なぜ館山は房総の中心になったの?

里見八犬伝の舞台として、戦国時代の里見氏の活躍などで有名な南房総館山。それよりさらに昔、創世記に遡って房総の歴史を紐解いてみると、実は館山が房総の中心だったという誇らしい事実が浮かび上がります。千葉の上総と下総、なぜ上下が逆転しているのかという謎にも迫ってみましょう。

(2011/11掲載:H)

天富命安房国に渡航の図

館山人ってどこからきたの??

鉈切洞穴遺跡

太古の昔、館山にはどんな人たちが住んでいたのでしょうか?
今から1万~2千年ほど前、日本は縄文時代と呼ばれる時代。千葉県でも多くの貝塚が発見されてきたように、縄文人が各地で独自の生活を営んでいました。その頃の彼らはクルミやドングリの実を主食とし、副食には魚介類を食べていたようで、各地に形跡が残されています。しかし、この後に起こったある重大な出来事によって米作りや諸産業など現代にも残るさまざまな文化が生まれ、彼らの生活は一変。この伝説は連綿と言い伝えられ、研究者たちの興味の対象とされてきました。

斎部広成の図

平安時代の神道資料『古語拾遺』によると、縄文時代の終わりごろ、「忌部」(いんべ)という天皇家の親戚である氏族的職業集団が現在の徳島県から海を渡って館山に辿り着いたと記されています。
もとより2千年もの昔の出来事。きちんとした資料はほとんど残されておらず、忌部氏に関する史実はいまだに謎に包まれています。それでも彼らが館山に上陸し、豊かな恵みと繁栄をもたらしたことを示す伝承や痕跡は決して少なくはありません。
まずは簡単に忌部族とはどんな氏族であったのかについて触れてみましょう。

スーパークリエイター集団、忌部氏(いんべ)氏の登場

徳島県「忌部神社」

ここでいう忌部氏とは阿波忌部氏のこと。古代朝廷にて祀りごとを司り、次々と新しい産業を生み出すことで日本の文化を支えた優秀な氏族として知られています。彼らが創りだした主な産業は次のように実に多岐にわたっています。

神事・麻栽培/加工・農業・鉄・織物・養蚕・製紙etc

-驚きませんか? 現在へと受け継がれる技術の数々。これらの技術を周囲がまだ木の実を食べていた時代に突然作ってしまったのです。いわばスーパーマンのような忌部氏ですが、その技術力をもって勢力を拡大したかと思いきや、戦った形跡はどこにも見当たりません。新しい技術を身につけた部族が侵略を行わず、逆にその技術を各地に伝え歩き尊敬されたという話は、世界的にもあまり例を見ないのではないでしょうか。忌部の「忌」の字は、もとは「森羅万象に対して畏敬の念」を表現する文字でした。今では「忌み嫌う」などマイナスな意味合いで使われますが、これは仏教の受容に従い意味が変化してしまったため。決して嫌われていたわけではないようです。念のため。

忌部氏は独自の麻文化を持っていたことで知られます。神事の占いや祭祀から、衣服や紐などの日常生活に至るまで、「大麻」(おおあさ)は彼らの生活には欠かせないものでした。麻は現在では厳格な取り締まりの対象になっていますが、天皇が儀式の際に着る神衣や神社の鈴縄には今でも麻が用いられるなど、その文化は確実に受け継がれています。「忌」の字にせよ「麻」の文化にせよ、後世の文化変容によって表に出ることが許されなくなったものの、実は彼らこそが日本の文化や習慣を創りだし、支えてきた氏族であることが浮かび上がります。そうです、忌部氏は今でいう最高の「クリエイター」だったに違いありません。

房総のルーツは四国、阿波徳島?

天富命の図

忌部氏は徳島の阿波を開拓すると、「麻」が良く育つ土地を求め、黒潮に乗って旅を続けました。
その際に上陸した土地が黒潮の北限、ここ館山にある布良だと言われています。肥沃な南房総の土壌は麻栽培に適していたため、ここに移住することを決意したようです。先住民たちと争うことなく様々な技術を伝授したため、南房総の文化レベルは一気に飛躍。禽獣を避ける方法や米作をはじめとする栄養価の高い作物の栽培、鉄器製作など、彼らがもたらす技術に先住民はさぞ驚き、また喜んだことでしょう。
これらを裏付ける資料として、阿波忌部氏と南房総との繋がりを示す例を何点か紹介しておきます。

地名の一致
阿波(あわ)と安房(あわ)のほか「白浜」「勝浦」など、徳島と南房総には地名の一致が多く見られる

忌部の神々
安房神社、洲崎神社、下立松原神社など館山周辺の多くの神社には、忌部氏の神々が祀られている

忌部氏の墓
富山(とみやま)は忌部氏族長である天富命(アメノトミノミコト)が指揮を執った場所であり、墓があると言い伝えられている

旧制安房中学校の校歌
旧制安房中学校(現在の県立安房高校)の校歌には「富命のおりしくに~」という一節がある

さらにもうひとつ。
房総の「総」は「○」の古語
「○」に当てはまる一字はお分かりでしょうか? 正解は「麻」。つまり房総の「総」の字は忌部氏がもたらした主要文化のひとつ「麻」だったのです。

麻の生育がよかったことが南房総に流れ着いた忌部氏の移住の決め手となったというのは前述のとおりですが、なんとこの土地に「総」つまり「麻」とネーミングまでしてくれたのですね。自分たちの崇める神聖な植物の名前を付けてしまうほどですから、さぞかし南房総を気に入ったのでしょう。ちなみに房総と呼ばれる前は「総州」と呼ばれていました。この総も同じですね。

結論!こうして館山は房総の中心になった

当時の日本では、地図上の南北における上下などはなく、都(大和朝廷)に近い行政区が「上」、遠い区が「下」とされるのが習いでした。忌部氏は上陸した館山を本拠地としてここから北上したわけですから、南ほど都に近く、北に行くほど都から遠ざかることになります。「上総」が南に、「下総」が北にあるという、地図で見ると上下が逆さまになったような地名の謎はこれで解決 ですね。

コラム「もう一つの言い伝え」

令制国

館山は海路の交易における総州(千葉)への入り口として大いに繁栄しました。武蔵国(東京・埼玉・神奈川)と下総の間は小舟しか通れない広大な湿地帯だったことも、その一因であったと考えられます。その後何百年もの間、漁業や農業で栄える館山の土地。その陰には、スーパークリエイター忌部氏の知恵と真心の物語が隠されていたのです。

※画像Wikipediaから引用

なぜ館山には一宮が2つあるの?(初詣パワースポット情報)

近年ブームのパワースポット巡り。日本各地に点在するエネルギーに充ち溢れる場所が紹介されています。安房館山のパワースポットといえば「神社」と「お寺」。多くの方が訪れ、仕事・恋愛・健康などを祈願し、また疲れを癒しに詣でます。でも、なぜ館山の神仏をわざわざ目指すのでしょう?-今回は神社に的を絞って、その独特の歴史に触れることでご利益パワーを高めちゃいましょう!

(2011/12掲載:H)

安房神社

神社の格式、ご存知ですか?

日本全国至る所に神社がありますが、これらの神社に伝統的な格式の区分け(社格)があることをご存知でしょうか。ちょっとお堅い感じがするかもしれませんが、古来から受け継がれてきた神社のパワーレベルのようなものですので、簡単にみてみましょう。

古代の社格:一宮
大宝律令(701年)によって制定。一宮は国(当時の行政区)で一番有力な神社を指し、次いで高い社格がそれぞれ二宮・三宮となる。
中世の社格:延喜式神名帳(927年)に記載された神社
朝廷から格別の扱いを受けた神社が記載されている。
近代の社格:明治元年(1868年)公布の官社表
官幣大社が一番の社格であり、国幣大社と分けられている。それぞれ大・中・小の社格がある。(戦後廃止されたが、旧官社などと使われることも多い)

上に見られる通り、これまで古代・中世・近代に全国の神社に対して、格式を定める御触れが出されました。実は安房神社は、この3つの格式すべてに最上の社格を与えられている数少ない神社の一つなんです。「千葉の南端に構える有名な神社」と漠然と思われがちですが、災害や飢饉の際、朝廷や民の声を神にお伝えする場所として人々から親しまれ最上の位を与えられた場所。実は強~い力をもつパワースポットだったのです。

安房神社の神様にはどんなご利益が?

日鷲命図
日鷲命図

安房神社には、どんな神様が祀られているのでしょうか。その起源は、神話の時代に遡ります。平安時代にまとめられた『古語拾遺』(こごしゅうい)には、徳島にいる阿波忌部(あわいんべ)氏が、海を渡ってたどり着いたのが安房であったと記されています。この忌部氏とは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の側近である天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖神とする氏族で、神事や占いを司る役割を与えられていた人々でした。つまり、神社で執り行われる祭祀の源流を担っていた神聖な方々だったようですね。忌部氏を率いた天富命(あめのとみのみこと)が、南房総の布良(めら)という海岸に上陸し、すぐに建設にかかったのが祖父である天太玉命を祀る安房神社であったそうです。
もう一つ、この天太玉命は、実は日本産業の創始者だったという言い伝えもあります。忌部氏は、農業、鉄器製造、製糸業、養蚕業、織物業など、さまざまな革新的な技術を開発し、それを惜しみなく諸国に伝えたとされる寛大な氏族です。そのため、安房神社は、「商売繁盛、技術向上、学業向上」のご利益があるとして、太古より慕われてきました。(忌部氏についてのより詳しい情報は、12月2日の記事をご覧ください。)

むむ、館山には一宮が2つ!?

一般的には「一宮」は1つの国に1つというのが原則ですが、館山には安房神社のほかに一宮がもう1つあるんです。そこで、今回はもう1つのパワースポット「洲崎神社」を紹介します。
洲崎神社

洲崎神社には、安房神社の祭神である天太玉命の后神「天比理刀咩命」(あまのひりのめのみこと)が祀られているので、安房神社とは夫婦の関係にある神社といえます。そのためからどうかは定かでありませんが、洲崎神社は昔から「結婚・恋愛」や「安産」「家内安全」のご利益があるそうです。
さて、上に書きましたように、一宮は一国に1つとされるのが習いですが、数少ない一宮が館山に2つあるのはなぜでしょうか?

洲崎神社はリベンジの神様!?

源頼朝
源頼朝

2つの一宮が存在することになった経緯は、なんと源頼朝のドラマが関わっています。ご存知、天下統一を果たし鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、実は1180年伊豆で挙兵した際、石橋山の合戦で敗れ海路で安房の地へ避難していたのです。家臣数名に支えられて辛くも逃げ延びた安房の地で、頼朝は「もう一度チャンスを!」と再挙を期して参拝をしました。この時頼朝が向かったのがこの洲崎神社です。その後頼朝は、千葉常胤(ちばつねたね)などの協力を得て平家討伐を成功させ、見事願いを叶えることになるのですが、そのお礼に洲崎神社に「神田」の土地を奉っています。つまり洲崎神社は、頼朝からすれば天下統一の願いを聞き入れてくれた神様となるわけです。

矢尻の井戸
【矢尻の井戸 頼朝公上陸地記念碑】

この話は、多くの武士の心に勇気をもたらし、語り継がれてきました。中でも、江戸城を築きあげた太田道灌は洲崎神社を勧請して、城の鎮守(今の神田明神)にしたと『永享記』(室町以後の東国情勢を記した軍記)に記されています。戦国時代、安房の覇者「里見氏」もこの神社を尊崇しました。
後世の武士は、全国統一を果たした頼朝の偉業は決して平易な道のりではなかったこと、洲崎神社で源氏再興を願う頼朝の参詣の内に、ひときわ神懸かったストーリーを感じたのかもしれません。
ともあれ、このような経緯のもと、自然発生的に洲崎神社を「一宮」と呼ぶ風習が広まり、また江戸時代には松平定信が、「安房国一之宮大明神」と自筆した篇額を奉納したこともあり、本来は国に1つとされる一宮が、安房国館山には2つも存在することとなったのです。何かに行き詰ったとき、新しいチャレンジをしたい時、洲崎神社を参拝してみてはいかがでしょうか?きっと力になってくれますよ!

 

館山のパワースポット神社・仏閣巡りの誘い

館山は安房の中心として、他にも忌部氏にまつわる神社や伝統ゆかりのあるお寺がたくさんあります。これからいよいよ紐解かれることが期待される忌部氏の軌跡を追うのもよいですし、ゆっくりお参りがてら羽を伸ばしていただくのもよいかもしれません。ぜひ一度、館山のパワースポットを訪れてみませんか??
(館山の歴史について詳しく知りたい方は「たてやまフィールドミュージアム」もご覧ください!)


