自慢の山車
「帰らじとかねて思えば梓弓、なき数にいる名をぞとゞむる」(楠木正行)
歴史の名場面があたかも目の前で演じられているかのような山車の大幕、その精巧さに息を飲む圧巻な彫刻が山車全体を覆い、そのすべてが一連の物語を紡いでいる。まるで一幅の歴史絵巻を眺めることができる、それが那古地区寺赤組の山車です。
扁額の「建む中興」が示すとおり、中世の名作「太平記」を、彫り物から幕、人形、提灯まで含めた山車全体で表現している大変統一性のある文化財として、二〇〇三年館山市指定有形民俗文化財に指定されています。
彫刻は房州の名工後藤義光、最晩年の遺作にして最高傑作と言っても過言ではない出来栄えで見る者を思わずうならせます。囃子台前柱は、紗綾形の地紋が刻まれた柱に昇り龍下り龍が巻きつく一本彫り、前欄間は「桜井の駅、楠木公父子の別れ」が分厚い材に立体的に彫られています。人形幕各層の四隅には表情豊かに彫られた仏法の守護神である金剛力士が計十二体も配された様は壮観で、とりわけ中層は疑宝珠を用いない総彫り物となっており、前方の欄間から続く一連のつながり、バランスが絶妙な彫り物群が、安房地域最高クラスの高さを誇る山車を彩っています。 大幕は、楠木正行が辞世の句(冒頭の句)を残す名場面を中心に、江戸後期の伝統的な刺繍技法によって、立体感や遠近感を感じさせる工夫が随所に散りばめられ写実的な効果を上げています。制作から九十年以上を経た平成十三年には、五十戸ほどの町内全世帯からの資金捻出により幕の修復が完成し、担当した美術大学教授からは「刺繍の伝統的技法や、人物のデザインの独自性などは他に類がなく、極めて歴史的価値が高い」と評価を頂き、東京での展示も行われました。
寺赤組の山車は、彫刻師をはじめとした名工、職人たちの技術、那古観音門前町として栄えた時代の財力、房総の文化が結実した房州山車の傑作として、今後も寺赤町内のみならず地域の貴重な文化資産として末永く受けつがれていくでしょう。
●地区名 那古地区寺赤
●神社名 閼伽井弁天
●棟梁 地元大工
●彫刻師 初代後藤義光
●人形 後醍醐天皇
●扁額 建む中興
●上幕 〆縄、御幣
●下幕 太平記の場面
●人形師 不明
●制作年 明治32年
●提灯 吉野の桜
●お囃子 馬鹿囃子、砂切、早馬鹿
●半纏 菊水紋
閼伽井弁天
●鎮座地:那古寺裏参道
●祭神:弁財天
●例祭日:十月十五日「甘酒まつり」
●鳥居:明神鳥居
由緒: 観音堂が再建された時、「伊勢屋金物店」伊勢屋甚右衛門が伊豆石を運び、井戸に石組して宝暦十一年、つるべで水を汲み観音堂へ奉納したとされる。仏様に供えする浄水を閼伽といい、その井戸を閼伽井と称する。
境内には、水神の弁財天が祀られており、安房路を巡る旅人は、この霊水で乾きをいやし喉を潤したものである。信者は遠方よりこの霊験あらたかな万病に効くあか井の水を汲みに参詣した。この下の部落を赤井下といい、那古寺本坊前の部落である寺町と合わせて、寺赤と称する。
いずれも那古寺の参道に位置し、江戸時代から昭和初期に至る間は、「補陀落山那古寺」の門前町として観光、商業の中心として多いに栄えました。数軒の旅館をはじめ、多くの飲食店に土産物屋、人力車駅や銀行などが整備された粋な街でした。大正から戦後間もない時期までは、大衆演劇や浪曲、映画を興業する那古倶楽部という施設までありました。
現在、当時の商店街の面影はなくなりつつありますが、那古寺は「坂東三十三ヵ所観音霊場の結願札所」として年間を通して多くの参拝客が訪れており、また館山の観光名所としても有名です。
寺赤地区も門前町としての名残を残しながら、五十戸あまりの人達で地域に伝わる伝統を守り続けています。
祭礼: 寺赤の山車は、例年七月十八日以後の直近の土日に行われる「那古観音祭礼」に出祭します。一日目の宵祭は、浜組の山車と一緒に隣の船形地区川名と根岸区まで曳きまわしを行い、二日目は那古地区の六台の山車屋台がそろっての合同曳きまわしです。
昔は山車を分解してしまい祭礼毎に組立てていた時期もありましたが、現在は山車小屋に納めます。滑車を使って高欄および人形を上下に動かす装置は古来からのからくりで、現在も若衆が協力して作業にあたっています。
寺赤地区の自慢は、戦中の一時を除き、他の地区が祭りを行わなかった年も休むことなく祭礼を執り行い山車の曳きまわしを行ってきたことです。
また胴回り二尺近い大きさの太鼓を吊るす那古の山車同士の大太鼓の叩き合いは勇壮で、華麗なばち捌きを披露する各腕自慢たちの叩き合いは必見です。
年番渡しも終わり夜が更けてくると、木遣り歌を歌っては数メートル進むという繰り返しで山車小屋をめざし、二台の山車小屋が並ぶ宿組と来年の再会を約するように太鼓を打ち合ったあとも、寺赤組の山車は小屋の前でいったりきたりを繰り返し、祭りの名残りを惜しむのです。
那古観音祭礼
例祭日はもともと七月十七日(宵祭)と十八日(本祭)で、十八日 に祭典が執り行われていますが、山車・屋台の引き回しは、原則七月十八日以降の直近の土・日に行われるようになりました。日程は毎年、六地区の代表が集まる総代会議で決定されます。
古くは各町独自で行っていた祭りを明治三十年(一八九七)より那古観音の縁日に合わせ東藤、大芝、芝崎、浜の四町合同の祭りとなり、その後明治四十三年に寺赤、大正十二年に宿が加盟し今日に至っています。
那古祭礼規約に基づき、一年交代の年番町が祭礼の運営を取り仕切り、本祭は終日六台の山車・屋台がそろって合同で引き回しを行うなど大変統一性があります。
各地区とも赤を基調とした提灯、山車の高覧幕は〆縄に三連の細縄と五折の御幣とお揃いのデザインであることも那古地区が一体となった演出美を感じます。
この祭礼の大きな見どころは、大太鼓の技を競い合うお囃子であり、それぞれの地区の叩き手の華麗なバチ捌きと勢いを、また祭礼を締めくくる年番渡しで行われる伝統の「締めことば」もぜひご堪能ください。
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このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。