館山市の西端、房総半島の最西南端に位置する岬を洲崎(すのさき)といいます。千葉県マスコットキャラクターチーバくんのちょうどつま先にあたる部分です。ここは、古くから東京湾の入口として海運上や防衛上重要な役割を果たし、江戸時代の末期にお台場が作られた後、大正8年(1919)に灯台が建てられました。
ところでこの洲埼灯台、「マーガレット岬」という別称があるのをご存知ですか?館山のご当地ソングの題名として知っている方も多いかと思いますが、実は知る人ぞ知る有名な名前なんですね~。 しかし、さて訪れてみると「あれ?」マーガレットが見当たりません。なぜでしょうか?今回はこの謎を切り口に、マーガレット岬を掘り起こしてみたところ、思いもよらない展開を迎えることとなりました、是非最後までご一読ください!
(2012/2公開:H)
洲埼灯台ってどんなところ?
富士山を海の上に一望できる館山湾は、年間を通して波静かなことから別名「鏡ヶ浦」と呼ばれています。これは、館山湾が波荒い太平洋から守られるように岬に抱かれる入江となっているからで、この防波堤の役目を果たしているのが館山市南西に位置する洲崎なんです。館山から東京湾に突き出した岬の先端となりますので、北、西、南と三方を海に囲まれ、富士見スポットとしても抜群の人気を誇ります。
この洲崎に白亜の輝きを放っているのが、「洲埼灯台」。海のまち館山のシンボルであり、また鏡ヶ浦の眺望における西端の目印として人々に愛されています。海図上では土偏の「埼」が採用されていますので、灯台のことを指すときは「洲埼」で、地図上での地名は「洲崎」となっていることなどもちょっとしたポイントです。
さて、ここは東京湾の入口となりますので必然的に軍事上の要所となりました。まず始めに注目されたのは、江戸時代末期ロシアの使節ラックスマンが根室に来航して通商を要求した後、老中の松平定信によって安房の巡察が進められた時に遡ります。幕府は海防の必要性を痛感し、1808年洲崎を含む東京湾6箇所にお台場を築くこととなりました。その後ペリーの来航によっていよいよ外交の危機に直面した幕府は、洲崎での沿岸警備により一層力をいれ、砲台も7門置かれることとなったんです。
その後船舶技術の発達や日清・日露戦争の勃発によって海上交通が盛んになると、洲崎と布良崎(めらさき)を間違えることによる船の座礁が相次ぐようになりました。そもそも洲崎からみて太平洋側の沿岸である平砂浦(へいさうら)は、「鬼が浦」と呼ばれるほどに、天候があれた時危険な海として有名な場所であり、そんな時東京湾に逃げ込もうとする船が小さな岬である布良崎を洲崎と見間違え、海岸に突入してしまう事故が多発したのです。
このようなことを踏まえ、前々からお台場が作られていた場所でもありましたし、洲崎に夜でも見分けられる明かりを灯すべきだということで、洲埼灯台の建設が着工しました。灯台ができると上にみられた事故は一切なくなったということです(館山市史p.495)。戦時中は軍事戦略上、灯台本来の役割はあまり果たせなかったと言われていますが、戦後日本が高度経済成長期に入るに当たって、海運の発達に伴い各地に灯台が急激に整備されます。全国的には3000基もの灯台が張り巡らされる中、館山にも洲埼灯台の他、布良鼻灯台や沖ノ島灯台などが次々と建設され、美しい海の街ならではの景観ができあがっていったのです。
しかしその後、全地球測位システム(GPS)やレーダーなどの機能が充実し普及することによって灯台の役割がそれらに取って代わられるようになってから状況が一変。灯台そのものの設備も自動化・縮小されることにより職員滞在型の灯台は年々減少、2006年には全灯台が完全に自動化になります。そんな中、館山の灯台も例外ではなく、管理上の様々な問題から苦渋の決断に踏み切ることとなりました。そう、布良鼻灯台と沖ノ島灯台が撤去されることになったのです。
長らく親しんできた灯台の撤去について、地元の人から県外の灯台ファンの人までがどうにか存続できないものかと様々な提案を行ったようですが、多くの事情を鑑みた上でお別れの運びとなりました。今では、洲埼灯台が残った経緯は知る由もありません。しかし、洲埼灯台に対する地元の方の思い入れが一層強かったことだけは確かなようです。
それでは、話をわかりやすくするために、マーガレット岬と呼ばれるの由縁について先にお答えしましょう。
この別称の起源は、昭和34年(1959)に遡ります。この年、天皇陛下の叔母にあたる秩父宮妃殿下が花畑などを見学に館山をご行幸されたのです。そこで、洲崎を回られた際、マーガレットに咲き囲まれた灯台の景観が美しいあまり、妃殿下が
「この地をマーガレット岬と呼んだらいかがかしら」
と仰せになったとのこと。
なんと、この名前は皇族の方がお付けになった由緒ある名前だったのです!驚きですよね。
おそるべし、マーガレット岬…
それでは、当時どのぐらいマーガレットが咲いていたのでしょうか?