その他のおすすめパワースポット

那古寺

那古寺(なごじ)

住所:〒294-0055:千葉県館山市那古1125
電話:0470-27-2444
坂東三十三箇所の観音霊場のうち、最後の札所となるお寺で「願いを結ぶ」と書いて「結願寺」(けちがんじ)と呼ばれています。奈良時代に天皇の病が治癒されたことから建立されたと伝えられ、その歴史は日本寺伝の中でも最も古いお寺の一つです。鏡ヶ浦(館山湾)を一望できる景色は、古くから那古寺が民の海運交通の安全を見守ってきたことを伺わせます。その他国の重要文化財に指定されている銅造千手観音立像など国宝級の文化財が幾つも保管されています。

 

小塚大師

小塚大師(こづかたいし)

住所:〒294-0233:千葉県館山市大神宮2161
電話:0470-28-1341
弘法大師(空海)が42才の厄年に安房に至り、衆生救済の祈願にあらゆる災難・禍の身代りとして自らの木像を謹刻し、安置したのがこの小塚大師です。一説によるとこの時弘法大師は木像を2体彫り、もう一体は海に流しましたが、それが漂着したことが川崎大師の始まりと言われてます。川崎大師・西新井大師と並び関東厄除け三大師の一つです。

 

下立松原神社

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)

住所:〒295-0103 千葉県南房総市白浜町滝口1728
電話:0470-38-4130
神話時代の日本において、神事の祭祀を司った阿波忌部氏の族長、天富命と一緒に安房に上陸した由布津主命が、祖父である天日鷲命を祀った神社です。寺崎武男氏の齋部(忌部)建国史10枚のフレスコ壁画が奉納されています。

 

崖観音

崖観音(がけかんのん)

住所:〒294-0056:千葉県館山市船形835
電話:0470-27-2247
養老元年(717年)行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一観世音菩薩を彫刻したことが始まりで、断崖の途中にはりついたように観音堂が造られていることから通称「崖観音」と呼ばれています。観音堂背後に高さ 1.5mの磨崖十一面観音像があり、館山市の有形文化財に指定となっています。

 

鶴谷八幡宮

鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)

住所:〒294-0047 千葉県館山市八幡76
電話:0470-22-1258
平安時代初期に創建されたと伝わる安房国の総社。鎌倉時代に現在の位置に遷座され、戦国時代安房の重鎮「里見氏」によって厚い保護を受けたました。毎年9月に行われる祭礼は、安房国の旧社10社の神輿が渡御する郡内最大の祭りで「やわたんまち(八幡祭)」と呼ばれ、例年安房の祭り一番の盛り上がりをみせています。

 

萬徳寺

常楽山 萬徳寺(まんとくじ)

住所:〒294-0223:千葉県館山市洲宮1571
電話:0470-28-2013
東西文化の融合ともいえるガンダーラ様式の中では世界最大級の大きさと言われる涅槃仏(釈迦の入滅する様子を現した仏像)が拝観できます。靴を脱ぎ、中央で合掌してから台座を時計回りに3周し、おみあしの所で参拝をすれば、大願成就すると言われています。拝観料は500円。

船越鉈切神社

船越鉈切神社(ふなこしなだぎりじんじゃ)

住所:〒 294-0303:千葉県館山市浜田376
電話番号:0470-22-3698(館山市生涯学習課)

昭和31年(1956年)の発掘調査において館山市浜田で発見された縄文時代の遺跡。魚を取るための針や銛(モリ)のほか、動物の骨なども出土しており、魚介類に限らず、山の猟も行っていたことを伺わせる貴重な遺跡です。古墳時代には墓所として、その後は海神を祀る神社として、人々の精神的拠り所としての役割を果たしてきました。

 

(このページ内で紹介したパワースポットの地図)


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なぜ館山に日本三大うちわがあるの?

 

日本三大うちわという言葉をご存知でしょうか?
四国の丸亀うちわ、京都の京うちわ、そしてもうひとつがここ館山の房州うちわです。
なぜ房州のうちわが日本三大うちわに数えられるほどになったのか。
その背景を探っていきましょう。

(2012/03掲載:K)

江戸時代に始まった関東のうちわ作り

世界的に見るとうちわの起源はかなり古く、古代エジプトの壁画や古代中国の記録などにすでに登場しています。日本のうちわの原型は中国から伝わった翳(さしは)という柄の長い形状のもの。古墳時代に伝わってきたようで、風を起こすというよりは、主に位の高い者が顔を隠して威厳を示すために用いられていたようです。その後もしばらくは、公家や僧侶などの間で使われていましたが、室町時代の終わりごろに竹と紙でできた送風用のうちわが誕生しました。

江戸時代に入ると、うちわは庶民の間にも急速に普及。四国の丸亀、京都・奈良、そして江戸が主な産地として発展しました。江戸でうちわ作りが始まったのは天明年間(1781~1788年)といわれています。江戸うちわは浮世絵の技術を取り入れた「絵うちわ」が特徴で、歌舞伎役者や美人画、風景画などがそのモチーフになっています。
この江戸うちわの材料となる「女竹(めだけ)」の供給地として発展したのが房州です。最初は原料の供給地として、うちわ作りに関わっていくことになります。

江戸から房州へ。産地移動の歴史

昭和初期のうちわ絵

江戸に運ばれる女竹の積出港だったのは、現在も漁港として活躍している船形(ふなかた)地区。房州でのうちわ作りが始まったのは明治の始めごろで、まずはうちわの骨部分のみの生産が始まったようです。明治44年発行の『地方資料小鑑』によると、うちわ骨作りは明治10年に那古町に始まり、付近の町村に普及したとあります。また、大正7年発行の『房総町村と人物』では、明治17年に那古の岩城惣五郎が東京から職人を雇い生産を始めたという記述があります。当初は農村の、あるいは漁村のおかみさんの内職として始まったといううちわ骨作り。明治の終わりごろには房総の竹は不足気味になり、伊豆まで竹を採りに行ったといいますから、当時すでに相当な産業に発展していたことが伺い知れます。

明治期はうちわ骨の供給地でしたが、大正に入り日本橋のうちわ問屋が房州での一貫生産を開始。ここで初めてうちわの完成品が房州で作られることになりました。房州のうちわ作りが一大転機を迎えたのは、皮肉にも未曾有の大惨事となった関東大震災でした。大正12年(1923)のこの震災によって、日本橋堀江町河岸にあった江戸うちわの問屋街が大火に見舞われます。焼け出された問屋が復旧の過程で目を着けたのが、竹の産地でもあり完成品の供給地としても実績のあった房州だったのです。多くの問屋が那古や船形周辺に移住しうちわ生産を開始。こうして「江戸うちわ」は「房州うちわ」になり、日本三大うちわに数えられるほどになったのです。

日用品から工芸品へ、房州うちわの華麗なる転身

こうして誕生した房州うちわは、昭和の始めごろには年間7~800万本もの生産量を誇るほどになりました。内職として携わっていた人はじつに1000人以上。うちわ作りは房州の生活に完全に溶けこんでいたといってもいいでしょう。
このように発展した房州うちわですが、次の転機は昭和40年代に訪れます。高度成長による扇風機、ガスコンロなどの普及です。これまで日用品としての確固たる地位を築いていた房州うちわも、その役割は次第にこれら工業製品に取って代わられることになったのです。

しかも、人件費の高騰もあって日用品としてのうちわは、より工程が簡単な平柄うちわに、さらにはポリプロピレン骨のうちわに席巻されてゆくことになります。うちわ工場はこぞって鉄工所へと姿を変え、現在では生産量は年間20~30万本ほどに落ち込んでいます。
そんななか、平成15年(2004)には、千葉県で初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に認定されました。日用品から工芸品へ。房州うちわは新しい魅力を手に入れることになったのです。

安房が誇る伝統的工芸品、房州うちわをいつまでも

房州うちわで使用される竹は「女竹(めたけ)」の一種で地元では「大名(だいみょう)」と呼ばれています。節と節の間が長く、しかも柔軟性に富んでいるのでうちわ作りにはぴったりの材料なのです。
生産の工程は全部で21。材料の竹を切り出すところから始まり、皮むき、磨き、水つけ、割竹(さきだけ)、もみ、などなど・・・。詳しくは下記房州うちわのホームページに譲りますが、とにかく完成までには細かい作業が延々と続きます。

現在これらの全工程を一人でこなせる房州うちわの職人さんはたった1人だけ。その唯一の職人、宇山さんを訪ねてみました。宇山さんはこの道60数年の大ベテラン。2011年秋には瑞宝単光章を受章されています。
宇山さんがこの道に入ったのは戦後まもなくのこと。その当時、房州うちわ産業は活況を呈しており、工程ごとの分業体制もしっかりできていたそうです。最初は骨に紙を貼る作業を専門的に行う工房で1年ほど過ごしたあと、全行程を一人で行えるよう修行したといいます。はじめのころは材料となる竹を確保できず、伊豆まで車で買い付けに行ったこともあるほどで、近隣の農家のおかみさんでうちわ作りの内職をやっていない人はいなかったそう。当時のうちわ作りはそれほど日常的な作業だったそうです。まだまだ房州うちわが元気だった時代から工房が次第に数を減らしていく様子を目の当たりにしてきた宇山さん。房州うちわとともに歩んできた人生といってもいいでしょう。

21の工程でいちばん難しいのは、強いて挙げるなら割竹(さきだけ)と窓作りとおっしゃいます。特に割竹は1本の竹をカミソリで48~64本に割いていくという緻密な作業。窓作りはうちわの形状に合わせて「弓」とよばれる細い竹を骨に編み付けます。いずれも熟練が必要な作業であり、職人になるには相応の修行期間が必要といいます。また、全行程を順に進めると、一日に4~5枚のうちわを作るので精一杯だそう。この数字だけみても、うちわ作りの大変さが伝わってきます。

現在、房州うちわの工房は、ここ宇山さんの工房も含めてわずか5軒。後継者不足もあり、このままでは近い将来、この房州が誇る伝統工芸が姿を消してしまうことになるかもしれません。房州うちわの伝統が途絶えないよう願う一方で、職業としてのうちわ作りは採算性の面からなかなか厳しいのも事実。特にゼロからこの世界に飛び込むには、相当な覚悟と金銭的な余裕が必要となりそうです。そんな状況を冷静に受け止める宇山さんは、今後房州うちわを存続させるためには、リタイア後の人材を積極的に活用すべきとおっしゃいます。安定的な収入があるうちに週末や余暇の時間を利用して修行を積み、リタイア後に趣味と実益を兼ねてうちわ作りにいそしむ。そういう形が定着すれば、どうにか存続するのではないかということでした。
現在、宇山さんの工房ではうちわ製作体験も受け付けています。工程のほんの一部を体験するだけですが、それでもうちわ作りのおもしろさ、大変さを垣間見ることができる貴重な機会といえるでしょう。こうした体験を通して皆さんの房州うちわへの理解が深まり、それがやがて、この技を後世に伝えるための劇的な転機のきっかけになるのかもしれません。

房州うちわ振興協議会のホームページへ!

コラム「日本三大うちわを比較」

 日本三大うちわというと、「京うちわ」と「丸亀うちわ」がありますが大きな特徴は柄の形状にあります。

房州うちわ=丸柄
細い竹の先端を細く割き紙などを貼ったもの。柄は丸く「窓」があります。

丸亀うちわ=平柄

太い竹をうちわの幅に割り、先を割いて穂を作り紙などを貼ったもの。古くからうちわ骨の生産地として発展し、丸柄うちわも作っていましたが、最終的に工程が簡単な平柄うちわが主流になりました。現在では全国のうちわ生産量の約90%ほどが丸亀で生産されています。

写真提供:香川県うちわ協同組合連合会

京うちわ=差し柄

細く割いた竹を並べたものに紙を貼り、それを挟み込むように竹の柄を差したもの。優美な絵柄が多く「みやこうちわ」とも呼ばれています。

写真提供:京都扇子団扇商工協同組合

房州うちわの知識を深める

房州うちわの発祥ともいえる船形地区には、房州うちわの展示スペースがあります。さまざまな図柄の房州うちわのほか、他の産地のうちわ、工程の解説、実際に使われていた道具類などが展示されており、房州うちわの理解をより深めることができます。大きさや材質の異なるうちわを手に取って使い心地を確かめることもできます。購入前に一度訪問してみてはいかがでしょうか?

安房の匠の織りなす風「房州うちわ」技の伝承展

場所: 若潮ホール 館山市船形297-71
電話0470-27-5504
時間: 9:00~12:00 (日曜9:00~17:00)
休館: 第3日曜、祝日
料金: 入場無料

うちわ作り体験

製作工程後半の「貼り」「断裁」「へり付」などを実際に体験することができます。所要時間は約2時間。料金は人数や内容にもよりますが1人1000円~。詳細は下記にお問い合わせください。

問合せ先

館山市経済観光部観光みなと課
千葉県館山市北条1145-1
電話0470-22-3362

南房総市商工観光部商工観光課
千葉県南房総市富浦町青木28番地
電話0470-33-1092

房州うちわ ここで買えます!

房州うちわは下記館山市観光協会窓口のほか、周辺の道の駅や製造元などで販売しています。

館山市観光協会案内窓口

場所: JR館山駅東口1F 館山市観光協会案内窓口
電話0470-22-2000
時間: 9:00~18:00 (年中無休)

道の駅など

道の駅とみうら琵琶倶楽部

道の駅「三芳村」鄙の里

海ほたる

コラム「うちわ作りに欠かせない女竹とは?」

 竹は日本の文化を語るうえで欠かせない素材ですが、ひと口に「竹」といっても、その種類はじつに豊富です。全世界では1200種以上もあるといわれ、それぞれの特性を生かしてさまざまな形で利用されています。日本で最も多く利用されているのはマダケ属のモウソウチクとマダケ。モウソウチクは節の間隔が短く、しなりも少ないため、構造材などに利用されるほか一般的な筍(たけのこ)の品種としても知られています。マダケは強くて弾力性があるので多くの工芸品に使われおり、また薄くてしなやかな皮は包装材にもよく利用されています。筍はえぐみが強いためあまり食用には向いていません。
女竹はメダケ属で、笹の一種に数えられます。しなやかで加工しやすいため、うちわ骨のほか横笛、傘の柄、筆軸などにも利用されています。房州うちわで使われるのは女竹のなかの「ダイミョウ」という品種。南房総以外では鹿児島で自生しているそうです。
(写真=南房総のダイミョウ)

なぜ坂東三十三観音の最後のお寺が那古寺なの?

那古寺 潮見台からのパノラマ
那古寺 潮見台からのパノラマ

 三十三観音巡礼という言葉、ご存知でしょうか? 四国八十八か所を巡るお遍路さんと同じく、古くから祈願や供養のために、33か所の観音様を参拝することをいいます。関東を代表する巡礼の道は、坂東三十三観音巡礼。鎌倉にある杉本寺から始まるこの巡礼の最後の寺は、ここ館山にある那古寺なのです。巡礼を終えると願いが叶うという言い伝えから、「結願寺(けちがんじ)」とも呼ばれています。
それでは、なぜこの由緒ある巡礼のフィナーレを飾るお寺が館山にあるのでしょうか? もちろん確たる証拠は歴史の中に封印されています。様々な言い伝え、資料からこの謎にどこまで近づくことができるのでしょうか。

(2012/03掲載:H)

観音巡礼とは何か?

