館山にゆかりのある芸術家の中でも、ひときわ色あせない輝きを放ち続ける青木繁。
明治時代を代表する洋画家であり、日本の近代化を象徴するかのような疾風怒濤の29年間を突き進んだ天賦の才人です。彼の残した不朽の名作『海の幸』が館山の布良(めら)で描かれたこと、御存知ですか?
今回は、青木繁の人物像や思想を浮かび上がらせると共に、『海の幸』が制作される裏側にスポットライトを当てて謎の答に迫ってみたいと思います。
(2012/05掲載:H)
10分でわかる青木繁の人物像と人生
青木繁は、日本で初めて国の重要文化財に指定された西洋画『海の幸』の作者であり、満28歳という短い年月の中で、後世に衝撃を与え続ける人生を突き進んだ、史上稀にみる「天才」として知られています。ただ、美辞麗句を並びたてるばかりでは、何ゆえにそこまで賛美される人物なのかわかりにくい方もいるはず。そこで今回は、青木繁の世界への入口として、その人生をまとめてみました。
幼少期
1882年、福岡県久留米市で下級武士の息子として青木繁は生まれます。当時の下級武士といえば、徳川幕府が崩壊し、頼み綱の殿様も支えてくれる家来もいなくなり、着るものも剥がれて路頭に迷うものが続出する没落士族社会の中にありました。繁の父は、「代言」といって現在でいう弁護士のような職についたため一家離散とまではいかなかったものの、下級武士の苦労を身に染みて経験したといいます。
そんな家庭に生まれ育った繁は、学で身を立たせようという願いのもと、4歳を迎えるとすぐに祖父と父によって厳格な教育指導を受けるのです。
「如何な寒中にも朝まだくらいうちに縁側の板に机を持ち出して読書させられる、まだ6.7歳の幼心にも、成人のような負けじ魂が固く養われていた。こんな風で小学から中学と進んでゆく中に、他の人の将来何をして身を立てようかと考えていたが、自分はそんな問題よりも、『男子とは何ぞや。』若しくは『我は如何にして我たり得べきか。』というような問題に深く頭を悩ますようになった。そしてその後に襲い来たものは幼稚ながら『人生』の根本問題であった。」
繁は後にこう振り返ります。広い知見や独創力は、この時期をもって素養として育まれ、また同時に気性の荒い親譲りの克己とした精神力や激しい情動も磨かれていきました。ある時、繁の父が言うことを聞かない繁に薙刀(なぎなた)を突き付けたのに対し、繁は「お突きなさい」といって動かなかったという逸話さえ残っています。
そんな家庭教育の毎日を送っていた繁には、唯一ともいえる楽しみがありました。絵を描くことです。
日本近代美術 巨匠2人の出会い
日本美術史において極めて重要な影響を後世に与え続ける画家の一人に、坂本繁二郎がいます。青木繁と坂本繁二郎が、同じ福岡県久留米市にて生まれた同級生であることは広く知られていますが、彼らの出会いは、2人が9歳で入学した久留米高等小学校のことでした。繁二郎はすでにその頃から非凡な画才を認められ、自身も幼くして画家を志して画塾に通っていました。
事前学習を経て5歳で尋常小学校に入った繁は、どんな科目でも一番でした。先天的ともいえる圧倒的な自負心はこの頃に一層培われたのかもしれません。しかし、その繁に初めての敗北感を与えたのが高等小学校で同じクラスになった繁二郎の絵。まだ10歳にも満たない少年が、自分より秀でた技術をもって、しかも将来の夢までもっている。このことは繁にとって衝撃的で新鮮な出来事でした。
画家の道を選ぶ
繁二郎は母子家庭で家は貧しく、中学校(現在でいう高校)に進むことができませんでしたが、繁は久留米中学明善校に進学して文学に目覚めることになります。友人らで同人誌『画藻(がも)』を発行し、詩を書き、挿絵を描く日々に没頭する日々を送りますが、こうした学外の活動に力を入れるようになると必然、学校の成績が如実に悪くなっていきます。あれほど優秀だった成績もいつしか落第点を取り、教師と喧嘩して白紙で答案を出すようになりました。
ここに至って繁は、この先の人生について真剣に悩み、画家の道に進むことを決心するのです。少し長いですが、回想記をみてみましょう。
「僕は大体中学で何の学科も相応にできるので、その中の一つを選んで一生を賭すのは自分というものがはなはだ惜しいように思われた。…軍人は面白いが、当時僕は歴山大帝(アレキサンダー大王)を崇拝していたので、あのような男子にならねばならぬ、しかし今日では軍人になったところで、一つの戦争を業とする人間で、とうてい歴山大帝の心事は実現しえるものではないことを考えた。
