千葉県館山市。房総半島の南端に位置する人口5万人足らずの町です。
市としての歴史は古く、千葉県では5番目。
何気なく使っている「館山」という名前ですが、
その由来をご存知でしょうか?
今回は館山という名前の由来と、市の名前になった背景を調べてみました。
(2012/03掲載:K)
千葉県で5番目、歴史ある館山市
千葉県の統計などを見ていると、館山市の名前がかなり上の方で登場することはご存知ですか? 千葉市、銚子市、市川市、船橋市に次いでの堂々の5番目。これは、市制が敷かれた順番なのです。つまり、千葉県では5番目に古い「市」ということになります。
こんな歴史ある館山市が発足したのは昭和14年(1939)のこと。那古町、船形町、館山北条町の3つの町が合併することで誕生しました。ここで4つの地名が出てきましたが、最終的に市の名前には「館山」が採用されたわけです。それはいったいなぜなのでしょう? それはこの町の歴史と大いに関係があるのです。
地名としての館山の誕生
では館山という名の由来について少し追いかけてみましょう。館山とは現在の城山(根古屋山)そのものの名前でした。古来より山の上に領主の館が建っていたというのが由来で、館の山、つまり館山と。こうしてみると身も蓋もない答えですが、地名というのはこのような単純な由来が圧倒的に多いのです。
では山の上に館を構えた領主にはどんな人がいたのでしょう。古いところでは平安時代末期の「沼ノ平太」こと「平判官貞政」が挙げられます。沼ノ平太は現在の館山市沼出身の豪族で、保元の乱(1156)では房総の他の多くの豪族とともに後白河天皇方、つまり源義朝に従って戦ったという人物です。余談になりますが、この戦では皇室や源氏、平氏、藤原氏がそれぞれ2派に分かれて戦うことになりましたが、戦に負けた崇徳上皇についていた源為朝はこの後伊豆大島に配流され、のちに琉球に渡り初代琉球王になったとされています。
(参照=伊豆大島はなぜ近くて遠いの?)
その後、南房総にもゆかりの深い源頼朝が開いた鎌倉時代、さらには室町時代にかけて、この館山には多くの居館や城が築かれたようです。それでも館山は、時には歴史的に重要な役割を果たしながらも、しばらくは山の名前にすぎなかったのです。
里見の時代、城下町の建設
館山が町の名前になるのは戦国時代。戦国大名としてこの地を治めた里見氏が城を建設したことによります。
里見義頼(よしより)は現在の富浦にある岡本城を居城にしていましたが、時代の移り変わりに伴い、戦のための城よりも政治経済のための城の必要性を感じていました。群雄が割拠した時代から、豊臣秀吉治世の安定した時代へと移り変わったのです。そこで目を着けたのがこの「館山」でした。当時の館山にはすでに城があり、岡本城の支城として機能していました。しかし、この場所こそ、安房国を治めるには最適な立地条件を備えていたのです。
館山湾内の高の島湊は古くから使われていた天然の良港であり、山のすぐ北側に隣接する北条郷は北から東方面への陸上交通路が集中する場所でした。つまり、陸上、海上の要衝だったのです。さらに里見氏の氏神である鶴谷八幡宮にも近く、南部には広大な穀倉地帯も広がっています。何よりも独立丘であるため、有事の際には立派な防衛拠点にもなりうるものでした。
義頼は港の整備などに着手しますが、居城を移すには至らずまもなく病死。義康(よしやす)の時代になり移転が実現します。移転に際しては、上総国を召し上げられてしまったことで、それまで上総にいた家臣たちを受け入れるための敷地が早急に必要だったという事情もありました。天正16年(1588)から築城にとりかかり、2年半ののちに竣工。この新しい城を「館山城」と称しました。それまでの城は、現在の城山の部分を利用していただけにすぎませんでしたが、新しい城は城山を中心とした広い範囲に及びます。城山の南斜面には義康の居館、南東には重臣たちの屋敷群、南西には以前からの家臣の居住区が設けられていました。その外側には慈恩院や妙音院など里見家ゆかりの寺院が立ち並び、さらに外側には川や沼地、さらには人工の堀などで守られていたのです。
堀の外側には商人や職人たちを集めた城下町が建設され、これが少しずつ拡大していくことになります。
里見氏改易、江戸から明治維新へ
