31番 長福寺(ちょうふくじ)


普門山長福寺 【真言宗】 千手観世音菩薩
ご詠歌「かんのんへ まいりて沖をながむれば 岸うつなみにふねぞうかぶる」
城山公園の北にある小丘「北下台(ぼっけだい)」に、神亀(じんき)2(725)年行基が千手観音菩薩像を安置したことに始まるという。元和・寛永・元禄の震災は免れたというが、関東大震災で倒壊し、再建されたものの昭和39年に館山仲町の長福寺へ移された。北下台の墓所中央には「館山観音御堂旧址」の碑が残されている。長福寺の本尊は不動明王。里見氏から慶長年間に真倉(さなぐら)村で6石の地を与えられた。寺伝では行基の創建で、中興開山は伝忠という。観音堂右の墓地には館山藩の御典医「宮川元斎(明治33年没)」の墓がある。観音堂裏の永代供養墓の中には「寄子(よりこ)萬霊塔(ばんれいとう)」がある。これは明治維新の戊辰戦争の際、箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵たちの慰霊碑で、塔の裏には「鐘の音(ね)の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれている。

住所 館山市館山928
TEL 0470-22-1981
備考 <お問い合わせ>
〒294-0045 館山市北条1879-2
館山市観光協会 TEL:0470-22-2000

32番 小網寺(こあみじ)


金剛山小網寺 【真言宗】 聖観世音菩薩
ご詠歌「はるばると のぼりてみれば小あみ山 かねのひびきにあ(明)くるまつかぜ」
県道86号線、岡田口バス停から暫(しばら)く歩いて小網坂と呼ばれる急坂を登ると小網寺である。小網坂右手の谷は法華谷(ほっけやつ)と呼ばれる行場(ぎょうば)で、弘法大師も修業したと伝わる「やぐら」がある。仁王門をくぐり苔むした石段の上が観音堂で、聖観音像(市指定文化財)が祀られている。観音堂の左側には、お堂が元禄大地震の倒壊から復興なった記念に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。下の本堂(本尊:不動明王)向拝(ごはい)にある安房の名工後藤義光が刻んだ彫刻は見事。小網寺は古くは大荘厳寺(だいしょうごんじ)と呼ばれ和銅3(710)年の創建、密教道場として安房の高野山といわれるほど栄えた。鐘楼(しょうろう)の梵鐘は国の重要文化財で鎌倉の名工物部(もののべの)国光(くにみつ)の作。伝説に、この鐘は海中から出現して平砂浦(へいさうら)に打揚げられ、撞(つ)いてみると響きが「小網寺へ」と聞こえたので寄進したとされ、平砂浦の布沼(めぬま)には鐘搗(かねつき)塚という地名があると言う。鐘の音はご詠歌にも詠まれている。

住所 館山市出野尾859
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33番 観音院(かんのんいん)


杉本山観音院 【真言宗】 聖観世音菩薩
ご詠歌「ふるさとを はるばるここに杉本へ わがゆくさきはちかくなるらん」
行基が聖観音菩薩像を刻み楠の祠(ほこら)に安置した事にはじまるという。後に天平(てんぴょう)6(734)年慈覚大師が堂宇を造営した。この観音像とお前立(まえだち)は平安時代の作で藤原様式の古い仏像である。天正時代に堂守が鎌倉で処罰されようとした時、聖観世音菩薩が助けてくれたという霊験(れいげん)が伝えられ「身代わり観音」と云(い)われている。観音堂向拝(ごはい)の龍は明治28年後藤義光の作で、飛天は明治34年のものである。寺号額は文化年間の浩然(こうねん)(下野(しもつけ)の国出流(いずる)観音満願寺の僧)の書。境内には室町時代の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の笠があるほか、天保4(1833)年の石灯籠、享和2(1802)年の光明真言塔(宝篋印塔)、享保15年の御詠歌額がある。慶長11(1606)年に里見忠義から2石の寺領が寄進され、その時の朱印状も残されている。

住所 館山市西長田372

34番 滝本堂(たきもとどう)