・・・この時に考えてみたのが哲学であり宗教であり文学であったが、最後に来たったものは芸術であった。それと同時にその実行であった。芸術的創作ということが非常な響きをなして胸に伝わり、ハルトマン(ドイツの哲学者)の『物の社会は物がこれを造り、ただ仮象の社会のみは人がこれを創作し、人類のみこれを楽しむ』という言葉がわが稚なごころに血潮をわきかえらせた。これこそ男子の事業だ。そしてこの中に千万の情懐を吐露し得るのだ。われは丹青の技(画技のこと)によって歴山帝もしくはより以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉のごとき男子たり得るのだと、こう決心した。」
これが今でいう高校生の抱えていた問題意識とすると唖然としてしまいますが、青木繁という人物が学生時代から自分の中に潜む能力に気付き、それに見合う人生を模索していたのかがわかると思います。空前の大帝国によってほぼ世界征服を成し遂げたアレキサンダーと自分を比較して、それ以上の功績を絵画において達成しようと志しているのですから、際限のない情熱と野望に充ち溢れていたことが伝わってきます。
ただし、そんな繁にも一筋縄にはいかない壁が立ちふさがっていました。父の存在です。
これまで画塾へ通っていたことも、毎日のように創作に耽っていたことも隠し通してきた繁ですが、ここにきて父にその後の人生展望を打ち明けねばならない時がきました。父は案の定取り合うことなく、
「美術とはなんだ。武術の間違いだろう?」
と一蹴されたことは有名な逸話として語られています。
ただし繁はめげることなく、母親を説得し、また伯父に想いの果てを伝えることによって、父との不和を解消し信頼を勝ち取る中で、ようやく東京行きを認めてもらえることになりました。
上京 そして東京美術学校へ入学
当時の日本美術界は、大きな動乱の中にありました。江戸時代は鎖国であったため、洋画がほとんど流入してこなかった上に、明治16年(1883)には洋画教育が廃止されます。西洋画教育を復活させたのは、欧米に留学していた黒田清輝で、彼らの尽力によって明治29年(1896)になって、ようやく東京美術学校に洋画科が置かれることになりました。
鹿児島県出身で世界を見聞して日本に戻り、新風を巻き起こした黒田清輝、この人の存在が青木繁にとって大きかったことは言うまでもありません。1898年、繁は縁もゆかりもない東京へ単身飛び込んで行きました。不同舎という画塾にて改めて絵を学ぶこと2年、念願の東京美術学校洋画科選科に入学します。
家を追われつつ上野図書館へ通う学生時代
晴れて黒田清輝に直接絵の手ほどきを受けることになった繁は、早くからその画才に嘱望を受けていたものの、実家の経済状況がひっ迫することなどから仕送りがなくなり、家賃を支払うことができず、悲惨な生活を強いられていました。
しかし、この貧しさゆえの不屈の精神ともいえるのでしょうか、この当時繁は美術学校と上野図書館に入り浸り、西洋画の研究と、これまでの芸術思想により一層核心的な根拠を与えていきます。青木繁がその作品のテーマとしたのは「神話」でした。この点は『海の幸』にも関るので、後述したいと思います。
第一回白馬賞受賞
一心不乱に制作に向かい合うさなか、1903年いよいよ繁の画作を世に問う日がやってきました。黒田清輝などによって日本画の芸術振興のために始められた展覧会「白馬会」ですが、第八回展覧会より「白馬賞」が設けられることになったのです。繁はこの展覧会へ「黄泉比良坂」など十数点を出品します。そのすべてが古事記やインド古代宗教から取材した作品でした。
西洋画家が一堂に出品した白馬会において、繁はなんと第一回「白馬賞」を受賞することになります。写生画ではなく、繁の描く抽象的なテーマによる構想画が受賞したということも世間からみれば革命的な出来事だったといいます。
これによって青木繁の名は一躍世に広まることになり多くの芸術家が青木を訪れ、また自身でも「青木グループ」という画学生の集団を作るなど、まさに「美術のアレキサンダー」を夢見た繁の第一歩となりました。
福田たねとの出会い
