房州人は、なぜアバラが1本足りないの!?

「房州人はアバラが一本足りない」という言い回し、聞いたことありますか?
何気ない会話の中に、ポロっと登場したりすると何となくわかったような気がしつつ、
でもなんでアバラなの?  そんな風に過ごしてきた方も少なくはないでしょう。
実は館山市のマスコットキャラクター「ダッペエ」も、アバラ骨が一本ないのです!
これは館山人としては、ますます無視することはできませんね。
そこで、今回は「アバラが一本足りない」という言い回しの意味に迫ってみたいと思います。
館山市キャラクター「ダッペエ」
なんだか辞書を引いたらすぐに出てきそうなこのナゾ、ひとたびベールをめくってみれば南総の文化や風土と密接に関係していることがわかってきました―

(取材:東)

「アバラが一本足りない」 一般的にはどんな意味?

筆者は、さっそくこの言い回しについて、何らかの辞書的な定義はないものかとペラペラと関連図書を探りはじめました。しかし―、こんなによく耳にする言葉にも関わらず、ダイレクトな説明がどこにも見当たらないのです!
そこでまず一般的にはどのように使われているのかを地元の人に聞いてみました。

良い意味悪い意味

この調査でわかったことは、多くの人が、「良い」意味でも「悪い」意味でも状況に合わせてこの言い回しを自由に使っているということです。しかし、上に見られるとおり「~抜けている」という語感を房州人の気質と絡ませてうまく表現しているところは共通していて、なかなか両方とも的を射ているという意見も多く聞くことができました。大体上にあげたような性格が伝統的な房州人の性格なのかもしれませんね…!
とはいえ、これでは「なぜアバラ」なのかがわからないではありませんか!?
「本当に無かったりして??」なんてお腹を触ったそこのオチャメなあなた!折角ですからこの機会に大まかに説明できるようになってみましょう。

※房州人=安房(南房総)に住む人を指します。

(1)なぜ「アバラ」?

まずは、調査の原点ともなる「アバラ」の正体とはなにか、と的を絞りましたところ、この言い回しにそっくりなとある一節に出会いました。

房州船(者)かよ肋(アバラ)が足らぬ あばらどころか木(気)が足らぬ (「安房節」お座敷唄)

安房節記念碑

これは、旧安房郡の漁村で江戸末期の頃から唄われてきたとされる房州を代表する民謡「安房節」の一節です。安房節は、館山の布良・相浜地区の漁師の唄が発祥とされ、海で船員の士気を高めるために歌われたのが始まりと言われています。その後安房郡全体に広がるにつれて歌い手を変え、節を変えて伝わっていきました。そこで、ここでは誤解を避けるために、オリジナルの安房節を「正調安房節」、その後変化した安房節を「お座敷唄の安房節」として大きく分けたいと思います。今回取り上げたそっくりな一節は、お座敷唄の安房節であることに注意して下さい。コラム『房総のうた』より )
さて、この一節をみると「アバラ」が当時の船のアバラ(肋骨)であったことがわかります。船には竜骨、外板、甲板などの部位がありますが、内側の船を支える木を「肋骨」(あばら骨)といい、人体におけるアバラと同じような働きをしているそうです。つまり房州船には、当時アバラが足りなかった、そしてその船乗りの房州人も同じようにアバラがない上に気合も足りないのだとユニークに皮肉っているわけですね。

答え1

さて、早速ですが、この節とも非常に合致している言い伝えが千葉県の安房内房沿いにありました。この説は、様々な説がある中でもっともわかりやすく、多くの方に支持されているので、まず初めにご紹介します。

房州船に肋骨がなかったのは、内房の海が穏やかで肋骨がない船でもゆったり波に乗っていられることからきています。穏やかで温暖な地域である南房総では、そうした海にゆられて、気楽に暮らしていけるということから、「あばらどころか気が足らぬ」という後半の節が生まれたことも、つじつまが合いますね。
つまり、一つ目の答は、肋骨の足りない船でもゆっくり暮らしていける、という南房総の特徴から「房州人はアバラが一本足りない」という言い回しが登場したのでは、ということでした。これは、皆さんの使い方とも合致するのではないでしょうか??


しかし、少し調べてみると、疑問点が―。
それは次の点

房州船を含めた和船には、もともと肋骨がない

ということです。洋船と異なり、「和船」にはそもそも構造上アバラが一本もなかったという事実にはたと向き合うことになりました。
漁村で唄われた安房節ですから、歌い手が和船の構造を知らないはずがありません。つまり、房州船にはそもそもアバラがなかったのに、なぜあえてアバラが足りぬと歌ったのか、ということにひっかかってしまったのですね~。

これは謎だ!

ということで今回は、筆者と同じように立ち止まった方々向けに、調査によって得られた新たな仮説のような文脈(?)を紹介しようと思います。実に、この疑問をつきつめていくうちに、安房や東京湾の様々な歴史と絡み合った仮説となりましたので、なんとかついてきてくださいね~!

(2)房州船とは、歴史的高速船「押送船」ではないか?

安房節が生まれたころの歴史を調査してみますと、日本の船業界は大変革期を迎えていることがわかってきました。江戸末期といえば、ご存知「黒船来航」によってペリーが訪日したころとなります。日本は、江戸の平穏な日々から一転、明治維新による殖産興業や憲法制定によって近代化の道を超速急で歩み始めることとなりますね。
当時、船業界も例外なくその影響を受けていました。

1853年:ペリー来航⇒大船建造禁止令解禁(洋船への道が開かれる)
1870年:商船規則(洋船の持ち主を優遇する制度が作られる)

この二つの御触れを見ただけでも、建造される船の種類が西洋式に大きく変化していったことを物語っています。実際には洋船建造の技術力が発達していない日本ですので、洋船と和船が混在して東京湾を行き来していた時代が大正まで続いていたそうですが、かなりの勢いで洋船が流入してきていたことは間違いなさそうです。
それではそんな中、安房節に唄われる房州船とは、どんな船だったのか。

ペリーが来航した時の逸話が『ペリー提督日本遠征記』に残っています。
―ペリーが初めて久里浜に上陸するとき、案内役の浦賀奉行所のボート(押送船)の速力がはやく「その案内に遅れないようにするためには、わが逞しい漕ぎ手達を激励せねばならなかった」
ここで、ペリーがその速度を絶賛している船、押送船(おしょくりぶね)こそ安房で大活躍した船だったのです。押送船は、洋船よりも速かった! このことから、多くの和船が洋船に取って代わられる中、押送船だけは長い息で生き残ったのでした。

押送船についてもう少しみてみましょう。

押送船(模型)

押送船

(ア) 始まりは、戦国安房の覇者「里見氏」の水軍であり、海上交通に優れた房州人の背景がある。
(イ) 房州漁業は江戸前の新鮮な魚の大半を担っており、特にマグロは鮪延縄漁によって館山の布良地域がほぼ独占していた。
(ウ) 魚は鮮度が勝負。里見水軍仕込みの船乗りが危険を顧みず、速度の上昇に努めた。
(エ) 帆柱を三本立て、屈強男児7人で一斉に漕ぐという押送船が完成。当時陸路で4日かかった時間を、10時間に短縮した。

千葉の南端から日本橋まで、8~10時間で到着したというのですから、驚異的なスピードですよね。では、なぜそこまで速度を上げる必要があったかというと(イ)に記したマグロ漁が盛んだったからです。江戸末期から明治期にかけて、江戸前のマグロの大半が館山の布良から来ていたと言われています。今の価格で1本100万円はする本マグロが一週間に10本~20本と釣り上るわけですから、布良漁港の盛況ぶりは他に類をみないものでした。ただ―、その陰にはマグロ漁特有の危険と背中合わせで生活してきた漁師とその家族のドラマがあったのです。

コラム「布良星」

(3)安房節にこめられた房州女性のひた向きな思い

明治初期のマグロ漁というのは、俗にいうハイリスク・ハイリターンの典型的な職業でした。それは、一獲千金を狙う男たちの勇壮な夢でもあり、また裏では、還らぬ人の犠牲を伴う過酷な一面をも併せ持っていたのです。
マグロは、北の海で小魚をたっぷり食べて南へ帰る途中である11月から3月が最も美味しいと言われます。そのため築地や江戸前の実業家たちは、こぞってその時期のマグロを目指し、船のないものには資金を援助してまでマグロ漁を奨励しました。そのこともあって、なんと最盛期の布良には83隻のマグロ船が集結していたと言われます。
しかし、ちょうどこの11月から3月は、季節風の影響で海が荒れる時期です。港や町が賑わいを見せる反面、何百人もの船員が海にのまれて亡くなっていきました。そのこともあって、このマグロ船を別名「後家船」(ごけぶね)といいます。後に家を残す船、つまり妻子を残して永久に戻ってこない船、という意味をもっています。上のコラム「布良星」も合わせて、如何にマグロ漁が死と背中合わせになった職業であったかお分かり頂けるでしょう。

海女さん

問題は残された妻です。どんどん男が海にのまれていく様を目の当たりにしながらも、夫を港から送り出す房州女性、彼女達はどのような思いで生きていたのでしょうか。中嶋清一著『房州の民俗』(うらべ書房)をみてみましょう。

「古くからこの地方(布良)は、まぐろ漁業の根拠地で、出漁中、意外にも事故が多発したため、家庭を守る女房族が、出漁中の肉親の身を案じて、この唄(安房節)を歌ったともいわれる。」
「鉄道が完成するまでは、船が唯一の交通機関であった。房州の魚介類は、オショクリと呼ばれる和船で、江戸まで漕ぎ運んだものである。各浜で獲れた魚介類を、このオショクリの船着き場まで運ぶのが大変な仕事であった。カラカラと大八車を曳いて、二里、三里の山道を走りぬいてその船出に間に合わせたのが、カカア天下と言われる「房州女」であったという。ある時に上る月に向かって、またある時には、吹きすさぶ木枯にめげず、声を張り上げて、この安房節を唄って帰ったという」。(「安房節」から)
この文章は(2)の裏付けともなり、やはり当時の南房総では押送船(オショクリ)が活躍していたことが伺われます。布良で獲れたマグロは、大八車といわれる台車に乗って、館山の鏡ケ浦(現在の北条海岸)にある押送船まで運ばれました。その運び手となったのが、房州女性。危険をおかして獲ってきた夫のマグロを、雨の日も風の日も、引っ張って歩いたのです。
そして、道すがら歌われた唄がこの「安房節」であったと―
もう一度お座敷唄の安房節をみてみましょう。

「安房節」お座敷唄
・ハァ~ 房州館山 鏡ケ浦に 粋な安房節しゃ 主の声
チンチゲネヤ ソンソコダヨ 島の鳥が オロロンロン
・ハァ~ 沖じゃ寒かろ 着て行かにゃんせ わしが寝間着の 茶のどてら
チャンがもってきた いかなます オンダモチットばかり食ってべえかな
・ハァ~ 鮪とらせて 万祝着せて 詣りやりたい 高塚へ
キッタマッキの帆前船 上はデッキですべくるよ
・ハァ~ 房州船かよ あばらが足りぬ あばらどころか 木が足りぬ
キッタカマッキノ 帆前船 上はデッキですべくるよ アイヨー
・ハァ~ 沖の瀬の瀬の 瀬のあわび 海女が獲らなきゃ 瀬で果てる
ソダマキダヨ 杉葉だ つけぎ無ければ 火がつかぬ どうせおっだらはたきつけだ
・ハァ~ 港出る時 別れた袖が 沖の沖まで 気にかかる
八間間口の土蔵倉売ってもよいかかあ もたねば一生の損だよ ソウダソウダ
・ハァ~ 死んでしまおうか 縄船乗ろか 死ぬにゃましだよ 糸がよい
命とる虫や 変な虫だ 頭がのっぺらぼうで 髪がある 鉢巻している 青大将

こうして改めて読んでみると、なるほどという所がたくさん見つかりませんか?
初めに、「鏡ケ浦」が登場しますが、これは現在北条海岸のある館山湾の別称で、押送船が待機していた停船所です。房州女性によって、布良海岸から北条海岸まで、およそ10キロの道のりをマグロが運ばれました。「キッタカマッキノ帆前船」とありますが、まず「帆前船」とは西洋式の船を表しています。そして、「キッタカマッキノ」を「来たか末期の」と読み替えれば、つながりますよね。そうです、江戸末期から流入してきた外国船のことをいっています。続く3節からは直接、マグロ漁の厳しさ、夫を思う妻の思いが表れています。「詣りやりたい 高塚へ」の高塚とは「高塚不動尊」のことを指しており、房州女性は港で夫を送り出した後、無事を祈願しに参拝に行ったと伝えられています。それほど命がけの漁だったのですね。続く縄船とは延縄漁船の略語、つまりマグロ漁船です。
ただし、現実的な労苦を垣間見せる歌詞にも関わらず、実際の安房節は非常に前向きなメロディーとリズムで、和気あいあいと盛り上がる楽しい唄です。歌詞の内容について知るまでは、歌詞も明るい唄だろうと思ってしまうほど、今にも体を動かしたくなるリズムをもっています。折角なのでお座敷唄の安房節を一度聞いてみませんか?(上記歌詞のうち、3節と5節の録音)

安房節再生ボタン

どうでしょうか?みんなで手を合わせながら歌って踊っている姿が目に浮かびませんか。安房節がどのように歌われていたのかを知る今一つの文章を引用します。

「私が十二、三のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載にした大八車を、手ぬぐいで鉢巻した女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走ってきた。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く。そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底へ残っている」。(『房州のうた』小高さんの回想)

ここで歌われていたのが、正調安房節であったのか、お座敷唄の安房節であったのか、今となっては知る由もありませんが、海辺に響き渡る美しい歌声が聞こえてきそうですね。明治期の館山に住む子供たちにこうした印象を与え、年老いた後も思い出されるのですから、単なる唄を越えた人々の活気や強い溌剌とした生き様がほとばしっていたのではないかと想像されます。安房節は、いつ夫と離れ離れになるかわからない心境の中で、それでも「今」を楽しく生きる房州女性の強さやユーモア、そして肉親への深い愛情がこめられた唄だったのではないでしょうか。

答え2

さて、これまで一連の考察を共に追っていただいた読者の皆様、誠にありがとうございました。これまでの流れをまとめて、新しい仮説を提唱したいと思います!

(ⅰ)なぜアバラなの?

江戸末期から明治にかけて西洋式の船が急激に流入してきましたが、房州では押送船という最速の和船が活躍していました。安房節にて「帆前船」(西洋船)との対比で「房州船」が歌われているように、当時すでに房州にも西洋式の船が出入りしていたようですが、その大きな違いは「アバラがないこと」だったのです。今でも和船と洋船の構造の違いとして肋骨がないことが大きなポイントとなっています。

(ⅱ)「房州人はアバラが~」は、房州女性の強さと前向きな生き様の表れ?

上述しましたように、この言い回しを含む安房節は、房州女性の、夫への思いが強く込められた唄です。夫はいつ死ぬかわからない、だから女は一人で生きていけるように働かねばならない。実際に明治期の房州女性は、半農半漁の生活といって、農業もやるし海女の仕事もするといった働きぶりだったようで、男の収入に頼らずとも生活できたと言われます。こんなことから「カカァ天下の房州女」などと呼ばれるようになったのかもしれませんね。
この安房節は、その後形を変えて安房郡中に広がることになります。この唄のイメージが何か南房総人の気質とフィットしたのでしょう。もちろん現代人のイメージとして挙げられた「温厚や天然気質」または「ぶっきら棒で抜けている」という性格も、安房節のリズムと結びつくはず。しかし、特筆すべきは、苦しみや不安を歌い飛ばし「今」を楽しむ房州風土ではないでしょうか? 明日何が起こるかわからない、だけどそんなに不安がっても楽しくないじゃないか、そんなら歌って笑うっぺ、といった気持ちが伝わってきます。そのため筆者は今回「アバラが一本足りない」の意味に

「前向きで、クヨクヨしない房州人」

を提案したいと思います。みんなで助け合いながら歌い合って、「今」を生き抜いた房州女性、海岸沿いの力強い足取りの裏側には、アバラが一本抜けてしまうほどの肉親への愛情があったことを忘れてはなりませんね!


募集!

今回の謎となった「アバラが一本足りない」という言い回しの意味や、それにかかわる南房総の歴史の中で、調査にかかわる新たな情報を知っている方、是非ご一報ください。検討を重ねて認められた場合には、このwebページにあなたの新説を載せることも!? ドシドシご応募ください。

紹介!

「押送船」
この謎に登場した高速船「オショクリブネ」ですが、実物の模型を館山市博物館分館で見ることができます。東京湾を駆け抜け、江戸の食卓を支えたこの船を一度見に行ってみてはいかがでしょうか。

【館山市博物館分館】
〒294-0036 館山市館山1564-1
電話 0470-24-2402  FAX 0470-24-2404



「安房節記念碑」
記念碑館山市相浜には、マグロ漁にて命を落とした多くの方の勇姿や生き様を後世に残すために、平成5年1月に安房節記念碑が建てられました。安房節は、今回の謎でもそうであったように、明治期の安房人の文化や気風を多く伝える大切な文化財です。みんなで安房節を守っていきましょう 。

コラム「房総のうた」

安房節は…「野趣にみち、間の長い荒げ刷りな感じだが、どこか哀愁を漂わせている。しかも、囃子がどの歌も違い、方言や地名が入っている点が特色だ。安房節を研究している日本交通常務の松尾譲治さんは、「…安房節は富崎、相浜、布良、神戸、館山、船形など限られた地域で歌われたものだが、館山より相浜、布良あたりの方が、男っぽく漁師の歌らしい。現在では漁師、芸者、民謡の先生とそれぞれ節回しが違う」と話す。」 この指摘に見られる通り、安房節は広がるにつれて、地域ごと歌い手ごとに独自性をもった唄となっている。
『房総のうた』p21 朝日新聞千葉支局 未来社1983年

コラム「布良星」

布良星ギリシャでは「カノープス」、中国では「南極老人星」と呼ばれている星を、日本では「布良星」といいます。
マグロ漁が盛んだった布良では、多くの方が海で命を落としました。そこで、真南の水平線上に、たまに赤く見えるこの星は、漁師の魂が漂ったものだとの言い伝えが広まり、布良星と言われるようになったとのことです。
(写真提供:浦辺 守さん)

赤いピン=記事で紹介した周辺の見どころ


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なぜ伊豆大島は近くて遠いの?

