館山地区 笠名(かさな)

地域の紹介

 市域の中央部に位置する館山地区は、大きく館山と豊津の二つの地域に分かれますが、笠名地区は、その旧豊津村の四地区の中で宮城地区と大賀地区に隣接しています。
蟹田川が流れ、その左岸一帯には弥生・土師の遺物を包蔵する笠名遺跡があり、また、昭和になってから建設された軍事施設、洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡等のある丘陵部と、現在は海上自衛隊第二十一航空群館山航空基地となっている海岸部から成り、古代の遺跡から近代の戦跡まで様々な時代の遺構が残る地域です。
古くは農業と漁業を生業としてきましたが、現代は漁師はおらず、稲作をしている農家も三軒のみとなりましたが、市営住宅を含めて四四〇世帯程となる市内でも比較的住民の多い深い歴史を秘めた地区です。
近隣には館山海上技術学校があり、神社は笠名区民の崇敬を集める神明神社、寺院は長泉寺と、平安時代の特徴をもつ木造阿弥陀如来立像を本尊とする安楽寺があります。また、かつて天神宮が祀られていましたが、洲ノ埼海軍航空隊開設によって神明神社に合祀された天神山には防空壕も残されています。
区、氏子、青年会、青年会OBの明栄会等からなる地域の人々の結び付きは強く、祭礼はもちろん、青年会主催で行われる7月のバーベキューや八月の納涼大会、十二月のクリスマス会やお正月の初詣での接待等、区民が一体となった行事も多く、伝統と誇りを持ち、地域愛と元気に溢れる自慢の笠名区です。

 

自慢の神輿

笠名区神明神社の神輿は館山十三地区合同祭に出祭します。
初代の神輿は黒塗り総欅造りで、扉の上下の横桟には螺鈿細工が施された、大変重たい神輿であったと言われています。その初代神輿は曽呂村西神社へ売却されたと言われています。
そして現在担がれている神輿は、昭和五年に笠名地区の大工・安藤茂左衛門家の七代目・安藤寅松と八代目・安藤治助によって製作されました。

彫刻は三代目・後藤義光の手によるもので、右は「高砂の松の翁・媼と鶴・亀」、左は「神武天皇東征のみぎり」で天皇の弓の先に金色の鳶が止まった時の状況を表した見事な彫物です。

神武天皇東征のみぎり
高砂の松の翁・媼と鶴・亀



始めは白木の神輿でしたが、平成十五年の修復で初代神輿と同じ黒塗りとなりました。野筋が二重構造になっているところや蕨手が鋳物で中の模様が巴と花模様になっているところなどは、他には見かけない意匠の笠名区民自慢の神輿です。

繊細で美しくバランスのとれた神輿
●屋根 延屋根方形普及一直線型
●屋根葺 黒漆
●蕨手 普及型
●露盤 桝型
●造 塗神輿
●胴の造 二重勾欄
●舛組 五行三手
●扉 前後扉
●鳥居 明神鳥居
●台輪 普及型
●台輪寸法 三尺八寸
●制作者 安藤茂左衛門家第七代寅松・八代治助
●制作年 昭和五年
●彫り師 三代後藤義光


神明神社

平成の大改修を終えた 笠名神明神社

館山市笠名四七番地
●祭 神 : 高皇産霊神・天照皇大神
●宮 司 : 加茂宮司
●由 緒 : 文献によると笠名の神明神社は平安時代の末期の嘉保年間(一〇九四年〜一〇九五年)に、当時の安房の國の國司であった源親元公の伊勢神宮


昔の笠名神明神社

遥拝所として創建されたと伝えられています。以来笠名地区の氏神様としておおよそ九百年の長きにわたり地区民の心の拠り所として存立してきました。明治の社格制度により村社に列格し現在に至っています。
近代では大正六年三月に改築された後、風雨により本殿の傷みもひどくなり、平成二十五年より大改修に向けて地区内一体となり動き出し、平成二十七年十月に改修を完了しました。その後地区の竣工奉告祭を行い、さらに平成二十八年五月には館山地区の仲間とともに百年に一度と言われる祝賀会を盛大に執り行うことができました。


旧神明神社 神社額
百年に一度と言われた竣工祝賀祭


自慢の祭

館山神社拝殿前につけた笠名神輿

毎年八月一日・二日に、十三地区八社の合同祭礼として催行される「館山のまつり」。笠名区では区が主催となり、青年会、明栄会を中心に準備が進められ、子ども達にも伝統の「木遣り唄」の稽古をつけます。
神輿渡御の道沿いには、縄が張られ幣束を垂らすのは、「氏子の絆」を繋ぐと言う意味合いもあり、華になる拵えです。
一日目は大殿が、二日目は中殿が区内を渡御します。「きれいな担ぎ」が自慢の笠名の神輿は、「七、七、七、五」の何とも言えない味わいの有る節回しの木遣り唄、笛が鳴ると唄が始まり、場の雰囲気で、「めでためでたのこの杯は、鶴が杓子で亀が飲む」など、三曲ないし五曲唄ってから担ぎ出されます。昔は若い衆が顔に白粉などの化粧をして担いだり、子ども達が踊ったりして、地区一体となって多いに楽しんだそうです。
神輿出御を告げる法螺貝の音が響き渡ると「ホイキタ、ショイ」「ヨーイ、ヨイ」の掛け声と共に、神明鳥居をくぐり神輿渡御が始ります。神輿を差したまま「いっちゃ節」を唄ったりして道中渡御し、囃子唄を唄った後、最高の見せ場でもある、四尺近い大神輿を豪快に「空高く」投げ上げる、息の合った華麗な技を披露する笠名神輿の見所です。
一月の新年会を初めとする区内の色々な行事で培われた区民のコミュニケーションがあればこそ、大輪の花が咲くような様が見られ、聞き惚れるような「木遣り唄」が見事に色を添える自慢の祭りです。

神輿を豪快に「空高く」投げ上げる

昭和20年代の笠名の輿丁たち


8/1・2 館山のまつり

館山神社境内に勢揃いした神輿

●祭りの起源 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、 笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社が倒壊したため、協議により各社の合祀を決め、昭和七年に館山神社として創建されました。
現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた〝心のまつり〞です。

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館山市館山地区 笠名(表面) 館山市館山地区 笠名(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。