「房州人はアバラが一本足りない」という言い回し、聞いたことありますか?
何気ない会話の中に、ポロっと登場したりすると何となくわかったような気がしつつ、 でもなんでアバラなの?
そんな風に過ごしてきた方も少なくはないでしょう。 実は館山市のマスコットキャラクター「ダッペエ」も、アバラ骨が一本ないのです! これは館山人としては、ますます無視することはできませんね。
そこで、今回は「アバラが一本足りない」という言い回しの意味に迫ってみたいと思います。 なんだか辞書を引いたらすぐに出てきそうなこのナゾ、ひとたびベールをめくってみれば南総の文化や風土と密接に関係していることがわかってきました―
(取材:東)
「アバラが一本足りない」 一般的にはどんな意味?
筆者は、さっそくこの言い回しについて、何らかの辞書的な定義はないものかとペラペラと関連図書を探りはじめました。しかし―、こんなによく耳にする言葉にも関わらず、ダイレクトな説明がどこにも見当たらないのです!
そこでまず一般的にはどのように使われているのかを地元の人に聞いてみました。
この調査でわかったことは、多くの人が、「良い」意味でも「悪い」意味でも状況に合わせてこの言い回しを自由に使っているということです。しかし、上に見られるとおり「~抜けている」という語感を房州人の気質と絡ませてうまく表現しているところは共通していて、なかなか両方とも的を射ているという意見も多く聞くことができました。大体上にあげたような性格が伝統的な房州人の性格なのかもしれませんね…!
とはいえ、これでは「なぜアバラ」なのかがわからないではありませんか!?
「本当に無かったりして??」なんてお腹を触ったそこのオチャメなあなた!折角ですからこの機会に大まかに説明できるようになってみましょう。
※房州人=安房(南房総)に住む人を指します。
(1)なぜ「アバラ」?
まずは、調査の原点ともなる「アバラ」の正体とはなにか、と的を絞りましたところ、この言い回しにそっくりなとある一節に出会いました。
房州船(者)かよ肋(アバラ)が足らぬ あばらどころか木(気)が足らぬ (「安房節」お座敷唄)
これは、旧安房郡の漁村で江戸末期の頃から唄われてきたとされる房州を代表する民謡「安房節」の一節です。安房節は、館山の布良・相浜地区の漁師の唄が発祥とされ、海で船員の士気を高めるために歌われたのが始まりと言われています。その後安房郡全体に広がるにつれて歌い手を変え、節を変えて伝わっていきました。そこで、ここでは誤解を避けるために、オリジナルの安房節を「正調安房節」、その後変化した安房節を「お座敷唄の安房節」として大きく分けたいと思います。今回取り上げたそっくりな一節は、お座敷唄の安房節であることに注意して下さい。(コラム『房総のうた』より )
さて、この一節をみると「アバラ」が当時の船のアバラ(肋骨)であったことがわかります。船には竜骨、外板、甲板などの部位がありますが、内側の船を支える木を「肋骨」(あばら骨)といい、人体におけるアバラと同じような働きをしているそうです。つまり房州船には、当時アバラが足りなかった、そしてその船乗りの房州人も同じようにアバラがない上に気合も足りないのだとユニークに皮肉っているわけですね。
さて、早速ですが、この節とも非常に合致している言い伝えが千葉県の安房内房沿いにありました。この説は、様々な説がある中でもっともわかりやすく、多くの方に支持されているので、まず初めにご紹介します。
房州船に肋骨がなかったのは、内房の海が穏やかで肋骨がない船でもゆったり波に乗っていられることからきています。穏やかで温暖な地域である南房総では、そうした海にゆられて、気楽に暮らしていけるということから、「あばらどころか気が足らぬ」という後半の節が生まれたことも、つじつまが合いますね。
つまり、一つ目の答は、肋骨の足りない船でもゆっくり暮らしていける、という南房総の特徴から「房州人はアバラが一本足りない」という言い回しが登場したのでは、ということでした。これは、皆さんの使い方とも合致するのではないでしょうか??
しかし、少し調べてみると、疑問点が―。
それは次の点
房州船を含めた和船には、もともと肋骨がない
ということです。洋船と異なり、「和船」にはそもそも構造上アバラが一本もなかったという事実にはたと向き合うことになりました。
漁村で唄われた安房節ですから、歌い手が和船の構造を知らないはずがありません。つまり、房州船にはそもそもアバラがなかったのに、なぜあえてアバラが足りぬと歌ったのか、ということにひっかかってしまったのですね~。
これは謎だ!