 

館山から西南西に40キロ。
沖合に浮かぶ大きな島、それが伊豆大島です。
洲崎から布良にかけての海岸線からくっきりと見えるこの島ですが、
どういう訳か館山とはあまり交流が盛んではないようです。
なぜでしょうか?
毎年花の季節にだけ運航される館山からのジェット船。
今回はこの近くて遠い島、伊豆大島のことをおもいきり紹介しちゃいましょう!

(2012/02掲載:K)

「三原山」と「椿」、伊豆大島を知っていますか?

まず、伊豆大島について少々お勉強を。ただ「大島」と呼ばれることも多いこの島ですが、日本各地に点在するたくさんの「大島」と区別するため、正式名称は「伊豆大島」となっています。現在も活動中の活火山、三原山を島の中央にいだき、くさやの干物やツバキ、アシタバなどの特産品が有名です。縄文時代から人が住んでいたという痕跡が残っており、古くは『日本書紀』にも登場。歴史ある島であることは間違いありません。
鎌倉時代以降は流刑地としての歴史が続きます。いわゆる島流しですね。戦に敗れた源為朝や赤穂浪士の遺族たちなど、歴史上の偉人やその家族たちも数多くこの地に流されています。この流刑地としての歴史は、江戸時代後期まで続きました。

近代になってからは、文化面でもたびたび脚光を浴びることになります。たとえば波浮港(はぶみなと)は野口雨情作詞・中山晋平作曲の『波浮の港』で一躍有名になったほか、川端康成の名作『伊豆の踊子』に登場する旅芸人一座のモデルが、当時この港にあった「港屋旅館」に滞在していたことでも知られています。この旧港屋旅館は資料館として残されており、旅芸人一座の滞在当時の様子を再現した人形や、そのほかの関連資料が展示されています。

コラム「2分でわかる『伊豆の踊子』」

また、かの名曲『アンコ椿は恋の花』の舞台もこの伊豆大島です。ちなみに「あんこ」とは目上の女性に対する敬称のこと。お姉さんを意味する「姉っこ」がなまったものだとされています。椿は島の特産品で、春の椿祭りが有名なだけでなく、椿油の産地としても知られています。
ところで、伊豆大島はどの都道府県に属するかご存知でしょうか? 伊豆七島というくらいですから伊豆=静岡とお思いの方も多いでしょうが、正解は東京都です。江戸時代には伊豆国に属しており、明治の廃藩置県の際には韮山県の管轄に。その後の府県統合で明治4年に足柄県、同9年には静岡県の管轄になります。それが明治11年には東京府に移管されました。その理由としては、お金のかかる離島の統治は静岡県には荷が重く、財政的に余裕があった東京都が引き受けることになったという話もあります。現在では八丈島や御蔵島を含む伊豆諸島のほか、小笠原諸島までもが東京都になっています。

そんなこともあり、伊豆大島を走る自動車は品川ナンバー。島ののどかな風景のなかに都会を象徴するかのような品川ナンバーがずらっと並びます。ちょっとおかしな感じがしますね。

コラム「椿とくさや 島を支える名産品たち」

おこりんぼうの神様、島の歴史は噴火の歴史


伊豆大島の歴史を語る際に避けては通れないのが火山です。三原山は現在も活動を続ける活火山であり、歴史的に見ても大きな噴火を何度も経験しています。噴火の際に吹き上がる火柱は「御神火様」として信仰の対象となっているほど。そもそも島の中央にある三原山自体が1777年の安永噴火で誕生した山で、全島避難となった昭和61年(1986)の大噴火は記憶に新しい人も多いでしょう。この時には館山からも赤い溶岩がよく見え、風向きによっては火山灰が飛んでくることもあったそうです。

これまでほぼ35年以内おきに大きな噴火が起こっていますが、今のところ火山活動は落ち着いており、三原山噴火口は絶景のトレッキングコースとして親しまれています。また、島には世界でも珍しい火山博物館があり、島の火山活動の歴史や噴火のメカニズムなどをわかりやすく紹介しています。
車を走らせていると、山も海岸線も安房地域の景観とは全く異なることに気づきます。この景観を見るだけでも、島を訪れる価値はありそうです。

コラム「火山活動は毎日チェック!」

館山と伊豆大島、交流の歴史を探ってみる

さてこの伊豆大島、安房地域との関わりはどれほどあるのでしょう? 後で詳しく紹介しますが、館山と伊豆大島の定期航路の運航が始まったのは平成18年2月。それまでは公共交通機関では直接行き来できなかったことになります。ただし、漁師など海を自由に行き来できる人たちの往来は少なからずあったはずです。そこで、館山と伊豆大島、思いつくままに比較してみました。

方言は?
伊豆大島の方言は北部伊豆諸島の方言とされるもので、どちらかというと伊豆方言に近いものだそう。安房方言とは似ても似つきません。料理は?
伊豆大島には同じ伊豆諸島の八丈島発祥とされる「島寿司」に似た「べっこう寿司」というものがあります。これはメダイなどの白身魚のヅケを握ったもので、辛みは青とうがらし。江戸前の流れをくむ館山の房州鮨とはまるで違うものです。干物についても大島の「くさや」は何年も使い続けている「くさや液」に漬け込みますが、これは安房地域には見られない製法です。どうやら食文化の交流はあまりなかったようです。祭りは?
館山では地区ごとの神社が神輿や山車をもち、夏は祭り一色になりますが、伊豆大島ではこのような習慣は見られません。毎年春の椿まつりでは「江戸みこし」という催しがありますが、これらの神輿は東京から運んできたもの。担ぎ手も島以外の人が多く、どちらかというと観光神輿といってもいいでしょう。また、安房地域で見られる「かっこ舞」のような雨乞いの祭りも見られません。

いかがです? 残念ながら類似性はあまり見つけることができませんでした。これだけ類似点がないということは、少なくとも双方の文化が成立する過程においては密な交流はなかったのでしょう。また、婚姻などについても、安房から大島へ、あるいは大島から安房に嫁いだという話はほとんど例がないようです。
理由のひとつは、間に横たわる海峡が海の難所だったということも考えられます。とはいえ、江戸時代後半になると伊豆大島から江戸に向けて魚を運ぶ押送船が走っていたので、漁師さんたちにとっては安房と大島の往来はお手のものだったはずです。漁師さんレベルでの交流はあったものの、文化の伝播にまでは至らなかったということでしょうか。今も昔も海で隔てられているというのは、我々が思う以上に往来が大変だということでしょう。

コラム「安房と大島 曲亭馬琴の2つの名作」

季節限定の直行便! 船が文化のかけ橋に?

さて、この近くて遠い伊豆大島ですが、毎年春の時期だけ館山からジェット船でアクセスできるようになります。正確にいうと、東京と伊豆大島を結ぶ船が館山に立ち寄り、さらには伊豆半島の下田へ向かいます。館山から伊豆大島まではわずか55分。日帰りも十分に可能な距離ですね。
館山~伊豆大島~下田を結ぶこのラインは別名「海のフラワーライン」。いずれの町も「ひと足早い春」が自慢の温暖な気候で、館山のポピーや菜の花、伊豆大島の椿、下田周辺の河津桜と、趣の異なる春の花めぐりを楽しめるというわけです。

東海汽船の航路図
 都心からなら館山と伊豆大島を組み合わせた1泊2日プランも十分可能ですし、2泊3日で下田も組み入れることも可能です。館山からでも、ちょっと忙しくなりますが、1泊2日で伊豆大島と下田を巡るスケジュールだって組めそうです。春に限っていえば「近い島」と言ってもよさそうですね。
この季節にはジェット船の運航会社である東海汽船をはじめ、旅行会社各社が海のフラワーワインを使ったツアーを企画しています。高速船の運航は4月1日までですので、興味のある方はお早目に旅行プランを練っちゃいましょう。ひょっとしたら、伊豆大島と館山の文化の意外な共通点なんかも見つけることができるかもしれませんね。

コラム「ジェット船はこうやって走ります!」

東海汽船のホームページへ

伊豆大島のみどころはこちら!

最後になりましたが伊豆大島のみどころを紹介しておきます。どうです、館山に劣らず魅力的な島だと思いませんか?

三原山

島の中央に位置する標高758mの活火山。平成10年(1998)5月に噴火口を一周する「おはち巡りコース」が開通し、ここから見る深さ200mの噴火口は圧巻です。三原山頂口から噴火口までは、徒歩45分~60分ほど。お鉢めぐりは45分ほどかかります。


都立大島公園

東京ドーム1.5倍の園内に8700本ものツバキが咲き誇る国内最大規模の椿の公園。海側の海岸遊歩道からは房総半島も一望。65種の動物を飼育する動物園では伊豆諸島に生息するキョンなどを見ることができます。椿のさまざまな用途を斬新な展示で紹介する椿資料館も併設。


波浮港(はぶみなと)

かつては遠洋漁業の中継地として栄え、旅館前の町並みは情緒たっぷり。
見晴台からは港の風景を一望でき、『伊豆の踊子』の主人公たちのモデルとなった旅芸人一座が
実際に滞在していた港屋旅館は、資料館として公開されています。


郷土資料館

大島の自然や文化を300点ほどの貴重な資料で紹介。海との関わり、火山活動、土器・石器、民家と民具など幅広く、付近には当時の暮らしを再現した古民家もあります。


ふるさと体験館

椿油搾り体験、草木染め体験、あした葉摘み取り体験など、大島の自然や文化の体験施設。一番人気は椿油の搾油。種をつぶす、蒸す、絞るの各工程を順に体験できます。田舎ならではのゆとりある休日を楽しめます。


火山博物館

世界でも数少ない火山専門の博物館。三原山はもちろん、
日本や世界の他の火山についてさまざまな展示で解説。大島の自然風土を映像で紹介するコーナーもあります。


椿花ガーデン・リス村

広大な敷地に椿の花が咲き乱れる椿園。リスやウサギの餌やり体験では、
体にまとわりつく愛らしいリスたちと戯れることができます。芝生広場からは伊豆方面の眺望が抜群。


筆島

海上から30mほど突き出した筆のような形の岩山。200万年ほど前の火山活動で、溶岩が冷えて固まったものだとされています。周辺はサーフスポットとしても人気。


地層切断面

高さ30m、幅600mもあるむき出しの地層面。度重なる噴火による堆積物が造り上げた自然の造形美で、地元では「バウムクーヘン」とも呼ばれています。そのダイナミックな景観は世界中の火山研究家たちにも広く知られています。


コラム「椿とくさや 島を支える名産品たち」

伊豆大島の名産品としては筆頭にあげられるのは「椿油」でしょうか。椿の実の中の黒い種を搾ったもので、食用に使われるほか、歴史的には平安時代から黒髪の手入れに使われていたという記録があります。また、最近では優れた保湿力から化粧品としても注目を浴びています。体にやさしい天然油で、皮膚にしっとりと馴染みます。
 食べもので有名なのは「くさやの干物」です。これはくさや液」に漬け込んだ生魚を干したもので、独特のにおいが特徴です。「くさや液」は各店秘伝のもので、店によっては数百年前から続く液に塩を足しながら伝統の味を守り続けています。魚はムロアジやトビウオなどが使われています。
また、手軽なおみやげには牛乳せんべいはいかがでしょう。伊豆大島はかっては良質なバターの生産地として知られるほど牛乳の生産が盛んでした。消費しきれない牛乳の有効利用として始まったという牛乳せんべい。素朴な味わいが人気です。
いずれも島内の土産店で買うことができます。ぜひ郷土の物産をお試しください。※2012年7月追記
読者より、「牛乳せんべいは大正の中頃、昭和天皇が御来島なさるのに献上するために発案されたもの」との情報をお寄せいただきました。

コラム「2分でわかる『伊豆の踊子』」

 ノーベル文学賞作家、川端康成の自伝的小説。これまでに何度もテレビドラマや映画の題材としても取り上げられているので、ご存じの方も多いと思います。
孤独感を抱える第一高等学校の学生(私)は伊豆への一人旅に出かけ、天城越えの途中、峠の茶屋で出会った旅芸人の一行と出会います。学生は道中何度も顔を合わせることになった旅芸人たちと次第に言葉を交わすようになり、彼らとの交流のなかで14歳の薫という踊子に次第に心魅かれていきます。結局「私」のお金の都合により、下田で別れ別れになってしまいますが、あどけない少女へと寄せる淡い恋心が、せつなく伝わってきます。
物語の中には伊豆の名所が次々に登場し、それらの舞台は観光名所にもなっています。学生にもう少しお金があれば旅芸人たちと一緒に伊豆大島に来ることになっており、そうすると伊豆大島にも「名作の舞台」がいくつか増えていたに違いありません。

コラム「火山活動は毎日チェック!」

 これまでに何度も大きな噴火を経験している大島では、火山活動の動向は日常生活に想像以上に深く関わっています。
まず、天気予報ならぬ噴火予報。これは噴火災害軽減のために気象庁が発表しているもので、平成19年(2007)から始まりました。また、三原山を含む活火山の活動状況は噴火警戒レベルで表示され、1(平常)~5(避難)まで5段階表示。現在の三原山は警戒レベル1。「火山活動は静穏」ですので、火口近くへの登山なども許されています。
当然といえば当然なのですが、島民の噴火への意識は相当高く、1986年の噴火の際には、避難勧告が出る以前にかなりの世帯が避難所へと向かったそうです。

コラム「安房と大島 曲亭馬琴の2つの名作」

 江戸時代の戯作者、曲亭馬琴の傑作として知られる『南総里見八犬伝』は、館山では知らない人はいないほどの人気の作品です。じつはこの曲亭馬琴、伊豆大島を舞台にした作品も残しているのです。タイトルは『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』。『南総里見八犬伝』の少し前に発行されており、これも馬琴の代表作のひとつに数えられています。
題材となったのは、大島に流された源為朝(みなもとのためとも)の物語。大島に流されたあと琉球に渡り、初代琉球王舜天(しゅんてん)になるまでの話が、壮大なスケールで描かれています。馬琴の出世作ともなったこの作品。当時は『南総里見八犬伝』よりも人気があったとも伝えられています。大島と安房の国、意外なところで共通点を見つけることができました。

コラム「ジェット船はこうやって走ります!」

館山と伊豆大島をわずか55分で結ぶジェット船。ほかの船とどう違うんでしょうか?
ジェット船は「水中翼船」と呼ばれるもので、文字通り水中に翼をもつ船です。推進力はスクリューではなくジェットエンジン。後方に海水を吹き出すことで高速での移動を可能にしています。
図のように停泊時と低速度時は通常の船と同じく海に浮かんだ状態。水中翼は前方の海上に出ています。速度を上げるにつれて水中翼は海中に沈み、やがて離水。船体は完全に海面から離れ、快適な翼走状態に入ります。こうなると非常に安定していて揺れはほとんど感じないほどです。これなら船酔いに弱い方も安心ですね。ただし、低速度時はほかの船と同じように揺れます。船に弱い方は最後に乗船し最初に下船するなど、できるだけ船の中にいる時間を少なくするといいでしょう。
ジェット船には飛行機と同じような座席が付いていて全席指定席です。もし窓側の席に座ることができたら、出航後船が水を切るときにできる白い泡に注目してみてください。最初は船の前の方で水を切っていますが、徐々に後ろに下がり、やがて見えなくなります。それが離水の瞬間です。ふわっと浮き上がる感覚こそありませんが、なかなか珍しい体験といえるでしょう。

(資料提供:(株)東海汽船)

なぜ館山には移住者が多いの?

都会暮らしの閉塞感もあってか、
田舎暮らしを希望する人が急激に増えているそうです。
都心を離れ、海や山など自然豊かな土地を目指す、
その移住先として館山が注目されているのです。
かくいう筆者も最近移住してきた者の一人。
なぜ館山はこんなに人気があるのでしょう?
移住者の声から人気の秘密を探ってみました。

(2012/04掲載:K)

移住者は館山を目指す!