繁は東京美術学校に入学してからも、入学前に修練を積んでいた不同舎へたびたび出入りします。この一つには裸婦モデルを求めたためだったと言われていますが、他にも同窓の坂本繁二郎が繁より2年遅れて上京してすぐに不同舎に入門したことも関っていました。才気あふれる同郷の旧友と改めて画を磨き合えることに対して「久留米から日本のルネッサンスがおこる」とも語り喜ぶほどでした。
福田たねが不同舎に入門してきたのはこの頃で、繁は雷が落ちたようにたねに一目ぼれをします。たねのデッサンを指導したり補筆する中でたねも繁の画才に惚れ込み、ちょうど繁が白馬賞を受賞する頃には二人は親密な関係となっていました。
『海の幸』館山市布良(めら)にて誕生
内に秘めた画才を華々しく開花させた東京美術学校での学生生活も4年間の日々が過ぎ去り、1904年(22歳)に卒業を迎えることになりました。通例美術学校を卒業すると、郷里に戻り美術関係の仕事についたり中学校の美術の先生になったりして収入を得るのが常でしたが、繁は職に就くと自由に絵が描けなくなることを理由に就職を拒否しました。あくまで芸術家であるという自負の基に、いよいよ自分の能力を最大限に解き放つ作品を描こうと心に期していたのです。
7月に卒業するとすぐに、繁は福田たね、坂本繁二郎、森田恒友らと共に制作旅行を企画します。向かう先は千葉県館山市にある布良海岸。かねてから青木グループの一員でもあり、同じ久留米出身の詩人高島宇朗から、房総先端の布良海岸の素晴らしさを聞いていた青木は踊るような心持で布良を目指すのです。
今回のテーマともなっている青木繁の一大傑作『海の幸』は、ここ館山の布良海岸にて制作されます。滞在期間はわずか2カ月でしたが、短い人生の中で精神的にも芸術的感性においても最も優れた幸福な時期であったと伝えられているこの期間に、青木繁はどのようにして『海の幸』を描いたのでしょうか。
この答は後段に譲ることとして、ここでは繁がいかに布良海岸に魅せられたのか伺うことができる手記を見てみましょう。
ここに来て海水浴で黒ん坊だ。ここは万葉にある「女良」だ。近所に安房神社という官幣大社がある。古い土地だ。 漁場としても有名な荒っぽい所で冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って、二カ月も沖で暮らして漁をするそうだ。沖ではクジラ、ヒラウオ、カジキ、マグロ、フカ、キワダ、サメがとれる。みな二十貫から百貫(1貫は3.75キログラム)のものを釣るのだ。恐ろしいような荒っぽいことだ。… 雲ポッツリ、またポッツリ、ポッツリ! 波ピッチャリ、ピッチャリ! 砂ヂリヂリとやけて 風ムシムシとあつく なぎたる空!はやりたる潮! 童謡「ひまにゃ来て見よ、平沙の浦わぁー、西は洲の崎、東は布良アよ 沖を流るる黒瀬川アー サアサ、ドンブラコッコ スッコッコ!!」 これが波のどかな平沙浦だよ。浜地にはスイカなどよくできるよ。ハマグリも水の中から採れるよ。晴れると大島利島シキネ島が列をそろえて沖を十里にかすんで見える。 それから浜磯ではモクツ、モク、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリグサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャク、ホラノカヒ、サザエ、アカニシ、ツメッケイ等だ。 まだまだその外に名も知らぬものが倍も二倍もある。 今は少々制作中だ。大きい。モデルをたくさん使っている。いずれ東京に帰ってからごらんに入れるまで黙っていよう… |
故郷福岡に帰省している友人梅野満雄に宛て書かれた手紙です。ここで制作中として書かれている絵が『海の幸』。青木繁が布良の浜で大きく手を広げて全身で自然を感じている様が浮かび上がるような文章ですよね。
この『海の幸』は、秋の第9回白馬会展で出品され、黒田清輝・和田英作・岡田三朗助・藤島武二など錚々たる面々の作品中に飾られました。結果、開幕と同時に繁が期待した以上の強烈な反響が巻き起こり、画壇・文壇や新聞・雑誌に至るまで注目を一身に集め、青木繁の名は天下に轟くことになります。
後半生に重なる悲劇