ということで今回は、筆者と同じように立ち止まった方々向けに、調査によって得られた新たな仮説のような文脈(?)を紹介しようと思います。実に、この疑問をつきつめていくうちに、安房や東京湾の様々な歴史と絡み合った仮説となりましたので、なんとかついてきてくださいね~!
(2)房州船とは、歴史的高速船「押送船」ではないか?
安房節が生まれたころの歴史を調査してみますと、日本の船業界は大変革期を迎えていることがわかってきました。江戸末期といえば、ご存知「黒船来航」によってペリーが訪日したころとなります。日本は、江戸の平穏な日々から一転、明治維新による殖産興業や憲法制定によって近代化の道を超速急で歩み始めることとなりますね。
当時、船業界も例外なくその影響を受けていました。
1853年:ペリー来航⇒大船建造禁止令解禁(洋船への道が開かれる)
1870年:商船規則(洋船の持ち主を優遇する制度が作られる)
この二つの御触れを見ただけでも、建造される船の種類が西洋式に大きく変化していったことを物語っています。実際には洋船建造の技術力が発達していない日本ですので、洋船と和船が混在して東京湾を行き来していた時代が大正まで続いていたそうですが、かなりの勢いで洋船が流入してきていたことは間違いなさそうです。
それではそんな中、安房節に唄われる房州船とは、どんな船だったのか。
ペリーが来航した時の逸話が『ペリー提督日本遠征記』に残っています。
―ペリーが初めて久里浜に上陸するとき、案内役の浦賀奉行所のボート(押送船)の速力がはやく「その案内に遅れないようにするためには、わが逞しい漕ぎ手達を激励せねばならなかった」
ここで、ペリーがその速度を絶賛している船、押送船(おしょくりぶね)こそ安房で大活躍した船だったのです。押送船は、洋船よりも速かった! このことから、多くの和船が洋船に取って代わられる中、押送船だけは長い息で生き残ったのでした。
押送船についてもう少しみてみましょう。
押送船(おしょくりぶね)
(ア) | 始まりは、戦国安房の覇者「里見氏」の水軍であり、海上交通に優れた房州人の背景がある。 |
(イ) | 房州漁業は江戸前の新鮮な魚の大半を担っており、特にマグロは鮪延縄漁によって館山の布良(めら)地域がほぼ独占していた。 |
(ウ) | 魚は鮮度が勝負。里見水軍仕込みの船乗りが危険を顧みず、速度の上昇に努めた。 |
(エ) | 帆柱を三本立て、屈強男児7人で一斉に漕ぐという押送船が完成。当時陸路で4日かかった時間を、10時間に短縮した |
千葉の南端から日本橋まで、8~10時間で到着したというのですから、驚異的なスピードですよね。では、なぜそこまで速度を上げる必要があったかというと(イ)に記したマグロ漁が盛んだったからです。江戸末期から明治期にかけて、江戸前のマグロの大半が館山の布良から来ていたと言われています。今の価格で1本100万円はする本マグロが一週間に10本~20本と釣り上るわけですから、布良漁港の盛況ぶりは他に類をみないものでした。ただ―、その陰にはマグロ漁特有の危険と背中合わせで生活してきた漁師とその家族のドラマがあったのです。
コラム「布良星」
(3)安房節にこめられた房州女性のひた向きな思い
明治初期のマグロ漁というのは、俗にいうハイリスク・ハイリターンの典型的な職業でした。それは、一獲千金を狙う男たちの勇壮な夢でもあり、また裏では、還らぬ人の犠牲を伴う過酷な一面をも併せ持っていたのです。
マグロは、北の海で小魚をたっぷり食べて南へ帰る途中である11月から3月が最も美味しいと言われます。そのため築地や江戸前の実業家たちは、こぞってその時期のマグロを目指し、船のないものには資金を援助してまでマグロ漁を奨励しました。そのこともあって、なんと最盛期の布良には83隻のマグロ船が集結していたと言われます。
しかし、ちょうどこの11月から3月は、季節風の影響で海が荒れる時期です。港や町が賑わいを見せる反面、何百人もの船員が海にのまれて亡くなっていきました。そのこともあって、このマグロ船を別名「後家船」(ごけぶね)といいます。後に家を残す船、つまり妻子を残して永久に戻ってこない船、という意味をもっています。上のコラム「布良星」も合わせて、如何にマグロ漁が死と背中合わせになった職業であったかお分かり頂けるでしょう。
問題は残された妻です。どんどん男が海にのまれていく様を目の当たりにしながらも、夫を港から送り出す房州女性、彼女達はどのような思いで生きていたのでしょうか。中嶋清一著『房州の民俗』(うらべ書房)をみてみましょう。
「古くからこの地方(布良)は、まぐろ漁業の根拠地で、出漁中、意外にも事故が多発したため、家庭を守る女房族が、出漁中の肉親の身を案じて、この唄(安房節)を歌ったともいわれる。」