少し古い話になりますが、「田舎暮らし」という言葉がメディアを賑わせるようになったのは、1990年代だったように思います。未曾有の好景気に包まれ、大量生産、大量消費がよしとされる風潮が延々と続きました。世に言うバブル時代。ご存知のとおり、その時代は泡がはじけるように突然消え去り、不景気の時代へと突入したわけです。人々はここで「お金」を追い求め続ける張り詰めた生活を見直し、「ゆとり」ある生活を目指しました。これが田舎暮らしブームの始まりです。
ここで少し「移住」と「引っ越し」の違いについて考えてみましょう。辞書を引くと「移住」とは「他の土地へ移り住むこと」。移住と引っ越しの境界線はきわめて曖昧なのですが、ここでは「都会から田舎への引っ越し」、それも仕事の都合や短期的な滞在ではなく、あくまでも自分の意志で、ある程度の覚悟をもって居を移すこととさせていただきます。つまり、移住者とは都会から田舎へ覚悟をもって引っ越しした人、ということになります。
そうした場合の移住先として、館山はかなりの人気があるようです。まずは館山に移住した皆さんに話をお聞きして、館山のどこに魅かれたのかを探ってみることにします。

中屋勝義さんの場合

中屋勝義さん

東京で会社を経営していた中屋さんは釣り好きが高じてリタイヤを機に館山に移住。館山を選んだのは父親の縁があったから。東京の家は売り払い、館山市内の八幡神社近くに家を購入しました。移住当初は毎日のように釣りに出かけていましたが、なぜか数年で興味をなくしてしまったといいます。
次にのめり込んだのが農業。1年間ほど農業団体が主催する講習会に参加して技術を学び、自宅から少し離れた場所に畑を借りました。自然農法による野菜作りを目指し最終的には150坪ほどの畑で40種ほどの野菜を育てていました。作物は朝市などで販売していましたが、手仕事での畑はこの広さが限度。商業的にやるには規模を拡大したうえでの機械化が必要になりますが、そこまでの覚悟ができなかったこともあり、農業は6年間ほどでやめてしまいました。そのころ始めたのがイラストです。最初は朝日を浴びる蜘蛛の巣や、害虫の絵を書いていたそうです。
畑をやめてからは博物館の仕事を手伝うようになります。神社やお寺のイラストを描いたところ評判になり、これまでに神社やお寺のほか、祭りや山車、神輿、さらには館山に残る戦争遺跡など多くの作品を描きました。移住してから開花したイラストの才能。今後はこれらの作品を出版する計画のほか、ガイドサービスや体験施設の運営などの構想をもっており、着々と準備を進めていらっしゃいます。ここ館山での第2の人生はまだまだ忙しくなりそうです。

亀谷美紀さんの場合

亀谷美紀さん

ミキティの愛称で親しまれる亀谷さんと南房総との出会いは20年以上も昔。白浜にあるリゾートホテルへ、夏のアルバイトに訪れたのがきっかけでした。白浜の海と太陽とホテルのスタッフたちが気に入り、それから毎年、夏になると白浜を訪れるようになります。8年目からは正月も来るようになり、夏と冬の季節アルバイトの白浜通いは14年ほどになりました。館山通いと並行して、稚内、石垣島、伊勢志摩などのリゾートホテルで働いたこともあり、生活のために渡米した経験もあります。
それから白浜に移住することになるのですが、きっかけは些細なことでした。地元広島で体調を崩し、気持ちが塞いでいたときに頭に浮かんだのが白浜の海だったのです。季節ごとに通うのではなく本格的に白浜に住むことを思い立ち、社員になることを勧めてくれていた上司に電話。就職の話はすぐにまとまり、白浜に越してきました。幸いにも、住む場所、仕事、気の合う友人など、移住に必要な要素は最初からすべて満たされていたそうです。移住について、この地域の魅力についての問いに次のように答えてくれました。
「私の場合、移住は何の気負いもなく進んだので本当に幸運でした。館山を含めた南房総地域はうまく言えないけど、ラクに呼吸ができる場所と言ったらいいかな。海と太陽が身近に感じられる場所、そして住む人の心が温かい場所。そんな場所だと思います。」
長年勤めたホテルは昨年退職し、今は新しい生活に向けての準備期間中だそう。「人の心に土足で入り込むのが得意」と友人に軽口を叩かれるほど社交的なミキティのこと。今後もこれまで以上に館山の生活を満喫してくれそうです。

山崎さんご夫妻の場合

山崎誠さん、民さん、健太郎君

昨年7月に東京から一家で越してこられた山崎さんご夫妻。館山市南端近くにある相浜という集落でパン屋を営んでいます。ご夫妻はいずれも両親の仕事などの関係で日本各地に住んだ経験があり、移住先はかなり広範囲に探したといいます。鴨川や小豆島なども候補に挙がっており、共通しているのは暖かい土地であることと行政などの移住相談窓口があること。最終的に館山に決めたのは、地域に溶け込んでいる先輩移住者の生活ぶりを実際に目にすることができたのが大きかったそうです。移住先を館山に絞ってから家探しを始めましたが、パン屋を開くために改装できる賃貸物件はなかなかみつからず、2年間ほど費やしたのちに中古住宅を購入。一部を改装し昨年11月に「富崎ベーカリー」をオープンしました。移住を考え始めた当初、誠さんは就農を目指していましたが、自家製酵母を研究しているうちにパン作りが面白くなり、結局ご夫妻でパン屋をきりもりすることになりました。
館山での暮らしは東京でのそれとは180度違うもの。夜の暗さと静けさは東京では考えられなかったことで、魚や野菜などをいただく機会が多いことから食費は大幅に減ったといいます。移住前は地域に溶け込めるかどうかが心配でしたが、そんな不安はすぐに吹き飛びました。今では知り合いも増え、すっかり地域に溶け込んでいる様子です。「地域の人に子育てしていただいている感じ」という民さん。「皆さん何かと気にかけてくれるので、居心地はいいです」とは誠さん。パン屋の売り上げも順調に伸びているそうで、新生活の滑り出しはまずまずといえそうです。
明るい人柄のご夫婦と健太郎君の3人暮らし。館山の生活はまだ始まったばかりですが、海辺での田舎暮らしを存分に楽しんでいるようです。
(富崎ベーカリーの詳細情報は記事の最後に掲載しています)

東洋平さんの場合

東洋平さん

たてやまGENKIナビ地域レポーターとして活躍する東さんも移住者の一人です。学生時代から音楽活動を続けていた東さんの移住は、レコーディングのために館山に通ったのがきっかけでした。館山の人や自然に触れるうちにこの土地を気に入り、軽い気持ちで移住を決めたそう。音楽を学びたいということもあって、卒業後すぐに友人と2人で館山に越してきました。広い一軒家をシェアして始まった館山の暮らし。音楽も学びつつ、草刈りや民宿の手伝いなどさまざまなアルバイトを経験することになります。切り詰めれば月8万円ぐらいの収入があれば暮らせたそうで、半年間ほどアルバイトで食いつなぐ「その日暮らし」を楽しみました。
地域レポーターとしての仕事がみつかったのは「かなり幸運だった」という東さんは、館山での暮らしをどう感じているのでしょう。
「自然は豊かだし、地元の人たちもみんな温かい。住むには最高の場所だと思います。若者世代の移住は、家族での移住に比べるとハードルが低く、軽い気持ちで越してくることも可能です。就職事情は厳しいですが、アルバイトはたくさんあるので、生活するだけならそれほど困ることもないでしょう。まずはアルバイトをしながらじっくりと職を探すのも一つの方法かもしれません。」
一方で、仕事を与えてもらうのではなく自分で作りだす必要性も感じており、特に農業分野での可能性にも注目しているそう。将来的には社会起業家を目指すという東さん。今後も地元のイベントに積極的に関わるなど、地域の役に立つ仕事を続けていきたいと話します。

豊かな自然と利便性、館山はそのバランスが絶妙

移住者が話す館山の魅力にはいくつかの共通点があります。豊かな自然があること以外でまず目につくのが「利便性」です。
館山市は人口5万人足らずの町。房総半島の南端近くにあり、悪くいえば「どんづまり」の場所にあります。とはいえ、かつては地域の中心的役割を担っていた時代もあったほどで、駅周辺や館山バイパス沿いには商業施設が並び、近隣からも多くの人が買い物に訪れています。いわば、現在も商業的には南房総地域の中心的役割を果たしているといってもいいでしょう。ある程度の買い物は館山市内でこと足りますので、それは大きなポイントのひとつといえそうです。
次に東京との距離が挙げられます。館山に移住した人の多くは東京を中心とした首都圏を拠点に生活していた人たち。親兄弟、親戚、友人たちの多くは首都圏に住んでいるので、あまり首都圏から離れすぎると行き来が大変になってしまいます。館山から首都圏へはJRのほか、高速バスが東京駅、横浜駅などを結んでいます。東京駅までは最短でわずか1時間30分。昼間は2時間以上かかることもありますが、日帰りの往復はもちろん、毎日の通勤だって無理すればできない距離ではありません。

それでいて、少し街を離れれば豊かな自然が残っています。西と南を囲む海は澄んでいて、昔ながらの里山の風景もあちこちに見られます。都心との距離と自然の豊かさ。そのバランスが絶妙に噛み合っているのが、館山の最大の魅力なのでしょう。
豊かな自然とはいえ、山はそれほど深くなく、海は見た目の美しさでは南の島のサンゴ礁の海にはかないません。街も日常生活に不便を感じることはなくても、都会の品揃えには到底及びません。ともすれば「中途半端」とも言えますが、この間口の広さ、懐の深さは他の土地にはない魅力です。そういう意味では「田舎暮らしの初心者向き」の土地といえるかもしれません。

幅広い年齢層に支持される土地

鏡ヶ浦の夕景

ひとことで「移住者」といっても大きく分けると3つのタイプに分けられます。まず第1に定年退職後の第2の人生を田舎で過ごそうとする人たち。都心で働く人のなかには老後は田舎でのんびり暮らしたいという人がかなりの割合でいらっしゃいます。都心との2拠点生活をされる方も多く、共通していえるのは経済的には比較的ゆとりがあるということ。生活費は貯蓄や年金などで賄えるので、館山には働く場所を求めてはいません。家庭菜園や釣り、ゴルフなどの趣味三昧の生活を送ることができ、少し文化的な生活が恋しくなったら時々都心に出る。そんな生活で日々楽しく過ごしていらっしゃる方が多いようです。
次に子育て世代の移住者。子供は未就学児や小学校の低学年のうちに移住する人が多いようです。彼らは生活の重きを「教育」に置いている場合が多いのですが、彼らの求める教育とは子供たちをガチガチの受験戦争に放り込むことではなく、豊かな自然のなかで子供らしい感性を養わせるということ。田舎で育った子供たちは、こと学力に関しては都会で塾通いの毎日を送る子供にはかなわないかもしれません。それでも自然を身近に感じながら育つことで、学力だけではない何かが養われるはずです。
そしてもう一つのグループが若者たち。釣りやサーフィンなど趣味が高じて移住する人もいれば、農的生活に憧れてこの地を目指す場合もあります。共通して言えるのはフットワークの軽さと「この土地で何か新しいことをしたい」という思い。都心で安定した収入を得ること以上に、この土地がもつ何かを感じ取っているのでしょう。若い彼らのパワーが、館山に少なからずの影響を与えているのは間違いないようです。

移住を支援します! NPO法人「おせっ会」

おせっ会理事長 八代健正さん

このように移住者に人気のある館山ですが、この街に移住した人たちの多くがお世話になっているのが移住支援団体「おせっ会」です。行政とも連携しつつ「空き家バンク」を立ち上げたり「移住体感ツアー」を実施するなどその活動は精力的。また、常時移住相談にも応じており、館山への移住を考える人たちにさまざまな情報を提供するとともに、多くの人たちを迎え入れてきました。まさに、縁の下の力持ち的存在といってもいいでしょう。今回は理事長である八代健正さんに、館山の移住の現状をお聞きしました。
そもそもこの活動を始めたのは「このままでは館山はダメになる」との思いからだったそう。他の地方都市同様ここ館山でも少子高齢化が進んでおり、特にかつての漁村地域においてはこのまま放っておくと数十年後には地域ごと消滅してしまいそうな状況です。それを打破するには子育て世代を呼び込むこと。それによって「年齢のバランスが取れたコミュニティが復活するはず」とおっしゃいます。最初は個人的に活動していましたが、商工会議所青年部の会合で話したところ思いのほか反響があり、2009年にNPO法人として発足しました。現在は理事16名、会員数70名ほどで運営されています。

圧倒的に多いのが子育て世代、最近は若者の相談も増加

「おせっ会」はこれまで多くの人たちの移住相談を受けてきましたが、圧倒的に多いのが子育て世代からの相談だといいます。移住を考える際に一番考えなくてはならないのは「住居」と「仕事」、さらに子育て世代だとこれに「教育」が加わります。子育て世代は、他のどの世代よりも考えなくてはならないことが多いこともあり、誰かに相談する必要性が高いのでしょう。
それが最近、特に3.11の後は未婚の若者からの相談が増えたといいます。あの大参事によってそれまでの価値観がどこかで崩れ去り、生活スタイルを見直すきっかけになったのかもしれません。移住への思いを語る彼らは一様に「何かをしたい」という希望に満ちているそう。リーマンショック直後は経済的に都会で生活できなくなった人からの相談が一時的に増えたこともありましたが、その現象とは一線を画しているようです。
この活動をしていていちばん嬉しいのは、移住してきた人たちが楽しく生活している姿を見ること。いちばん悲しいのは、彼らの辛そうな姿を見ることという八代さん。これまで移住してきた人たちのなかにも、地域とうまくいかなかったり、経済的に立ち行かなくなったりで移住そのものを断念した例が少なからずあるそうです。そんなこともあって、現在「おせっ会」ではすべての移住希望者に「計画シート」を記入していただくことにしています。これによって「移住後のライフスタイルをイメージすることができ、移住の是非の判断材料になると同時に自分たちの覚悟のほどを再確認できる」といいます。

超えるべきハードルの数々、移住を手放しで喜べない事実も

移住相談を受けて感じるのは、多くの方が間違った印象をもってらっしゃるということだそう。例をいくつか紹介してみましょう。
まず多いのは生活費について。田舎暮らしは生活費が劇的に安くなるというイメージが強いようですが、実際に安くなるのは住居費のみ。野菜や魚などをいただく機会が増えると食費も多少抑えられますが、日用品の値段や水道光熱費はむしろ都会よりも高い場合もあります。
また、都会の生活は経済的に苦しいが田舎ならなんとかなると思っている人も多いようです。これも大きな間違いで、仕事は圧倒的に都会の方が多く、収入面では都会には到底及びません。これは館山出身の若者が仕事の都合でやむなく故郷を離れていくことを考えると容易に想像がつきます。
最近では、移住者へのアドバイスとして「移住の目的を見失わないための計画性」を強調しているそうです。たとえば、農業をやるために移住してきたつもりが、生活費のためにアルバイトに明け暮れる。のんびり暮らそうと移住したものの収入が低いのでかけ持ちで仕事するようになり、自由時間はむしろ減ってしまったなど。これでは本末転倒です。こちらでの生活を確立しようとすると「仕事」は避けては通れない重大な要素であり、それが移住を断念する一番の要因にもなっています。
「おせっ会」としても今後は「仕事がない」状況を伝えるだけではなく、仕事の提案もできるような団体にしていきたいとの思いが強くなっているそう。とはいえ、観光以外の大きな産業がなかなか育たない館山にあって雇用を生み出すのは容易ではありません。そんな八代さんが提案するのが「片手間型多角経営」。片手間というと印象が悪いかも知れませんが、簡単にいうと「空いた時間を利用していろいろなことでお金を稼ぐ」ということ。「そういったビジネスモデルを構築できれば移住者はもっと増えるはず」と、八代さんは熱く語ります。

究極の安らぎ生活を目指して

これまでの話から、良くも悪くも「館山に移住する」ということが見えてきたような気がします。もちろん乗り越えるべきハードルはたくさんありますし、必ずしも楽しいことばかりではないでしょう。それでも、ざっと周りを見渡してみると、移住した人たちは実に生き生きと毎日を暮らしていらっしゃいます。
私ごとながら移住者の一人として、館山での生活の魅力を紹介させていただきましょう。
まず野菜と魚がおいしすぎること。鳥の鳴き声や風や空気から季節の移り変わりを実感できること。陽が昇り沈む様子を目の当たりにできること。静寂のなか満天の星空を眺められること。また、地域と自分との関わりは都会では考えられないほどに強く、希薄な人間関係に慣れた自分にとっても居心地は悪くありません。いつものように当たり前に過ぎてゆく時間さえもが濃密で、毎日ワクワクしながら生活しています。生活そのものが楽しいといっても言い過ぎではありません。
得るものと失うもの、これらを天秤にかけてみて、得るものが少しでも多いならば思い切って移住してみるのも悪くない選択かもしれません。そう思い立ったらまずは「おせっ会」に連絡を。「館山暮らし」の現状について、的確なアドバイスをいただけるはずです。また、今後もさまざまなテーマで移住体験ツアーを実施予定です。詳細は下記ホームページにて順次発表します。お楽しみに。

NPO法人「おせっ会」

富崎ベーカリー

移住して2011年11月にオープンした自家製酵母のパン屋さん。パン屋の立地としては決して有利な場所とはいえないものの、地元を中心にすでに多くのリピーターを獲得し滑り出しはまずまず。

住所 館山市相浜254
電話 0470-28-0221
営業時間 月・木・金曜10:00~16:00

 

なぜダッペエはゆるキャラではないの?

館山市マスコットキャラクター ダッペエ

館山市マスコットキャラクター「ダッペエ」ってご存知ですか?
黄色の肌に、まん丸のお目目。長いお鼻に真っ赤なくちびるが特徴的な、子供から大人までに大人気のキャラクターです。近年地域PRや活性化を目的としてたくさんのマスコットキャラクターが誕生しておりますが、彼らはその愛らしい姿や立ち振る舞いから「ゆるキャラ」と総称されています。
しかしその中で、実はこのダッペエ、デザインからプロフィールに至るまで「ゆるキャラ」とは一線を画した独創性に溢れているのです。 「だっぺぇオフィシャルサイト

(2012/04掲載:H)

ダッペエってどんなキャラクターなの?

