自慢の山車
●上幕:龍
●大幕:牡丹に獅子
●泥幕:波に千鳥
●提灯:牡丹に獅子
●半纏:下町
●彫工:後藤喜三郎橘義信
下町には、他の地区に比べてやや早い時期である、明治二十四年(1891)十一月七日に新造された自慢の山車があります。人形は伊弉冉尊、白を基調とした上幕が特徴的です。
装飾彫刻は繊細でみごとなものが数多く施されています。囃子座屋根上の「牛若丸と弁慶」をはじめ、上高欄・中高欄・下高欄には、ところ狭しとばかりぎっしりと、さまざまな場面の彫刻がつけられています。また、外からは見えにくい場所ですが、囃子座後ろの二本の支柱には、迫力ある龍が今にも飛び出しそうに彫られています。
これらの彫刻は、房州後藤流初代義光の弟子、国分産まれの彫工・後藤喜三郎橘義信四十三歳の作、脂がのった勢いを感じる逸品です。
大正五年に撮影された山車の写真が下町集会所に飾ってありました。御仮屋の中で人形をあげたその姿は重厚で趣のある当時の姿を伝えています。
溢れんばかりの彫刻はもちろんですが、その泥幕意匠や山車前面太鼓下に並べられた「館下」の長提灯が、下町の「誇り」を感じさせてくれます。
諏訪神社 旧所在地:館山市館山一〇二二辺り
(現在は館山神社に合祀されている)
祭神:建御名方富命
(たけみなかたとみのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)
由緒: 諏訪神社の祭神・建御名方富命は、古くから武神として知られており、農耕・狩猟の神としても広く信仰を集めています。
昔から下町に鎮座していた諏訪神社は、大正十二年九月一日に発生した関東大震災によって倒壊してしまいました。その後は館山神社に合祀され現在に至っています。
下町諏訪神社は現在の館山商店街協同組合(TSCホール)がある場所
にあったそうですが、現在ではその面影を見つけることはできません。この諏訪神社の扁額が下町集会所に残されています。飛龍の彫刻が施された立派なもので、在りし日の諏訪神社の姿を偲ばせます。
地域の紹介: 下町は、館山城の城下町として栄えた歴史をもつ、館山地区の最も東側に位置する町です。その昔、江戸への主要陸路「房総往還」が地区の中心を通り、明治・大正時代には、長須賀との境である汐入川にかかる汐留橋のたもとには館山郵便局本局がありました。現在は、汐入川の西側方面に、およそ九〇世帯の人々が暮らす小さな地区です。町内行事を執り行うのは、下町会や下町青年会の皆さん。夏の館山祭礼をはじめ、区民のつどいや町内夜警などの行事を一致協力して行なっています。
祭礼: 下町の祭礼は例年八月一日・二日に行われる「館山の祭り」に山車を出祭します。
祭礼前の太鼓の練習や踊りの指導をはじめ、さまざまな準備は下町青年会が中心となって行なわれます。
祭礼一日目の夜には、青柳区・上真倉区の神輿との共演の中で、下町による昔ながらの「きつね踊り」が行われています。その後に三町による餅投げが行われ、初日の盛り上がりを見せます。
二日目には合同の引き回しが行われ、館山神社への集結、お浜入りから、館山地区の広い範囲でさまざまな見どころを演出しています。
「下町」の文字が背中に入った半纏を身にまとい、威勢のいいスピードある引き回しが自慢のひとつです。
8月1・2日 館山のまつり
祭りの起源: 大正三年、旧館山町(現在の青柳、上真倉、新井、下町、仲町、上町、楠見、上須賀地区)と、旧豊津村(現在の沼、柏崎、宮城、笠名、大賀地区)が合併し館山町になったのをきっかけに、大正七年より毎年十三地区十一社が八月一日・二日の祭礼を合同で執り行うようになりました。その後、大正十二年の関東大震災により、諏訪神社(下社)、諏訪神社(上社)、厳島神社、八坂神社の四社倒壊のため、協議により四社の合祀を決め、昭和七年館山神社として創建されました。
現在は館山十三地区八社として、神輿七基、曳舟二基、山車四基がそれぞれの地区から出祭しています。愛称「たてやまんまち」として、城下の人々によって伝え続けられてきた”心のまつり”です。
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このパンフレットは、地域の方々からの聞き取りを中心に、さまざまな文献・史料からの情報を加えて編集しています。内容等につきましてご指摘やご意見等ございましたら、ぜひご連絡いただき、ご教示賜りたくお願いいたします。