巡礼というと、メッカなどの聖地巡礼を思い浮かべる方もいると思いますが、日本にも観音様を巡礼する習わしが古くから存在しました。まずは、この観音巡礼について基礎的な知識を押さえておきましょう。

仏様と観音さまの違い

「仏陀は、すべての人がそれぞれの立場で苦悩を解決するように指導した」
(『仏教』渡辺照宏著 岩波新書)

木造阿弥陀如来坐像 鎌倉時代 千葉県指定文化財
木造阿弥陀如来坐像 鎌倉時代 千葉県指定文化財

と述べられるように仏教とは、宗派や解釈によって多少の違いはあれど、大きく捉えると苦悩の原因を滅することで解脱することを説いた仏陀の教えであるといえます。仏陀は、あまねく修行を実践した末に菩提樹の下で瞑想をし、真理に到達するのですが、この時が「菩薩が仏陀となった」瞬間として伝えられているのです。

菩薩とはサンスクリット語の“bodhisattva”(ボーディサットヴァ)の略をいい、「仏陀となる資格をそなえたもの」という意味を持っています。これに対して仏陀(budda)とは“budh-”という動詞の過去分詞で「目覚めた人」という意味であり、「当時のインドにおいて、完全な境地に到達した人を指す」言葉であったそうです。

銅造千手観音菩薩立像 鎌倉時代  重要文化財 つまり、仏陀と菩薩という呼び名の違いは、真理に到達したもの(仏陀)と、真理に到達する以前の悟りを追求するもの(菩薩)を分けたことからきているんですね。その後この菩薩という観念は、しだいに変化発展し、「仏の悟りを求めるとともに、仏の慈悲行を実践し、一切衆生(生きとし生けるもの)を救おうと努める理想的人間像」を意味するようになりました。
そのため経典の中にも多くの菩薩が登場しますが、菩薩そのものに定義はなく、悟りを求めて人々を救おうと働きかけ、導くものすべてを菩薩と呼ぶことが出来るのです。

それでは、なぜ人々は仏陀と同じように「観音」菩薩を尊崇するようになったのでしょうか。

観世音経(尾部)
観世音経(尾部)

「『観音』とは、[法華経]観世音菩薩普門品(ふもんほん・観音経)に『苦を受けた衆生が一心にその名を称えれば、ただちにその音声を観じて解脱させる』と記された意味をとった訳語」であり、この音声によって人々を解脱に導く菩薩が「観音菩薩」です。
また、『観音経』の中で「観音はどのようにしてこの娑婆世界に遊行して教えを説くのか」と問われた仏陀は、「観音は救うべき相手に応じ姿を変えて説法する」として、仏身以下、王や僧尼や在家の信者から竜や夜叉まで三十三種類の姿を列挙しています。これが、「観音の三十三身」とよばれるもので、観音菩薩を理解するには非常に重要な点でしょう。

さて、このような経典上の定義を踏まえた上で、仏様と観音様は以下のように区別して尊崇されてきたと考えられます。

仏様:真理を把握し、悟りの境地に達したもの
観音様:仏様と衆生の間で、救うべき相手に従って悟りへ導くもの

繍字法華経普門品 中国元朝 至正21年(1361年) 千葉県指定文化財
繍字法華経普門品 中国元朝 至正21年(1361年) 千葉県指定文化財

仏様を目指して修業を積むのですが、この世界には様々な境遇や性格をもった人間が存在します。悟りに達することは個人内で完結することですが、仏様の慈悲は未だ苦の中に嘆く多くの人々を見捨てることなく、観音様を通して救済に導くのです。
こうしたことから、仏教経典成立後、チベットや中国、日本においては観音信仰が仏教の中心的存在として受容されることとなります。

日本における観音巡礼の始まり

花山天皇
花山天皇

巡礼の起源については諸説ありますが、一般的には伝説と史実とがそれぞれ紹介されています。
伝説によると、大和長谷寺の開山徳道上人が養老年間(717~723)に閻魔大王の勧めによって始め、多くの人々に伝えた所誰も信じなかったのでそのまま立ち消えとなっていました。やがて270年後、当時至尊の身にあった花山法王が自ら巡礼することによってこれを中興したことが始まりです。
しかしこの伝説は、史実の上ではつじつまが合わないことも多く、実際には近江三井寺の覚忠大僧正が、応保元年(1161)に近畿地方に散在している三十三か所の観音霊場を75日かけて巡ったということが、その創始ではないかと推測されています。
いずれにせよ、始まりは1000年前後に関西地方の観音霊場三十三か所を巡ることにあったわけです。なぜ三十三か所なのかといえば、上記観音菩薩での記述で触れたように、『観音経』の中に、観音様は三十三の変化(へんげ)をなして衆生を救済に導くという教えに基づいていることはもうおわかり頂けるでしょう。この巡礼コースは「西国三十三観音巡礼」として、現在でも多くの人々に親しまれています。

それでは、坂東三十三観音巡礼はどうでしょうか?

…実はこちらも成立の経過を明らかにする資料は見つかってないんですね。観音巡礼は謎に包まれています。しかし誰とも知らず、確たる宣言もなく、自然発生的に巡礼の道が定まっていったとすれば、これは逆に生活と密着した文化の息吹に溢れた生きる歴史といえるのではないでしょうか。

坂東三十三観音巡礼の最後のお寺が那古寺なのはなぜか

那古寺 観音堂
那古寺 観音堂

そこで今回は特別に、坂東の歴史や文化にお詳しい那古寺の現住職である石川良和(いしかわ りょうわ)さんに直接お話しをお聞きすることができたので、そのお話しをもとに坂東三十三観音巡礼と那古寺との関係について考察を進めていこうと思います。

武士や戦との深い関り

那古寺住職 石川良和さん
那古寺住職 石川良和さん

「まず、坂東の札所がどのように決まったのか定かな歴史書が存在しないことをお断りしておきます。とはいえ、歴史といえども、それは時の権力者による自らに有利な書き換えが多く行われた所産ですので、一概に文献が正しいともいえないわけです。ここで大事なのは、その歴史の背景ではないでしょうか。
日本における三十三観音巡礼はご存じの通り、西国から始まりました。奈良時代・平安時代を経て、東西の繋がりがより強まった頃、平氏源氏の争いが勃発しました。東国の武士は、大勢で西側諸国へ攻め入るのですが、どの時代も戦争とは望んでもない殺生の中で人間に深い傷を残すものです。
そんな中、東国の武士は西国での戦乱の中、西国三十三観音巡礼を知るわけです。ここで彼らは信仰や供養を越えた、遣る方ない心の行き場を見付けたのかもしれません。坂東は、そうした西国における戦乱を経験した武士を中心に起こりました。」
源頼朝による幕府成立

源頼朝
源頼朝

「中でも頼朝公は殊のほか信仰心の厚い武士として知られていますが、ここ那古寺は頼朝公が石橋山の合戦において平家に敗れたのち、7人の家来を引き連れて安房へ逃げ込んだ時に再起を祈願した寺だったんですね。
そのため戦に勝利し、鎌倉に武家政権を樹立した後には、観音様の御加護に感謝し、山上に本堂・三重塔・閻羅堂・鐘楼・地蔵堂・仁王門・阿弥陀堂の七基を建立しています。」

坂東札所三十三か所
坂東札所三十三か所

「こうして武士による政権が建てられると、もちろん彼らの都である鎌倉が中心地となり文化が育まれます。坂東観音霊場の分布を見て下さい。
鎌倉の杉本寺を1番札所として鎌倉内を回ったあと、鎌倉を中心にして時計周りに関東を一周していることがわかると思います。つまりご由緒ある寺が結ばれただけでなく、鎌倉に住む人々からみた巡礼コースであったと考えられます。

ところで、頼朝公の再起をご加護したお寺ということは後世の武士に非常に大きな影響をもったようです。那古寺を保護した武家はその後鎌倉公方の足利氏、里見氏と続きます。
つまり那古寺を保護することは、室町時代から戦国時代に至るまで、初代幕府を創立した源頼朝のこの地における正統な後継者であることを示す一つの指標として意義を持ったということです。里見氏は一族から住職を輩出するほどの厚い信仰を捧げています。」

那古寺歴代書上(部分) 天保8年(1837年)写
那古寺歴代書上(部分) 天保8年(1837年)写

「この点は巡礼地として非常に大事な意味を持つんですね。つまり、戦乱の絶えない当時において、札所が土地の強力な武家によって守られていなければ、容易に発願できないわけです。祈願や供養を目的としている巡礼者からは要所の関税も徴収してはならない程、巡礼は武士や庶民の生活に根ざしていましたので、巡礼地として認められることはこうした道中安全の側面とも密接に関っていました。」

補陀洛山那古寺

関東大震災前の那古寺と
関東大震災前の那古寺

「那古寺が最後の寺となっていることに、那古寺の山号である補陀洛が関係しているという説もあります。
補陀洛とはサンスクリット語の『ポタラカ』の音訳であり、観音さまが住まわれる浄土、信仰の到達地点として古代インドから信じられてきた場所を指します。南インドの海上に存在するとされた補陀洛浄土を求めて古来多くの人々が海を渡りました。」

那古寺 潮見台からの眺望
那古寺 潮見台からの眺望

「ここ那古寺は館山湾を一望できる海に面した場所にあり、なおかつ山号が補陀洛であることは観音信仰上の到達地点と深い関係があるでしょう。
今となってはあまり聞きなれない補陀洛という言葉ですが、チベットのポタラも補陀洛ですし、実は日光も、補陀洛を二荒(ふたあら)と表記した後、音読みの二荒(にこう)が日光になったと伝えられています。」

納経所
納経所

「鎌倉時代の人々は、念願の成就や親族の供養、そして何より戦乱のない世を祈りながら関東中を歩きました。神奈川から東京、埼玉、群馬、栃木、茨城を通って千葉に入り南端の那古寺にて33個目のご朱印が押印されます。その時、道中での出来事や自らの願いに対する思いや悩みが人それぞれの形でこみ上げるのではないでしょうか。
そして帽をとり、荷を下ろして、眼前に広がる館山湾を望んだのかと。多くの人は、そこから海路を渡って鎌倉に戻ります。海路より近づいて見える三浦半島は、さぞかし発願の頃とは変わって見えるのだと思います。
これが、800年もの間人々に親しまれてきた坂東三十三観音巡礼の道だったのですね。」

 鎌倉時代より始まった坂東三十三観音巡礼の道。1300kmともいわれる関東の道のりをこれまで幾人の人が歩き、どのような思いで那古寺に辿りついたのでしょうか。
住職の御話より、那古寺が坂東三十三観音巡礼の最後のお寺であることには様々な要因が重なっていることがわかりました。一つは、鎌倉と館山との立地上の関係性。海を隔てて対面しているこの二つの土地は、海路を使って多くの人々や文化の往来があったようです。こちらは現在旧安房博物館にて「中世の安房と鎌倉」というテーマで展示解説されておりますので、この時期に是非ご覧になってください。
また二つ目は、源頼朝による手厚い保護を受けた歴史的な背景。これ以降有力な武家が那古寺を保護することによって、巡礼者が常に守られてきたのですね。そして最後に、観音様が住まう場所としての補陀洛という山号。海に面した那古寺は、修業の到達地としての条件を十全に備えたお寺であったことがわかりました。
以上のご解説により、那古寺がなぜ最後のお寺なのか、この謎に極めて近くまで迫ることができたのではないかと思います。那古寺住職石川良和さん、ありがとうございました。

現代における観音巡礼とは

さて、謎についての考察が終わったところで、巡礼とは一体どういうものであるのか、折角の機会ですので住職にお聞きしてみました。

仁王門への坂を上がる住職
仁王門への坂を上がる住職

「そうですね。昔頼朝公は、自分の戦勝祈願を仏様に賭けるほど信仰をもっていたのですから、この点では多くの人々の考え方は変化しているのかもしれません。しかし、これほどまでに安全で便利な世の中にあって、忘れてはならない大切なことを思い出す場所、それがお寺なのだと思います。
時代は進化を遂げて、スピーディに仕事が行われ、合理的でないものは排除される傾向をもって発展してきたと考えられてきました。しかし、速く仕事を終えたからといって余暇が増すわけではない、実際には速く終えた分仕事が増えたのです。じっくり考えてもいない発言がメディアを飛び交って、人々の不安を煽りたて、常に誰かに急かされるように次から次へと情報が目の前を過ぎ去ります。」

多宝塔 宝暦11年(1761年)創建 県指定有形文化財
多宝塔 宝暦11年(1761年)創建 県指定有形文化財

「しかし、心や思考というのは本来ある程度の時間をかけて経験して実践することで熟成していくものです。例えば、これはよく例にだすことですが、ご飯を炊く時のこと。昔は、手首を目安に水を量り、湯気や吹きこぼしの音を聞いて、炊きあがる頃には良い香りがします。そして最後にお米を味わうのです。

これは単に今はスイッチでできるから便利になったのだ、ということにはなりません。ここで重要なのは、昔は否が応にも5感すべてを活用して生活が行われたということだと思います。心は人間の様々な感覚をもとにできていますので、5感を使うと自然に心がこもるようになります。こうして人と人との心の触れ合いが自然と成り立っていたのですね。」

那古寺 仁王門
那古寺 仁王門

「どんなに生活が便利になって速く物事がこなせるようになっても、心と思考は人間であることを越えられません。だから、人間らしくじっくりと考え、その根本にある『呼吸』を整えることが大切なのだと思います。
那古寺の門にもある仁王様は、『阿』(あ)と『吽』(うん)の形をして構えています。これを『阿吽の呼吸』というのはご存知ですね。つまりお寺は、汚れたものを吐き出して、きれいな新しい空気を目一杯吸いこむ場所だということです。」

那古寺 本坊
那古寺 本坊

「こうありたい、こうなってほしい、という願いや祈りも呼吸をもとに身体を活性化させることで実現に向かっていきます。人間にとって一番根本的なことを、じっくり自然に養って心を癒す場所、そんな場所がお寺であり、観音さまの名を称えることなのではないでしょうか。
そんなじっくりとした時間の中に心と思考が歩調を合わせ、当たり前であることにきっと感謝し、生かされてきて良かったなぁと、ふと感じられるのだと思うのです。」

現代、今までには考えられなかった事件や問題が数多く報道されています。現代の抱える諸問題の核心には何があるのか? こうした問いに対して、由緒ある那古寺のご住職ならではのお話を賜ったように思います。巡礼、というと歴史や宗教の中のものと捉えられやすいですが、そこで行われている内実に立ち入ってみれば、昔あって今はないもの、急激な変化の中で見失ってしまっていることに、ふと気づくのかもしれません。
昔の人は、巡礼や日々の参拝の中から「呼吸」という人間にとって根本的な生命活動やリズム、そうした活動から感じられる「生」を自然と知っていたのかもしれませんね。忙しい生活やたくさんの情報に囲まれる現代人は、なおさら意識してゆっくり考える時間をもうける必要のあることを、住職のお言葉から学びました。坂東三十三観音巡礼とともに、南房総には安房国札三十四箇所の巡礼もあります。何か願い事や悩み事、それぞれの思いにより発願した際は是非一度心を休めて、古の道を辿ってみてはいかがでしょうか。


「中世の安房と鎌倉-海で結ばれた信仰の道-」

「中世の安房と鎌倉-海で結ばれた信仰の道-」
「中世の安房と鎌倉-海で結ばれた信仰の道-」

今回の記事にも登場した海路における鎌倉と館山の関係ですが、館山市立博物館分館において開催されました。
房総半島南端の安房地域は様々な地域と海路でつながっておりましたが、特に鎌倉幕府の成立後中心地となった鎌倉との文化的な交流が盛んであったことに注目が集まっております。本企画では、共通した建築や仏像などにおける共通点を基に安房と鎌倉の繋がりを浮き彫りにしました。興味ある方は市立博物館分館まで。(下記は企画展開催時の概要です)

期間 2012年3月3日(土)~4月22日(日)
休館日:毎週月曜日(3月26日、4月2日、4月9日の月曜日は開館)
9:00~16:45(入館は16:30まで)
場所 館山市立博物館分館(“渚の駅”たてやま内)
観覧料 無料
問合せ先 館山市立博物館分館 0470-24-2402
HP http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?stoid=26429

なぜ館山という名前なの?