まずは、ダッペエそのものをまだ御存知ない方もいらっしゃると思いますので、このダッペエについて簡単におさらいしてみましょう。

ダッペエプロフィール

チーバくん誕生日で大集合
チーバくん誕生日で大集合

ダッペエの名前の由来は、房総に伝わる方言からきています。もちろん地方によって多少変化はありますが、関西弁で「~や」、九州弁で「~けん」などという有名な語尾を、房総の方言では「~だっぺ」といいます。今でも生来地元で過ごされている方などと話せば、この愛らしい大らかな口調と接することができます。もちろんダッペエは房州弁を語りますので、この言葉で更新されるダッペエブログは見ものです。

里見まつりにて震災の義援金呼びかけ
里見まつりにて震災の義援金呼びかけ

そして分類は、「犬」。なぜ犬かといえば、家系の特徴にも表れているように、館山が『南総里見八犬伝』ゆかりの町だからです。江戸時代の文豪曲亭馬琴による『南総里見八犬伝』は、「八房」と呼ばれる犬と、「伏姫」という名の姫の物語から始まる長編傑作。ダッペエは、この八房の「親戚の末裔の知り合いの親戚」ということで、八犬伝との関係は間違いなさそうです。

あばらが一本足りないダッペエ
あばらが一本足りない ダッペエ

そして最後に「あばらが一本足りない」ということ。房州の慣用句ともいえるこの「あばらが一本足りない」という表現は、一般に「穏やかで温厚な房州人気質」を意味する言葉として使われています。なぜアバラ?ということが引っかかる方には、拙記事「房州人は、なぜアバラが一本足りないの?」を是非お読みください。このアバラには房州の歴史が凝縮されています。
実は、このアバラが足りないということは、ダッペエの身体にも表れているんです。お腹のあたりをよくみてください。黒い穴が見えますか?これはアバラが抜けてしまった穴なんですよね。そしてまた、もっとよく見るとこの穴、半円になっていることがわかります。これは、ダッペエの胴体が「D」の形をしているからなんだそうです。「D?」なぜだと思われる方は、ダッペエの頭をご覧ください。「ぺ」の字になっていることをお気づきになりましたでしょうか。つまり、「D」と「ぺ」で「ダッペエ」なんです。身体そのものが名前になっていたんですねぇ。
ちなみに自然と「ダッペエくん」などと呼びたくなりますが、房州気質の彼に「君付け」は似合わない、とのことで呼ぶ時は「ダッペエ」と呼んであげて下さいね!

このように、ダッペエは名実ともに房州を代表する特徴をもって館山市に誕生したとってもユニークなマスコットキャラクターなんですね!

ダッペエ誕生の軌跡

それでは、このダッペエはどのようにしてこの世に誕生したのでしょうか。まさにこの始まりがダッペエの「ゆるキャラ」ならぬ鍵を秘めているのではないか、と狙いを定め筆者は館山市役所商工観光課を訪ねてみることにしました。
ダッペエの窓口を務められている担当者の方にお会いしたところ、異動の多い市役所の人事の中、ダッペエ誕生劇をよく知っている方は、今はここにはいらっしゃらないとのお話しをお聞きしました。ただし、ここで担当者の方から衝撃的な事実を打ち明けられることに!

ダッペエは何キャラなの?

「ダッペエは、脱力系キャラと言われているんです。」

なんと、「ゆるキャラ」ではないダッペエは、「脱力系キャラ」だった!?

ダッペエがひときわ異色な風貌とプロフィールを併せ持つマスコットキャラクターであることは知っていたものの、ダッペエが「脱力系キャラ」であることは知らなかった筆者は、未だよく掴み切れていないこの「脱力系」という新しい「ゆるさ」にみるみるうちに惹かれていきました。
ただし、この「脱力系」という真意も誕生期に立ち会っている方がよくご存知のはず。ということで、すぐさま当時の商工観光課課長であった方を探して頂くこととなりました。

館山市農水産課長 荒井毅さん
館山市農水産課長 荒井毅さん

そして、探し当てた方が、現農水産課 荒井毅課長。この方、以前「地産地消」をテーマにしている謎でも取材させて頂いた方であり、つい最近も農水産課から立て続けに4冊のガイドブックを発刊された立役者であらせられます。
この荒井課長が商工観光課課長時代にマスコットキャラクター制作にも関っていたのですね!驚きでした。

マスコットキャラクター誕生秘話

 当時商工観光課課長であった荒井さんは、各地で多くのマスコットキャラクターが登場する中、館山市にもイメージとなるキャラクターができないものかと思案していました。

The World of GOLDEN EGGS
The World of GOLDEN EGGS

そんなある日偶然、荒井さんの手元に同級生の務めるちばぎん総合研究所発行の「マネジメントスクエア」という機関誌が届きます。総合研究開発機構による房総の濃密な経営情報誌をペラペラとめくる中、目に飛び込んできたのが、The World of GOLDEN EGGSなどでデザイン業界に閃光を放ちつつあるデザイナーの作品でした。それにしてもなぜ房総の情報誌で取材されているんだろうかと思い、詳しく読んでみると、この記事のテーマが「千葉県の有名人」。まさか、と思いつつ読み進めると、なんとこのデザイナーの方の出身が館山市だったのです。

平生からアートに触れて過ごす荒井さんは、もちろんこの方の作品を好んで視聴されていたとのことで、同郷にこのようなクリエイターの方がいることに喜びを覚えるとともに、すぐさま、ちばぎん総研に務める同級生に連絡をいれました。すると同窓ならではのやりとりの中で、このデザイナーの方を直接取材された記者の方と連絡をとることができ、そしてご紹介されたのが・・・

studio crocodile代表 文原聡さん(奥さんの書かれた似顔絵)
studio crocodile代表 文原聡さん

studio crocodile代表 文原聡さんだったのです。

日産noteのCMでの「低燃費少女ハイジ」やカルピスソーダの「RODY kids」などなど、今やTVを見たり街中を歩いていたら必ずと言っていいほどどこかで触れることのできるstudio crocodile作品達。その独特のデザインと不思議な空間を次々と生み出すスタジオの代表を務められているのが文原聡さんです。
この方が館山出身であること、そしてstudio crocodile作品が掲載された機関誌を偶然に読んだ荒井さんのアートへの造詣と、御取次してくれた友人の方々のご縁。こうした連鎖反応が次々と結ばれることによって他に類をみることのない独特のキャラクター「ダッペエ」誕生の礎が築かれることとなりました。

荒井さんが直接文原さんに連絡をとると、文原さんも故郷館山へ貢献できるということならば、ということで二つ返事でキャラクター制作の依頼を受けてくれたということで、その日から荒井さんと文原さんによるダッペエデザインの原案が組み立てられることになります。2009年4月のことでした。

ダッペエ制作にまつわる秘話

  その後荒井さんは、文原さんに館山を象徴するイメージを何点か伝えたのみで、総合的なプロデュースはすべてstudio crocodileにお任せする方針を取りました。そうした初期の案に従って、着々とマスコットキャラクターが仕上がっていきます。「ダッペエ」という名前も初めの頃に、文原さんが命名されたそうです。そして年度末にさしかかった頃、いよいよstudio crocodileらしい作風に仕上がりつつあるサンプルを市役所内限定で公開し、そこから出た意見をもとに最終段階に入りました。
そんな中、荒井さんは2010年度から農水産課に異動することが決まり、ダッペエについては当時商工観光課副課長であった石井博臣さんに引き継がれることとなりました。しかし、これまでの経緯を考えればダッペエの日の目を見る時も近い、というお心持で安心して引き継ぎなされたようです。

ところが・・・
ダッペエ

石井さんに引き継がれて間もなく、文原さんから一通の連絡が届きました。それは、これまで創り上げてきたダッペエを白紙に戻し、創りなおすとの内容でした。
これまで荒井さんの横で、初期ダッペエが出来上がっていく様子を誰よりもよく知っていた石井さんは、ここまで完成度の高い作品を白紙に戻す!?ということで、大変驚かれたようです。荒井さんの驚きも想像に難くありません。「何があったのだろか?」その理由もわからぬまま、文原さんの新しいサンプルを待つこと数カ月。初期サンプルとは全く一新されたダッペエが送られてきました。

2010年12月6日ダッペエ登場記者会見(金丸市長と)
2010年12月6日ダッペエ登場記者会見

これまで創られてきたダッペエがわずかの影も残さない、完全に新しく息を吹き込まれたダッペエ。これが、今我々の知るところのダッペエです。こうなると、初期バージョンをみたい心がくすぐられますが残念ながら、非公開のためそれは叶いません。
ただし、一年をかけて創り上げてきた作品を、一気に覆すほどの文原聡さんの感性、そして郷土への愛を感じずにはいられないでしょう。ちなみにダッペエは、当初から正規の発注ができないことを承知の上で引き受けて頂いた末、最終的にはボランティアでの制作として市に還元頂いたそうです。

まさにアートの真髄とも言えるこの一連の制作秘話、いかがでしょうか。聞いてびっくり玉手箱ですよね。ダッペエがここまで独特のキャラクターであることも頷けるのではと思います。

それにしても、なぜ突然デザインを一新されたのでしょう?

そこで筆者は、お忙しい中無理を押し切って、この点について直接文原さんにお聞きしました。今回の謎の答とともに、この点をお教え頂いて最後を締めくくりたいと思います。

ダッペエ作者文原聡さんに聞く 脱力系にこめられた思い!

一年をかけて積み上げられたデザインを一新されたのはなぜなんですか?

「初期のデザインは、確か『海』や『花』をモチーフにして作っていましたが、それだけだと観光地にありがちなアイディアであり、他の観光地と同じなのではないかと思うようになりました。そこで、東日本で良く使われ、館山の人にもなじみ深い『だっぺ』と呼ばれるキャラクターならではの館山らしさを前面に押し出すように、里見八犬伝の犬を組み合わせたものにしました。」

ダッペエがゆるキャラではなく、脱力系キャラなのはなぜですか?

「ダッペエをメディアで取り上げていただく際になぜか『脱力系』というくくりにされてしまう事はあまり好きではないんですが、ここで伝えたかったのは、館山が紋切型の「癒し」の場ではなく、独特な場であることです。癒しを与える観光地が今たくさんありますが、館山に“癒し”を求めて来るのではなく“脱力”しに来てもらえるようにすれば、館山らしさが一層出て、他との差別化ができるのではという提案をしました。」

RODY kids
RODY kids

館山で育った文原聡さん。世界を股にかけるデザイナーの感性から見た独特の館山を、マスコットキャラクターを通してお伝えくださったのだと思います。
どちらの質問への答えも館山オリジナルであることがキーワードとなっていることが印象的ですが、これは非常に大事なポイントなのではないかと思います。そこでしか味わうことのできない食、自然、空気、体験などたくさん楽しみ方がありますが、こうしたことを求めて人々は館山を訪れるのではないでしょうか。館山らしさに磨きをかけて、よく知ってもらうことで、一層来てくれた方々に喜んでもらえるようになるといいですね。

ダッペエGOODS 続々登場

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ダッペエGOODS カタログ
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館山市観光協会
住所:千葉県館山市北条1879-2
TEL:0470-22-2000

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亀屋本店
住所:千葉県館山市北条1882
TEL:0470-23-0586
HP :http://www.kameyahonten.com/tateyama/

里見の湯
住所:千葉県館山市下真倉305-1
TEL:0470-25-1126
HP :http://www.satominoyu.com/

金谷the Fish
住所:千葉県富津市金谷2288
TEL:0439-69-2161
HP :http://www.thefish.co.jp/

 

なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?

館山にゆかりのある芸術家の中でも、ひときわ色あせない輝きを放ち続ける青木繁。
明治時代を代表する洋画家であり、日本の近代化を象徴するかのような疾風怒濤の29年間を突き進んだ天賦の才人です。彼の残した不朽の名作『海の幸』が館山の布良(めら)で描かれたこと、御存知ですか?
今回は、青木繁の人物像や思想を浮かび上がらせると共に、『海の幸』が制作される裏側にスポットライトを当てて謎の答に迫ってみたいと思います。

(2012/05掲載:H)

10分でわかる青木繁の人物像と人生

青木繁は、日本で初めて国の重要文化財に指定された西洋画『海の幸』の作者であり、満28歳という短い年月の中で、後世に衝撃を与え続ける人生を突き進んだ、史上稀にみる「天才」として知られています。ただ、美辞麗句を並びたてるばかりでは、何ゆえにそこまで賛美される人物なのかわかりにくい方もいるはず。そこで今回は、青木繁の世界への入口として、その人生をまとめてみました。

幼少期

 1882年、福岡県久留米市で下級武士の息子として青木繁は生まれます。当時の下級武士といえば、徳川幕府が崩壊し、頼み綱の殿様も支えてくれる家来もいなくなり、着るものも剥がれて路頭に迷うものが続出する没落士族社会の中にありました。繁の父は、「代言」といって現在でいう弁護士のような職についたため一家離散とまではいかなかったものの、下級武士の苦労を身に染みて経験したといいます。
そんな家庭に生まれ育った繁は、学で身を立たせようという願いのもと、4歳を迎えるとすぐに祖父と父によって厳格な教育指導を受けるのです。

「如何な寒中にも朝まだくらいうちに縁側の板に机を持ち出して読書させられる、まだ6.7歳の幼心にも、成人のような負けじ魂が固く養われていた。こんな風で小学から中学と進んでゆく中に、他の人の将来何をして身を立てようかと考えていたが、自分はそんな問題よりも、『男子とは何ぞや。』若しくは『我は如何にして我たり得べきか。』というような問題に深く頭を悩ますようになった。そしてその後に襲い来たものは幼稚ながら『人生』の根本問題であった。」

繁は後にこう振り返ります。広い知見や独創力は、この時期をもって素養として育まれ、また同時に気性の荒い親譲りの克己とした精神力や激しい情動も磨かれていきました。ある時、繁の父が言うことを聞かない繁に薙刀(なぎなた)を突き付けたのに対し、繁は「お突きなさい」といって動かなかったという逸話さえ残っています。
そんな家庭教育の毎日を送っていた繁には、唯一ともいえる楽しみがありました。絵を描くことです。

日本近代美術 巨匠2人の出会い

 日本美術史において極めて重要な影響を後世に与え続ける画家の一人に、坂本繁二郎がいます。青木繁と坂本繁二郎が、同じ福岡県久留米市にて生まれた同級生であることは広く知られていますが、彼らの出会いは、2人が9歳で入学した久留米高等小学校のことでした。繁二郎はすでにその頃から非凡な画才を認められ、自身も幼くして画家を志して画塾に通っていました。
事前学習を経て5歳で尋常小学校に入った繁は、どんな科目でも一番でした。先天的ともいえる圧倒的な自負心はこの頃に一層培われたのかもしれません。しかし、その繁に初めての敗北感を与えたのが高等小学校で同じクラスになった繁二郎の絵。まだ10歳にも満たない少年が、自分より秀でた技術をもって、しかも将来の夢までもっている。このことは繁にとって衝撃的で新鮮な出来事でした。

画家の道を選ぶ

 繁二郎は母子家庭で家は貧しく、中学校(現在でいう高校)に進むことができませんでしたが、繁は久留米中学明善校に進学して文学に目覚めることになります。友人らで同人誌『画藻(がも)』を発行し、詩を書き、挿絵を描く日々に没頭する日々を送りますが、こうした学外の活動に力を入れるようになると必然、学校の成績が如実に悪くなっていきます。あれほど優秀だった成績もいつしか落第点を取り、教師と喧嘩して白紙で答案を出すようになりました。
ここに至って繁は、この先の人生について真剣に悩み、画家の道に進むことを決心するのです。少し長いですが、回想記をみてみましょう。

「僕は大体中学で何の学科も相応にできるので、その中の一つを選んで一生を賭すのは自分というものがはなはだ惜しいように思われた。…軍人は面白いが、当時僕は歴山大帝(アレキサンダー大王)を崇拝していたので、あのような男子にならねばならぬ、しかし今日では軍人になったところで、一つの戦争を業とする人間で、とうてい歴山大帝の心事は実現しえるものではないことを考えた。
・・・この時に考えてみたのが哲学であり宗教であり文学であったが、最後に来たったものは芸術であった。それと同時にその実行であった。芸術的創作ということが非常な響きをなして胸に伝わり、ハルトマン(ドイツの哲学者)の『物の社会は物がこれを造り、ただ仮象の社会のみは人がこれを創作し、人類のみこれを楽しむ』という言葉がわが稚なごころに血潮をわきかえらせた。これこそ男子の事業だ。そしてこの中に千万の情懐を吐露し得るのだ。われは丹青の技(画技のこと)によって歴山帝もしくはより以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉のごとき男子たり得るのだと、こう決心した。」

これが今でいう高校生の抱えていた問題意識とすると唖然としてしまいますが、青木繁という人物が学生時代から自分の中に潜む能力に気付き、それに見合う人生を模索していたのかがわかると思います。空前の大帝国によってほぼ世界征服を成し遂げたアレキサンダーと自分を比較して、それ以上の功績を絵画において達成しようと志しているのですから、際限のない情熱と野望に充ち溢れていたことが伝わってきます。

ただし、そんな繁にも一筋縄にはいかない壁が立ちふさがっていました。父の存在です。
これまで画塾へ通っていたことも、毎日のように創作に耽っていたことも隠し通してきた繁ですが、ここにきて父にその後の人生展望を打ち明けねばならない時がきました。父は案の定取り合うことなく、
「美術とはなんだ。武術の間違いだろう?」
と一蹴されたことは有名な逸話として語られています。
ただし繁はめげることなく、母親を説得し、また伯父に想いの果てを伝えることによって、父との不和を解消し信頼を勝ち取る中で、ようやく東京行きを認めてもらえることになりました。