青木繁という人間は、一方で類まれなる芸術感性に優れた天才として有名ですが、他方その自由な発想を支えた奔放な性格を併せ持っていました。情熱的な直観を頼りに突き進むのですが、実生活についてはほとんど顧みることなく、繁の感性を尊ぶ支援者によって支えられてきたといっても過言ではありません。学生時代の家賃は友人に払わせ、また収入のあてもないのに窮迫した実家の姉と弟を引き取るなど、計画性のない生活を繰り返していく中で自身へのプライドと現実とが悪循環を始めます。
もう少し時代を経れば、という「もし」は尽きませんが、当時油絵はほとんど売れなかったのです。今では国の重要文化財に指定されている『海の幸』でさえ、画の大きさや価格などから引き取り手が見つからず、実生活への還元はほとんどありませんでした。
(百円で国木田独歩が購入する話もあった。)
こうした中、絵具などの画材入手の費用もままならず、福田たねの妊娠、父の危篤、実家の抱える多額の負債等、予期せぬ出来事が立て続けに起こり、準備のない繁の精神的な疲労もピークを迎えるようになります。
わだつみのいろこの宮
後半生で描かれた作品は、前半生のものと作風に変化が見られます。多くは青木繁の人生と連動して勢いを失ったという見方もありますが、向い風にあいながらなおも芸術に対して「高傑な偉大な真実な」態度をもって創られた作品に『わだつみのいろこの宮』を挙げることができます。この作品も『海の幸』に次いで今では、国の重要文化財として指定された大作です。
実は、この作品にも前述した館山市布良での体験が関係しています。布良の海にて水中奥深くから見上げた太陽の美しさを脳裏に残し続けた繁は、『古事記』上巻の物語をモチーフにして海底の宮殿での出来事を絵におさめる着想を得ていました。その後多くの海で海底の観察を続け、制作に至るまでに3年を要したというこの作品は、発表直後『海の幸』に次ぐ好評を受けて青木繁の画才は有識者の中で確定したと言われます。夏目漱石がかの『それから』という小説の中で、主人公に「青木という人が、海の底にたっている女の人を描いたが、あれだけが、よい気持ちに出来ていると思った」と主人公に語らせていることでも有名です。
しかし、この作品は博覧会において提出された240点の中で1等7人、2等6人、3等10人のうち、3等の末席という結果となりました。この数カ月延々と行われた鑑査に関しては他の分野においても多くの異議が出されており学会内部の複雑な事情が指摘されていますが、この結果に一番納得がいかなかったのは当の青木繁本人でした。折しも「わだつみのいろこの宮に就いて」というタイトルの文章を新聞に寄稿して、日本固有の芸術観について作品の意義を強調していたさなかであり、その落胆ぶりといったら他に例をみないものだったということです。
繁は、この評価に対し画壇に向けて痛烈な批判を加えていきます。もともと素行に問題のあった繁にとってこうした行動は自らの首を絞めるようなものでした。青木繁という天才の存在は蚊帳の外へ追いやられ他の新星の登場を尻目に見る影もなく久しく葬り去られます。それから60年、1969年になってようやく『わだつみのいろこの宮』は国の重要文化財として指定されることとなりました。(『海の幸』は1967年。)
放浪から病死
もちろんその後も制作意欲が衰えたわけではありませんでした。また、これまでの自分を改めて本気で働こうと決心もした繁でしたが、持ち前の気性に折り合いがつかず、家族と衝突を繰り返し放浪の旅に出ることになります。展覧会にも出品しますが、問題にされることもなく落選し1年後にはすでに進行していた肺結核に蝕まれた身体から喀血。療養を続けますが、少し良くなれば無断で外出を繰り返すなどして体調を悪化させ、とうとう1911年病床の中、齢28歳にてその人生の幕を閉じました。
短いながらも浪漫主義を象徴するような疾風怒濤の29年間、大きな出来事のみを抽出した青木繁の人生でしたが、いかがでしたでしょうか。もちろんより詳しく青木繁の実像に迫りたい方は、関連図書をお読みになることをお勧めします。ここで参考した図書は以下の通りです。
『青木繁全文集 仮象の創造[増補版]』青木繁著/中央公論美術出版2003年
『青木繁・坂本繁二郎』谷口治達著/西日本新聞社1995年
『青木繁とその情熱』かわな静著/てらいんく2011年
『青木繁と画の中の女』中島美代子著/TBSブリタニカ1998年
『青木繁 その愛と彷徨』北川晃二著/講談社1973年
『芸術新潮 特集没後100年青木繁』新潮社発行2011年7月版
なぜ青木繁は『海の幸』を描いたの?