豊臣秀吉の時代に館山城の基盤を築いた里見氏ですが、悲劇は思わぬところから訪れました。慶長19年(1614)、忠義(ただよし)は家康により改易を命ぜられ、安房国は没収。所有していた鹿島領の替地として倉吉へと移されたのです。館山城は江戸から送られた軍勢により破壊され、城を取り巻いていた堀もすべて埋められてしまいました。在城期間はわずか25年足らず。ここに170年続いた里見氏による安房支配は幕を閉じることになりました。
里見氏改易後の館山は代官支配などが続き、その後この地に陣屋を築いた稲葉氏も無城大名でした。そのため、せっかく築かれた新しい町も「城下町」としては大きく発展することはなく、現在では城下町の特徴を示す痕跡がわずかに残るのみとなっています。かつての城下町は、真倉村(さなぐらむら)のうち、館山上町、館山中町、館山下町、館山楠見浦、館山新井浦、館山浜上須賀、館山岡上須賀という地名で残り、これらは明治になると周辺地区と一体化して館山町となっていったのです。
里見義康が初代藩主となった館山藩は忠義の改易によって廃藩となりましたが、のちの稲葉家の時代に再度復活を果たします。また、江戸時代には北条藩というものも存在し、屋代家(1638年~1712年)、水野家(1725~1827)がそれぞれ藩主を務めています。さらに幕末の元治元年(1864)には船形藩が立藩しましたが、明治元年(1868)には廃藩。わずか4年の治世でした。
廃藩置県、館山県から千葉県へ
明治2年(1869)、各大名の藩籍奉還により、館山藩は館山県に。同じ年、木更津県に合併され、明治6年にはさらに印旛県と合併して千葉県が誕生します。この際に新しく誕生したのが現在の館山市の主要部となる館山町、北条町、那古町、船形町の4町でした。
昭和8年(1933)には館山町と北条町が合併して館山北条町に。この際にも新しい町名について両町でさんざん議論されたそうですが、決着をみなかったため妥協案として2つの町名の連名とすることで落ち着いたようです。
そして昭和14年(1939)、那古と船形の2つの町を併合する形での合併となったのですが、ここで名前を巡る議論が再燃します。旧北条町の住民は「安房市」を主張し、旧館山町の住民は「館山市」を主張。お互い譲らない争いとなりました。そのころ欧州では第2次世界大戦が勃発し、旧満州国でノモンハン事件が起きるなど、世界は戦争へと向かっていた時代のこと。最終的に、館山湾という地名が海図に載っていること、館山海軍航空隊が存在することが決め手となり、ついに「館山市」で決着したそうです。
こうして館山市は千葉県で5番目の市として誕生しました。これまでの経緯からも、館山市という名前は里見氏が造った城下町が由来となっているのは間違いありません。その後昭和29年に安房郡西岬村、富崎村、豊房村、神戸村、九重村、館野村の6ヵ村を併合して現在の館山市となりましたが、この際には市の名前を巡っての大きな議論はなかったようです。
花と眺望、歴史に彩られた城山公園を歩く
さて、館山市の名前の由来となった城山ですが、現在は山全体が城山公園として整備されています。山頂には天守閣を模した建物があり、現在は八犬伝博物館として『南総里見八犬伝』ゆかりの品々を展示しています。一般には館山城とよばれていますが、これは里見が築いた館山城と同時代に建てられた「丸岡城」を模したもの。館山城が天守閣をもっていたらこんな感じだったに違いないのですが、里見氏が建てた館山城は、実際には天守閣はなかったようです。当時の城の様子を示す資料はあまり残っていないのですが、現在の城山周辺には屋敷の跡や堀の跡など、里見時代の遺構があちこちに残っています。
また、城山頂上は館山湾を一望する展望台として知られるほか、梅、桜、つつじなど、花の名所としても親しまれています。城としての役割は早々に終えてしまいましたが、現在の館山を象徴する場所のひとつであることは間違いありません。
現在の城山の標高は72m。以前は84mほどあったのですが、第2次世界大戦中に高射砲の陣地として使用されたことがあり、その際に山頂が削られてしまいました。公園内には高射砲や機銃の台座後があちこちに残っています。
ガイドと巡る城山公園
さて、いかがでしたでしょうか? 館山市の名前の由来にもなった城山公園は、このようにさまざまな歴史背景をもっています。館山城の遺構や戦争遺跡など、知識があると散策の楽しみ方はうんと広がるはずです。
現在「また旅倶楽部」というガイド集団が、城山公園を含めたガイドサービスの準備を着々と進めています。
内容が決まり次第、このページなどで情報を発信させていただきます。どうぞご期待ください!