上京 そして東京美術学校へ入学

 当時の日本美術界は、大きな動乱の中にありました。江戸時代は鎖国であったため、洋画がほとんど流入してこなかった上に、明治16年(1883)には洋画教育が廃止されます。西洋画教育を復活させたのは、欧米に留学していた黒田清輝で、彼らの尽力によって明治29年(1896)になって、ようやく東京美術学校に洋画科が置かれることになりました。
鹿児島県出身で世界を見聞して日本に戻り、新風を巻き起こした黒田清輝、この人の存在が青木繁にとって大きかったことは言うまでもありません。1898年、繁は縁もゆかりもない東京へ単身飛び込んで行きました。不同舎という画塾にて改めて絵を学ぶこと2年、念願の東京美術学校洋画科選科に入学します。

家を追われつつ上野図書館へ通う学生時代

 晴れて黒田清輝に直接絵の手ほどきを受けることになった繁は、早くからその画才に嘱望を受けていたものの、実家の経済状況がひっ迫することなどから仕送りがなくなり、家賃を支払うことができず、悲惨な生活を強いられていました。
しかし、この貧しさゆえの不屈の精神ともいえるのでしょうか、この当時繁は美術学校と上野図書館に入り浸り、西洋画の研究と、これまでの芸術思想により一層核心的な根拠を与えていきます。青木繁がその作品のテーマとしたのは「神話」でした。この点は『海の幸』にも関るので、後述したいと思います。

第一回白馬賞受賞

青木繁作『自画像』石橋財団石橋美術館蔵

一心不乱に制作に向かい合うさなか、1903年いよいよ繁の画作を世に問う日がやってきました。黒田清輝などによって日本画の芸術振興のために始められた展覧会「白馬会」ですが、第八回展覧会より「白馬賞」が設けられることになったのです。繁はこの展覧会へ「黄泉比良坂」など十数点を出品します。そのすべてが古事記やインド古代宗教から取材した作品でした。
西洋画家が一堂に出品した白馬会において、繁はなんと第一回「白馬賞」を受賞することになります。写生画ではなく、繁の描く抽象的なテーマによる構想画が受賞したということも世間からみれば革命的な出来事だったといいます。
これによって青木繁の名は一躍世に広まることになり多くの芸術家が青木を訪れ、また自身でも「青木グループ」という画学生の集団を作るなど、まさに「美術のアレキサンダー」を夢見た繁の第一歩となりました。

福田たねとの出会い

福田たね
福田たね

繁は東京美術学校に入学してからも、入学前に修練を積んでいた不同舎へたびたび出入りします。この一つには裸婦モデルを求めたためだったと言われていますが、他にも同窓の坂本繁二郎が繁より2年遅れて上京してすぐに不同舎に入門したことも関っていました。才気あふれる同郷の旧友と改めて画を磨き合えることに対して「久留米から日本のルネッサンスがおこる」とも語り喜ぶほどでした。
福田たねが不同舎に入門してきたのはこの頃で、繁は雷が落ちたようにたねに一目ぼれをします。たねのデッサンを指導したり補筆する中でたねも繁の画才に惚れ込み、ちょうど繁が白馬賞を受賞する頃には二人は親密な関係となっていました。

『海の幸』館山市布良(めら)にて誕生

 内に秘めた画才を華々しく開花させた東京美術学校での学生生活も4年間の日々が過ぎ去り、1904年(22歳)に卒業を迎えることになりました。通例美術学校を卒業すると、郷里に戻り美術関係の仕事についたり中学校の美術の先生になったりして収入を得るのが常でしたが、繁は職に就くと自由に絵が描けなくなることを理由に就職を拒否しました。あくまで芸術家であるという自負の基に、いよいよ自分の能力を最大限に解き放つ作品を描こうと心に期していたのです。
7月に卒業するとすぐに、繁は福田たね、坂本繁二郎、森田恒友らと共に制作旅行を企画します。向かう先は千葉県館山市にある布良海岸。かねてから青木グループの一員でもあり、同じ久留米出身の詩人高島宇朗から、房総先端の布良海岸の素晴らしさを聞いていた青木は踊るような心持で布良を目指すのです。

布良 阿由戸(あゆと)の浜
布良 阿由戸(あゆと)の浜

今回のテーマともなっている青木繁の一大傑作『海の幸』は、ここ館山の布良海岸にて制作されます。滞在期間はわずか2カ月でしたが、短い人生の中で精神的にも芸術的感性においても最も優れた幸福な時期であったと伝えられているこの期間に、青木繁はどのようにして『海の幸』を描いたのでしょうか。
この答は後段に譲ることとして、ここでは繁がいかに布良海岸に魅せられたのか伺うことができる手記を見てみましょう。

ここに来て海水浴で黒ん坊だ。ここは万葉にある「女良」だ。近所に安房神社という官幣大社がある。古い土地だ。
漁場としても有名な荒っぽい所で冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って、二カ月も沖で暮らして漁をするそうだ。沖ではクジラ、ヒラウオ、カジキ、マグロ、フカ、キワダ、サメがとれる。みな二十貫から百貫(1貫は3.75キログラム)のものを釣るのだ。恐ろしいような荒っぽいことだ。…
雲ポッツリ、またポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!はやりたる潮!
童謡「ひまにゃ来て見よ、平沙の浦わぁー、西は洲の崎、東は布良アよ 沖を流るる黒瀬川アー
サアサ、ドンブラコッコ スッコッコ!!」
これが波のどかな平沙浦だよ。浜地にはスイカなどよくできるよ。ハマグリも水の中から採れるよ。晴れると大島利島シキネ島が列をそろえて沖を十里にかすんで見える。
それから浜磯ではモクツ、モク、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリグサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャク、ホラノカヒ、サザエ、アカニシ、ツメッケイ等だ。
まだまだその外に名も知らぬものが倍も二倍もある。
今は少々制作中だ。大きい。モデルをたくさん使っている。いずれ東京に帰ってからごらんに入れるまで黙っていよう…

故郷福岡に帰省している友人梅野満雄に宛て書かれた手紙です。ここで制作中として書かれている絵が『海の幸』。青木繁が布良の浜で大きく手を広げて全身で自然を感じている様が浮かび上がるような文章ですよね。

青木繁
青木繁

この『海の幸』は、秋の第9回白馬会展で出品され、黒田清輝・和田英作・岡田三朗助・藤島武二など錚々たる面々の作品中に飾られました。結果、開幕と同時に繁が期待した以上の強烈な反響が巻き起こり、画壇・文壇や新聞・雑誌に至るまで注目を一身に集め、青木繁の名は天下に轟くことになります。

後半生に重なる悲劇

 青木繁という人間は、一方で類まれなる芸術感性に優れた天才として有名ですが、他方その自由な発想を支えた奔放な性格を併せ持っていました。情熱的な直観を頼りに突き進むのですが、実生活についてはほとんど顧みることなく、繁の感性を尊ぶ支援者によって支えられてきたといっても過言ではありません。学生時代の家賃は友人に払わせ、また収入のあてもないのに窮迫した実家の姉と弟を引き取るなど、計画性のない生活を繰り返していく中で自身へのプライドと現実とが悪循環を始めます。
もう少し時代を経れば、という「もし」は尽きませんが、当時油絵はほとんど売れなかったのです。今では国の重要文化財に指定されている『海の幸』でさえ、画の大きさや価格などから引き取り手が見つからず、実生活への還元はほとんどありませんでした。
(百円で国木田独歩が購入する話もあった。)
こうした中、絵具などの画材入手の費用もままならず、福田たねの妊娠、父の危篤、実家の抱える多額の負債等、予期せぬ出来事が立て続けに起こり、準備のない繁の精神的な疲労もピークを迎えるようになります。

わだつみのいろこの宮

青木繁作 『わだつみのいろこの宮』 石橋財団石橋美術館蔵
青木繁『わだつみのいろこの宮』 石橋財団石橋美術館蔵

後半生で描かれた作品は、前半生のものと作風に変化が見られます。多くは青木繁の人生と連動して勢いを失ったという見方もありますが、向い風にあいながらなおも芸術に対して「高傑な偉大な真実な」態度をもって創られた作品に『わだつみのいろこの宮』を挙げることができます。この作品も『海の幸』に次いで今では、国の重要文化財として指定された大作です。
実は、この作品にも前述した館山市布良での体験が関係しています。布良の海にて水中奥深くから見上げた太陽の美しさを脳裏に残し続けた繁は、『古事記』上巻の物語をモチーフにして海底の宮殿での出来事を絵におさめる着想を得ていました。その後多くの海で海底の観察を続け、制作に至るまでに3年を要したというこの作品は、発表直後『海の幸』に次ぐ好評を受けて青木繁の画才は有識者の中で確定したと言われます。夏目漱石がかの『それから』という小説の中で、主人公に「青木という人が、海の底にたっている女の人を描いたが、あれだけが、よい気持ちに出来ていると思った」と主人公に語らせていることでも有名です。
しかし、この作品は博覧会において提出された240点の中で1等7人、2等6人、3等10人のうち、3等の末席という結果となりました。この数カ月延々と行われた鑑査に関しては他の分野においても多くの異議が出されており学会内部の複雑な事情が指摘されていますが、この結果に一番納得がいかなかったのは当の青木繁本人でした。折しも「わだつみのいろこの宮に就いて」というタイトルの文章を新聞に寄稿して、日本固有の芸術観について作品の意義を強調していたさなかであり、その落胆ぶりといったら他に例をみないものだったということです。

繁は、この評価に対し画壇に向けて痛烈な批判を加えていきます。もともと素行に問題のあった繁にとってこうした行動は自らの首を絞めるようなものでした。青木繁という天才の存在は蚊帳の外へ追いやられ他の新星の登場を尻目に見る影もなく久しく葬り去られます。それから60年、1969年になってようやく『わだつみのいろこの宮』は国の重要文化財として指定されることとなりました。(『海の幸』は1967年。)

放浪から病死

 もちろんその後も制作意欲が衰えたわけではありませんでした。また、これまでの自分を改めて本気で働こうと決心もした繁でしたが、持ち前の気性に折り合いがつかず、家族と衝突を繰り返し放浪の旅に出ることになります。展覧会にも出品しますが、問題にされることもなく落選し1年後にはすでに進行していた肺結核に蝕まれた身体から喀血。療養を続けますが、少し良くなれば無断で外出を繰り返すなどして体調を悪化させ、とうとう1911年病床の中、齢28歳にてその人生の幕を閉じました。


短いながらも浪漫主義を象徴するような疾風怒濤の29年間、大きな出来事のみを抽出した青木繁の人生でしたが、いかがでしたでしょうか。もちろんより詳しく青木繁の実像に迫りたい方は、関連図書をお読みになることをお勧めします。ここで参考した図書は以下の通りです。

『青木繁全文集 仮象の創造[増補版]』青木繁著/中央公論美術出版2003年
『青木繁・坂本繁二郎』谷口治達著/西日本新聞社1995年
『青木繁とその情熱』かわな静著/てらいんく2011年
『青木繁と画の中の女』中島美代子著/TBSブリタニカ1998年
『青木繁 その愛と彷徨』北川晃二著/講談社1973年
『芸術新潮 特集没後100年青木繁』新潮社発行2011年7月版

なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?

さて、青木繁の人生を概観したところで本テーマの答に進みたいと思います。文章中にも登場したことではありますが、改めてその真相に迫ってみたいと思います。

①同郷の詩人高島泉郷による布良海岸の勧め

まずは、青木グループに属していた泉郷(本名:高島宇朗)が以前布良の海を見たことがあったこと。「青きうしほをかきわけて われは都へかへるなり 安房の島山いざさらば」
と歌に残しているように、泉郷は眼前に体験した布良の海を細かに繁に語りました。このことが繁を布良に駆り立てるきっかけとなったことは間違いないようです。

②青木繁の芸術思想上のテーマが日本神話にあったこと

幼少の頃から文学に強い関心をもち、日本芸術を背負って立つ者として情熱を燃やしていた繁は、世界のなかにおける日本を意識していました。そしてスカンジナビア、アイスランド、パレスチナからインドに至るまで世界各国に伝わる神話を研究した結果、彼は神話に反映されている先人の心が、芸術の中にみられる「仮象」と深く繋がっていることを思想の核心としていました。
館山の布良には昔から多くの神話が伝えられています。万葉集や古事記などに精通していた繁は、こういった点からも布良に愛着がありました。梅野満雄に宛てた手紙以外にも、神話の描出を目的とした旅行であることを示す文章がたくさん残っています。
作品『海の幸』は古事記の物語「海幸彦、山幸彦」をモチーフとして当初2部作を描こうと想定されていたものでした。しかし、ある日坂本繁二郎が布良漁港における大漁を目の当たりにしてその様子を繁に伝えます。その時、神々との苦闘の中で命がけの漁を終えた男たちが浜辺を家路へ帰る姿が突如として繁の中にイメージされ1週間足らずでいっぺんに描きあげられたと伝えられています。
また、実際には漁の様子を見ていない繁が何を参考にしていたのかという点で、最近の研究では布良・相浜地区の祭りにおける神輿を担ぐ姿が関係しているのではないかと提起されています。この点も非常に興味深いところです。

③マグロ延縄漁の発祥の地 布良村(めらむら)

鮪延縄漁発祥の地 記念碑
鮪延縄漁(まぐろはえなわりょう)発祥の地 記念碑

館山の布良は、江戸末期から明治期にかけて全国で一番のマグロ漁獲量を誇る漁港があった村です。江戸前の鮨は、その大半が布良でとれたマグロをもとに作られていたそうで、全盛期には83隻ものマグロ船が停泊していた記録もあります。一本100万円と言われるマグロがどんどん釣れるわけですから当時の村は空前の隆盛ぶりを誇っていました。
卒業旅行に来た青木繁一同は、後先構わずほとんど無一文の状態で旅路を進めていました。しかし案の定金銭的な底がつきた彼らは、初めに宿泊していた旅館をでなければならないことになります。

小谷家住宅
小谷(こたに)家住宅

青木繁が『海の幸』を描いた場所である館山市布良にある「小谷家(こたにけ)」ですが、1904年に一同が滞在した家屋ですので、必然老朽化が進んでいます。しかし、小谷家なくしては『海の幸』は誕生しなかった、ということでこの建物全体を文化財として保存していこうという活動が現在各方面から進められています。
この保存会活動の歴史も長く、その発端は没後50年を記念して布良に建立された「青木繁記念碑」が一時取り壊しの危機にあった時、これを守るための活動だったそうです。ここにその保存会活動の簡単な年表を見てみましょう。

1904年 青木繁『海の幸』を制作 in 布良
1911年 青木繁逝去

1961年 館山ユースホステル設立
1962年 記念碑建設建立(没後50年記念)
1967年 『海の幸』国の重要文化財に指定
1969年 『わだつみのいろこの宮』国の重要文化財に指定

1998年 館山ユースホステル営業停止
同時に隣接する「青木繁記念碑」が国有地であることを理由に解体・撤去の問題が浮上
→館山市が国有地の借地料を支払いを引き受けることで解体をまぬがれる

2000年~ 当時、富崎地区連合区長会長であった故吉田昌男さんらの尽力により、以後記念碑を守る
ための活動が活発化する。

2005年 「青木繁《海の幸》100年から布良・相浜(あいはま)を見つめるつどい」開催
シンポジウムにて小谷家当主より「100年前に青木繁が泊まって《海の幸》を描いた住宅を
地域の子どもたちのために残していきたい」との思いが述べられる。

青木繁記念碑
青木繁記念碑

2007年 小谷家住宅 館山市指定文化財へ申請
2008年 「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」発足
2009年 小谷家住宅 館山市有形文化財(建造物) 指定
2010年 NPO法人 青木繁「海の幸」会発足

2011年 没後100年青木繁展が全国で催される。
しかし、大震災の影響で基金活動は自粛。

2012年 ふるさと納税制度に「小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」が組み込まれる。
2012年 青木繁「海の幸」オマージュ展

「海の幸」会会員の芸術家による 青木繁「海の幸」オマージュ展

期間 2012年6月29日(金)~9月2日(日)
休館日 月曜日、第4金曜日
場所 渚の博物館(館山市立博物館分館)
展示構成 第1章 NPO法人青木繁「海の幸」会の文化財保存活動(パネル展示)
第2章館山市有形文化財「小谷家住宅」(パネル展示)
第3章青木繁の作品 未発表のものを含め布良で描かれたデッサンなど展示予定
第4章青木繁「海の幸」オマージュ作品展示
問合せ先 渚の博物館 TEL/FAX 0470-24-2402
HP NPO法人青木繁「海の幸」会

このように、まさに現在進行形にて「小谷家住宅」の保存活動が活発化してきています。去年は、青木繁没後100周年として全国各地で展示会が行われておりましたが、東日本大震災の影響によって基金活動にも積極的な取り組みができない状況にありました。その意味では、その保存会活動は今年から再出発したといえるのかもしれません。
小谷家住宅は、築100年を越えて老朽化が進み早急に修築を行わない限り倒壊の危険性が高まっています。まずは、青木繁の人生、そしてその作品に触れて、いかに『海の幸』という作品が後世に残されるべき作品であるかを各々の尺度で感じ取った上で、みんなの力を合わせて「小谷家住宅」を守っていくことができたら素晴らしいことだと思います。是非、上記「オマージュ展」なり美術館へ足を運ぶなりして、青木繁の世界に足を踏み入れて頂けたらと思います。

『青木繁とその情熱』作者 かわな静さんの願い

最後になりますが、昨年2011年の7月に『青木繁とその情熱』を刊行された南房総市富浦町在住、かわな静さんのお話しをご紹介します。

かわなさんがこの本を書かれたきっかけは何ですか?

