光明(こうみょう)講中が明治期に奉納したもので金剛宥性(ゆうしょう)の筆である。境内には光明真言(こうみょうしんごん)五百万遍供養塔や、女性行者貞信尼(ていしんに)による天明8(1788)年の廻国供養塔などがあり、墓地には漢学者「中村時中(じちゅう)」や、力士で出来山(できやま)部屋第5代親方の「常盤戸(ときわど)文吉」、政治家で実業家の「中村庸一郎(よういちろう)」等の墓がある。