「歴史文化」カテゴリーアーカイブ

歴史文化

語り「富田先生の『青い目の人形』」

昭和2年、アメリカの子供達から「アメリカと日本が、これから、ずっと仲良くしていくために、まず子供達同士が仲良くなりましょう」というメッセージを込めて、青い目の人形が贈られました。
これは、アメリカで排日移民法が議会で成立したことに伴って、日本人に対する差別や排斥運動が高まってきたことに心を痛めたアメリカ人・ギュリック博士と日本の実業家・渋沢栄一氏の尽力とアメリカのキリスト協会の人々の協力によって実現したものです。
人形は、1つずつ日本中の小学校や幼稚園に届けられました。南房総館山市の館山小学校にやってきたのは「メリーちゃん」。子供達から大歓迎されたメリーちゃんは、裁縫室に飾られました。
今度は、日本の女の子達が、いただいた人形のお礼に、振袖姿の日本人形をアメリカの子供達に贈りました。
こうして、アメリカと日本の二つの国の子供達は、友好を誓ったのでした。
しかし、昭和16年12月8日に日米開戦の火蓋が切られるとアメリカは敵国となりました。
当然、その火の粉は人形にも及び、日本中にあった青い目の人形は、次々に処分されてしまいました。そんな中、館山小学校の佐藤校長は、「メリーちゃん」を女学校を出て教師になったばかりの若い富田先生に託しました。やがて戦争が終わり、富田先生も結婚して、二人の娘を持つお母さんになりました。娘さんたちも成人し、終戦から28年も経ったある日、「人形使節

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語り「たこのうらみ」

昔むかし、館山の布良の浜にはタコがいっぱいいて、子供でも手で掴み取れるほどでした。
ある日、貧しい漁師の妻が、浜に出ると大きな一匹のタコが磯で動き回っていました。
これは、いい物を見つけたと妻が近づくと、タコは岩穴の中に隠れてしまいました。しかし、タコの身体があまりにも大きかったため、脚が穴からはみ出していて、妻は、直ぐに見つけることができました。
妻は、そのタコの脚を一本切り取ると、タコが逃げないように大きな石で入口に蓋をしました。
タコの脚を家に持ち帰った妻は、それを晩御飯のおかずとして、夫と一緒に食べました。とても美味しいとタコの脚を食べる夫を見た妻は、それから、毎日、浜に行っては、タコの脚を一本切ってきて、晩御飯のおかずにして食べていました。
7本目の脚を食べてしまうと、タコを憐れに思った夫が、タコを逃がしてやらないかと妻に相談しました。しかし、妻は取り合わず、8日目も浜にタコの脚を切りに行きました。
タコのいる岩穴の前で石をはずそうとしたそのとき、沖の方から大きな波が寄せてきて、その石をはじき飛ばしてしまいました。潮水に当たって力を盛り返したタコは、残っていた一本の脚で、妻の首に巻きつき、妻と一緒に海の底深くに沈んでいきました。
夜になっても帰ってこない妻を心配した夫が仲間の漁師と共に海を捜しましたが、妻が見つかることはありませんでした。

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語り「おじいさんとたぬき」

(平群・吉井の大井戸のお話)
昔々、房州のある村に、平吉というおじいさんが住んでいました。
おじいさんの家の前には、小さな川が流れていて、おじいさんが若い頃に作った水車が大きな音を立てて回っていました。
明るい月夜には毎晩平吉おじいさんをからかいにくる者がいました。古くから山に住んでいるいたずら好きの狸です。
あまりにいたずらが過ぎるので、たおじいさんは、この狸を捕まえてやろうと考えるようになりました。
ある日、晩飯の支度をして待っていると大きな狸が家の中に転がりこんできました。
狸は追い回すおじいさんの目をくらまして、家の中のどこかに隠れてしまいました。
しかし機転を利かせたおじいさんにより、大きな古狸は捕まりました。
狸を捕まえたおじいさんは晩飯を食べようとしましたが、側で腹をすかしている狸を不憫に思ってご飯を少し分けてあげました。
今でも平群の冨山のふもとには、日照りにも枯れない仁王の涙と有名な吉井の大井戸があり、おじいさんの水車を模した小さな小屋が建てられています。