かわな 静さん
かわな 静さん

「もともと教員をやっておりまして房南中学で教えている時などは、モニュメントが近くにあることぐらいは知ってたのですが、そこまで青木繁について詳しかったわけではありませんでした。
そんな時安房博物館が開催していた『安房学講座』に参加して、小谷家住宅へ行ったんです。実際に青木繁が滞在した部屋に入りますと、妙な感動を覚えましてね。突如舞い降りたように青木繁を調べ出すようになったのです。
私は日本児童文芸家協会に所属してまして、児童書を何冊か書いておりましたので、これも若い子に読んでもらえるようなわかりやすい本にできたらと思っていました。」

この本は、どのような願いをもとに書かれたのですか?

かわな 静さん

「そうですね、私も教員をやってきて思うことですが、今の少年少女は早く挫折する子が多いと感じてきました。みんなが同じように生活して消極的に育っているので、なかなか個性が育ちにくいのではと思います。
そんな中、この青木繁という人物の強烈な個性や作品はとても良いテーマになるのではと思ったんですね。青木繁の強い意志をもってやりぬこうとする生き様は人の心を揺すぶってなりませんから。できれば、中学生・高校生の間に青木繁に触れて、個性的に生きる素晴らしさを感じてほしいと思いました。
また、一方では教育の問題でもあると思うんです。青木繁の父・祖父は今では信じられないほどの厳しい教育を繁に施します。昔の家はみんなそうだったんです。社会に出て憂き目をみないよう、家庭で子供を育て上げた。こうした親のあり方も、いい悪いではなく、改めて学ぶべき価値があるのではないでしょうか。」

本記事でも参考にさせて頂いた『青木繁とその情熱』ですが、すべて事実関係を綿密に調べ上げられた上で書かれている物語形式の伝記となっています。手にとって一気に読み上げることができるにも関らず、凝縮された青木繁の人生が目の前に迫ってくるような素晴らしい本です。思春期のお子さんに是非読んでもらいたい一冊だと思います。

『青木繁とその情熱』
『青木繁とその情熱』かわな 静著

『青木繁とその情熱』かわな 静著
発行所:株式会社てらいんく
<販売店>
【館山市宮沢書店本店】
住所:千葉県館山市北条1415-1
TEL:0470-23-7771
株式会社てらいんくHP

なぜ館山に自衛隊があるの?

海上自衛隊館山航空基地

鏡ヶ浦ともよばれる館山湾。
海岸線のほぼ中央にある平坦な埋立地に、自衛隊の基地があります。
なぜ館山に自衛隊があるのでしょう?
今回は館山にある自衛隊基地の歴史と役割について考えてみました。

(2012/06掲載:K)

前身は館山海軍航空隊

館山市にある自衛隊基地。正式名称は海上自衛隊館山航空基地といいます。そもそもここに自衛隊基地が置かれているのは、館山の地理的条件と大いに関係があります。
館山は房総半島の先端に位置していることから、西の三浦半島と並んで東京湾の、つまりは首都防衛の要となる土地です。古いところでは江戸時代末期、ロシアのラックスマンが松前に来航して以来、国防の重要性に気付いた幕府は東京湾に6つのお台場を築きます。そのうちのひとつが館山の洲崎(すのさき)であり、のちのペリー来航によっていよいよ警戒を強めた幕府は7門の砲台を設置。海上の監視が強められることになりました。

昭和5年の本部庁舎

明治へと時代が移ると海防の重要性はさらに高まります。第一次世界大戦を経て、軍事力増強に力を注ぐ日本は館山に航空基地の建設を検討します。そこで白羽の矢が立てられたのが現在館山航空基地のある場所でした。
大房岬(たいぶさみさき)と洲崎に抱え込まれるような形をした館山湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるほど波が穏やかなことで知られます。外洋にも近く、しかも水上機の離着陸にも適したこの場所はまさに航空基地建設にうってつけだったようです。現在基地のある場所は以前は海だったのですが、1923年の関東大震災で地盤が隆起したことによって遠浅の海岸になっていました。そこで、沖合にあった高ノ島(現在の鷹ノ島)を抱き込むような形で埋め立て、基地を建設したのです。そして昭和5年(1930)、館山海軍航空隊は発足します。

出撃前の整列

航空隊はこれから第2次世界大戦終結まで、パイロットの育成や航空機の開発などを担当。多くの軍人がここから戦地へと出撃していったのです。

海上警備隊から館山航空隊へ

館山航空隊開隊記念式典

昭和20年(1945)に終戦を迎えると大日本帝国海軍は解体されます。基地の跡地には、昭和21年2月までアメリカ陸軍騎兵第一師団が駐留したのち、館山航空標識所や農林統計調査事務所が開設されたほか、火災で焼失してしまった安房水産高校も施設の一部を利用しています。
なにせ40万坪という広大な敷地、館山市でも水産業などの産業基地にしてはという意見もあったそうですが、海上自衛隊(当時は海上警備隊)が新たな基地建設の意向を示したために再び航空隊基地を置くことで決着をみます。そうしたなか、昭和28年(1953)7月、館山航空隊設立仮事務所が開設され、同年9月には館山航空隊が正式に開隊しました。その年の12月には盛大な開隊式が執り行われ、すでに配備されていたヘリコプターによる航空ショーなどが開催され好評を博したそうです。
こうして開設した館山の自衛隊基地。現在までの歩みを簡単に見ていきましょう。

昭和28.7.15 館山航空隊設立仮事務所開設
昭和28.9.16 館山航空隊開隊
昭和28.12.1 館山航空隊開隊式
昭和33.12.16 館山術科教育隊新編
昭和35.1.16 館山術科教育隊、下総へ移転
昭和36.9.1 第21航空群新編
第211、第221教育航空隊開隊
昭和40.3.25 小松島航空隊新編 第21航空群隷下に編入
昭和43.11.30 第221教育航空隊 小月へ移転
昭和48.2.20 第121飛行隊新編(第101航空隊内)
昭和49.2.16 第211教育航空隊 鹿屋へ移転
昭和49.11.27 第121航空隊新編
昭和56.3.27 第122航空隊新編 第21航空群隷下に編入(大村)
昭和62.12.1 小松島航空隊新編 呉地方隊へ編入
第122航空隊 第22航空群(新編)に編入
平成1.3.17 第124航空隊新編
平成10.3.20 第124航空隊、第123航空隊に編成替(隊番号の変更)
平成10.12.8 第21支援整備隊廃止、第21整備補給隊新編
平成13.3.24 舞鶴航空基地隊、舞鶴航空分遣隊、舞鶴整備補給分遣隊新編
平成20.3.26 第21航空群部隊改編
第101航空隊、第121航空隊、第123航空隊廃止
第21航空隊(館山)新編
第73航空隊(硫黄島航空分遣隊、大湊航空分遣隊)新編
隷下に編入( UH-60J型 ヘリコプター配属)
舞鶴航空基地隊、第123航空分遣隊、第2整備補給分遣隊廃止
第23航空隊(舞鶴)新編
大湊航空隊廃止、第25航空隊(大湊)新編

海上自衛隊館山航空基地の役割

館山航空隊は戦後の航空部隊としては日本で最初の部隊です。その後組織はめまぐるしく変わってはいるものの、館山の基地は航空基地ということには変わりなく、現在では海上自衛隊最大のヘリコプター基地となっています。ではここで基地の役割について見ていきましょう。
まずは海上自衛隊の編成図をご覧ください。

このように複雑な体系をしていますが、館山の基地を使用しているのは海上自衛隊の航空集団の中の第21航空群というところです。この第21航空群はさらにいくつかの部隊から編制されており、館山を使用しているのは司令部と4つの部隊ということになります。
おもな任務は次のとおりです。

海上防衛・沿岸警備
SH-60

艦載型ヘリコプターの母基地としての役割を担っています。有事には護衛艦にヘリコプターを搭載し、艦艇と一体となって海上防衛や沿岸警備にあたります。

災害派遣
救難訓練

さまざまな災害の際に被災者救助にあたります。昨年の東日本大震災でも被災された方々の救助を行いました。

 

急患輸送
急患輸送

おもに伊豆諸島や小笠原諸島などにおいて、島内で診療できない急患を本土の病院へ輸送します。都知事の要請により出動するもので出動回数は1500回を超えています。

 

海外派遣
アデン湾

海賊対処法に基づきソマリア沖アデン湾の安全確保のための部隊を派遣しています。

 

後方支援

航空機の整備、補給基地としての役割や、航空機の安全な運航をサポートするための航空管制なども重大な任務です。

 

こうしてみると、単に国防のためだけではなく、有事の際には幅広く活動してくれていることがよくわかりますね。

 

館山市との関わり

このようにさまざまな任務を帯びた自衛隊基地ですが、館山との関わりはどのようなものがあるのでしょうか? 直接的な館山市との関わりといえば、まずは自衛官の皆さんそのものの存在です。基地で勤務する自衛官の数はおよそ1000名にものぼるとのことで、その家族のみなさんも加えると自衛隊関連の方々だけで館山市の人口の4~5%ほどにも上ることになります。また、以前館山基地に勤務した経験のある方が、除隊後館山に戻ってくるケースも少なからずあるようです。人口が微減し続けている状況下では、その抑制にもひと役買ってくれていることになりますね。

ヘリコプター体験搭乗

また、自衛隊基地は市内で行われるさまざまなイベントにも参加・協力してくれています。たとえば今年の7月1日(日)に開催される「たてやま海まちフェスタ」では基地の一般開放を行います。当日はヘリコプター体験搭乗、フライトシミュレータ体験、「交通艇」乗船体験などの体験型イベントのほか、ヘリコプターの地上展示や館空カレーの販売など各種イベントを計画しています。また今年は7月8日(日)に開催される館山わかしおトライアスロン、通称「タテトラ」では、競技会場として基地の一部を開放してくれています。このほかにも、ヘリコプターの編隊飛行を見られる秋のヘリコプターフェスティバルや、冬のクリスマスコンサートなどさまざまなイベントを開催しています。

 

観光地?としての自衛隊基地

館山航空基地資料室

このように館山市民と深く関わりのある自衛隊基地。あまり知られていないようですがイベント以外でも一般の方の基地見学も受け入れてくれているんです。
こちらは事前申し込みが原則となっていますが、実際に使われている航空機や資料室などを見学することができます。資料室には膨大な数の自衛隊関連の模型や自衛官の制服の変遷を示す展示、基地の歴史紹介パネルなどがあり、自衛隊や館山航空基地についての知識や情報を多角的に得ることができます。また、制服を着用しての撮影コーナーや部隊ワッペンの販売なども行っており、軍事マニアや航空マニアならずとも楽しめる内容です。実際、自衛隊基地見学をコースに組み込んだツアーも数多くあるそうで、そういう意味では館山市の観光素材のひとつともいえそうです。

制服着用コーナー

敷居が高いと思われがちな自衛隊ですが、この機会に一度じっくりと基地について考えてみてはいかがでしょうか。自衛隊や基地への印象が少し変わるかもしれませんね。

 

たてやま海まちフェスタ

日時:毎年7月に行われます。
場所:渚の駅、海上自衛隊館山航空基地など

ヘリコプター体験搭乗の事前公募

当日体験搭乗いただく方を下記要領にて事前公募中!応募締切日は6月19日(火)必着です。
対象:小学生~26歳まで(小学生は保護者1名同伴での搭乗が必要となります)
方法:お一人様1枚の往復ハガキに、住所、氏名(ふりがな)、年齢、学年、電話番号、保護者氏名(小学生のみ)を記入のうえ下記まで郵送願います。
郵送先:〒294-8501 千葉県館山市宮城無番地 海上自衛隊 第21航空群司令部 広報室
問合せ先:第21航空群司令部 広報室0470-22-3191(内線:208)
自衛隊基地一般見学
基地内は事前予約により一般の見学も可能。予約は希望日の2週間前までに!
見学対応時間:月~金曜の9:00~12:00、13:00~16:00(土・日曜、祝日は要問合せ)
所要時間:上記時間内で1時間~1時間30分程度(人数によって多少変動あり)
予約・問合せ先:
〒294-8501 千葉県館山市宮城無番地 館山航空基地 第21航空群 司令部・広報室
電話0470-22-3191(内線208) (電話は平日8:30~16:00にお願いします)
メールアドレス:21aw-ckouhou@inet.msdf.mod.go.jp

海上自衛隊第21航空群ホームページへ

なぜ館山には南ヨーロッパ風の街並みがあるの?

JR内房線館山駅。
関東の駅百選に選定されたこの建物は、白い壁にオレンジ色の屋根瓦。
どうやら南欧風なのです。
さらに北条海岸へと続く駅の西側一帯にも、
同じような色合いの街並みが広がっています。
それにしても房総の最南端になぜ地中海の景観が?
街づくりの現状をちょっと探ってみました。

(2011/11掲載:K)

汽船から鉄道へ。観光都市館山の歩み

開業当時の安房北条駅
(館山市立博物館蔵)

駅周辺の景観を語る前に、まずは館山駅そのものの歴史から追ってみましょう。
館山の街が大きく変わったのは明治初頭。明治11年(1889)に東京と館山を結ぶ最初の汽船が就航したのがきっかけでした。さらに明治22年(1889)には東海汽船の前身となる東京湾汽船会社が運航を開始し、東京から館山までは5時間の船旅。これによって館山は保養地や海水浴場として脚光を浴び、館山桟橋や北条桟橋を中心に賑わいをみせます。
これからしばらく客船の時代が続きますが、大正7年(1918)になるといよいよ館山にも鉄道が開通。まずは那古船形駅(当時の那古町)が開業しました。現在の館山駅が開業したのはその翌年、大正8年(1919)のことです。当時の駅名は「安房北条駅」、路線は国鉄北条線とよばれていました。東京からの所要時間は4時間ほどで、これによって東京との距離が一気に縮まり、館山に観光の波が押し寄せることになります。
その3年後、大正11年(1922)に起こった関東大震災では館山にも甚大な被害が出ましたが、安房郡を挙げての復興がなされ、街は文字通り再建されました。昭和に入り第2次世界大戦の混乱期を経て、終戦後の昭和21年(1946)に安房北条駅は館山駅と改称。戦争によって一時衰退していた観光業はますます活発になっていきます。さらに昭和44年には電化開通。東京―館山間は2時間ほどに短縮されました。資料によると昭和43年度の館山駅の乗降客数は300万人以上。1日平均だと8000人以上にものぼります。2010年の1日あたりの乗客数が2000人あまりですので、この数字からも当時の賑わいが伺い知れます。こうして、駅周辺は南房総の中心地として大きく発展を遂げることになったわけです。

コラム「駅舎が現在の場所にできた理由」

開かれた西口へ! 再開発への布石

当時の館山駅は東側が表玄関。南北に走る目抜き通りを中心に商店が軒を連ね、賑わいをみせていました。海岸側である駅の西側といえば、大きな沼がぽっかりと口を開けており民家もまばら。東側に比べると完全に整備が遅れている状態でした。そんな状況のなか、昭和63年(1988)には市による西口地区土地区画整理事業がスタート。それと並行して館山市全体の開発方針が定められていきました。
まず、先がけとなったのが昭和62年(1987)に制定された「総合保養地域整備法」、通称「リゾート法」です。平たくいうと「自然豊かなリゾート地域を開発して、地域振興を図ると同時に国民が余暇を楽しめる場所を作りましょう」とするもので、全国42の地域が指定されました。千葉県においては「房総リゾート地域整備構想」が策定され、11の重点整備地区が設けられました。そのなかの1つが「館山サンシャインリゾート」地区で、鏡ヶ浦から平砂浦にかけての海岸線一帯が指定されています。


これによって館山市は「海洋性リゾートタウン」という方向性を明確に打ち出すことになります。そして平成元年(1989)には「館山市街並み景観形成指導要綱」が告示。ここでの目標は「暖かさ」「青い海」「緑の大地」「美しい花」を強調した街なみづくりです。北条海岸から西岬一帯、平砂浦海岸、富崎地区などが館山市街並み景観指導地区に指定されました。館山駅西口もこの地域に含まれています。

さて、この「街並み景観形成指導要綱」ですが、景観づくりのお手本となったのが地中海に面した南欧の街並みだったのです。自然を活かした明るい街並みを実現するため、屋根はオレンジ色、壁は白を基本色とし、海や空の青、木々の緑とのコントラストを強調すると同時に統一感のある街並みを目指しました。
こうした動きを受けて、平成3年(1991)に「館山駅西口地区街づくり協議会」が発足します。「住みやすく個性的な街」を目指して同会を中心にさまざまな研究がなされ、「温暖な気候」「海」「花」「緑」などの要素を活かしての南欧風の街づくりが提言されました。ここでの約束ごとは、おおむね次のようになります。

・屋根はオレンジ色のS瓦
・壁は白
・高い塀は造らずに生垣とする
・電柱は民有地内に入れる

これらを実現するため、S瓦の材質・色彩の検討から値引き交渉、潮風に強い樹木の研究、植栽実験などを重ねると同時に、安全・景観を考慮して無電柱化を市に要望。そのほか、いろいろな街並みのデザインを研究するなど、市民や行政の理解を得るためにさまざまに活動されたそうです。その結果、地区の9割近い人々が南欧風建物を建築し、表札や看板なども南欧風に改められました。一方、歩道、街路灯、案内板などにも南欧風のデザインが採用され、駅前ロータリーや夕映え通りでは無電柱化も実現するに至っています。