さて、青木繁の人生を概観したところで本テーマの答に進みたいと思います。文章中にも登場したことではありますが、改めてその真相に迫ってみたいと思います。
①同郷の詩人高島泉郷による布良海岸の勧め
まずは、青木グループに属していた泉郷(本名:高島宇朗)が以前布良の海を見たことがあったこと。「青きうしほをかきわけて われは都へかへるなり 安房の島山いざさらば」
と歌に残しているように、泉郷は眼前に体験した布良の海を細かに繁に語りました。このことが繁を布良に駆り立てるきっかけとなったことは間違いないようです。
②青木繁の芸術思想上のテーマが日本神話にあったこと
幼少の頃から文学に強い関心をもち、日本芸術を背負って立つ者として情熱を燃やしていた繁は、世界のなかにおける日本を意識していました。そしてスカンジナビア、アイスランド、パレスチナからインドに至るまで世界各国に伝わる神話を研究した結果、彼は神話に反映されている先人の心が、芸術の中にみられる「仮象」と深く繋がっていることを思想の核心としていました。
館山の布良には昔から多くの神話が伝えられています。万葉集や古事記などに精通していた繁は、こういった点からも布良に愛着がありました。梅野満雄に宛てた手紙以外にも、神話の描出を目的とした旅行であることを示す文章がたくさん残っています。
作品『海の幸』は古事記の物語「海幸彦、山幸彦」をモチーフとして当初2部作を描こうと想定されていたものでした。しかし、ある日坂本繁二郎が布良漁港における大漁を目の当たりにしてその様子を繁に伝えます。その時、神々との苦闘の中で命がけの漁を終えた男たちが浜辺を家路へ帰る姿が突如として繁の中にイメージされ1週間足らずでいっぺんに描きあげられたと伝えられています。
また、実際には漁の様子を見ていない繁が何を参考にしていたのかという点で、最近の研究では布良・相浜地区の祭りにおける神輿を担ぐ姿が関係しているのではないかと提起されています。この点も非常に興味深いところです。
③マグロ延縄漁の発祥の地 布良村(めらむら)
館山の布良は、江戸末期から明治期にかけて全国で一番のマグロ漁獲量を誇る漁港があった村です。江戸前の鮨は、その大半が布良でとれたマグロをもとに作られていたそうで、全盛期には83隻ものマグロ船が停泊していた記録もあります。一本100万円と言われるマグロがどんどん釣れるわけですから当時の村は空前の隆盛ぶりを誇っていました。
卒業旅行に来た青木繁一同は、後先構わずほとんど無一文の状態で旅路を進めていました。しかし案の定金銭的な底がつきた彼らは、初めに宿泊していた旅館をでなければならないことになります。
青木繁が『海の幸』を描いた場所である館山市布良にある「小谷家(こたにけ)」ですが、1904年に一同が滞在した家屋ですので、必然老朽化が進んでいます。しかし、小谷家なくしては『海の幸』は誕生しなかった、ということでこの建物全体を文化財として保存していこうという活動が現在各方面から進められています。
この保存会活動の歴史も長く、その発端は没後50年を記念して布良に建立された「青木繁記念碑」が一時取り壊しの危機にあった時、これを守るための活動だったそうです。ここにその保存会活動の簡単な年表を見てみましょう。
1904年 青木繁『海の幸』を制作 in 布良
1911年 青木繁逝去
1961年 館山ユースホステル設立
1962年 記念碑建設建立(没後50年記念)
1967年 『海の幸』国の重要文化財に指定
1969年 『わだつみのいろこの宮』国の重要文化財に指定
1998年 館山ユースホステル営業停止
同時に隣接する「青木繁記念碑」が国有地であることを理由に解体・撤去の問題が浮上
→館山市が国有地の借地料を支払いを引き受けることで解体をまぬがれる
2000年~ 当時、富崎地区連合区長会長であった故吉田昌男さんらの尽力により、以後記念碑を守る
ための活動が活発化する。
2005年 「青木繁《海の幸》100年から布良・相浜(あいはま)を見つめるつどい」開催
シンポジウムにて小谷家当主より「100年前に青木繁が泊まって《海の幸》を描いた住宅を
地域の子どもたちのために残していきたい」との思いが述べられる。
2007年 小谷家住宅 館山市指定文化財へ申請
2008年 「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」発足
2009年 小谷家住宅 館山市有形文化財(建造物) 指定
