那古地区 濱

自慢の山車
たてやま おらがんまっち 那古地区・濱

地域の紹介

自慢の山車 那古寺から那古海岸にいたる道を、両側に挟んだ地域です。元禄大地震により、土地が隆起し、船形村名主正木九右衛門の指導により「那古浜新田」として開発され、大浜集落が形成されました。
 小字名に「中浜、中入会、上入会、下入会、大浜」などがあり、開発された地区が伺えます。坂東三十三観音結願寺 那古寺の門前町として多いに発展し、江戸と房州の物流の要となり、那古寺から港迄の道沿いには多くの商家、旅館などが立ち並び大変賑わいのある地域でした。鉄道の開通により、人、物の流れが変わり、昔程の賑やかさはありませんが先人から受け継いだ「浜弁財天」の祭礼文化をしっかり継承し、今も変わらず守っております。

自慢の山車

後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻
後藤喜三郎橘義信による見事な山車額周りの彫刻
 濱組山車は弁財天山車とも呼ばれ、明治四十三年に地元浜町・山口仙太郎棟梁によって新造された濱組二代目の山車です。初代の山車は明治四十五年に国分萱野へ譲渡されました。
 自慢の彫刻は国分の彫工・後藤喜三郎橘義信によるもので、下高欄胴には弁財天にちなんだ安芸宮島にある厳島神社の風景他、多数の社寺伽藍が、他では見られない三面連続した構図で彫られています。中層胴には弁財天や恵比寿・大黒などの七福神、そして山車の前柱から扁額にかけては中国の伝説の故事にちなんで、鯉が滝を昇り切ったあと龍になるという「登竜門」が彫られています。また人形は弁財天、胴幕には水神ということから波と龍が描かれるなど、山車全体が関連づけられた意匠でまとめられています。
安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻
安芸宮島にある厳島神社風景の彫刻
 また、四メートルの角棒を使った押上式一本棒の梶棒による山車の曳き廻しも自慢のひとつ。後輪の位置が真中に寄って付けられているため、梶棒で山車前部を持ち上げて山車自体を回すこともできます。梶が切りづらく操作の難しい梶棒ですが、その伝統を守っていくのも濱の自慢です。
 さらに、濱の御囃子を地に響かせるような二尺一寸の大太鼓も、濱の祭好きな人たちの大きな自慢のひとつです。

●製作年 : 明治43年
●棟 梁 : 浜町・山口仙太郎
●扁 額 : 者満町
●旧扁額 : 仲濱
●人 形 : 弁財天(昭和59年新調・京都)
●大 幕 : 波濤に昇り龍・降り龍(昭和60年新調・京都) 
●上 幕 : しめ縄(那古地区全山車共通、昭和60年新調・京都)
●提 灯 : 珠取龍の三指爪・は・三頭巴
●半 天 : 背に濱、襟に者満(はま)町
●彫刻師 : 後藤喜三郎橘義信

厳島神社

館山市那古字上入会七六六
厳島神社
●祭 神 : 宇賀弁財天
●鳥 居 : 明神鳥居
●由 緒 : 仲浜の出洲の祠に祀られていたものを、一七〇三年の元禄地震で隆起してできた現在の場所に移設し、文政七年に浜弁財天建立、天保六年に浜町・寺町の有志により南無大師遍昭金剛塔を建立するなどして徐々に整えられてきました。大正十二年の関東大震災で崩壊しましたが、区民の協力により昭和三年に再建されました。
 宇賀弁財天は弁財天と宇賀神(ウカノミタマ)が習合したもので、八臂に弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索を持った弁財天の頭上の宝冠に宇賀神が附けられ、併せて稲荷の鳥居が添えられています。宇賀神は古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂命といい、食物の神で特に稲の霊とされます。
 浜組は昔から浜辺との関わりが深い土地であるため、河川の神・水の神である弁財天が祀られ、宝冠の宇賀神と稲荷様は隆起してできた土地を開発してできた那古新田の守り神として信仰が寄せられました。そしてその信仰の篤さは山車に良く現れており、人形、胴幕、彫刻の全てが弁財天様に関連つけられた意匠になっています。