滝本堂(大山不動堂) 【真言宗】 千手観世音菩薩
ご詠歌「ごくらくの みのりはここに大山の 千手のちかいなをもたのもし」
かつて古畑(こばた)に所在した長徳寺が滝本観音堂の前身である。修験寺で、行基作の観音像を胎内(たいない)に納めた運慶作とされる観音像を安置する由緒ある寺院だった。鎌倉時代の貞永(じょうえい)元(1232)年に慈悲上人が安房の観音霊場を定め、滝本堂を34番納めの札所に選んだという縁起がある。大永2(1522)年、土豪の糟谷(かすや)石見守(いわみのかみ)家種が同寺を再興し、寺号を大永山普門寺長徳院と改め、千手観音菩薩立像を本尊とした。しかし明治を迎えて廃寺となったことから、昭和34年に観音像を大山寺へ移して不動堂の中に滝本堂として維持されている。中央はお不動様で左側が観音様である。大山は海抜219mで、長狭(ながさ)平野や太平洋が一望できる。大山寺は諸武将の崇敬を集めた山頂の高倉神社の別当で、ともに神亀元(724)年良弁(ろうべん)僧正の創建といわれる。本尊は鎌倉後期作の木造不動明王坐像で、向拝(ごはい)に波の伊八の龍の彫刻が施された不動堂とともに県指定文化財。不動堂裏の坂道には文和(ぶんな)2(1353)年造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。

住所 鴨川市平塚1718
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番外 観音寺(かんのんじ)

福聚山観音寺 元は真言宗 聖(しょう)観世音菩薩
ご詠歌「ありがたや まことの道に手引して ふかきえにし(深き縁)をむすぶみほとけ」
縁起によれば、安房の太守(たいしゅ)里見義実(よしざね)が文明3(1471)年に祈願所として建立し、本尊として聖観音立像を安置したという。観音像は弘法大師の作と伝えられている。本寺であった真言宗円蔵院(南房総市千倉町)所蔵の文書に、「穂田(ほた)之観音寺分弐貫代」と記された天正18(1590)年の里見義康(よしやす)寺領安堵状(あんどじょう)がある。徳川氏からは元和(げんな)4(1618)年以来5石の寺領が与えられていた。後に保田の曹洞宗昌竜寺の境外(けいがい)仏堂になった。現在の堂宇は昭和30(1897)年に新築されたもの。番外札所となったことには観音霊場決定の集まりに遅れた「朝寝の観音」の伝説がある。堂内には初代武志(たけし)伊八郎の象鼻と獅子鼻の彫刻、境内には享保(きょうほう)年間の力士「雲の戸重右衛門」の墓や椎茸(しいたけ)栽培の指導者「鈴木初太郎」の碑などがある。

住所 安房郡鋸南町保田335
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番外 震災観音堂(しんさいかんのんどう)

震災観音堂 【曹洞宗】慈恩院境外仏堂 聖観世音菩薩
ご詠歌「あわやとて たつまなきまにきゆるみは おなじはちす(蓮)の花のうてな(台)に」
関東大震災で未曽有(みぞう)の被害を受けた安房郡内では1206人の犠牲者を出した。死者の霊を慰めるために延命寺の佐々木珍龍(ちんりゅう)禅師が北条六軒町に創建した堂で、戦後現在地に移された。本尊は佐渡の仏師親松(ちかまつ)佛巌(ぶつがん)翁作。ご詠歌は震災で外孫を亡くした北条在住の万里小路(までのこうじ)通房(みちふさ)伯爵が詠み揮毫(きごう)した。境内の石灯籠は北条の富士浅間(仙元)講中の百余名が慶応2(1866)年に寄進したもの。海運事業の発展に寄与した小原謹一郎の顕彰碑もある。謹一郎は私財を投じて館山の近代化に寄与した人物で、その父善兵衛は幕末から明治の初めまでに汐入川を改修し、右岸の沼地を埋め立てて水田とし「小原新田」と呼ばれていた。

住所 館山市北条2549-4
TEL 0470-23-7261 (慈恩院)
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番外 水月堂(すいげつどう)


水月山水月堂  千手観世音菩薩
ご詠歌「ありがたや 千手の糸をつずみ来て じひ(慈悲)のみもとで今ぞきるらん」
大智庵本堂裏の山裾にやすらぎ地蔵の祠があり、横の階段を上がると水月堂が建っている。お堂は文和(ぶんな)4(1355)年の創建とされている。元禄16(1703)年の大津波で多数の死没者がでたとき、通称千人塚に供養されたが、捕鯨集団-醍醐組(だいごぐみ)でも、3代目醍醐新兵衛の兄弁之助や親戚などに犠牲者を出した。3代新兵衛明定(あきさだ)は、元文5(1740)年に死没者の冥福を祈るためと、危うく助かった父・祖父・自分達に対する仏の加護に感謝して、江戸の仏師に観音像造像を依頼し、初代新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て観音様を安置したのが現在の水月堂である。お堂の横には身代わり観音の石碑が建てられている。ちなみに勝山捕鯨の歴史は、里見水軍の血を引く世襲制の捕鯨集団である醍醐家の歴史であり、代々新兵衛を名乗った。

住所 安房郡鋸南町勝山406 (大智庵)
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