新駅舎も完成! リゾートタウン館山の顔に

この西口地区土地区画整理事業と並行して進められたのが館山駅の改修工事です。鉄道の開通以来、東口を中心に発展した館山駅周辺でしたが、市民の自家用車保有率の上昇に反比例するように次第に活気が失われることになります。決定的となったのは平成5年(1993)の館山バイパスの開通。これによって買い物客の流れがバイパスへと移り、駅前の商店街はすっかり元気をなくしてしまいました。そんななか、長年計画が進められていた新駅舎の建設工事がついに着工。西口再開発と呼応するように、ここでも南欧風のデザインが取り入れられ、平成11年(1999)に完成します。新駅舎の設計コンセプトは次のとおり。少々長いですが館山市役所のホームページから引用します。

海洋性リゾートタウン館山の海に開かれた新しい玄関口にふさわしく中心市街地のシンボルとなる施設とし、また土地区画整理事業を契機に創出されつつある駅西口地区の南欧風の街並みと整合した景観を持つ「リゾート駅の明るい雰囲気を持ったランドマークとしての風格」をデザインコンセプトとしている。外観は屋根と壁の大きさを強調し、内部は吹き抜けやトップライトによりゆとりのある空間を形成している。また、駅周辺市街地や鏡ヶ浦を望むことができるようにバルコニーを設けている。機能面については、高齢者や車椅子利用者等も利用しやすいようにエレベーター、身障者用トイレ、誘導ブロック、階段手摺りなどの設置や電車とホームの段差解消を行った。

この新駅舎は同年「関東の駅百選」にも選ばれ、今でもリゾートタウン館山の玄関口として堂々たる姿を見せています。
こうして誕生した新しい館山駅と西口の街並み。線路上に設けられた東西口を結ぶ通路は「館山駅オレンジロード」、西口前のロータリーは「西口なぎさ広場」、駅から北条海岸へと続く道は「夕映え通り」という愛称で親しまれています。また、この新しい西口は、地域性を配慮した美しいデザイン、市全体での景観への配慮、地域住民の積極的参加、さらには完成後も周辺との調和を図る取り組みを検討していることなどが評価され、平成12年(2000)には国土交通大臣による「手づくり郷土賞」を受賞しました。

コラム「海辺を彩るワシントンヤシ」

景観づくりには行政の介入が不可欠

館山駅西口の南ヨーロッパ風の街並みはこうして誕生したわけです。今回のケースでは行政の旗振りのもと、市民が積極的に参加することで統一感のある街並みづくりに成功しました。そもそも街の景観というものは、かじ取りする人がいないと統一感がなくなってしまうので、行政の介入は不可欠といえます。では行政にはどんな力があるのでしょうか?
まず自治体が定める「景観条例」について。この条例は国が定めた景観法と密接に結びついています。流れを簡単に説明すると、まず平成15年(2003)に国土交通省により「美しい国づくり政策大綱」が策定され、平成16年(2004)に景観法が公布されました。これが翌平成17年(2005)に施行されたわけですが、これによって従来は法的拘束力を一切もっていなかった景観条例が実効性をもつと同時に法的拘束力をもつことになったのです。それには、自治体は「景観行政団体」に認定される必要がありますが、館山市は安房地域で唯一その認定を受けています。

那須高原のコンビニ 2
那須高原のコンビニ 1

ここで各地の景観に大きな変化が出始めました。看板の変化です。看板は営利活動になくてはならないものですが、「目立つ」ことが第一命題であるという特性上、景観を損ねる人工物の代表とみなされています。特にチェーン展開する店では視認性を高めるために派手な色使いのものがほとんどですが、この派手な看板たちが、景観条例の規制を受けてデザインの変更を余儀なくされるケースがあるのです。たとえば原色のラインが細くなったり、赤が白に反転したりと、いくぶん派手さを抑えた色調へと変更されています。
自治体によっては「原色禁止」をうたうほど厳しいところもあり、黒、白、茶など、落ち着いた色調のみの看板に変化したものもあります。規制が厳しい自治体としては、古くからの街並みが残り、歴史的建造物が点在している京都市が有名ですが、それ以外にも栃木県那須町や福島県裏磐梯地方などのリゾートエリアにおいても、良好な景観への取り組みがみられます。
海洋性リゾートを目指す館山は、この色調までをマネをする必要はないのですが、行政のかじ取り加減ひとつでこんな街並みをつくることも可能というひとつの例として、紹介させていただきました。

南欧風vs純和風 その調和が今後の課題

ほんの数十年前まで、北条海岸一帯にはクロマツの防砂林が植わっていました。当時の人たちはクロマツの林を抜けて海水浴場へと向かったものです。それが、昭和40年代に入り、少しずつヤシの木にとって代わられました。当時植えられたヤシは現在のものとは違うカナリーヤシ。地元の方々の力で植えられましたが、ほどなくして全滅の憂き目にあってしまいます。はっきりした原因は分かっていないようですが、寒さによるものではなく葉の付け根に砂がたまってしまったのがいけなかったのでは、といわれています。
ヤシといえば南国のイメージ。折からのハワイブームを受け、日本の「温暖な」地域はこぞってヤシの木を植えました。並木だけ見ると異国情緒ただよいリゾート気分も盛り上がるのですが、なにせ館山は里見の城下町。古い建物は軒並み純和風ですので、両者の調和は少々難しそうです。
一方でこの南国情緒は観光客にいい印象を与えているのも事実。たとえば富浦IC出口から館山バイバスを南下し、館富トンネルを抜けるとすぐに目に飛び込んでくるヤシ並木。その風景を見て「この街に住みたい」と思った人もいるそうです。北条海岸に新たに誕生したヤシ並木も、今でこそ小さな若木ですが、あと数年で樹高20mほどに達し、また違った風景になるはずです。

ヤシの木はもともと南ヨーロッパにはなかったものだと思いますが、南スペインのコスタ・デル・ソルや南フランスのコートダジュールあたりのリゾートタウンでは、ヤシ並木が海岸線を彩っています。今やヤシ並木は、世界的にもビーチリゾートに欠かせないアイテムになったといってもいいでしょう。
現在の館山では、ヤシ並木も含めた南欧風の街づくりが進められる一方、里見城下町の名残を伝える和風の街並みも残っています。また、西岬、富崎地区には古くからの漁村のたたずまいも残っており、ちょっとしたノスタルジーを感じさせてくれます。次の景観計画ではこれらの特徴的な景観をどのように調和させるかが争点になりそうな気配です。
余談ではありますが、北条海岸の北側にある八幡海岸は『空手バカ一代』のモデルにもなった空手家、「牛殺し」で有名な大山倍達のドキュメンタリー映画が撮影された場所です。その際、大山六段は牛を殺しはしなかったものの、400kgもある巨大な牛の角をへし折り、牛との死闘を制するという歴史的偉業(!?)を成し遂げました。時は昭和29年(1954)1月。その舞台がまさにクロマツ林のある八幡海岸だったのです。当時の映像には、黒山の大観衆のバックに広がるクロマツの林がはっきりと映っています。

新しい街並みづくりに向けて

最近では平成23年(2011)に北条海岸のシンボルロード、愛称「鏡ヶ浦通り」の整備も終わり、海洋性リゾートとしての色彩はますます濃くなっています。ここでも市民が街づくりに積極的に参加しており、たとえば道路脇のワシントンヤシの植樹や車止め照明ランプシェード設置などに大きく貢献しています。
館山の景観づくりはこれをもってひと段落したことになります。現在のところ指導地域の見直しも含め、新たな景観計画に向けて着々と準備が進められている状況です。今後どのような方向性で進むのかはほぼ白紙の状態だそうですが、計画を煮詰める段階でおそらく市民アンケートが実施されることになるようです。館山をどのような街にしていきたいのか、理想的な街づくりに向けて、一人ひとりがきちんと考えておく必要がありそうですね。
新しく生まれ変わった鏡ヶ浦通り。ここから新しい館山が始まる、そんな気がしませんか?

(取材協力:館山市役所都市計画課、那須町役場建設課)

コラム「駅舎が現在の場所にできた理由」

 当時の街の中心が現在の館山市館山や長須賀周辺だったことを考えると、本来であればもう少し南側に駅舎ができてもよさそうなものでした。当時の鉄道といえば蒸気機関車、いわゆるSLです。ご存知のように真っ黒な煤(すす)を吐き出す姿は傍目には勇壮ですが、沿線の住民にとっては迷惑以外の何物でもありません。そんなものに町の中心を走られては困るということで、館山地区の住民による反対運動が起きたそうです。こういった事情があって、現在の駅舎の場所に落ち着きました。駅舎の場所ひとつとっても、さまざまな歴史が感じられますね。

コラム「海辺を彩るワシントンヤシ」

 北条海岸に新たに植樹されたヤシも、館山バイパス沿いに並ぶヤシも品種は同じ「ワシントンヤシ」です。北米原産で比較的寒さにも強いことから日本各地で街路樹として利用されています。樹高は20mにも達し、南国の雰囲気づくりにひと役買ってくれているわけですが、このヤシの木、ちょっと元気がないんじゃない? と思った方も多いと思います。
よく目にするのは上部の葉は緑色を維持しているものの、下部の葉は茶色く変色し、だらしなく垂れ下がっている姿。見るからに不健康で、お世辞にも美しいとは言えません。しかし、これこそがワシントンヤシ本来の姿であり、健康な状態なのだそうです。できればこの状態で放置しておくのが理想的なのですが、垂れ下がった葉はやがてハラリと落下してしまいます。あの大きさですから人に直撃すると大変なことになりますし、走行中の車の上に落ちると大事故にもつながりかねません。そのため、館山市では定期的に刈り取ることにより、景観を維持すると同時に安全を図っているそうです。
(写真=北条海岸のワシントンヤシ)

なぜみんな館山が大好きなの?

2011年12月から10ヶ月に渡って館山の魅力を掘り起こし続けてきた「たてやまGENKIナビ」ですが、残念ながらこの回を持ちまして締めくくりの次第と相成りました。
毎週金曜日15時51分からbayfm78にて放送される3分間の番組と、本サイトにて公開される記事情報をご聴取ご購読頂いた皆様、誠にありがとうございます。Bayfm78での放送は9月28日(金)をもって終了となりましたが、本サイトは少々のリニューアルを加えまして2012年度いっぱい継続させて頂きますので、館山の観光情報をお調べの際はぜひ手引きにして頂けると幸いです。
今回は、たてやまGENKIナビの最終回を迎えるにあたって、GENKIナビが始まった経緯やこれまで現地取材してきた地域レポーターの生の声をお届けすることで総括したいと思います。全43回の謎テーマや、数々のイベント情報を掘り起こしたことで館山が大好きになってしまったという移住者がほとんどの彼ら。どのような所感を抱いているのでしょうか。その思いの果てを探ってみましょう。

(2012/09掲載:H)

たてやまGENKIナビってどうやって始まったの??

たてやまGENKIナビは館山市の委託事業として始まったものです。地域を駆け回る地域レポーターによって、bayfm78のラジオ番組とWEBの記事を連携させて館山を紹介するこの企画、全国的にみても新しい試みとされています。
それではまず、このアイディアはどのように生まれてきたのか?ということでたてやまGENKIナビの構想の方向性や組立を行われてきた館山市観光協会代表理事副会長の鈴木聰明さん(たてやまGENKIナビ事業のプロデューサー)にお話をお聞きしました。

鈴木聰明さん

「狙いはハッキリしていました。地域情報の発信力、即ち『地域メディア力』の強化と人材養成ということです。
地域メディア力といっても聞きなれない言葉かもしれませんが、簡単に言えば『地域の資源をちゃんと見て観察して理解して伝える』ことをいいます。
インターネットがこれほどまでに普及してきた現代では、むしろネット情報が氾濫して無法地帯と化している実情もあります。そこでもう一度地域の情報を丁寧に取材し紡ぎ合わせ、誰にとっても入りやすい、そして質の高い地域メディアを創りたいという意図がありました。」

「またもう一つには、『21世紀的な生き方』とは何か?ということをここ館山から提起していく目的もあります。19世紀20世紀と産業が発展して、人間の認識も急速に拡大してきましたが、その拡大の次にくるものは人間本来の心に合った暮らしなのではないかと思うんです。 館山と言う土地はそれが良く似合っていると思っています。
都市集中型の経済発展モデルは現在危機に瀕しているにも関わらず、やはり人は都市を目指します。これにはある種の都市生活への期待やあこがれのようなものがあると思いますが、現実とのギャップのなかで、改めて『幸福のカタチ』のようなものを1人1人が問いかける必要があるのではないでしょうか。
そこでGENKIナビでは、地域の資源に加え『人』『移住』といったテーマも掲げつつ、ここ館山の今の暮らしに軸足を置き、鮮度ある情報をラジオで伝え、深堀した内容をWEBで簡潔に読み切りれるよう組立てにしてみました。

bayfm DJ 島村幸男さん(城山公園にて)

「ラジオと連動させた紹介の仕方については、他のメディアに比べて発信する側の負担が少ないという利点ももちろんありますが、それ以上に情報の受け手が、今やっていることを邪魔しにくいということに目を向けています。
テレビを代表する視覚的なメディアは認識を占有する比率がとても大きいのに対して、ラジオは何かをしながら聞くことができますよね? この点が、たてやまGENKIナビの目的としっくりしたからで、じっくり読み、写真も見たければたてやまGENKIナビのWEBサイトを見ていただければいい訳です。」

どうでしょうか。昨年の12月から10ヶ月に渡って毎週金曜日に1テーマを更新してきたたてやまGENKIナビ。従来の観光情報とは一風変わった形と内容をもって館山を紹介してきましたが、その裏側にはこうして温められてきた基本路線があったのですね。
たてやまGENKIナビのテーマを決めるにあたっては、実際に市の職員の方々をはじめ多くのご助言を頂きました。そこで多く挙がっていた声としては、地元の人が自らの住まう街館山についてもっと知ること、そして田舎という枠の中では比較的住みやすい館山をもっと多くの人に知ってもらおうということ。一昔前に流行った「スローライフ」や現在進みつつある「農的生活」といったタームも含めて、館山にはそうした受け皿がたくさんあります。このような21世紀的な館山像がひとりでも多くの人に伝わることができたら本望です。

それでは、座談会にて地域レポーターの生の声をお聞きしてみましょう!

たてやまGENKIナビ座談会!!

<参加者>

日下智幸さん

日下智幸さん

私は2011年の4月に越してきたのですが、その前は船橋市でフリーランスのライターをやっていました。子供が今小学校1年生なんですが、子育て環境に良いところはどこか?といって探してみたところ、館山が候補に上がってきたんですね。
ちょうどおせっ会などのNPO活動ともリンクする形で、受け入れ体勢もできていると感じたので館山に引っ越してきました。

東 洋平(筆者)

東 洋平(筆者)

私も2011年の4月に学生生活を終えて実家である千葉市稲毛区から館山に越してきました。
音楽の録音やMIXという過程を学びに館山に越してきましたが、同時に循環型社会や持続可能な社会のような問題に興味があったので、地方で自分に何ができるか模索しつつイベントやフリーペーパーを作って活動していたところ、たてやまGENKIナビに携わらせて頂けることになりました。

岡村彩さん

岡村彩さん

私は2012年の5月に移住して来る前は、添乗員の仕事をしていたので、ほとんど家に帰ることのない生活を送っていましたが、結婚を期に自分の家族を作ることを想像し真面目に考えるようになりました。
東京はずっと息苦しさがあったので、もっとのびのびできるような自然に囲まれている場所で生活したいと思う中、よく南房総に遊びに来ていたので東京にも近いしいいなぁということで、こちらに越してきました。

山野綾さん

山野綾さん

私は、小さい頃から館山の少し上の富浦に住んできました。これまではあまり、この土地の良さというものがわからなくて、遊ぶところもないなぁと思っていました。
友達もどんどん上京して行ってしまう中で、自分も資格でも取って千葉市にでも引っ越そうかなと思っていた矢先にたてやまGENKIナビの事業を知り携わらせて頂けることとなりました。

獅子田正臣さん

獅子田正臣さん

私は地元館山生まれです。現在館山市役所商工観光課で定住促進の仕事をしています。
学生時代は都心で過ごし、そのまま東京で一旗揚げようかとも思っておりましたが、地元のために働きたい気持ちもあって館山に帰ってきました。NPO法人おせっ会とともに、市では移住定住施策を推進しています。たてやまでの「暮らし」に興味がある方は是非ご連絡ください。

1年間の取材執筆を通して感じた館山を語り合う会として集まって頂きましたが、いかんせん43テーマすべてについて触れることはできません。そこで、中でも印象的なテーマを切り口に自由に話し合ってみようということになりました。たてやまGENKIナビは、テーマを5つのカテゴリーに分けておりますが、そのカテゴリーからいくつかピックアップしてみました。

海と自然

なぜ館山にサンゴがあるの?