2010年 NPO法人 青木繁「海の幸」会発足
2011年 没後100年青木繁展が全国で催される。
しかし、大震災の影響で基金活動は自粛。
2012年 ふるさと納税制度に「小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」が組み込まれる。
2012年 青木繁「海の幸」オマージュ展
「海の幸」会会員の芸術家による 青木繁「海の幸」オマージュ展
期間 | 2012年6月29日(金)~9月2日(日) 休館日 月曜日、第4金曜日 |
場所 | 渚の博物館(館山市立博物館分館) |
展示構成 | 第1章 NPO法人青木繁「海の幸」会の文化財保存活動(パネル展示) 第2章館山市有形文化財「小谷家住宅」(パネル展示) 第3章青木繁の作品 未発表のものを含め布良で描かれたデッサンなど展示予定 第4章青木繁「海の幸」オマージュ作品展示 |
問合せ先 | 渚の博物館 TEL/FAX 0470-24-2402 |
HP | NPO法人青木繁「海の幸」会 |
このように、まさに現在進行形にて「小谷家住宅」の保存活動が活発化してきています。去年は、青木繁没後100周年として全国各地で展示会が行われておりましたが、東日本大震災の影響によって基金活動にも積極的な取り組みができない状況にありました。その意味では、その保存会活動は今年から再出発したといえるのかもしれません。
小谷家住宅は、築100年を越えて老朽化が進み早急に修築を行わない限り倒壊の危険性が高まっています。まずは、青木繁の人生、そしてその作品に触れて、いかに『海の幸』という作品が後世に残されるべき作品であるかを各々の尺度で感じ取った上で、みんなの力を合わせて「小谷家住宅」を守っていくことができたら素晴らしいことだと思います。是非、上記「オマージュ展」なり美術館へ足を運ぶなりして、青木繁の世界に足を踏み入れて頂けたらと思います。
『青木繁とその情熱』作者 かわな静さんの願い
最後になりますが、昨年2011年の7月に『青木繁とその情熱』を刊行された南房総市富浦町在住、かわな静さんのお話しをご紹介します。
かわなさんがこの本を書かれたきっかけは何ですか?
「もともと教員をやっておりまして房南中学で教えている時などは、モニュメントが近くにあることぐらいは知ってたのですが、そこまで青木繁について詳しかったわけではありませんでした。
そんな時安房博物館が開催していた『安房学講座』に参加して、小谷家住宅へ行ったんです。実際に青木繁が滞在した部屋に入りますと、妙な感動を覚えましてね。突如舞い降りたように青木繁を調べ出すようになったのです。
私は日本児童文芸家協会に所属してまして、児童書を何冊か書いておりましたので、これも若い子に読んでもらえるようなわかりやすい本にできたらと思っていました。」
この本は、どのような願いをもとに書かれたのですか?
「そうですね、私も教員をやってきて思うことですが、今の少年少女は早く挫折する子が多いと感じてきました。みんなが同じように生活して消極的に育っているので、なかなか個性が育ちにくいのではと思います。
そんな中、この青木繁という人物の強烈な個性や作品はとても良いテーマになるのではと思ったんですね。青木繁の強い意志をもってやりぬこうとする生き様は人の心を揺すぶってなりませんから。できれば、中学生・高校生の間に青木繁に触れて、個性的に生きる素晴らしさを感じてほしいと思いました。
また、一方では教育の問題でもあると思うんです。青木繁の父・祖父は今では信じられないほどの厳しい教育を繁に施します。昔の家はみんなそうだったんです。社会に出て憂き目をみないよう、家庭で子供を育て上げた。こうした親のあり方も、いい悪いではなく、改めて学ぶべき価値があるのではないでしょうか。」
本記事でも参考にさせて頂いた『青木繁とその情熱』ですが、すべて事実関係を綿密に調べ上げられた上で書かれている物語形式の伝記となっています。手にとって一気に読み上げることができるにも関らず、凝縮された青木繁の人生が目の前に迫ってくるような素晴らしい本です。思春期のお子さんに是非読んでもらいたい一冊だと思います。
『青木繁とその情熱』
『青木繁とその情熱』かわな 静著
発行所:株式会社てらいんく
<販売店>
【館山市宮沢書店本店】
住所:千葉県館山市北条1415-1
TEL:0470-23-7771
【株式会社てらいんくHP】