金剛山神明坊神護寺宝珠院 【真言宗】 十一面観世音菩薩
ご詠歌「あま寺へ 参るわがみもたのもしや はなのお寺を見るにつけても」
本尊:地蔵菩薩 宝珠院は、現在京都智積院(ちしゃくいん)の末寺だが、明治27(1894)年までは京都醍醐寺報恩院の末寺だった。創建は応永11(1404)年。開山宥伝(ゆうでん)の父が深く仏教に帰依(きえ)して、私財を投じて寺院を創り、宥(ゆう)海(かい)僧都を開基として招いて実乗院と称したのが始まりと伝えている。その後宝珠院と改めた。里見氏からは寺領275石余を給され、徳川氏からも203石余の寺領が安堵されている。江戸時代には安房真言宗寺院の触頭(ふれがしら)として国内281か寺を支配していた。また談林所(だんりんじょ)として安房国真言宗唯一の学問所でもあった。大正12(1923)年の関東大震災により山内諸堂が倒壊し寺宝の多くを失ったが、現在でも県指定文化財の仏像・絵画・工芸品3点、市指定文化財12点を所蔵している。大正大震災まで境内には4つの子院(しいん)があった。十一面観音菩薩像は、開山宥伝の母妙光尼(みょうこうに)が応永11(1404)年に子院の西光院本尊として安置したものであるといわれ、西光院を尼寺(あまでら)と呼んでいた。近年この像は鎌倉時代の徳治(とくじ)2(1307)年に仏師定戒(じょうかい)が制作したことがわかった。現在の観音堂は関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したもの。ご詠歌額は享保15(1730)年長狭郡北小町村(鴨川市)の佐生(さしょう)勘兵衛が奉納したもので、安房国札(くにふだ)観音の寺々には同人の額がよく残されている。