城山と富士山

千葉県館山市。房総半島の南端に位置する人口5万人足らずの町です。
市としての歴史は古く、千葉県では5番目。
何気なく使っている「館山」という名前ですが、
その由来をご存知でしょうか?
今回は館山という名前の由来と、市の名前になった背景を調べてみました。

(2012/03掲載:K)

千葉県で5番目、歴史ある館山市

千葉県の統計などを見ていると、館山市の名前がかなり上の方で登場することはご存知ですか? 千葉市、銚子市、市川市、船橋市に次いでの堂々の5番目。これは、市制が敷かれた順番なのです。つまり、千葉県では5番目に古い「市」ということになります。
こんな歴史ある館山市が発足したのは昭和14年(1939)のこと。那古町、船形町、館山北条町の3つの町が合併することで誕生しました。ここで4つの地名が出てきましたが、最終的に市の名前には「館山」が採用されたわけです。それはいったいなぜなのでしょう? それはこの町の歴史と大いに関係があるのです。

地名としての館山の誕生

八遺臣の墓

では館山という名の由来について少し追いかけてみましょう。館山とは現在の城山(根古屋山)そのものの名前でした。古来より山の上に領主の館が建っていたというのが由来で、館の山、つまり館山と。こうしてみると身も蓋もない答えですが、地名というのはこのような単純な由来が圧倒的に多いのです。
では山の上に館を構えた領主にはどんな人がいたのでしょう。古いところでは平安時代末期の「沼ノ平太」こと「平判官貞政」が挙げられます。沼ノ平太は現在の館山市沼出身の豪族で、保元の乱(1156)では房総の他の多くの豪族とともに後白河天皇方、つまり源義朝に従って戦ったという人物です。余談になりますが、この戦では皇室や源氏、平氏、藤原氏がそれぞれ2派に分かれて戦うことになりましたが、戦に負けた崇徳上皇についていた源為朝はこの後伊豆大島に配流され、のちに琉球に渡り初代琉球王になったとされています。
(参照=伊豆大島はなぜ近くて遠いの?

源為朝

その後、南房総にもゆかりの深い源頼朝が開いた鎌倉時代、さらには室町時代にかけて、この館山には多くの居館や城が築かれたようです。それでも館山は、時には歴史的に重要な役割を果たしながらも、しばらくは山の名前にすぎなかったのです。

里見の時代、城下町の建設

江戸時代の館山城

館山が町の名前になるのは戦国時代。戦国大名としてこの地を治めた里見氏が城を建設したことによります。
里見義頼(よしより)は現在の富浦にある岡本城を居城にしていましたが、時代の移り変わりに伴い、戦のための城よりも政治経済のための城の必要性を感じていました。群雄が割拠した時代から、豊臣秀吉治世の安定した時代へと移り変わったのです。そこで目を着けたのがこの「館山」でした。当時の館山にはすでに城があり、岡本城の支城として機能していました。しかし、この場所こそ、安房国を治めるには最適な立地条件を備えていたのです。

鶴谷八幡宮

館山湾内の高の島湊は古くから使われていた天然の良港であり、山のすぐ北側に隣接する北条郷は北から東方面への陸上交通路が集中する場所でした。つまり、陸上、海上の要衝だったのです。さらに里見氏の氏神である鶴谷八幡宮にも近く、南部には広大な穀倉地帯も広がっています。何よりも独立丘であるため、有事の際には立派な防衛拠点にもなりうるものでした。

 

 

妙音院
慈恩院

義頼は港の整備などに着手しますが、居城を移すには至らずまもなく病死。義康(よしやす)の時代になり移転が実現します。移転に際しては、上総国を召し上げられてしまったことで、それまで上総にいた家臣たちを受け入れるための敷地が早急に必要だったという事情もありました。天正16年(1588)から築城にとりかかり、2年半ののちに竣工。この新しい城を「館山城」と称しました。それまでの城は、現在の城山の部分を利用していただけにすぎませんでしたが、新しい城は城山を中心とした広い範囲に及びます。城山の南斜面には義康の居館、南東には重臣たちの屋敷群、南西には以前からの家臣の居住区が設けられていました。その外側には慈恩院や妙音院など里見家ゆかりの寺院が立ち並び、さらに外側には川や沼地、さらには人工の堀などで守られていたのです。
堀の外側には商人や職人たちを集めた城下町が建設され、これが少しずつ拡大していくことになります。

里見氏改易、江戸から明治維新へ

忠義御殿跡

豊臣秀吉の時代に館山城の基盤を築いた里見氏ですが、悲劇は思わぬところから訪れました。慶長19年(1614)、忠義(ただよし)は家康により改易を命ぜられ、安房国は没収。所有していた鹿島領の替地として倉吉へと移されたのです。館山城は江戸から送られた軍勢により破壊され、城を取り巻いていた堀もすべて埋められてしまいました。在城期間はわずか25年足らず。ここに170年続いた里見氏による安房支配は幕を閉じることになりました。

館山陣屋跡

里見氏改易後の館山は代官支配などが続き、その後この地に陣屋を築いた稲葉氏も無城大名でした。そのため、せっかく築かれた新しい町も「城下町」としては大きく発展することはなく、現在では城下町の特徴を示す痕跡がわずかに残るのみとなっています。かつての城下町は、真倉村(さなぐらむら)のうち、館山上町、館山中町、館山下町、館山楠見浦、館山新井浦、館山浜上須賀、館山岡上須賀という地名で残り、これらは明治になると周辺地区と一体化して館山町となっていったのです。
里見義康が初代藩主となった館山藩は忠義の改易によって廃藩となりましたが、のちの稲葉家の時代に再度復活を果たします。また、江戸時代には北条藩というものも存在し、屋代家(1638年~1712年)、水野家(1725~1827)がそれぞれ藩主を務めています。さらに幕末の元治元年(1864)には船形藩が立藩しましたが、明治元年(1868)には廃藩。わずか4年の治世でした。

廃藩置県、館山県から千葉県へ

明治2年(1869)、各大名の藩籍奉還により、館山藩は館山県に。同じ年、木更津県に合併され、明治6年にはさらに印旛県と合併して千葉県が誕生します。この際に新しく誕生したのが現在の館山市の主要部となる館山町、北条町、那古町、船形町の4町でした。
昭和8年(1933)には館山町と北条町が合併して館山北条町に。この際にも新しい町名について両町でさんざん議論されたそうですが、決着をみなかったため妥協案として2つの町名の連名とすることで落ち着いたようです。

城山公園から見た館山湾

そして昭和14年(1939)、那古と船形の2つの町を併合する形での合併となったのですが、ここで名前を巡る議論が再燃します。旧北条町の住民は「安房市」を主張し、旧館山町の住民は「館山市」を主張。お互い譲らない争いとなりました。そのころ欧州では第2次世界大戦が勃発し、旧満州国でノモンハン事件が起きるなど、世界は戦争へと向かっていた時代のこと。最終的に、館山湾という地名が海図に載っていること、館山海軍航空隊が存在することが決め手となり、ついに「館山市」で決着したそうです。
こうして館山市は千葉県で5番目の市として誕生しました。これまでの経緯からも、館山市という名前は里見氏が造った城下町が由来となっているのは間違いありません。その後昭和29年に安房郡西岬村、富崎村、豊房村、神戸村、九重村、館野村の6ヵ村を併合して現在の館山市となりましたが、この際には市の名前を巡っての大きな議論はなかったようです。

花と眺望、歴史に彩られた城山公園を歩く

八犬伝博物館

さて、館山市の名前の由来となった城山ですが、現在は山全体が城山公園として整備されています。山頂には天守閣を模した建物があり、現在は八犬伝博物館として『南総里見八犬伝』ゆかりの品々を展示しています。一般には館山城とよばれていますが、これは里見が築いた館山城と同時代に建てられた「丸岡城」を模したもの。館山城が天守閣をもっていたらこんな感じだったに違いないのですが、里見氏が建てた館山城は、実際には天守閣はなかったようです。当時の城の様子を示す資料はあまり残っていないのですが、現在の城山周辺には屋敷の跡や堀の跡など、里見時代の遺構があちこちに残っています。

義康御殿跡

また、城山頂上は館山湾を一望する展望台として知られるほか、梅、桜、つつじなど、花の名所としても親しまれています。城としての役割は早々に終えてしまいましたが、現在の館山を象徴する場所のひとつであることは間違いありません。

土橋

現在の城山の標高は72m。以前は84mほどあったのですが、第2次世界大戦中に高射砲の陣地として使用されたことがあり、その際に山頂が削られてしまいました。公園内には高射砲や機銃の台座後があちこちに残っています。

ガイドと巡る城山公園

ガイドサービス間もなく開始!

さて、いかがでしたでしょうか? 館山市の名前の由来にもなった城山公園は、このようにさまざまな歴史背景をもっています。館山城の遺構や戦争遺跡など、知識があると散策の楽しみ方はうんと広がるはずです。
現在「また旅倶楽部」というガイド集団が、城山公園を含めたガイドサービスの準備を着々と進めています。
内容が決まり次第、このページなどで情報を発信させていただきます。どうぞご期待ください!

なぜ館山は里見のまちなの?

里見という名前をご存知でしょうか?
江戸時代に活躍した曲亭馬琴(きょくていばきん)の小説、
『南総里見八犬伝』が有名ですが、
この物語のモデルになったのが実在した戦国大名、里見氏なのです。
館山の人が愛してやまない里見氏、
近頃、里見氏にまつわる話題がよく聞こえてくるようになりました。
今回は里見氏について、その歴史背景を少しおさらいしておきましょう。

(2012/04掲載:K)

10分でわかる! 里見氏の歴史

まずは里見氏とは何者なのか? その辺のお話から始めてみましょう。里見氏とは、簡単にいうと「戦国時代に安房国を治めた武将」です。房総の歴史の表舞台に華々しく登場してから江戸幕府によって倉吉に移されるまで、安房国を治めたのは170年間ほど。その間、お家騒動なども挟んで9人の当主が里見の歴史を紡いできました。今回はポイントとなる出来事をいくつか紹介することで、里見氏の概略をつかんでいただきたいと思います。あくまでも「ダイジェスト版」ということでご理解ください。

上野国から安房国へ ~ 安房里見氏の祖、義実(よしざね)

もともと里見氏は安房の出身という訳ではなく、そのルーツは上野国(こうずけのくに)、つまり今の群馬県にあります。鎌倉時代の始めごろに、この地を所領していた新田一族の一人が里見姓を名乗ったのが始まりとされています。それから200年ほどの間、里見氏は美濃国、陸奥国、常陸国など各地へと移住しましたが、そのなかの一人、安房国に移住したのが安房里見氏の初代とされている里見義実(よしざね)です。時は1400年代半ばごろ。室町時代のことです。
当時の日本は、足利家の将軍による治世下。京都に幕府が置かれ、関東には鎌倉公方足利成氏(かまくらくぼうあしかがしげうじ)が東の将軍的な役割として君臨していました。ところがこの足利成氏が関東ナンバー2の実力をもつ関東管領上杉氏(かんとうかんれいうえすぎし)と対立するようになると、関東地方は2つの勢力に分かれ、両者の間で覇権争いが繰り広げられたのです。その際、東京湾の制海権をめぐる抗争の舞台となったのが房総でした。この争いで足利成氏(しげうじ)方についた里見義実(よしざね)は安房国の国守としての権限が与えられました。
そのころ安房国には、水軍をもつ安西氏(あんざいし)や正木氏(まさきし)、神余氏(かなまりし)、丸氏(まるし)、東条氏(とうじょうし)などの武士がいましたが、義実は彼らを急速に従えます。そして安房国の主として、稲村城(いなむらじょう)を拠点に安房全域の支配へと乗り出したのです。
ちなみに、『南総里見発見伝』の舞台となったのはこの義実の時代です。このお話は江戸時代の作家、曲亭馬琴による完全なフィクション。混同される方も多いようですが、史実とは全く異なっているのでご注意ください。馬琴は一度も安房国を訪れることなくあのような壮大なストーリーを作りあげたといいますが、登場する地名などはかなり正確だったそうで、その取材力には感心するばかりです。

北条との40年戦争 ~ 武勇の豪傑義堯(よしたか)

16世紀に入ると足利氏と上杉氏の対立は収束し、代わって上杉氏の勢力圏に登場したのが小田原北条氏でした。鎌倉公方足利氏も、もはや権威だけの存在となってしまい、その権威は北条氏に巧みに利用されました。その結果、公方家内部で分裂が起こり、それが波及して関東周辺武士たちの家でも、同様にお家騒動が巻き起こります。このお家騒動は里見氏でも例外ではありませんでした。
義通(よしみち)から家督を継いだ義豊(よしとよ)は1533年に、叔父の里見実堯(さねたか)を殺害。これに危険を感じた実堯の子、義堯(よしたか)は、いったんは上総に引いて立てこもったものの、小田原北条氏の支援を頼りに反撃。義豊を安房から追い出すことに成功します。翌年、義豊を合戦で討ち取り、ここで分家筋だった義堯が里見家の家督を継ぐことになったのです。
この義堯は武勇の豪傑として知られ、安房から上総へと領土を拡大。稲村城から平群方面へ、さらには久留里城(君津市)へと城を移しました。これによって下総にも力が及びつつあった小田原北条氏との対立を生むことになり、この後40年間に渡り対立を深めていったのです。
今では、義実(よしざね)から義豊(よしとよ)までの時代を前期里見氏、義堯(よしたか)以降を後期里見氏の時代として区別していますが、前期里見氏の資料はかなり乏しく謎に包まれた部分も少なくありません。これは、この当主交代劇によって過去の歴史が隠滅、または改ざんされたためともいわれています。とはいえ、結果的にはこの内乱こそが里見氏の戦国武将としての独立性を確保することができた大きな要因となっており、里見の歴史を語るうえでは避けては通れない出来事といえます。