「鉄道が完成するまでは、船が唯一の交通機関であった。房州の魚介類は、オショクリと呼ばれる和船で、江戸まで漕ぎ運んだものである。各浜で獲れた魚介類を、このオショクリの船着き場まで運ぶのが大変な仕事であった。カラカラと大八車を曳いて、二里、三里の山道を走りぬいてその船出に間に合わせたのが、カカア天下と言われる「房州女」であったという。ある時に上る月に向かって、またある時には、吹きすさぶ木枯にめげず、声を張り上げて、この安房節を唄って帰ったという」。(「安房節」から)
この文章は(2)の裏付けともなり、やはり当時の南房総では押送船(オショクリ)が活躍していたことが伺われます。布良で獲れたマグロは、大八車といわれる台車に乗って、館山の鏡ケ浦(現在の北条海岸)にある押送船まで運ばれました。その運び手となったのが、房州女性。危険をおかして獲ってきた夫のマグロを、雨の日も風の日も、引っ張って歩いたのです。
そして、道すがら歌われた唄がこの「安房節」であったと―
もう一度お座敷唄の安房節をみてみましょう。
「安房節」お座敷唄
・ハァ~ 房州館山 鏡ケ浦に 粋な安房節しゃ 主の声
チンチゲネヤ ソンソコダヨ 島の鳥が オロロンロン
・ハァ~ 沖じゃ寒かろ 着て行かにゃんせ わしが寝間着の 茶のどてら
チャンがもってきた いかなます オンダモチットばかり食ってべえかな
・ハァ~ 鮪とらせて 万祝着せて 詣りやりたい 高塚へ
キッタマッキの帆前船 上はデッキですべくるよ
・ハァ~ 房州船かよ あばらが足りぬ あばらどころか 木が足りぬ
キッタカマッキノ 帆前船 上はデッキですべくるよ アイヨー
・ハァ~ 沖の瀬の瀬の 瀬のあわび 海女が獲らなきゃ 瀬で果てる
ソダマキダヨ 杉葉だ つけぎ無ければ 火がつかぬ どうせおっだらはたきつけだ
・ハァ~ 港出る時 別れた袖が 沖の沖まで 気にかかる
八間間口の土蔵倉売ってもよいかかあ もたねば一生の損だよ ソウダソウダ
・ハァ~ 死んでしまおうか 縄船乗ろか 死ぬにゃましだよ 糸がよい
命とる虫や 変な虫だ 頭がのっぺらぼうで 髪がある 鉢巻している 青大将
(出典:『館山市史』p642 館山市発行、『房総の民俗』p196 中嶋清一著/うらべ書房 )
こうして改めて読んでみると、なるほどという所がたくさん見つかりませんか?
初めに、「鏡ケ浦」が登場しますが、これは現在北条海岸のある館山湾の別称で、押送船が待機していた停船所です。房州女性によって、布良海岸から北条海岸まで、およそ10キロの道のりをマグロが運ばれました。「キッタカマッキノ帆前船」とありますが、まず「帆前船」とは西洋式の船を表しています。そして、「キッタカマッキノ」を「来たか末期の」と読み替えれば、つながりますよね。そうです、江戸末期から流入してきた外国船のことをいっています。続く3節からは直接、マグロ漁の厳しさ、夫を思う妻の思いが表れています。「詣りやりたい 高塚へ」の高塚とは「高塚不動尊」のことを指しており、房州女性は港で夫を送り出した後、無事を祈願しに参拝に行ったと伝えられています。それほど命がけの漁だったのですね。続く縄船とは延縄漁船の略語、つまりマグロ漁船です。
ただし、現実的な労苦を垣間見せる歌詞にも関わらず、実際の安房節は非常に前向きなメロディーとリズムで、和気あいあいと盛り上がる楽しい唄です。歌詞の内容について知るまでは、歌詞も明るい唄だろうと思ってしまうほど、今にも体を動かしたくなるリズムをもっています。折角なのでお座敷唄の安房節を一度聞いてみませんか?(上記歌詞のうち、3節と5節の録音)
どうでしょうか?みんなで手を合わせながら歌って踊っている姿が目に浮かびませんか。安房節がどのように歌われていたのかを知る今一つの文章を引用します。
「私が十二、三のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載にした大八車を、手ぬぐいで鉢巻した女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走ってきた。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く。そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底へ残っている」。(『房州のうた』小高さんの回想)
ここで歌われていたのが、正調安房節であったのか、お座敷唄の安房節であったのか、今となっては知る由もありませんが、海辺に響き渡る美しい歌声が聞こえてきそうですね。明治期の館山に住む子供たちにこうした印象を与え、年老いた後も思い出されるのですから、単なる唄を越えた人々の活気や強い溌剌とした生き様がほとばしっていたのではないかと想像されます。安房節は、いつ夫と離れ離れになるかわからない心境の中で、それでも「今」を楽しく生きる房州女性の強さやユーモア、そして肉親への深い愛情がこめられた唄だったのではないでしょうか。
さて、これまで一連の考察を共に追っていただいた読者の皆様、誠にありがとうございました。これまでの流れをまとめて、新しい仮説を提唱したいと思います!