日下
「いや~あの日が結構良かったんだよね。潮も良かったし、水も綺麗だったし、まぁ確かに6月で水温は低めだったんだけど、ちゃんとウェットスーツを着込んで、きっちりと体験させてもらいました。」
獅子田
「子どものころはよく泳ぎにいってましたね。寒い時はTシャツを着て入ってたんですよ~。」

沖ノ島スノーケリング体験

岡村
「そういえば聰明さんTシャツでしたよね、みんなウェットスーツなのに。地元の人特有の入り方なんですか?(笑)」

山野
「でも、私実は沖ノ島行ったの、あの時が初めてだったんです。」

皆 「え“~~」

山野
「近すぎたんでしょうね。意外と地元の人で行ったことない人って多いんですよ~。でも実際に泳いでみて透き通った感じやイワシの群れがサーっと通り過ぎていく様には本当に感動しましたね。今まで来なかったことを悔やみました。」

トゲイボサンゴの仲間

日下
「そうか~。俺の場合は、スノーケリングは昔からやっていて越してくる前から沖ノ島にも何度も来ているんだけど、ついぞサンゴにお目にかかることはなかったんだよね~。結構探してはいたんですが。
それが今回海辺の鑑定団さんに案内頂いて、効率よく発見することができてこれにはびっくりしましたし、さすがだな~と思いました。」
獅子田
「羨ましいですね~。私は見たことないんです。」

「記事にも書きましたが、世界中で最も高緯度の場所に生息するサンゴということが館山サンゴのすごいことなので、至るところにあるわけではないところもミソなのではないですか?これには黒潮が関係しているとの話でした。」
日下
「だよね~。黒潮の北限域ということは館山が館山であるための一つの重要な要素。」

ここで黒潮と関わりのあるその他のテーマをご紹介しましょう。

12月2日 なぜ館山は房総の中心になったのか?
12月30日 初詣パワースポット情報 館山にはなぜ一宮が2つあるの?

安房の神話といえばなんといっても忌部族の伝説。史実としては不確かな所もありますが、安房には忌部氏との関わりの深い神社が数多く存在します。この忌部族はなんと徳島の阿波(あわ)から海路で渡ってきたと言われています。この海こそが流れの強い黒潮なのです。

2月3日放送 なぜ館山は新鮮な魚がこんなに安いの?

館山で獲れる魚の種類は実に豊富。この記事ではなぜ館山沿岸の海は栄養が豊かなのか、そのような、少し気になっていてもなかなか知ることのできないポイントにも触れています。黒潮の北限域館山湾沿岸は、色んな海流の交わる場だったのですね。

1月6日放送 なぜ館山は真冬に花いっぱいになるの?
2月10日放送 なぜ洲埼灯台はマーガレット岬と呼ばれているの?

一足早い花を咲かせる館山。冬に花が少ないのは、氷点下になると霜が降りて根が傷つけられてしまうことによります。ここ館山では黒潮に温められた風が海から常に吹いており、その影響で霜がほとんど降りないのです。こんなところにも黒潮が関係しています。

4月13日放送 なぜ沖ノ島には歩いて行けるの?

サンゴの記事の姉妹編ともいえる沖ノ島についての記事。沖ノ島が陸繋島になったことにも実は黒潮が関係しています。

8月31日 なぜ南房総が万祝発祥の地なの?

江戸末期から昭和の初期にかけて漁師は、大漁の年の翌正月に万祝という羽織をきてお祝いをしました。この漁民芸術の華といわれる万祝は、藍で染められた染物。江戸末期に南房総を含む千葉県沿岸で万祝の風俗が始まったことには、良質の徳島の藍が黒潮を渡って南房総に届いていたからなのです。

 黒潮一つでもここまで多くのトピックに関わっているんですね。黒潮はその海流の大きな力で人やものだけでなく、魚や花、芸術作品まで運んできてくれていたことがわかります。
たてやまGENKIナビは毎週謎をテーマに掲げ、それらを解明するというスタイルでこの土地の資源を掘り起こしてきました。解明するためには根拠が必要になってきますが、館山という土地に限定すればもちろん人的・物的資源や歴史的な出来事が制約されますので自ずと最大公約数のような原因が存在してくるわけです。
このようにいくつかの大きな根拠から派生してテーマ同士を関連付けていくことは、個々のテーマについてもすっきり覚えやすく、館山を理解する上でも、また語る上でも大きな力になってくれると思います。

なぜ館山の富士山は大きいの?


「それでは次に、たてやまGENKIナビ史上最高アクセス数を誇る『富士山』について話を進めてまいりましょう。住んでる人はよくわかっていると思うんですが、館山といえば富士山ですよね!」

北条海岸からの富士山

獅子田
「やっぱりこれについては移住促進の仕事に携わるものとして、訪れる皆さんが口を揃えて『海越しの富士山』に感動したという声をいつも聞いています。市内で場所を変えれば東京湾・太平洋越しと両方見えてしまうんです。すごいロケーションですよね。」
日下
「そしてまたこの富士山が大きい!ほんとビックリするぐらい大きいんですよね。この回はその謎を解き明かすために2ヶ月もかけたんですよ。」

「富士山やってる時本当に面白かったですよね~。日下さんが色んな角度から富士山が大きい理由を取材してこられるんですけど、あ~でもないこ~でもないと検証を重ねた末に『東君 見つけたよ・・・』って。あの瞬間は格別でした(笑)。」
日下
「前に船橋に住んでいたので、都内に住む大半の人々と同じような富士山を見ていたと思うのですが、よくマンションから富士山の写真を撮っていたことが功を奏しました。当時は晴れた日に富士山の全貌が見えていると思っていたのですが、実は丹沢に隠されてほとんど裾野の部分が見えていなかったんです。それに対して館山からの富士山には手前に隠すものが一切ない。これが一番のポイントですね。」

相浜からの富士

岡村
「そう、よくツアーの添乗員をやっていて思ったことは、北海道やもっといえば沖縄の人などは富士山って生まれてから一度も見たことない方も多くて、富士山だけでツアーができあがっちゃうぐらいなんです。
富士山が見えるだけでも素敵なのに、海の上にドーンてくるあの神々しい姿は是非遠方の方々にも体験してもらいたいなぁなんて思っちゃいます。」
山野
「富士山と同時に伊豆大島も見えるところも人気の秘密ですよね。」
獅子田
「すごい晴れた日で空気が澄んでいれば、南アルプスまで見えることもあるんですよ。」
日下
「そうそう、南アルプスであれば城山からの眺望がおすすめです。」

 富士山のこの話題は地元の人にとって当たり前でも地域外の人にとっては宝物といった類の話の象徴的な内容を含んでいたように思います。館山湾は入江になっておりまして、その真ん中に富士山が構えているため、どこから見ても一望できるロケーションになっています。そのためだんだん街に溶け込んでくると常にそこにいるような感覚を覚えますし、特に地元の方はあえてこと更に褒め称えることもないでしょう。
ただもちろん無感覚になるというわけではなく、その感動が習慣化されて驚きとは異なった何かその土地特有の充実感に変化していくのだと思われます。館山はそうしたライフフィールドとしての資源に満ち溢れています。この点に注目して一段掘り下げた観光情報を目指したものがたてやまGENKIナビだったとも言えるのではないでしょうか。

食と農水

山野
「食と農水といったテーマではトウモロコシの取材が面白かったですね~。というかトウモロコシ美味しすぎでビックリでした。東さんの噛り付き方ハンパじゃなかったです。」

「確かに。あの写真は18禁だよね(笑)。トウモロコシについてもそうでしたが、他にもレタス落花生といった特産すべてが館山特有の砂地の土壌と関係しているんですよね。ひまわりもそうでしたし、はては平砂浦海岸の防砂林だってそういった観点から結びつきます。」

トウモロコシ
レタス
落花生
ひまわり


日下
「館山は海岸線一帯が歩ける砂浜になっていて、特に平砂浦なんかは昔は年中砂との戦いだったって話だもんね。」

「野菜や花がほかの土地と一味違う美味しさや日持ちの良さを発揮していることには、この砂地の土壌がキーを握っていたんだということが取材を通してわかりました。水はけのよい砂地なので、植物自身の潜在能力を良く引き伸ばしてくれるそうです。そういった視点で農業をされているのは特に神戸や西岬地区が多かったですね。」

なぜ平砂浦を訪れる人が増えているの?
なぜ平砂浦を訪れる人が増えているの?

日下
「そうなんだよね~。あの辺一帯は館山らしい資源に溢れていて、今まさに見直しが始まっている最中だったから、現在進行形の話題もあったね。」
岡村
平砂浦のテーマ名も、訪れる人が増えているって話でしたものね。」
日下
「まぁ実際には統計をとっているわけではないから本当に増えているかはわからないんだけど(笑)、参加者500人規模のサーフィンイベントがいくつかあったりウォーキングしにくる人が増えていたりと、目的が増えた分人も増えているという結論でした。」

「同時に松クイ虫の仕業で松が枯れてしまっていることなど、隠さないで全体像を伝えるってところもあの記事のポイントですよね。観光資源といえども、みんなで守っていかねばならない時代にも入ったことですし、まずは知ることから、ってところもたくさんありますもんね。」
日下
「そうそうつい最近シンポジウムがあったんだけど、そこでも遊歩道がもっと整備されれば一層訪れる人が増えるんじゃないかって話にもなってました。」

平砂浦コースタルフェスタ

山野
「私先日のサーフィン大会見に行くまで一度もいったことなかったんです。」

皆 「え“~~~」

岡村
「でも平砂浦は海水浴場ではないし、サーフィンとか海のスポーツやっていない限りあの細い遊歩道渡ろうなんて思わないかもしれませんよね。」
山野
「実際に行ってみて本当にびっくりだったんです。あんなにすごい景色だったんだなぁって。」

「あの前の道を通ることはあっても松でほとんど海岸見えないんですよね。10月28日には松の植樹祭もあることですし、これからどんどん整備や環境保全の意識が高まって平砂浦の良さをアピールしていってほしいと思います。」

 館山にある大自然はそのほとんどがあまり手の加えられていないままに存在しています。このゴツゴツしたむき出しの自然が魅力的なものの、裏を返せば問題が手つかずのまま残っていたり、利用者のマナーによっては徐々に破壊が始まってしまっているところさえあります。
自然資源というものはひと区画にテーマパークを作ることなどとは異なり、広範囲の様々な現象が互いに支えあって作られているものですので、崩れてしまうことは一瞬でも、その原因を探りだし元通りにするには膨大な時間と労力を必要とします。
平砂浦海岸の松に見られるような現状をより多くの人が共有することで、当たり前のように存在する自然ではなく、守っていくまたは長期的に修復していく「自然」という新しい意識作りと実践的な活動が求められているのではないでしょうか。

歴史と伝統


「地元の人も知らなかったシリーズでは、お祭りはどうでしょうか?山野さんさすがにお祭りは行ったことありますよね?(笑)」

なぜ やわたんまちでは神輿や山車が集結するの?

山野
「はい、もちろんです。(笑)お祭りは大好きなんで!」
岡村
「ほんとすごいですよねー。こっちにきてビックリしたのは、年間を通してお祭りのために生きているって人がたくさんいるんですよね。実際に行ってみて規模も伝統も他の地域と格が違うなって思いましたし。」

「その品格のようなものが現れているのが、7月21日のテーマになっていた神輿や山車に見られる彫刻ですよね。日下さん取材されてどうでしたか?」

なぜ館山には名工の彫刻が多いの?

日下
「そうだね~話には聞いていたものの、実際取材に行ったり調べたりしてからいざ彫刻を見せてもらうと鬼気迫るもの感じましたよ。よく見てみると作者や地区ごとに特徴も見分けられるようになって、何よりあそこまでの芸術作品を持って練り歩くんだからすごい行事ですよね。」
岡村
「私もこのテーマで彫刻について少し知ったので、祭りの最中神輿や山車を見るにつけてはあれは後藤…誰かなぁなどと話してました(笑)。ただ催しの間は提灯などに隠れてあまりじっくりみれませんでしたが。」
日下
「そこはよく指摘される点だよね。これまで、彫刻の価値についてそこまで顧みられてこなかった結果なんだと思うんだけど、取材してみた感想としてはその意識は明らかに高まってきてると思う。」

「那古の地区なんかでは、時間帯によっては提灯を外すことになったという話もありましたよね。」
日下
「自分で参加してみて思うのは、まずは数万人規模の大きなお祭りの熱狂とあのお酒を限りなく飲みながらの限界までの体力勝負。これまで体験したことのないような覚醒状態を感じたんだよね。こうした伝統的な祭りのスタイルそのものは他の地域でも受け継がれてきているんでしょう。ただ、安房の場合は歴史がなんといっても深い。そういう観点からもっともっと祭りを楽しむことが今後できるようになるのではないかと思います。」

なぜ館山は平和学習がさかんなの?


「ほんとですよね。僕も江戸末期から明治にかけての『マグロ延縄漁』だったり、そこから派生する『アバラが一本足りない』『万祝』の記事を書かせてもらいましたが、一箇所の土地でここまで変化があった場所も少ないと思うんです。特に戦争遺跡のテーマの時、沖縄戦のあと本土決戦はここ館山が想定されていただなんて知る由もありませんでした。
今ではリゾート地として認知されている館山ですが、先に起こったこの変化に目を向けて歴史を全身で感じられる場所でもありますし、そういった意味では今と昔を繋ぐ学びの場、体験の場、ワークショップの場として門戸を開き始めているのかな~という気もします。」
岡村
「新しいガイド団体なども登場していますし、ガイド養成にも力を入れていってほしいですよね。」
日下
「そうだね。OMOTENASHIご当地グルメ炙り海鮮丼も誕生し大好評だそうだし、これから館山ならではの、国際的に開かれたOMOTENASHIが街全体で少しでも多くできるようになったら本当に素敵な、そして豊かな街になるように思います。」

 個々のテーマから派生した話は尽きませんが、こうした横の繋がりに目を向けていくと館山というイメージが充実した実感として浮かび上がってきました。ここまでの体験をさせて頂けたこの「たてやまGENKIナビ」に改めて感謝の意を捧げるとともに、館山は年間を通してこんなに見所がいっぱいなんだ、というところを読者の方々に知っていただけたらと思います。

それでは最後に地域レポーターの皆さん、そして市の窓口としてサポートしてくださった商工観光課の獅子田さんに感想の一声をお聞きしてたてやまGENKIナビを締めくくりたいと思います。

日下さん

「実際に昔から館山に住んでいる方々から、こんなの全然知らなかった!という声をたくさん頂きました。このことは嬉しかったですが、ただ、GENKIナビで扱った情報というのはこれまで例えば行政が発行してきた資料などに必ずでてきてはいるんですね。我々のバイブルは40年前に発行されたこの『館山市史』だったりしますから(笑)。『謎』といった形で関心を寄せやすいテーマから始められたことが良かったのかもしれません。是非これからも単なる『謎』のまま終わってもいいですから、この土地に興味をもって住む方々が増えて欲しいと思います。」

岡村さん

「私は、こちらには1時間半で来れちゃうというのもあって、あんまり南房総にきたって実感がなかったんです。人が少ないな~とか満員電車がない、とかそんな違いはもちろんありましたけどね。そんな中GENKIナビに携わってこうして地図をみたりとか各観光地に暇なときに行ってみたりして、は~ここ南端だ・・・移住してきたんだな~と想う機会が増えました。だから、私がそうであったようにピンポイントでトンボ返りして遊んでるような方々には是非たてやまGENKIナビを読んでせっかくの来房を2倍も3倍も満喫していってほしいと思います!」

山野さん

「たてやまGENKIナビをやらせてもらって、地元だったんですけどほんと何も知らなくて、移住してきた方々の方が全然詳しいな~とつくづく感じていました。私は特にイベント情報担当なのですが、そんなことから自分もイベントに足を運ぶなどして、こんなに近くにあった素晴らしい場所に感動してしまいました。私の友達も高校を出たらすぐに上京してしまう子ばかりなのですが、是非そういった方々にも地元の素晴らしさを知ってもらいたいなと思いますし、願わくは戻ってきて欲しいと思います。私も実は引っ越そうと思っていたんですが(笑)、今ではこの地に住んでいこうと思うようになりました。」

東(筆者)

「今回の事業が始まる前のミーティングの時に『人』に焦点を当てて取材を進めたらどうかというお話があって、僕なんかは本当に何もかもが初めての体験でしたので、どんどん人に会っていこうと努力しました。するとどうでしょう、こういう言い方をしたら変かもしれませんが、都内で生活していたら決してお会いすることのできないような人生観やライフスタイルを持った方々のお話をたくさん聞くことができました。特に農家の方たちは、身体を動かして日焼けして毎日を太陽とともに過ごしている感じで、生き生きしているというかそんな印象がありましたね。ある謎のキーを握るような方たちはさすがに深い人格者の方ばかりで。そこで思ったのは、これからは観光といっても自然や料理やイベントを楽しむだけでなく、その土地に住む人と触れ合う機会がもっと増えたらいいのではないかと。都心に住まう方々とのその垣根のようなものがより一層なくなっていくことを願っています。」

獅子田さん

「私も地元生まれで、学生時代に館山を離れてその後帰ってきたものとはいえ、これだけ多くの観光資源をピックアップしてまとめあげることができるとは思っていませんでした。皆さんやコーディネーターの鈴木聰明さんのおかけです。謎をテーマに進めてまいりましたが、ちょっとした小話のようなものは家庭内で語られたり人から人へ形を変えて伝わっていきますので、ここいらでしっかりした根拠をもって一つの定説を作ってくれたことは資料として大変有用性があると思います。この43タイトルで講習会でもやってもらいたいぐらいですよ。(笑) ともあれ、面白く地域がわかるという観点で作られているので、広く一般の方々に読んでもらいたいですね。」

それでは、長くなりましたが、たてやまGENKIナビ最後の締めくくりをなす座談会をこれにて終了させて頂きます!これまで記事にイベントに協力していただいた方々、そして応援してくれた方々本当にありがとうございました!今年度いっぱいサイトは存続いたしますので、是非館山へお越しの旅のお供に、またはガッツリ読んで館山マニアになってください!チャオ~♡

渚の駅たてやまデッキより