巧みな外交手腕で領土拡大 ~ 里見随一の知性派義頼(よしより)

上総に進出した義堯(よしたか)は、自身は久留里に居を構え、西には嫡子の義弘(よしひろ)を、さらに後方の守りとして岡本城に義弘の子、義頼(よしより)を配します。関東地方の勢力図は二転三転し、里見氏も上杉謙信と結んだかと思うと対立する武田信玄と組むなど、外交によって対北条氏対策を進めていきました。各地でしのぎを削る争いが繰り広げられましたが、義堯(よしたか)の死後、義弘(よしひろ)は、北条側からの度重なる和解申請を受け、1577年、ついに北条氏との長い諍いに終止符が打たれたのです。
義弘の没後は、跡を継ぐ予定だった義頼と、義弘の晩年の子である梅王丸(うめおうまる)との間に家督争いが勃発します。安房に強固な地盤を築いていた義頼(よしより)は上総に退いた梅王丸を捕らえ、その支援者も一掃。安房支配を確たるものにするばかりか、上総までを直接的な支配下に置くことに成功しました。
義頼はのちの時代に書かれた軍記ものに登場することが少ない武将の一人ですが、それは義頼が武力のみに頼ることをせず、外交戦略を巧みに利用したところが大きかったためです。1585年、関白になった豊臣秀吉は諸大名に向けて、武力での紛争解決を禁止する「惣無事令(そうぶじれい)」を通達。義頼はその意を受けて豊臣政権に服属する姿勢を示しました。世は群雄が割拠した時代から、天下人の時代へと移り変わったのです。
義頼は岡本城を居城としていましたが、時代の移り変わりを敏感に感じ取り、交易のための城の必要性を感じていました。そこで目をつけたのが館山城の麓にある高の島湊(たかのしまみなと)でした。港の開発を商人の岩崎氏に任せるなど、交易の拡大にも力を入れるようになったのです。

岡本城から館山城へ ~ 館山の基礎を築いた義康(よしやす)

義頼の死後、家督を継いだのは義康(よしやす)です。豊臣秀吉の権力はさらに強大になり、1590年には服属を拒んだ小田原北条氏は滅ぼされてしまいます。この北条攻めの戦いに義康も秀吉方として参加したのですが、ここで一つ、大きなミスを犯しました。小田原に合流する際、秀吉の命令を受けないままに三浦半島で北条軍と一戦を交えてしまったのです。それは北条氏が押さえる鎌倉を取り戻すための戦、つまりは北条攻めの一環であったにも関わらず「惣無事令(そうぶじれい)」違反を問われることになってしまいました。その結果、上総の領地は没収され、江戸に入った徳川家康に与えられてしまいます。これにより、上総から安房へと大勢の家臣たちが引き上げてくることになり、新しい城の整備が必要となりました。そこで急遽整備されたのが館山城です。
義康は館山城や城下町の整備を進める一方で秀吉のもとへもたびたび上洛。朝鮮出兵では徳川家康の指揮下で九州の名護屋(佐賀県)にまで出陣したこともあります。秀吉の臣下として九万石の大名となると、秀吉没後はいちはやく家康に服属。関ヶ原の戦いでは宇都宮にも出陣しています。その結果、鹿島郡で3万石の恩賞を与えられ、安房の9万石と合わせると計12万石を擁する関東最大の外様大名となったのです。

改易で倉吉へ ~ 悲劇の当主、忠義(ただよし)

世が安定してくると、豊臣家の下で働いた大名たちの存在が徳川家を脅かすようになります。そうした大名たちは幕府から難癖をつけられては取つぶしにあい、その難癖はついに里見にも及んだのです。
義康が31歳という若さで没すると家督はわずか10歳の梅鶴丸(うめつるまる)に譲られました。元服は将軍秀忠(ひでただ)の眼前で行われ、忠の一字をもらい忠義と名乗ります。側近たちは徳川幕府とのつながりを密にするため、政略結婚を試みました。まず、家康の娘、亀姫の子松平忠政(まつだいらただまさ)には義康の妹を嫁がせ、また、忠義は幕府の重鎮大久保忠隣(おおくぼただちか)の娘を娶ったのです。ところが、これが裏目に出ました。1614年四月、幕閣内での政争に敗れた大久保氏に連座するかたちで、忠義は安房の領地を没収され、さらに鹿島の替地として伯耆国(ほうきのくに、今の倉吉)に移されたのです。
ここに至って170年に及ぶ里見氏支配の歴史は終焉を迎えました。国替えとはいっても、伯耆国でもほとんど領地を与えてもらえず、1622年、忠義は29歳の若さにして失意のうちに没してしまいました。忠義の跡継ぎはいないとされており、ここに里見家の歴史は幕を下ろすことになったのです。

NHKの大河ドラマ化に向けて

さて、170年間に及ぶ里見の歴史のダイジェスト版、いかがだったでしょうか? 実際にはもっと複雑にさまざまな因果関係がからみあう壮大なストーリーなのですが、かいつまむと大体こんな感じになります。「関東最大の外様大名」というのが里見氏の繁栄を示す最大の賛辞になろうかと思うのですが、信長、秀吉、家康と天下争いを繰り広げた数多の大名たちと比べてしまうと、どうしても知名度は低く、南房総の外の人では知らない人も多いのではないかと思います。
じつは館山ではそんな状況を打破しようと頑張っている方々がいます。「里見氏大河ドラマ化実行委員会」がそれで、会長は里見の末裔であり里見流日本舞踊の先生でもある里見香華(さとみこうけ)さん。今回は、NHK大河ドラマ化に向けての意気込みを、里見会長と事務局の鈴木恵弘(よしひろ)さんにお聞きしました。
里見会長の胸に大河ドラマ化の思いが湧き上がったのはかれこれ20年も前のことといいます。里見氏やその関係者の末裔が集まる「全国里見一族交流会」の席でたまたま隣り合わせた方に語ったのが最初だそうです。その方は、その突然の思い付きに賛同してくださり、以来会長の心の中で思いを温めてこられたそうです。
その思いがようやく実を結んだのは2010年8月のこと。館山で里見氏大河ドラマ化実行委員会が組織され、倉吉、群馬県の里見ゆかりの地の皆さんと連携しての活動が始まりました。ドラマ放映のターゲットは2014年。この年は忠義が倉吉に移されてから400年、また曲亭馬琴による『南総里見八犬伝』刊行200年にあたる節目の年。2011年からは署名運動も始まりました。
「全国的には里見というと『里見八犬伝』のほうが知名度は高く、里見の正史は知らない方が多いと思います。今回の活動は、安房の国を治めた里見氏の正史に目を向けてもらいたいという思いと同時に、館山がロケ地になることで大きな経済効果も望めます」

実際、これまでに放映された大河ドラマのロケ地には莫大な経済効果がもたらされています。これは館山市にとっても確かに魅力的な話に違いありません。
現在、皆さんが協力してくれた署名は集計中で、今後はこの署名を携えて正式にNHKに要望を出すことになるそうです。正直なところ、2014年のドラマ化は難しいかもしれません。それでも「この活動を続けることで、少しでも里見氏の歴史に興味を持っていただければ」と里見会長。まだまだ始まったばかりですが、この活動によって里見氏の名前は地域外の人たちにも少しずつでも浸透していくことでしょう。そして大河ドラマ化が決定すれば、館山は大きく変わることになるのかもしれません。

国の史跡に指定された「里見氏城跡」

最近注目されている里見氏のもう一つの話題は、稲村城が国の史跡に指定されたことです。今年の1月、「里見氏城跡」として指定されたもので、南房総市の岡本城とセットでの指定。千葉県では27番目の国指定の史跡になります。
稲村城は、里見義通(よしみち)が居城とした城。つまり群雄が割拠した時代に築かれたもので、義豊(よしとよ)から義堯(よしたか)への当主交代劇の舞台となった城です。義堯は平群方面に居城を移したため、この稲村城は廃城になりました。城は丘陵を利用した山城で、東西約600m、南北約300m。標高64mの山頂の主郭からは館山湾や市街地を一望できます。
岡本城は、義頼が居城とした城で、義康が館山城に移るまで本城として利用されました。いずれも当時の姿をよく留めており、戦国時代の房総の山城の構造や変遷を知る重要な手がかりを伝えてくれています。整備はまだまだこれからですが、里見氏の歴史を知る貴重な資料としてこの地域の名所となっていくはずです。
里見氏が残してくれた大きな遺産。今後も里見氏は、館山にとって大きな存在でありつづけることでしょう。

なぜ館山は平和学習がさかんなの?

赤山地下壕

平和学習とはその名の通り、戦争から平和を学ぶことをいいます。日本は原爆が実際に兵器として使われた国でもあり、沖縄・広島・長崎を筆頭に世界中から多くの人々が平和学習に訪れます。そんななか、なぜ館山?なんて思う方いらっしゃいませんか? 館山というと鮨や海水浴といった穏やかなイメージが強いので、なんとなく戦争と結び付きづらいかもしれません。しかし、実はここ館山は、関東圏では最大級の平和を学ぶまちでも、あったのです。

(2012/05掲載:H)

戦争遺跡について

戦争遺跡は、数ある遺跡の中で最も身近で私たちの生活に直接関係している歴史の遺産であるにも関わらず、その残酷さ、虚しさ、そして何より未解決の問題が山積みであることから日常顧みられることはあまりありません。戦争にまつわる映画や本、芸術作品等を見聞きしたことがある人ならば、きっと遣る方ない思いにひしがれた経験があるはず。これを受け止めることは辛いものです。
それ故に、自分の住む町が戦時中どのような状況にあったのかということを学校ではなんとなく習った気もするけれども、積極的にはあまり知らない方も多いのではないかと思います。筆者もその一人で、大きな戦禍を被った土地についてはある程度の知識がありましたが、実家周辺の足元にある歴史を知らないばかりか、千葉県といった広い範囲でも一体何が起こっていたのか調べたこともありませんでした。
しかし現実には、当時の日本は「総力戦」で立ち臨んでいたわけですから、日本中どこを探してみても戦争と関わりのない土地が見つからないほどに、「戦跡」だらけなのだと想像できます。そのほとんどは新しい日本づくりの下に解体されてしまったと考えられますが、中でも後世に伝えるべく地域の方々から守られてきた戦跡は、今でもひっそりとその影を残しているのです。

館山の戦跡

それでは、ここ館山にはどんな戦跡が残っているのでしょうか。主な戦跡を簡単に見てみましょう。

赤山地下壕

館山海軍航空隊 赤山地下壕跡

お問い合わせ:豊津ホール
〒294-0033 千葉県館山市宮城192-1
TEL/FAX 0470-24-1911
海上自衛隊館山航空基地隊の南側にある、総長2kmにもなる巨大な地下壕。現存する資料がほとんどないため、いつ頃から何のために作られたのかは諸説あり確定していないが、全国的にみても珍しい航空要塞機能をもっている。2005年に館山市指定史跡。

掩体壕

掩体壕(えんたいごう)

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
「掩体壕」は、アメリカ軍の飛行機に爆弾を落とされても飛行機を守ることができるよう、全体が分厚いコンクリートで固められた飛行機の倉庫です。館山海軍航空隊と洲ノ埼海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕がつくられましたが、現在残っているのは、この宮城のものと、香(こうやつ)に残っている大型の掩体壕の2つだけとなります。戦時中は、この中に零戦などが安置されていました。

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕

お問い合わせ:安房文化遺産フォーラム
〒294-0045
千葉県館山市北条1721-1
TEL&FAX: 0470-22-8271

現在、福祉施設敷地内の小高い山の中腹にある地下壕の内部にある戦時中の抵抗拠点の一つとして作られた施設。本土決戦に備えた作戦命令によって1944年12月には完成していたとみられている。平和学習の団体のみ事前予約にて有料ガイドが可能です。

東京湾要塞洲崎砲台跡

東京湾要塞洲崎砲台跡

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
日本の近代化がはじまった明治時代。当時の政府にとって、外国の軍艦の侵入から首都東京を守ることが重要なことでした。
そのため、当時の陸軍は、東京湾岸にたくさんの砲台を築きます。こうして東京湾要塞が完成し、砲台のネットワークがつくられ、館山市内には、洲崎第1砲台(1932年完成)、洲崎第2砲台(1927年完成)、北側の富浦町に大房岬砲台(1932年完成)がつくられました。

館山海軍砲術学校跡

館山海軍砲術学校跡

お問い合わせ:館山市教育委員会生涯学習課
〒294-0045 千葉県館山市北条740-1
TEL/0470-22-3698 FAX/0470-22-6560
館山海軍砲術学校は、1941(昭和16年)6月、陸上における対空射撃や、陸戦隊関係の戦術を教育する機関として、今の館山市佐野に開(ひら)かれました。太平洋諸島での上陸作戦を実践訓練するにふさわしい自然の砂丘ということや館山航空基地もすぐ近くにあるということで房総半島最南端の館山市布良・相浜から伊戸の間にある平砂浦海岸が、演習場に選ばれました。

軍都館山の軍事施設
軍都館山の軍事施設

また、昨年の大震災でも第一線で救助や物資輸送などに向かった海上自衛隊館山航空基地隊ですが、この基地は本庁舎をみても1930年に「館山海軍航空隊」として誕生した軍の施設が基になって出来ているものです。現在の敷地を見てみると、大規模な埋め立てによって造成された航空基地であったことがおわかり頂けるでしょう。
こうして注目してみると、館山には物々しい戦跡が数多く点在していることに気付きます。この他にも、東京湾要塞の砲台群や全国で唯一の兵器整備養成学校「洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)」、水上特攻艇「震洋」や人間魚雷「回天」を配備していたという第1特攻戦隊の基地跡など、明らかに他の戦跡地帯を、その規模においても数においても凌いでいることがわかるんですね。それでは、館山は戦時中一体どんな場所だったのでしょうか?