(ⅰ)なぜアバラなの?
江戸末期から明治にかけて西洋式の船が急激に流入してきましたが、房州では押送船という最速の和船が活躍していました。安房節にて「帆前船」(西洋船)との対比で「房州船」が歌われているように、当時すでに房州にも西洋式の船が出入りしていたようですが、その大きな違いは「アバラがないこと」だったのです。今でも和船と洋船の構造の違いとして肋骨がないことが大きなポイントとなっています。
(ⅱ)「房州人はアバラが~」は、房州女性の強さと前向きな生き様の表れ?
上述しましたように、この言い回しを含む安房節は、房州女性の、夫への思いが強く込められた唄です。夫はいつ死ぬかわからない、だから女は一人で生きていけるように働かねばならない。実際に明治期の房州女性は、半農半漁の生活といって、農業もやるし海女の仕事もするといった働きぶりだったようで、男の収入に頼らずとも生活できたと言われます。こんなことから「カカァ天下の房州女」などと呼ばれるようになったのかもしれませんね。
この安房節は、その後形を変えて安房郡中に広がることになります。この唄のイメージが何か南房総人の気質とフィットしたのでしょう。もちろん現代人のイメージとして挙げられた「温厚や天然気質」または「ぶっきら棒で抜けている」という性格も、安房節のリズムと結びつくはず。しかし、特筆すべきは、苦しみや不安を歌い飛ばし「今」を楽しむ房州風土ではないでしょうか? 明日何が起こるかわからない、だけどそんなに不安がっても楽しくないじゃないか、そんなら歌って笑うっぺ、といった気持ちが伝わってきます。そのため筆者は今回「アバラが一本足りない」の意味に
「前向きで、クヨクヨしない房州人」
を提案したいと思います。みんなで助け合いながら歌い合って、「今」を生き抜いた房州女性、海岸沿いの力強い足取りの裏側には、アバラが一本抜けてしまうほどの肉親への愛情があったことを忘れてはなりませんね!
紹介!
「押送船」
この謎に登場した高速船「オショクリブネ」ですが、実物の模型を館山市立博物館分館で見ることができます。東京湾を駆け抜け、江戸の食卓を支えたこの船を一度見に行ってみてはいかがでしょうか。
【渚の博物館(館山市立博物館分館)】
〒294-0036 館山市館山1564-1
電話 0470-24-2402 FAX 0470-24-2404
「安房節記念碑」
館山市相浜には、マグロ漁にて命を落とした多くの方の勇姿や生き様を後世に残すために、平成5年1月に安房節記念碑が建てられました。安房節は、今回の謎でもそうであったように、明治期の安房人の文化や気風を多く伝える大切な文化財です。みんなで安房節を守っていきましょう 。
コラム「房総のうた」
安房節は…「野趣にみち、間の長い荒げ刷りな感じだが、どこか哀愁を漂わせている。しかも、囃子がどの歌も違い、方言や地名が入っている点が特色だ。安房節を研究している日本交通常務の松尾譲治さんは、「…安房節は富崎、相浜、布良、神戸、館山、船形など限られた地域で歌われたものだが、館山より相浜、布良あたりの方が、男っぽく漁師の歌らしい。現在では漁師、芸者、民謡の先生とそれぞれ節回しが違う」と話す。」 この指摘に見られる通り、安房節は広がるにつれて、地域ごと歌い手ごとに独自性をもった唄となっている。 『房総のうた』p21 朝日新聞千葉支局 未来社1983年
コラム「布良星」
ギリシャでは「カノープス」、中国では「南極老人星」と呼ばれている星を、日本では「布良星」といいます。 マグロ漁が盛んだった布良では、多くの方が海で命を落としました。そこで、真南の水平線上に、たまに赤く見えるこの星は、漁師の魂が漂ったものだとの言い伝えが広まり、布良星と言われるようになったとのことです。 (写真提供:浦辺 守さん)
赤いピン=記事で紹介した周辺の見どころ
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