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語り「長持の中の女」

昔、山深い村で、人々がまだ鏡を一度も見たことがなかった頃のお話です。
この村に清吉さんという男が住んでいました。清吉さんは、女房と二人暮らし、百姓仕事の合間に薪を作って町に売りに行っていました。
ある日、薪を売りに行った帰り道、新しく出来た床屋に入ってみました。その床屋には、壁に鏡をかけてお客様の顔を映して、髪を切ったり、結ったりしていました。
鏡に映った自分の姿を自分の父親だと勘違いした清吉さんは、床屋のご主人に頼み込んで、薪を売って手にした一両二分で、その鏡を譲ってもらいました。
家に帰った清吉さんは、女房に内緒で、鏡を長持の中にしまいました。鏡をこっそり見ては、喜んでいた清吉さんのうきうきした様子をおかしいと感じるようになった女房が、ある日、清吉さんが、長持の蓋をしめてニヤニヤ笑いながら独り言を言っているのを見つけてしまいました。
夫に女が出来たのではないかと勘違いした女房は、清吉さんに掴みかかっていきました。騒ぎの大きさに驚いた尼さんがかけつけてくると、今度は、女房が実家へ帰ると言い出しました。
仕方なく、清吉さんが、長持の蓋を開けて、「ここにお父っつぁんがいるから」と説明しましたが、女房は、鏡に映った自分の姿を若い他の女と勘違いして、またまた清吉さんに掴みかかっていきました。
今度は、尼さんが鏡を覗くと頭を剃った顔が出てきて、どうもおかしいということで、三人

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語り「金の竜」

今から約1300年前の飛鳥時代、大和の国(現在の奈良県)に「役の行者」が生まれました。
名前は、小角。毎日、厳しい修業を重ねたおかげで、修験道、最初に山伏になった人となりました。
しかし、優れた才能に魅かれて弟子がたくさん集まってきたことに危機感を感じた時の政府から、危険人物とされ、伊豆の大島へ島流しとなってしまいます。
役小角は、毎晩、大房岬に飛んできては、小さな洞窟を掘り、お不動様の像を彫刻して、大宝寺というお寺を造りました。そして、この辺りで悪さをしていた海賊を捕まえて、弁財天の洞窟に閉じ込めてしまいました。
村人は大喜びして役小角に感謝し、大宝寺のお不動様を熱心に信仰するようになりました。
それから、150年後、仏教を広めるために東国にやってきた慈覚大師が、富浦の木の根峠にさしかかると海の向こうの岬に虹のような霞がたなびいているのが見えました。
この霞に引き寄せられるように大房岬にたどり着いた大師が、滝の水を浴びて身を清めて大宝寺のお不動様の前でお経をあげ始めると突然周囲が騒がしくなり、後ろを振り返ると青い衣を着た幼い女の子が座っておじきをしていました。女の子は、「実は、自分が海賊で、その昔、悪さばかりして村人を困らせていたため、役小角に捕らえられ、洞窟に閉じ込められてしまったけれど、今日、大師様のお経のおかげで、自分を縛りつけていた縄がほどけました。

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語り「館山湾のワタリ蟹漁」

夏場の夜には、海底の「ワタリ蟹」が海面に浮上して、ウミホタルを掻き分けるようにして横泳ぎします。刺激を受けたウミホタルは、青白く発光します。「タマ網」漁は、これを目印にして舟を接近させ、「タマ網」を上からかぶせて捕獲します。最盛期には、バンリョウ籠(竹籠)で5~6籠も獲れました。戦時中に当時の漁師達が、空襲の中、命がけで漁に出ることもありました。「タマ網」漁は、昭和20年代の前半で衰退していきました。「刺し網」漁は、夜間、海底の砂地を動き回る「ワタリ蟹」を刺し網を使って獲りました。館山桟橋や北条桟橋の沖合いに夕方までに仕掛け、翌朝、日の出前に目印のブイを引き寄せ、網をたぐりつつ、蟹を引き上げました。シャコ、コチ、舌平目、バイ貝などもひっかかりました。ウミホタルが、蟹の甲羅の中に入り込み、中身を食べつくして殻だけにしてしまうことも珍しくはありませんでした。また網にかかったワタリ蟹を外すのがとても難しく、足を折ってしまうと値が下がってしまうので、慎重に作業が行われました。「刺し網」漁は、昭和30年代の前半で衰退していきました。