館山の歴史から戦争と平和をみる

NPO法人安房文化遺産フォーラム
NPO法人安房文化遺産フォーラム

館山を含む安房地域の文化財や戦跡を発見・調査し保全に取り組んできた「NPO法人安房文化遺産フォーラム」という団体があります。代表の愛沢伸雄さんは安房地域の高校社会科の教員をなされていましたが、1990年代から「地域まるごと博物館」として足元にある安房の歴史を掘り起こしての授業実践や文化財の保全活動を行ってきました。阪神淡路大震災後法律が整備され、全国で様々なNPOが立ち上がったのと同時期に「NPO法人安房文化遺産フォーラム」を立ち上げ、現在では地域の方々と協働して年間200組以上の団体を受け入れてガイドツアーを行っています。

高校生への座学 夕日海岸ホテルにて
高校生への座学 夕日海岸ホテルにて

このガイドツアーの特徴は、ガイドの内容を座学としてしっかり学んだ上で実際に見て、触れてみる体験がセットになっていることです。多くの文化財や戦跡は、それがなぜ貴重なものであるかを前もって知っていない場合、サラッと通り過ぎてしまうほど自然に存在していて、なおかつデリケートな史実が含まれています。またこうした文化財は民有地に存在するものも多く、普段は非公開の場合が多々あります。そんな時、彼らの座学付きのガイドであることを条件に立ち入りや公開を許可されている場所もあるんですね。
今回館山の歴史から戦争と平和を理解するために、筆者も事務局長池田恵美子さんの座学に参加させて頂きました。その内容と直接質問させて頂いた膨大な情報から抽出して館山の歴史を追ってみたいと思います。

館山に戦跡が多いのはなぜか?

他の記事でも時おり触れておりますが、館山は明治期にはマグロ延縄漁にてマグロの日本最大級の漁獲量を誇り、海水浴や転地療養の場としても栄えていました。この館山に大きな変化を与えた出来事は、1919年の鉄道開通と、1923年の関東大震災であるそうです。
鉄道の開通によって海上交通の要衝としての機能が陸上による物資輸送へ移って行きます。その直後に関東大震災が関東圏を襲いますが、なんと館山は99%の家屋が全半壊や焼失し、町全体を一から建てなおさねばならない状況に迫られていました。また一方、この地震によって地層が隆起して、海岸線が遠浅となり、高ノ島には歩いて渡れるようになったのです。

館山海軍航空基地建設
館山海軍航空基地建設(たてやまフィールドミュージアムより)

折しも世の中は第一次世界大戦終結直後で、戦勝国としての日本は軍事力の増強に力を注ぎこんでいました。そこで目が付けられたのが、この高ノ島までの隆起した沿岸地帯です。鏡ケ浦と呼ばれるほどに穏やかな館山湾は、水上飛行機の離着陸にも極めて適しており、また地図で見れば明らかなとおり、館山は東京湾の入口であり、首都防衛にとって非常に重要な位置にあるのです。
そこで1930年に埋め立てて航空基地になったのが、現海上自衛隊館山航空基地隊である館山海軍航空隊。基地は「陸の空母」と呼ばれる実戦航空隊でした。もちろんこれ以前の日清・日露戦争中にも、東京湾要塞として西岬地区に洲崎第1・2砲台が建てられるなど、着々と軍事施設が完成していきます。

終戦までの道のり

翌1931年いわゆる「十五年戦争」の始まりとなる満州事変が勃発して以降、日本は対外膨張戦略に従って国際規約を逸脱した単独行動をとって軍備を増強していきます。この間館山海軍航空隊では、パイロットの育成や航空機の開発を急速に進め、1937年からはじまる日中戦争では海を渡って長距離飛行の末にいわゆる「渡洋爆撃」を成功させその技術の高性能さを世界に知らしめます。
しかし、そもそもの資源に限りがあった日本はこの頃から強行手段をとって全国から物資を集めるようになり、1938年には「国家総動員法」が発令されることになります。

第一条
「戦時に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及び物的資源を統制する」

花づくり禁止令

 房総館山は、温暖で日照量の多い気候を生かして、冬から初夏にかけて花卉栽培が盛んで、多くの人々が花を見に訪れます。「日本の道100選」に選ばれている房総フラワーラインや花海街道など、花にまつわる話題には尽きることがありません。
ただ、実は戦時中、この花栽培を揺るがす出来事が起きていたことをご存知でしょうか。上記の国家総動員法を受けて、地方長官が農作物の種類を指定して作付けすることができる「臨時農地管理令」によって、物資に困窮していた日本は花栽培を禁止して多くはイモ栽培に変更を命じたのです。
これは非常に厳重な法令だったそうで、「政策の徹底化を図り、花の苗や種を焼却するだけでなく、作っている花は全部抜き取りを強制され…畑の隅に種苗用にと少しでも残せば、国家を裏切る行為として『非国民』呼ばわりされた」(『足もとの地域から世界を見る』愛沢伸雄著)ということです。
しかし、当時の花農家さん達はこのお触れに屈せず、花の種を捨てるにも種が保存される形で、または誰も足を踏み入れることのない山奥に隠すなどして抵抗をし、貴重な種苗を守り抜きました。今日の花栽培はそうした人々の勇気から成り立っていることを忘れてはならないでしょう。

その他、ウミホタルの軍事的利用、カジメやアラメなどの海藻が火薬原料として利用されたことなど、NPO法人安房文化遺産フォーラムによって調査し発掘された当時館山に関連する事例は数知れません。

沖縄に続く本土決戦は館山だった

 「ひめゆりの塔」や「硫黄島の戦い」に代表される映画や小説、戯曲に至るまで多くの作品に伝えられている沖縄戦は、それらが戦争の末期の惨状を伝えることもあり、誰もが一度は見聞きしている衝撃的な史実として今も私たちに戦争の意味を語りかけます。
ただこの戦いが戦争の末期として語られるのは後世の特権で、戦時中はもちろんその後の展開も想定しながら戦局が進んでいました。もはや本土防衛上及び戦争継続のために必要不可欠である「絶対防衛圏」はことごとく破られ、直前に押し寄せた敵軍の蹂躙する様を感じた当時の人々はいかようであったのでしょうか。

洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕の見学
洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」壕見学

ところで、房総半島は太平洋に対して突き出た玄関口として地理的な役割を歴史的に担ってきたことをご存知でしょうか。重ねて首都に最も近い上陸地点でもあり、当時は沖縄戦後の本土上陸は房総半島が狙われるのが明らかであると考えられていたんですね。
そのため、沖縄に10万の兵が送り込まれた後、安房にはなんと総勢7万の兵が配備されていたのです。戦況不利とみた1945年の4月には館山の那古に「東京湾要塞司令本部」が置かれ、いよいよ本土決戦が待ち構えられました。皇居や大本営を、最も海から遠い場として選定された「松代」に移す計画も急速に進められ、もはや最後の一兵卒まで立ち向かう覚悟で沖縄戦線以後の計画が進められていたとのことです。
そして8月、広島・長崎と二つの原爆が落とされ、15日に玉音放送が伝えられることにより、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏を認めます。

館山にて本土で唯一の「直接軍政」

 日本での終戦は天皇の玉音放送が発せられた8月15日として知られていますが、国際的には終戦が確定したのは9月2日です。これは東京湾上の戦艦ミズーリ号にて降伏文書調印式が正式に行われた日であり、マッカーサーの三布告が突き付けられたことはほとんど知られていませんが、内容は以下のとおりです。

&#9312一切の権限が連合国軍最高司令官の権力の下に置かれること。
&#9313裁判権の一切を連合国軍が所持すること
&#9314米軍の通貨を円と共に法定通貨とすること

進駐軍(写真提供=安房文化遺産フォーラム
進駐軍(写真提供=安房文化遺産フォーラム)

すごい内容ですよね。今となっては考えもつかない圧政がしかれそうな状況でしたが、当時の外務官の尽力によってこの布告は撤回されました。しかし、その翌日、米軍は館山に上陸し、上記項目のように一切の権限を譲渡するように指令を出し、館山を「直接軍政」の配下にいれるのです。突然の直接軍政に驚いた日本政府は、またも米占領軍総司令部(GHQ)に対して公約から外れていることを懸命に訴えます。訴えは聞き入れられ軍政は解除されますが、沖縄以外の本土で唯一、ここ館山に直接軍政がしかれていたことは後に分かった衝撃的な事実でした。
実はこのことは、愛沢先生が安房高に所蔵されていた当時の日誌から発見したことです。全国に散在していたほとんどの戦争資料は敗戦が決まった瞬間に焼き捨てられるなどして、闇に葬られたため、戦時中の日本の姿は今も謎に包まれていることが多いといいます。しかし、この直接軍政の事例は地域に残るさまざまな記録を多角的に検証した結果、未解明の問題や知られざる真実が浮き彫りになった証左として、とても意義深い発見といえるのではないでしょうか。

館山での平和学習

このように、館山は震災による壊滅的な倒壊や、地殻変動による隆起、そして太平洋に突き出た立地など諸々の要因が重なって、首都防衛の最前線として戦時中に重要な戦略的役割をまかされた町だったのです。これによって、現在発見されているだけでも約50か所の戦跡があり、しかもその内の18か所が「近代史を理解するうえで欠くことができない遺跡」であるAランクとして評価されるほどの価値をもっています。

NPO法人安房文化遺産フォーラム理事長 愛沢伸雄さん
NPO法人安房文化遺産フォーラム理事長 愛沢伸雄さん

もちろんこれらの戦跡は戦後当初から存在していたわけではありません。この記事にて紹介した「NPO法人安房文化遺産フォーラム」など地域の団体によって学術的な調査を受けて発掘され、地域住民との合意のもとで保全されて初めて、教育の題材として用いられる戦争遺跡として指定されることになります。こうした保全活動は、一見文化財なのだから当たり前のことだと思われがちですが、最初に述べたとおり戦争という負のイメージのつきまとう遺跡の性格上、地域住民によって意識的に守られ語り継がれない限りは難しく、実は一筋縄にはいかない労苦を伴います。
事務局長の池田さんは、高校生対象の座学の中で、「戦争が未だ世界から無くならないことには、兵器などの製造によって利益を上げる軍需産業が大きなシェアをもっているからなんです。だから私たちは、地域を活性化する意味でも戦争のない世の中を創っていくためにも平和産業(ピースツーリズム)を実現したいと思っています」と語られていました。つまり、戦跡は途方もなく重くのしかかる負の遺産であったとしても、それをもとにして実体験として学び合う中で、明るい未来を作り上げようという立場で戦跡を見つめていく、こうした営みが地域を活性化させ、はては平和な未来を実現させていく最も現実的な手段なのだということです。NPOでは今後、「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書など、全国的にみても非常に評価の高い戦跡についての調査報告を行っている館山市などと連携して、より一層「平和産業(ピースツーリズム)」が地域に貢献できるよう取り組んでいきたいとの展望をお話頂きました。
館山は、もちろん海や山の幸に恵まれ自然の中で身体を癒すことのできる観光地ですが、そんな館山が同時に関東最大の平和学習の町だということが広く知られていくのはまだまだこれからというところ。みなさんもぜひ一度、館山の戦跡ガイドツアーを体験なさってみてください。そしてまた、自分の地域にも館山に見たような驚きの発見があるはず!国民みんなの遺産を、それぞれの地域が独自に保全していくことができるようになるといいですね。

NPO法人安房文化遺産フォーラム

〒294-0045
千葉県館山市北条1721-1
TEL&FAX: 0470-22-8271
http://bunka-isan.awa.jp/

なぜ神余(かなまり)では伝統行事が復活したの?

神余かっこ舞

神余(かなまり)という土地をご存知でしょうか?
神が余ると書いて神余、なんだかご利益がありそうな名前ですね。
館山市南東部、周囲を山に囲まれた盆地にあり、のどかな里山の風景が広がる土地です。
歴史的には平安時代以降安房の歴史に重大な影響を与えた神余氏が治めた場所であり、古くから伝わる「かっこ舞」という伝統行事は現在もしっかりと受け継がれています。
今回はこの「かっこ舞」をはじめ、地域全体にスポットを当てて、神余の魅力を探ります。

(2012/07掲載:K)

神が余っている? 神余はこんなところ

日吉神社からの風景

神余地区は館山市の南東部を占める広い地域で、南は南房総市白浜に接しています。周囲を山に囲まれた盆地の中央に巴川(ともえがわ)が流れ、その両脇に小さな田畑が階段状に続いており、のどかな里山の風景が広がっています。
そもそも神が余るという名前からして何か神話の香りがしてきそうな気もしますが、じつはこの名前はもう少し単純なところから来ているようです。その昔、1つの郷(ごう)は戸数が50戸までと定められており、50を超えると分割され新たな郷が作られました。この郷は余戸(あまりべ)などと呼ばれますが、神余は神戸郷(かんべごう)という地区の余戸であると伝えられています。(『神余百年史』より)
平安時代の終わりごろから、土豪である神余氏(かなまりし)が活躍し、現神余小学校の北東側にはその城跡も残っています。この神余氏は「金丸氏(かなまるし)」とも呼ばれますが、坂上田村麻呂の関東平定に功を為した藤原宗光がこの土地を褒賞として与えられ、「金丸氏」(または「神余氏」)を名乗るようになったとされています。(『安房志』より)。

神余城跡(左奥の丘)

この地で有力な土豪となった金丸氏は平安末期の保元の乱(1156)では安西氏、丸氏といった安房の有力豪族たちとともに後白河天皇方で戦ったこともあり、また伊豆での戦に敗れた源頼朝が安房に落のびた際には頼朝を助け、鎌倉幕府開府にもひと役買っています。応永24年(1417)、家臣山下定兼の謀反により金丸氏は滅び、金丸氏の領土を奪って山下郡とした山下氏も嘉吉元年(1441)に安西、丸氏によって滅ぼされました。その際、安西家に身を寄せていた里見義実が活躍したことで白浜の城を譲り受け、これから170年間にわたって里見の時代を築いていきます。
ちなみに、この山下定兼の謀反劇は滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも登場し、ここから物語が始まります。つまり、神余こそが八犬伝が生まれた地ともいえる訳です。いずれにしても、歴史の古い土地であることは間違いありません。(『金丸家累代鑑』より)