マーガレット岬はどんなところだったの?
日本にマーガレットが輸入されたのは明治時代に遡ります。原産が冬温暖で夏涼しいアフリカのカナリー諸島ということで、気候に適した欧州の地中海岸沿で品種改良が進められ、日本にやってきました。当初はもっぱら温室用の花として鉢植えで栽培されていましたが、そもそも浜辺に自生する潮風に強い多年草ということで、適した露地栽培の場所を探していたそうです。そこで様々な遍歴の末たどり着いたのが、静岡県や香川県、そしてここ千葉南端の房州でした。『房総の花』をみてみましょう。
「房州においてマーガレットが作付けされはじめたのは昭和の初期である。富浦町で作られていたが、霜に弱いため、ビワなどの立木の下で栽培していた。当時の品種は白色の在来種で、現在房州マーガレット、通称『房マク』といわれているものである。その後、より自然条件に恵まれ、露地栽培の可能な洲崎周辺の部落に導入されて、生産は増加した。」
(『房総の花』土筆書房1979年)
マーガレットは房州花農家さんの中で「白マク」と呼ばれています。房州の白マクなので、「房マク」。伊豆半島南部もマーガレット栽培が盛んですが、こちらは「伊豆マク」と呼ばれます。房州の和泉沢さんが「房マク」を伊豆半島に持ち込んで作られたものから始まったようなので、こんなところからも房州でのマーガレット栽培が一大拠点となっていたことが伺えます。
洲崎から西川名の地元花農家さんによれば、当時灯台周辺のほぼすべての農家が多かれ少なかれマーガレットを栽培していたとのことで、一面に広がった真っ白なマーガレット畑が幼い頃の美しい記憶として今でも思い出される、とのことでした。実際に当時の作付け面積を見ますと(『房州の花』西岬花卉組合箇所参照)昭和6年(1931)頃にマーガレットが導入されて、11年にはすでに栽培面積第一位となり、年々増加しています。
しかし、昭和40年代をピークに減少の一途を辿ることに。
この理由としては様々なものがあげられますが、大きくは時おり降りる霜が花の価値を下げてしまうことが原因だと地元の方は言います。南房総の特に海岸線一帯は、無霜地帯といって、霜が降りない地域として知られています。ただし、もちろん気候は年によって多少変動しますし、たまに霜が降りてしまう年もあるのです。マーガレットは花の中でも霜に弱い植物。かといってハウスで温室栽培を行うほど単価の高い花ではありません。霜による被害は露地栽培を行なっている花農家さんとしては大打撃で、より安定性のある品種を選ぶのは当然のことだと言えるでしょう。
ところで、ここで「霜(しも)」という単語がでてきましたが、霜が花にとってどのような影響を及ぼしているのかみなさんご存知でしょうか?霜は気温の基準なのでしょうか?南房総の花についての記述をみるとこの「無霜地帯」という表現が多くみられます。そこで今回思い切って植物園南房パラダイス勤務の専門家の方に聞いてみました。
南房総は他の地域に比べて冬の花栽培が盛んだと言われていますが、これはどうしてなんでしょうか?
小川恭弘さん:
「花栽培、特に露地で花を育てる場合、一番の大敵は霜なんです。霜というのは、雪や雨などと違って土の中に鋭い氷を作ってしまうんです。これを霜柱といいますが、これが植物の根っこを傷つけてしまい、根の弱い植物などはこれにすぐやられてしまいます。」
それではやはり、気温が暖かいために霜がおりないのでしょうか?
「実は、気温の差は都内と比較してもあまり大差はないのです。南房総の冬に霜の無い絶好の環境をつくっているのは『風』なんですね。あまりに強い風は植物の体温を奪ってしまいますが、適度の風は空気を循環させますので朝露を固まらせません。静岡のお茶畑などをみるとこの環境を人工的に作るため扇風機を設置している場所もあります。」
「また、南房総の冬に花が多いことに限って言えば、これは日照量が大きく関係しています。住んでみればわかることですが、冬場は晴れの日が非常に多く花にとってはとても良い環境なのですね。」
そう言われてみると筆者も移住して間もない新参者ですが、冬に雨が降っている日をほとんど覚えておりません。また、冬場が富士山の観賞シーズンとして有名なのもこういった天気が関係しているのかもしれませんね。
話を戻しますと、南房総が花栽培で有名なのは、一概に気温が高いことからではなく、適度な風と日照量が関係していることがよくわかりました。そこで筆者は小川さんに思い切って聞いてみることに。
昔、洲崎付近では、マーガレット岬と呼ばれるほどにマーガレット栽培が有名だったそうですが、最近は霜が原因であまり栽培されなくなったそうです。マーガレットは栽培に適していないということなのでしょうか?