自慢の祭

二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車
二尺一寸の大太鼓が誇らしい濱組山車
 仲濱と大濱の二つの町内会が一つとなり祭礼を催行しているのが濱組の特徴です。町内会は別でも現在は壮年会・青年団は普段より一つの組織として活動しており、祭礼に限らず一月のおびしゃや、十月の甘酒祭り(神輿)等、年中行事も一緒に執り行っています。
 以前は仲濱、大濱の二つの地区で一つの青年団が組織され、団長はそれぞれから一人づつ二人が選出されていました。今でこそ地域ごとの区別はありませんが青年団長は二人が選出され、二年間まとめ役としての任を負います。祭礼の準備から片付けまで青年団が中心となりますが、当日は二人の青年団長のどちらか一人が進行長、もしくは梶棒長となり協力して山車の運行にあたります。基本的にはこの二人の青年団長が一緒に、その後の祭礼会計や濱組全体としての祭礼責任者である総代の役職を担っていくことになります。
太い梶棒を使って山車を回転させる
太い梶棒を使って山車を回転させる
 出祭する「那古観音祭礼」一日目の宵祭では、山車の町内曳き廻しの中で地元地域ではありますが現在でも海岸の防波堤まで山車を運行し、昔は各町内も集まっていた「お浜出」の様子を髣髴とさせます。夕方には寺赤組の山車と一緒に隣の船形地区川名と根岸区まで曳き廻しを行っており、隣接する町内との交流も大切にしています。また、濱組のこだわりとして祭典が執り行われる元々の本祭日である七月十八日には、山車を那古寺境内まで寄せています。
 濱組の山車の特徴と言えば固定された前輪と、その為方向転換に使われる太い梶棒です。山車そのものを動かす為の力強いその操作は、屈強な青年団員達が務めます。また「さす」と言われる山車の前方を勢いよく高く上げる動きは、ここぞという場面で行われ、その梶棒を担ぎ上げる姿にこれぞ濱組という祭りに懸ける熱い気概を感じます。
前方を勢いよく高く上げる独特な動き
前方を勢いよく高く上げる独特な動き
 山車の曳き廻しでは、現在では珍しくホイッスルや拡声器は使わず肉声のみで連携を図り士気を高め合い、梶棒の操作と合わせ昔ながらの伝統を守り受け継いでいます。
 濱組には木遣りの名人も多く、この地域でも一、二と言われる大きな大太鼓を叩くバチさばきやお囃子は、見るもの聞くものを魅了します。青年団が中心で教えている太鼓の練習には三十人を超えるこども達が毎年参加をし、多くの伝統が引き継がれていく自慢のお祭りです。


凝った意匠の提灯
凝った意匠の提灯
珠取龍三指爪の襦袢
珠取龍三指爪の襦袢
昔ながらの半纏
昔ながらの半纏


那古観音祭礼

 例祭日はもともと七月十七日(宵祭)と十八日(本祭)で、十八日に祭典が執り行われていますが、山車・屋台の引き回しは、原則七月十八日以降の直近の土・日に行われるようになりました。日程は毎年、六地区の代表が集まる総代会議で決定されます。古くは各町独自で行っていた祭りを明治三十年(一八九七)より那古観音の縁日に合わせ東藤、大芝、芝崎、浜の四町合同の祭りとなり、その後明治四十三年に寺赤、大正十二年に宿が加盟し今日に至っています。
 那古祭礼規約に基づき、一年交代の年番町が祭礼の運営を取り仕切り、本祭は終日六台の山車・屋台がそろって合同で引き回しを行うなど大変統一性があります。各地区とも赤を基調とした提灯、山車の高覧幕は〆縄に三連の細縄と五折の御幣とお揃いのデザインであることも那古地区が一体となった演出美を感じます。
 この祭礼の大きな見どころは、大太鼓の技を競い合うお囃子であり、それぞれの地区の叩き手の華麗なバチ捌きと勢いを、また祭礼を締めくくる年番渡しで行われる伝統の「締めことば」もぜひご堪能ください。

那古寺本堂前での年番渡し
那古寺本堂前での年番渡し


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館山市那古地区 濱(表面) 館山市那古地区 濱(裏面)

このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。