かっこ舞は雨乞い祭り

神余かっこ舞

さてこんな神余地区には200年以上の歴史を誇る伝統芸能が残されています。それが日吉神社の例祭で奉納される「かっこ舞」です。市の無形文化財にも登録されているこの伝統芸能、いったいどのようなものなのでしょう。
かっこ舞とは、東日本に広く伝わる雨乞いの踊りです。安房地方でも江戸時代より盛んに行われていましたが、明治から昭和にかけて少しずつ姿を消し、昭和43年時点で34ヵ所が残っていたという記録があります。それが現在では神余を含む6ヵ所で奉納されているにすぎません。館山市だけでいうと、ここ神余と青柳の2ヵ所でのみ、この「かっこ舞」を見ることができます。

ささら

神余のかっこ舞は、獅子頭をつけた3人の男子、花笠をかぶって「ささら」をすりならす4人の女子、大太鼓1人、しめ縄持ち2人、笛師数人によって演じられます。演目は、大注連張り、踊り込み、中獅子舞、親獅子舞、三匹舞、きり舞、二匹舞、三匹舞の8部構成。2匹の雄(親獅子、中獅子)が1匹の雌(雌獅子)を奪い合い、最後に仲直りするというストーリーになっています。ちなみに3匹の獅子のうち歯が黒いのが雌で、「ささら」をする音は蛙の鳴き声や風に揺れる竹の音を、花笠から垂れる5色の紙は雨だれを示し、太鼓は雷鳴、笛は風の音とされています。また、「かっこ」は「羯鼓」と書かれますが、これは獅子が腰に下げた小さな太鼓のことで、かっこ舞の呼称はここから来ています。

獅子頭

かっこ舞が奉納されるのは毎年7月19日と20日に行われる日吉神社の例祭です。今年も2日間にわたって開催され、19日午後は日吉神社の境内で、20日には町内7ヵ所を練り歩き順に舞ったのち、最後にもう一度日吉神社境内にて奉納されます。

かっこ舞の復活、保存活動で知名度アップ

昭和22年ごろのかっこ舞

以前は安房地域だけでも数多く奉納されていた「かっこ舞」が徐々に姿を消してしまったのは、時代の流れを考えると仕方がないのかもしれません。神余のかっこ舞もこれまでに何度か中断の憂き目に遭い、戦後の昭和25年からしばらく途絶えていました。それを、昭和49年に地元高校生有志による団体「あすなろ会」が復活させ、現在へと受け継がれてきました。今では地元の人たちからなる「神余かっこ舞保存会」が積極的な保存活動を展開し、地域が誇る伝統行事を将来につなごうと、日々努力をしています。この保存会は多くの地域住民が会員となっており、地域の祭礼以外にも発表の場を増やしています。

あすなろ会のメンバー(市の広報誌より)

たとえば今年でいえば、第5回安房の伝統芸能祭り(2月26日)、第14回あわ夢まつり(6月3日)などのイベントに参加したほか、5月3日には明治神宮春の大祭でも奉納しました。また、今年の10月には千葉県南総文化ホールで開催される「第54回関東ブロック民俗芸能大会」にも「洲崎のミノコオドリ」とともに千葉県の代表として出演することが決定しています。
地元での定期的な舞や笛の練習に加え、祭礼以外でも目にすることが多くなった神余のかっこ舞。保存活動の現状を保存会の会長と事務局長さんに伺ってみました。

神余かっこ舞

保存会の会員は地域の人たちで、会員数は300名ほど。現在のような積極的な活動を展開できるのも地域の人たちの理解があってこその結果だといいます。舞の踊り手は「あすなろ会」という地元高校生の団体で、今年の会員数は11名。高校1年生から練習に参加し、神社の奉納やそのほかのイベントで舞を披露します。年によっては「あすなろ会」の現役高校生だけでは踊り手の数が足りないこともあり、その場合はあすなろ会OBも踊りに加わることもあります。
地域の少子化は確実に進んでいるとのことですが、子供たちは活動を通じて小学生ごろからかっこ舞に興味を持つようになり、地域外で発表するようになったことが担い手の自信と誇りにもつながっており、今のところ後継者不足は特に心配はしていないということでした。
神余は他の地域に比べると地域全体がよくまとまっており、さまざまな事柄に対して全員が一丸となって取り組んでいます。どうやら、こうした土地柄も、伝統芸能を将来につなげるのに役立っているようです。今年の祭礼は7月19日と20日。まだご覧になったことがない方は、一度神余の日吉神社に足を運んでみてはいかがでしょうか。

見どころもりだくさん、神余の里山風景を歩く

神余地区はこの「かっこ舞」のほか、里山ウォークの舞台としても人気が出そうな気配です。今年の冬には日本エコウォーク環境貢献推進機構(JECO)主催によるウォークツアーが実施されたほか、例祭当日には、以前にも紹介したことがある「また旅倶楽部」による歴史ウォークツアーも開催されます。当日申込みも可能ですので、お時間がある方はぜひご参加を。
今回はこれらツアーのコースに組み込まれるものを中心に、神余に点在する歴史遺産を少しだけ紹介させていただきます。

神余城跡(かなまりじょうせき)

如意輪観音

平安時代末期から鎌倉時代までこの地を治めた金丸氏の城。天守台があった山頂は曲輪(くるわ)になっており、周囲に土塁が築かれています。入り口の墓地には元禄6年(1693)の如意輪観音があり、16人の女性の名があることから、十九夜・二十夜・二十一夜などの月待ち供養として建てられ、安産や子育ての無事を願ったものとされています。金丸氏の館は現神余小学校敷地にあったようです。

日吉神社(ひよしじんじゃ)

日吉神社

旧豊房村の村社。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。804年に金丸氏によって創建されました。階段を上りきった先にある拝殿前の境内でかっこ舞が奉納されます。

弘法井戸(こうぼういど)

弘法井戸

川にある塩水の出る井戸。塩井戸とも呼ばれ、県の民俗文化財に指定されています。808年11月、この地を訪れた弘法大師が貧しい農家に食物を乞うた際、塩気のない小豆粥でもてなされました。これに同情した弘法大師は小川のほとりに杖を突きたて、この塩井戸を噴出させたといわれています。この塩水は天然ガスを含んだもので飲料としては利用できません。井戸の上流に架かる塩井戸橋は、館山では珍しい石積みのアーチ橋です。

山下城跡(やましたじょうせき)

金丸氏の家臣だった山下氏が、金丸氏を滅ぼした後に居館を築いた場所。高さ50mほどの丘で、山頂付近には広々とした郭があり、そこに館があったと思われます。

 

神余里味発見伝ウォーキング

神余里味発見伝ウォーキング

祭礼当日に開催されるガイド付きウォーキングツアー。「また旅倶楽部」の深くて軽妙なトークとともに神余の歴史に触れてみてください。祭礼では神社で奉納される「かっこ舞」や神輿の準備の様子も見学できます。

日時:7月19日(木)10:00集合(集合場所:神余小学校前臨時駐車場 ※目印に「神余里味発見伝」の幟旗があります)
行程:臨時駐車場~弘法井戸(県指定民俗文化財)~山下城跡周辺~神余城跡~日吉神社(昼食・かっこ舞奉納13:00~見学,大人御輿渡御15:00~)
御輿担ぎ出し後解散(15:30頃)
参加費:700円 地元食材を使ったお菓子(試作品)付き。受付にて集金します
申込・問合せ先:また旅倶楽部 電話0470-28-5086
主催 神余里味発見伝協議会 後援 館山市

また、また旅倶楽部では定期的に館山市のウォーキングツアーを開催予定です。神余のツアーも開催される予定ですので、今回都合がつかない方はぜひチェックしてみてください。

なぜ館山には名工の彫刻が多いの?

小網寺 向拝の龍

祭りを彩る山車(だし)や神輿(みこし)。
町を練り歩く勇壮な姿は館山の夏の風物詩にもなっています。
じっくりと眺めてみると、いずれにも手の込んだ彫刻が施されていることにお気付きでしょう。
これらの彫刻の多くは「後藤流」と呼ばれる一派の作品たち。
今回は後藤流の名を世に知らしめた宮彫師、後藤義光について調べてみました。

(2012/07掲載:K)

安房で名を馳せた後藤流の系譜

後藤義光の系譜(稲垣祥三氏作成、『久留里の社寺』より)

「安房後藤流」「房州後藤流」などともよばれる一派の元祖となったのは、千倉に生まれ育った後藤利兵衛橘義光(ごとうりへいたちばなよしみつ、以下初代義光)。江戸末期から明治期にかけて活躍した宮彫師(みやほりし)で、石彫りの武田石翁、波の彫刻で名を轟かせた武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)と並び「安房の三名工」のひとりに数えられる人です。ダイナミックな表現を得意とし、躍動感あふれる龍の彫刻をいくつも残しています。
この初代義光は多くの門人を育てたことでも知られ、二代目義光となった長男も含めると16人もの弟子を育てたことになります。直系は五代目まで続きますが、門人やそのまた門人も後藤を名乗るものが多く、この一派を総称して後藤流とよばれます。門人や二代目以降については別の機会にゆずるとして、今回は初代義光に絞って紹介したいと思います。

後藤流の祖、初代後藤利兵衛橘義光(ごとうりへいたちばなよしみつ)

初代義光は文化12年(1815)、北朝夷村(現在の南房総市千倉)の宮大工の家に生まれました。幼名を若松といいます。千倉の愛宕神社には14歳のころの作品が残されていますが、それを見る限り幼少期より才能豊かな少年だったことが伺えます。23歳で江戸京橋の宮彫師、後藤三次郎恒俊(ごとうさんじろうつねとし、以下恒俊)の門人となりました。この恒俊は安房でも多くの彫刻を手掛けていますが、鴨川市の誕生寺祖師堂の仕事に取り掛かっている際に、若き初代義光が仕事場を訪れ、それをきっかけに恒俊の門人になることを決めたという話も伝わっています。

千倉・川口の神輿に刻まれた銘

宮彫師となった初代義光は、最初は主に相模の国で活躍します。彼の名を世に知らしめたのは、今の横須賀市にある西叶神社の再建の際に手がけた向拝、本殿の彫刻でした。このころから「義光」を名乗るようになり、ここから後藤義光の系譜が始まります。
42歳になった初代義光は、鎌倉から生まれ故郷の北朝夷村に戻り、安房を中心に活躍するようになります。同時に多くの門人も育成しますが、なかでも幸吉郎義信、利三郎義久、庄三郎忠明、喜三郎義信の4人は特に評価が高く、後に「四天王」とよばれることになります。

初代義光の墓

安房に拠点を移した初代義光は、45歳で手がけた千倉の円蔵院(えんぞういん)をはじめ、次々と仕事をこなしていきます。寺社の彫刻はもちろん、山車や神輿、また、個人宅の欄間なども数多く手がけました。初代義光の特徴は、その作品にしっかりと自分の銘を入れるということ。そのおかげで、初代義光の作品は後生特定しやすくなっています。
こうして最後まで安房に多くの作品を残した初代義光は明治35年に生涯の幕を閉じました。齢88歳、米寿の祝いの直後だったといいます。江戸から明治に名を刻んだこの名工は、現在は千倉の西養寺の墓に静かに眠っています。

初代義光の作品をめぐる

鶴谷八幡宮『百態の龍』

このように名声を博した初代義光のダイナミックな彫刻たち。館山周辺ではどこで見られるのでしょうか?
まずアクセスしやすいのが「やわたんまち」の舞台としても知られる鶴谷八幡宮です。向拝の天井に施された『百態の龍』が初代義光49歳の作となっています。ただし、一人で全てを手がけたわけではなく、実際は、55枚のうち十数枚は他の彫師の手によるものとされています。

 

小網寺

次に出野尾(いでのお)にある小網寺。この向拝の龍は初代義光の傑作のひとつに挙げられるほど繊細です。明治25年といいますから78歳の作品になります。

ほかには、館山市内の寺社では
観音寺・本堂(78歳、館山市南条)
光明院・向拝(53歳、館山市波左間)
風早不動尊・向拝(78歳、館山市岡田)
観音院・向拝・欄間(81歳・87歳、館山市西長田)
などがあります。

 

祭りの見方が変わる? 山車・神輿は彫刻に注目

船形地区、大塚の山車

上に挙げた寺社の彫刻はいつでも目にすることができますが、初代義光の彫刻は各地の山車や神輿にも見ることができます。ところが、これらの山車、神輿は、普段はしっかりと保管されており一般の人の目に触れることはまずありません。見るチャンスは年に何回かのお祭りの期間中のみ。しかも、練り歩いている最中は彫刻の前に提灯などが下がるうえ、激しく動いているのでゆっくり鑑賞することはまず不可能です。
彫刻鑑賞の最大のチャンスは、祭りの準備に取り掛かる直前でしょうか。準備のスケジュールは地区の人などから事前に入手しておく必要があります。

那古地区、寺赤組の山車

これまでは彫刻については、地区の人たちでさえもあまり注目していなかったようですが、最近では彫刻が見直されるようになったこともあり、地区の人などみなさんの意識も高まってきているようです。たとえば、以前は昼間から提灯を下げていた山車も、今では明かりが必要になった際にのみ下げる地区も増えてきています。こうすることで、練り歩いている間や、休憩している時にもゆっくりと鑑賞できるようになりました。
館山市の祭礼で山車、神輿に初代義光の作品が見られるのは次のとおりです。ここに挙がっていないものも、その多くは門人たちの手によるものです。祭の際には各地区の彫刻に注目してみるのも面白いかもしれません。

※下記祭礼の日付は2012年のもの。館山のまつり以外は年によって変更になります。

長須賀地区祭礼(7月14日、15日)

長須賀 熊野神社・神輿
長須賀 熊野神社・神輿

長須賀 熊野神社・神輿
2日にわたる祭礼の1日目が神輿のお浜出。彫刻は太田道灌と山吹の里など。初代義光79歳の作。

那古のまつり(7月21日、22日)

寺赤組・山車
寺赤組・山車

寺赤組・山車
初代義光の遺作とも伝わる最晩年の作。館山市の有形文化財に指定されています。

船形のまつり(7月28日、29日)

大塚地区・山車
大塚地区・山車

大塚地区・山車
総けやき造りで安房地域では最大級。柱に施された昇り降り龍も必見です。初代義光86歳の作。

館山のまつり(8月1日、2日)

上真倉 神明神社・神輿
上真倉 神明神社・神輿

上真倉 神明神社・神輿
初代義光82歳の作。左右一面に鴉天狗の彫刻が施されています。

青柳 日枝神社・神輿
青柳 日枝神社・神輿

青柳 日枝神社・神輿
漆塗りの大神輿。楠正成や太田道灌など、彫刻は初代義光84歳の作。

やわたんまち(9月15日、16日)

南町 蛭子神社・山車
南町 蛭子神社・山車

南町 蛭子神社・山車
赤と黒の漆塗の山車。彫刻のモチーフは浦島太郎。初代義光82歳の作。

 

少し先の話になりますが、2015年は初代義光の生誕200年となる節目の年にあたります。それにちなんで、上で紹介した初代義光が手がけた6台の山車・神輿が一堂に集まるまつりが計画されています。これまでになかった機会だけに楽しみですね。

 

安房の三名工、あとの二人は?