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語り「太平洋を渡った房州のアワビ漁師達」

明治30年、千倉の千田で発生した大火事火事により家財を失った漁師の小谷仲治郎は、兄の源之助を誘いアワビ漁のため渡米します。漁師達は、最初は、寒流のカリフォルニア海流に手こずりますが、器械潜水夫の活用により、爆発的にアワビ漁の漁獲高を伸ばしていきます。源次郎と仲治郎は、アワビ缶詰会社を設立し、これが大きく成功しました。
第一次世界大戦が始まると販路が大きく拡大し、一時期は、カリフォルニア州のアワビ消費の75%を房州出身の漁師達が獲ったアワビで占めるようになりました。
しかし、太平洋戦争が始まると日系人12万人は、強制収容所に入れられてしまい、戦争が終わった時には、今まで築き上げてきた財産のほとんどを失ってしまいました。
戦後、長い間、沈黙を守ってきたアワビ漁師達ですが、大場俊雄氏の約40年に渡る調査研究などにより、当時の実態が明らかになりつつあります。
また1994年(平成6年)には、房州のアワビ漁師、小谷源之助と仲治郎の功績が認められ、日本人の名前がついた初めてのアメリカの州立公園が誕生しました。

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語り「日蓮上人と鮑」

日蓮上人は、今から780年前に小湊で生まれ、清澄寺で修業をしました。
16歳で僧侶の資格を取得し、名前を蓮長とし、もっと仏教を勉強したいということで17歳で鎌倉に出て、21歳まで修業を積みました。
その後、鎌倉だけでは不十分だということで、京都や奈良に行き、32歳まで、仏教だけではなく、神道や儒教や和歌までを勉強しました。そして仏教の中では、法華経が一番、お釈迦様の教えを忠実に伝えているという悟りに達すると清澄寺に戻りました。
日蓮宗を開きたいと言うと僧侶や豪族から批判され、寺から追い出されてしまいましたが、自分の教えを広めなければならないという使命感を持った日蓮上人は、鎌倉に出て行き、時の将軍に訴えようとします。
このとき、日蓮上人は、富浦の南無谷の港から出発しました。出発を前にして日蓮上人が海岸に下りていくと海の中から、助けて下さいと悲しい声が聞こえてきました。海の中をのぞくとサザエがアワビの背中に乗って苛めていました。それを見た日蓮上人がお題目を唱えるとサザエの殻に付いていたトゲが取れるのと一緒にサザエがアワビの背中から離れて、海の中に沈んでいきました。
アワビは、日蓮上人に深く深くお礼を言って感謝の気持ちを伝えました。それから日蓮上人は、鎌倉に向けて出発しましたが、当時の船は、あちらこちらに不備があり、空いた穴をボロ切れや綿などを詰めて補修している有様でした。とう

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語り「布良星」

天気予報も方位磁石も無い時代の漁師が漁に出るときには、空模様と勘と経験のみが頼りでした。だから、遭難も多く、漁は命がけでした。漁で命を落とす漁師があまりにも多いことから、かつて縄船は、後家船とも呼ばれていました。時化の前に布良瀬の沖に水平線すれすれに出る星を地元漁師達は布良星と呼んでいます。漁に出て帰ってこなかった仲間の魂が星になったに違いないと最初は恐れられていましたが、今では時化になるのを教えてくれる星として、信仰に結びつき「布良星さま」と呼ばれています。

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語り「瀬戸ぶんぶん」

昔、千倉の健田村瀬戸に孝行な娘がいました。娘は父を早くに亡くし、病気の母を大切にして暮らしていました。
ある朝、母が娘に向かって「大豆の粥がたべたい」と言いました。先は長くないと思った娘は、何とかして母の望みを叶えてあげたいと思うようになりました。
娘は、一軒のお金持ちの家に行きました。ところが、ここはお金が無ければ分けてはくれません。目の前の蔵には、大豆が山と積まれているのですが、娘には、少しのお金もありません。
ほんの一握りでいいから、大豆を分けてもらいたい娘は蔵に忍び込み一握りの豆を籠に入れて蔵を出ようとしたとき、見張りをしていた男に見つかり、娘は棒で殴りつけられ死んでしまいました。
年老いた母は、娘の変わり果てた姿に驚き、娘にとりすがったまま、息絶えてしまいました。このことがあってから、瀬戸村では、大豆を蒔き、それが双葉になるとぶんぶん虫が出てきて食べてしまい、絶対に育たないのだそうです。なぜか、追っても追っても、ぶんぶん虫は、大豆の双葉ばかりを食べるのです。これはあの娘のたたりに違いないとこの村では、大豆を作るのをやめるようになったそうです。

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