「マーガレットという花は、昔から寒さにはあまり強くない花として有名だったんです。しかし、実は昨今マーガレットの育種に革命がおこっておりまして、年間を通して長期間開花する品種や、小さくドーム上に育ち、環境負荷に耐えることができる品種など、様々な進化を遂げているところです。洲崎周辺であれば、そもそもマーガレットに適した条件が揃っていますので、新しい品種でマーガレット岬を復活させることはできるんじゃないですかね?」
この瞬間「マーガレット岬復活」という言葉の響きに、筆者は思わず歓喜の声をあげそうになりました。マーガレットに咲き乱れた灯台風景を地元の花農家さんの言葉から想像していただけの筆者としては、是非ともこの景色を一度自分の目で見てみたい、という思いに駆られたのです。これは個人的な思いに留まらないはず。。
そこで記事の方向性を修正し、
「古き良き時代のマーガレット岬昔話」
↓
「マーガレット岬復活はなるのか?」
というテーマで改めて聞き取りを初めて見ることにしました。小川さん、ありがとうございます!
マーガレット岬復活への道のり
まず、館山のご当地ソング「マーガレット岬」を作られた元劇団四季のダンスキャプテンで歌手・遠藤園さんならば何か貴重な情報を知っているのではないか、ということで園さんにお尋ねすることにしました。
マーガレット岬というテーマで曲を作られたそうですが、どういった経緯でこのタイトルの曲を作られたのですか?
遠藤園さん:
「そうですね、2008年の秋に館山に越してくるときに、館山に住む喜びの中でfeel easy in tateyamaという曲を作ったんです。何回かそれらの曲を混ぜつつコンサートを行なったのですが、ライブを見に来てくれた方の中に街づくりに力を入れている南房総IT推進協議会や市役所の方々がいらっしゃって、そこでライブ後にマーガレット岬をテーマにして一曲作りましょうという話になったんです。それでその後ゆっくりイメージを掴みつつ、2009年の秋に正式なオファーがきたので、レコーディングなどを行なって、2010年の春に完成しました。」
マーガレット岬についてどういったことをイメージして作られたのですか?
「はい、越して間もない頃だったので、マーガレット岬についてもよくは知りませんでしたが、協議会の方から色んな資料をもらったり、マーガレットの花言葉を探ってみたりしました。
マーガレットって、『真実の愛』や『恋占い』が花言葉なのってご存知でした?フランスでは『愛している』『少し愛している』『とっても愛している』『全然愛していない』の4つの言葉で花をちぎって、本格的に占うなら、正午に太陽に向かってはじめるのだそうです。
他にも、真珠や黄金など、本当にとっても素敵な花言葉をもった花なんです。そんなお話をもとに、『洲埼灯台で恋人たちが再び出会う』ことをイメージして作りました。」
マーガレットに囲まれた洲埼灯台を見てみたいと思いませんか?
「もちろんです!あんなに素敵な場所にカップルでマーガレットを見に行けるようになったら素晴らしいですよね。そういう思いで、今もマーガレット岬を歌っているんですよ。今月は26日にラウンジから灯台を望むことができる洲崎のホテル風の抄さんでマーガレット岬のライブも行えることになりました。夜の灯台のライトアップの中で歌わせてもらえるので今から楽しみなんです。」
そう、これは偶然なのか、2月26日に遠藤園さんが組んでいるユニット「ING」のライブが洲埼灯台の傍で催されるのです。遠藤園さんは、夫敏彦さんと共に劇団四季など数多くの大舞台で活躍された筋金入りのアーティストさん。現在安房でキッズミュージカルなどを主催されています。
さて、園さんのお言葉から、どうやらNPO法人南房総IT推進協議会という団体が、マーガレット岬復活の足場を作り出していることがわかってきました。この南房総IT推進協議会(以下MBIT)、普段は一体どういった活動をなされている方たちなんでしょうか。
MBITは、南房総の情報通信技術の普及や教育活動を行ってきた団体で、実は光ファイバーの南房総への導入もこの団体が率先して行ってきたそうです。
都内に比べて地方はインターネットの普及が遅れることは避けられませんが、南房総ではMBITさん達が先導してこうした状況を改善してきた結果、今では不自由なくネットが使えるようになりました。また、地域内で人と人とを繋ぐソーシャルネットワークサービス(SNS)である「房州わんだぁらんど」や今や防災で話題の地域ラジオ「みなラジ」などなど、ITを通じて街づくりにも積極的に力を入れている団体であることが知られています。
名前からすると、テクノロジーを駆使した活動に特化している団体と思われるかもしれませんが、こうした方々がご当地ソング作りに関っていたということは非常に興味深いことです。
さて、それではMBITの方々はマーガレット岬復活に向けてどういった思いと方向性があったのでしょうか?