せっかくなので、安房の三名工について補足しておきます。上で述べたように、あとの2名は石彫りの武田石翁と、波の彫刻で名を馳せた武志伊八郎信由(以下、初代伊八)です。三名工というと同じ時代に生きた人のようにも思えますが、実際にはこの3人それぞれ少しずつ活躍した年代が違います。特に初代伊八は初代義光に比べると随分年長で、同時代に彫師として活躍したわけではありません。

武志伊八郎信由(初代伊八)
(たけしいはちろうのぶよし)

宝暦元年(1751)~文政7年(1824)
鴨川出身の彫刻家。波の表現を得意とし、「波の伊八」との異名をもちます。その名声は関西にまでとどろき、「東に行ったら波を彫るな、伊八がいるから恥をかくぞ」と、他の同業者からも一目置かれる存在でした。その表現は葛飾北斎にも影響を与えたとされ、『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、いすみ市行元寺(ぎょうがんじ)の欄間彫刻に構図が酷似しています。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

伊八は江戸の嶋村系の彫師で、伊八の名は5代まで続きました。
余談ですが、フランスの作曲家ドビュッシーの傑作のひとつ、交響詩『海(La Mer)』のスコア表紙にこの『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が使用されています。

行元寺のサイトへ

武田石翁(たけだせきおう)

安永8年(1779)~安政5年(1858)
旧三芳村本織に生まれ、本名は鎌田周治。幼いころより細工が得意で13歳で名工、小滝勘蔵に弟子入りしました。のちに小滝家に婿養子に入ります。40歳ごろより石翁を名乗り、石工よりもより芸術的な石彫に精を出し一時江戸で活動していたこともありました。多くの石仏や狛犬、宝塔などを手掛けましたが、なかでも得意としたのは黒ろう石の精密な彫刻で、特に晩年に多くの傑作を残しています

※後藤流の話は館山市で社寺彫刻などを手掛ける稲垣祥三さんにおききました。
※彫刻などの画像は南総祭礼研究会に提供いただきました。

なぜ館山は鎌倉と縁が深いの?

鎌倉 鶴岡八幡宮

源頼朝。
ご存知のとおり鎌倉幕府を開いた人です。
彼の登場を境に公家から武家へと政治の中心が移り、その後の日本は明治に入るまで武家中心の時代を迎えることになります。
鎌倉を舞台に独自の武家文化が花開いた時代。
その中心は鎌倉にありましたが、海を隔てた安房地域も、鎌倉の一体文化圏の一部として強く関わりをもつことになるのです。
頼朝ゆかりの地から鎌倉仏教文化の伝播まで、
安房と鎌倉の関係は思った以上に深いものでした。

(2012/08掲載:K)

貴公子頼朝の誕生

源頼朝

古都鎌倉。日本でも指折りの観光地であり、世界遺産登録に向けて動きはじめたことで改めて注目が集まっています。由緒ある寺社が無数に点在し、古いものと新しいものが混在する独特の空気感が人気ですが、鎌倉を語る際に避けては通れないのが鎌倉幕府の開祖、源頼朝です。まずは彼の素性について少々触れておきましょう。
平安時代の末期、頼朝は源義朝(よしとも)の三男として誕生します。この義朝という人物、京で活躍した河内源氏の流れをくみますが、当時の河内源氏は内紛によって凋落し不遇な時代を過ごしていました。それが東国に下向した義朝が周辺の豪族をまとめあげたことで関東での地盤を固め、一大勢力を築いたのです。源氏の「貴公子」として京の都で育った幼い頼朝は、貴族社会の一員として成長します。
義朝は保元の乱(1156)では平清盛とともに後白河天皇方につき勝利を得るものの、のちの平治の乱(1159)では平清盛に惨敗。敗れた源氏一派は東国へと敗走し、義朝は逃亡先で殺害されてしまいます。この戦が初陣だった14歳の頼朝は敗走の途中に一行とはぐれ、平家の追手に捕らえられました。本来であればここで頼朝の命は終わっていてもおかしくないのですが、奇跡的に殺されることだけは免れ、その代わり伊豆に配流されてしまいます。この戦いの後、世は平家一門の時代となり、頼朝は伊豆の地で20年の歳月を過ごします。

頼朝挙兵、石橋山の合戦!

石橋山古戦場(神奈川県小田原市)

伊豆に配流された頼朝は、この間に伊豆の豪族北条時政(ときまさ)の娘、政子との婚姻を結び、長女を儲けています。婚姻後は時政の館にも出入りしていることからも、配流中の生活はそれほど窮屈なものではなく、実際はかなり自由度が高かったことがうかがえます。
そのころの日本は、1179年の平氏の軍事クーデター(治承三年の政変)により後白河法皇が幽閉され、平氏が政治の実権を完全に掌握していました。軍事力を背景に政治を牛耳った平氏ですが、そのあまりの横暴ぶりに周辺の、特に関東一円の武士たちの不満はつのるばかり。そんな状況のなか、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に向けて平氏討伐の令旨(りょうじ)を出します。当の以仁王は、事前に計画を知ることになった平氏に討たれましたが、頼朝は慎重を期してしばらくは様子を見ていました。やがて平氏による源氏討伐の動きが出たところで、ようやく挙兵を決意します。これには舅の北条時政はじめ多くの周辺武士たちが従い、三浦半島一円に勢力を持っていた三浦氏も合流する手はずになっていました。

源頼朝船出の浜(神奈川県真鶴町岩海岸)

ところが、頼朝挙兵の動きを察知した平氏の動きは予想以上に早く、頼りにしていた三浦氏と合流する前に伊豆の石橋山で合戦となります。態勢の整わない頼朝軍はここで惨敗。山中をさまよったのち、父義朝とも縁が深かった安房へと敗走することになります。1180年8月のことでした。

頼朝、安房で再起を誓う!

源頼朝上陸地(鋸南町竜島)

伊豆真鶴崎から船で安房に向かった頼朝は、8月29日に猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸します。この時に頼朝に従っていたのは土肥実平(どいさねひら)などほんの僅かでしたが、ここから頼朝の破竹の快進撃が始まるのです。まず、上総の上総広常(かずさひろつね)と下総の千葉常胤(ちばつねたね)といった、関東で特に力のある豪族へと使者を送り支持を取り付けます。安房の有力豪族である安西景益(あんざいかげます)や伊豆ではぐれた武士たちとも合流を果たし、勢力を拡大しながら房総半島を北上、鎌倉をめざしました。

土肥実平像(神奈川県湯河原町JR湯河原駅前)
土肥実平像(神奈川県湯河原町JR湯河原駅前)

この際に頼朝が立ち寄ったとされる場所は、安房には無数に残っています。たとえば洲崎神社や那古寺へは戦勝祈願で訪れていますし、三芳にある平松城は安房を出発するまで頼朝が拠点とした安西景益の屋敷跡といわれています。これらの話は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記述によるものですが、『義経記』では最初に館山の洲崎に上陸したことになっています。

 

洲崎神社

ともあれ、こうして東国の豪族たちに支持された頼朝は勢力を拡大しながらその年の10月6日、ついに鎌倉入りを果たします。石橋山での敗戦からわずか40日という快挙、それは頼朝に従った東国の豪族たちの力があってこそのことでした。むしろ、力のなかった頼朝が、さまざまな理由で利害の一致する豪族たちに担がれた感も強く、これらの東国の豪族たちは鎌倉幕府成立後も有力御家人として繁栄することになります。
山に囲まれた狭い鎌倉の土地を選んだのは、父義朝はじめ一族にゆかりの深い土地だったため。頼朝は、まずは鶴岡八幡宮を源氏の氏神として街の中心に据え、ここを基盤に鎌倉の街づくりを進めていきます。

 

鎌倉時代の仏教文化

金沢称名寺(神奈川県横浜市)
金沢称名寺(神奈川県横浜市)

こうして瞬く間に時の人となった頼朝は、その勢いのままに平氏を滅ぼし、弟義経を討ち、そして1185年には「守護」「地頭」の任命権を朝廷から得たことで、つまり政治の実権を完全に掌握したことで実質的に鎌倉幕府が成立します。1192年には征夷大将軍に任ぜられ、ここに鎌倉幕府が完成しました。この鎌倉時代というのは日本で初めての武家政権であり、武力を背景にした政治形態です。そういう意味では血なまぐさい時代だったともいえます。権力者たちは魂の拠り所を求めたこともあってか、この時代には新しい仏教が発展することになります。ひとつは真言律宗であり、もうひとつは臨済宗(禅宗)でした。

建長寺(神奈川県鎌倉市)

真言律宗といえば鎌倉の極楽寺を開いた忍制(にんせい)が東国一円に広めたことで知られ、横浜市にある金沢称名寺も真言律宗の寺院です。臨済宗は中国(宋)に渡った栄西が持ち帰った禅宗の一派で、特に武家政権に重用されました。鎌倉には建長寺や円覚寺をはじめとする「鎌倉五山」とよばれる臨済宗の寺院が次々に建立されました。こうして幕府の庇護を受けて誕生した寺社が、安房との間に深い文化交流をもたらしたのです。

安房と鎌倉の仏教文化交流

小網寺 審海上人の密教法具

安房と鎌倉の間で交流が活発だった背景には、鎌倉の寺社が安房で所領の経営をしていたことが挙げられます。たとえば円覚寺は現在の館山市西長田に、称名寺は鋸南町下佐久間周辺に、極楽寺は館山市宝貝周辺に所領をもっていたという記録が残っています。
仏教交流を裏付けるものとしては、館山市の萱野遺跡から出土した瓦があります。この瓦には三鱗・花菱文様が刻まれていますが、この文様は鶴岡八幡宮や建長寺、極楽寺といった鎌倉幕府と関わりの深かった鎌倉の寺社に限定して出土するものです。

小網寺梵鐘

また、館山市にある小網寺にも鎌倉と縁の深い品々が残っています。ひとつは称名寺を開いた審海上人の陰刻がある密教法具。来歴は不明ですが、称名寺と安房の交流を裏付けるもののひとつといえます。もうひとつは物部国光(もののべくにみつ)が手掛けた梵鐘です。

円覚寺梵鐘(神奈川県鎌倉市、国宝)

国光は当代随一の鋳物師として知られますが、称名寺や円覚寺の梵鐘も手掛けていることから、幕府と深い関係をもつ鋳物師であると考えられています。このことからも小網寺と鎌倉の結びつきの強さが伺いしれます。ちなみにこの小網寺の梵鐘は国の重要文化財に指定されています。

 

千手院やぐら群(館山市安東)

そしてもうひとつ重要なものに、近年房総で大量に発見された「やぐら」があります。やぐらとは中世の武士や僧侶階級の納骨所あるいは供養施設として造られたもので、山腹を方形にくりぬき壁は垂直、床や天井は水平に造られています。また、床面には納骨穴が掘られその上には五輪塔などの供養塔が安置されています。鎌倉市だけでもその数2000とも3000ともいわれていますが、きちんとした調査は行われておらず実数は把握できていません。

浄光明寺網引地蔵やぐら(神奈川県鎌倉市)

このやぐら文化は、これまでは鎌倉を中心とした地域独特のものとされてきましたが、1992年から96年にかけての調査により、房総にもかなりの数のやぐらが存在することが確認されました。房総全体では500基以上、館山市だけでも100基以上もあり、安房地域では館山市の九重地区、南房総市の丸山、富浦、三芳地区に数多く分布することがわかっています。なかでも館山市安東の千手院やぐら群では内部に数々の石造物が安置されています。これらの、やぐらの密集地域は鎌倉の寺社領とほぼ重なっており、このことからもやぐら文化は鎌倉から持ち込まれたものであることが容易に想像できると同時に、安房と鎌倉の仏教文化交流を裏付ける根拠にもなっています。

海で結ばれた2つの土地

このように鎌倉時代の安房と鎌倉は仏教文化を軸にした交流が盛んに行われていました。安房は鎌倉文化圏であるといってもよいほど関係は密であり、その背景には武士階級のつながりがあります。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、そもそも伊豆や三浦、さらには安房を含めた房総の豪族の後押しによって天下が取れた訳ですから、幕府そのものが安房に強い地盤を持っていたともいえます。また、東京湾の海上交通も仏教文化の交流には欠かせない要素のひとつでした。石橋山の合戦に敗れた頼朝が船で安房に落ちのびた例を出すまでもなく、安房と鎌倉の間は海路を使うことで陸路よりもはるかに短い時間で往来できたのです。
安房と鎌倉、つい「海で隔てられている」と考えてしまいますが、逆に「海で直接つながっている」と考えてみてはいかがでしょうか。里見水軍が活躍した戦国時代も、江戸に向けて東京湾を船が往来した江戸時代も、安房と鎌倉はもっともっと交流があったに違いありません。
陸路の移動があたり前となった現在では両者の間には直接的な文化交流も経済的な関わりも希薄に見えます。ところが、海路を意識したうでで改めて地図に目をやると、その関係はまるで違ったものに見えてきます。安房と鎌倉、さらには三浦半島や伊豆半島まで、海で直接つながったこれらの地域のつながりは、今後ますます増えてゆくことでしょう。

安房に新名所?! 7観音とやぐらめぐり

上述のように、安房には鎌倉にゆかりのある寺がいくつもあります。そのうち7つの観音様が、鎌倉ゆかりの7観音として注目を浴びつつあります。また、上で紹介した千手院やぐらも、整備が進んでいます。安房における鎌倉探し。鎌倉に興味をお持ちの方は、ぜひ一度安房の地にも足を運んでみてください。安房を通して鎌倉を見ることで、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。

※7観音めぐりについては現在調整中です。詳しいことがわかりましたら追って発表させていただきます。