下の図を見て下さい。
平成20年度の調査をもとに、館山自動車道の終点富浦ICを降りた車がどこへ向かっているのかをまとめたMBITの資料です。もちろん今は23年度ですので多少の変化はあると思われますが、この調査によると75%もの車が洲崎を含む「房総フラワーライン」を通らずに南房総を回っていることがわかります。
房総フラワーラインは、富士山や伊豆大島を一望できる絶景のドライブコースであり、館山に来たら是非一度は堪能して頂きたい癒しの空間に溢れています。しかし、それにしては当時の観光地としてはあまり認知が進んでおらず、館山の良さがまだまだ伝わっていないのではないか?そんな気持ちにさせられるデータだともいえます。
それもそのはず、富浦ICを降りてから何も知らずに真っすぐ館山に向かうとそのまま国道410号線を通って館山を抜けてしまうのです。余程意識して右折しない限り、房総フラワーラインを走ることはできない道の壁―
そこでこのような状況に対して、MBITメンバーが案を重ねて生み出したものが、昔から伝わる「マーガレット岬」をたくさんの方に周知してもらうことで、洲埼灯台を中継して房総フラワーラインを体感してもらおう!という企画だったのです。古きを温めて現代に蘇らせることで館山の素晴らしさをより一層知ってもらいたい、すばらしいアイディアですよね。
マーガレット岬復活はなるのか?
もちろんNPOによる有志の活動ですので、2.3年前から始まったといってもまだまだスタートしたばかりの計画といえるでしょう。今後はより多くの方々に参加していただき、洲埼灯台の周りをマーガレットでいっぱいにしていきたいという願いばかりが先に立ちます。でも実際、灯台という国の施設に一般の有志が入って花を植えても良いのでしょうか?今回は最後にこの点を踏まえて、洲埼灯台の管理を長年行ってきた洲崎区長である鈴木恒夫さんのお話をご紹介して終わろうと思います。
鈴木恒夫さん:
「洲埼灯台は海上保安庁の管轄にありますので、本来はあまり一般の方が介入できないようになっているのですが、洲埼灯台に限っては風光明媚な景勝もさながら、マーガレット岬という伝統を培ってきた場所ですので、花などを植えるなど灯台を美化する運動は自由にやってよいようにお許しを頂いているのです。洲崎区でも婦人会の方々と一緒に15、6人で草刈りをしたり、ゴミ拾いを定期的に行っているんですよ。
マーガレット岬復活という提案は大歓迎です。実は、私たちも昔小さい時にマーガレットでいっぱいになった灯台周りの景色を思い出し、最近少しずつですけれど花を植えています。また先日は市の方が灯台に土を幾度も往復してもってきてくれて、灯台の傍にマーガレットを何株か植えることができたんです。今年の4月頃には可愛く咲いてくれるかもしれません。
そして、もしみんなでマーガレットを植えようなどということになれば、是非私たちも参加させてください。みんなでこの場所をもっともっと良くしていきましょう。」
マーガレット岬にまつわる昔話、そして現代への復活途上劇、いかがでしたでしょうか?
これほどまでに多くの人の思いが、そこら中で広がりつつある建設現場を今までに見たことがありません。この点けたばかりの灯が、航路の目印となる灯台のように、船を迷わず目的地へ導くことができるよう祈るばかりです。またこの船の乗組員は随時募集中です。もしこの記事を読んで、マーガレット岬復活へ手を貸してくれるお気持ちのある方、是非とも「洲崎マーガレット岬の会」へお問い合わせください!
そして現在、洲崎周辺の花農家さんの間で、マーガレットを再び栽培するという話もちらほら上がってきています。専門家が示唆されるように、マーガレットそのものにも改良が進んでいる現代、もしかしたら本当に、秩父宮妃殿下がご覧になったあの景色に再びまみえることができる日がくるかもしれません。何がおこるかわからない今後の洲崎、目が離せませんね!
洲崎マーガレット岬の会
洲埼灯台を大好きな有志が「洲崎マーガレット岬の会」を発足し、地域の方々のご協力もあり、灯台の周りの環境整備が定期的に行われています。
この記事が書かれてから1年後の2013年3月8日には、西岬幼稚園・子育保育園合同で『マーガレット卒園記念植栽』イベントが開催されました。
2024年3月13日には第12回目の卒園記念イベントが開催され、活動は継続されています。
灯台周辺の整備もゆっくりではありますが進み、マーガレットの開花を楽しめるようになってきました。