三十三観音巡礼という言葉、ご存知でしょうか? 四国八十八か所を巡るお遍路さんと同じく、古くから祈願や供養のために、33か所の観音様を参拝することをいいます。関東を代表する巡礼の道は、坂東三十三観音巡礼。鎌倉にある杉本寺から始まるこの巡礼の最後の寺は、ここ館山にある那古寺なのです。巡礼を終えると願いが叶うという言い伝えから、「結願寺(けちがんじ)」とも呼ばれています。
それでは、なぜこの由緒ある巡礼のフィナーレを飾るお寺が館山にあるのでしょうか? もちろん確たる証拠は歴史の中に封印されています。様々な言い伝え、資料からこの謎にどこまで近づくことができるのでしょうか。
(2012/03掲載:H)
観音巡礼とは何か?
巡礼というと、メッカなどの聖地巡礼を思い浮かべる方もいると思いますが、日本にも観音様を巡礼する習わしが古くから存在しました。まずは、この観音巡礼について基礎的な知識を押さえておきましょう。
「仏陀は、すべての人がそれぞれの立場で苦悩を解決するように指導した」
(『仏教』渡辺照宏著 岩波新書)
と述べられるように仏教とは、宗派や解釈によって多少の違いはあれど、大きく捉えると苦悩の原因を滅することで解脱することを説いた仏陀の教えであるといえます。仏陀は、あまねく修行を実践した末に菩提樹の下で瞑想をし、真理に到達するのですが、この時が「菩薩が仏陀となった」瞬間として伝えられているのです。
菩薩とはサンスクリット語の“bodhisattva”(ボーディサットヴァ)の略をいい、「仏陀となる資格をそなえたもの」という意味を持っています。これに対して仏陀(budda)とは“budh-”という動詞の過去分詞で「目覚めた人」という意味であり、「当時のインドにおいて、完全な境地に到達した人を指す」言葉であったそうです。
つまり、仏陀と菩薩という呼び名の違いは、真理に到達したもの(仏陀)と、真理に到達する以前の悟りを追求するもの(菩薩)を分けたことからきているんですね。その後この菩薩という観念は、しだいに変化発展し、「仏の悟りを求めるとともに、仏の慈悲行を実践し、一切衆生(生きとし生けるもの)を救おうと努める理想的人間像」を意味するようになりました。
そのため経典の中にも多くの菩薩が登場しますが、菩薩そのものに定義はなく、悟りを求めて人々を救おうと働きかけ、導くものすべてを菩薩と呼ぶことが出来るのです。
それでは、なぜ人々は仏陀と同じように「観音」菩薩を尊崇するようになったのでしょうか。
「『観音』とは、[法華経]観世音菩薩普門品(ふもんほん・観音経)に『苦を受けた衆生が一心にその名を称えれば、ただちにその音声を観じて解脱させる』と記された意味をとった訳語」であり、この音声によって人々を解脱に導く菩薩が「観音菩薩」です。
また、『観音経』の中で「観音はどのようにしてこの娑婆世界に遊行して教えを説くのか」と問われた仏陀は、「観音は救うべき相手に応じ姿を変えて説法する」として、仏身以下、王や僧尼や在家の信者から竜や夜叉まで三十三種類の姿を列挙しています。これが、「観音の三十三身」とよばれるもので、観音菩薩を理解するには非常に重要な点でしょう。
さて、このような経典上の定義を踏まえた上で、仏様と観音様は以下のように区別して尊崇されてきたと考えられます。
仏様:真理を把握し、悟りの境地に達したもの
観音様:仏様と衆生の間で、救うべき相手に従って悟りへ導くもの
仏様を目指して修業を積むのですが、この世界には様々な境遇や性格をもった人間が存在します。悟りに達することは個人内で完結することですが、仏様の慈悲は未だ苦の中に嘆く多くの人々を見捨てることなく、観音様を通して救済に導くのです。
こうしたことから、仏教経典成立後、チベットや中国、日本においては観音信仰が仏教の中心的存在として受容されることとなります。
巡礼の起源については諸説ありますが、一般的には伝説と史実とがそれぞれ紹介されています。
伝説によると、大和長谷寺の開山徳道上人が養老年間(717~723)に閻魔大王の勧めによって始め、多くの人々に伝えた所誰も信じなかったのでそのまま立ち消えとなっていました。やがて270年後、当時至尊の身にあった花山法王が自ら巡礼することによってこれを中興したことが始まりです。
しかしこの伝説は、史実の上ではつじつまが合わないことも多く、実際には近江三井寺の覚忠大僧正が、応保元年(1161)に近畿地方に散在している三十三か所の観音霊場を75日かけて巡ったということが、その創始ではないかと推測されています。
いずれにせよ、始まりは1000年前後に関西地方の観音霊場三十三か所を巡ることにあったわけです。なぜ三十三か所なのかといえば、上記観音菩薩での記述で触れたように、『観音経』の中に、観音様は三十三の変化(へんげ)をなして衆生を救済に導くという教えに基づいていることはもうおわかり頂けるでしょう。この巡礼コースは「西国三十三観音巡礼」として、現在でも多くの人々に親しまれています。
それでは、坂東三十三観音巡礼はどうでしょうか?
…実はこちらも成立の経過を明らかにする資料は見つかってないんですね。観音巡礼は謎に包まれています。しかし誰とも知らず、確たる宣言もなく、自然発生的に巡礼の道が定まっていったとすれば、これは逆に生活と密着した文化の息吹に溢れた生きる歴史といえるのではないでしょうか。
坂東三十三観音巡礼の最後のお寺が那古寺なのはなぜか
そこで今回は特別に、坂東の歴史や文化にお詳しい那古寺の現住職である石川良和(いしかわ りょうわ)さんに直接お話しをお聞きすることができたので、そのお話しをもとに坂東三十三観音巡礼と那古寺との関係について考察を進めていこうと思います。
「まず、坂東の札所がどのように決まったのか定かな歴史書が存在しないことをお断りしておきます。とはいえ、歴史といえども、それは時の権力者による自らに有利な書き換えが多く行われた所産ですので、一概に文献が正しいともいえないわけです。ここで大事なのは、その歴史の背景ではないでしょうか。
日本における三十三観音巡礼はご存じの通り、西国から始まりました。奈良時代・平安時代を経て、東西の繋がりがより強まった頃、平氏源氏の争いが勃発しました。東国の武士は、大勢で西側諸国へ攻め入るのですが、どの時代も戦争とは望んでもない殺生の中で人間に深い傷を残すものです。
そんな中、東国の武士は西国での戦乱の中、西国三十三観音巡礼を知るわけです。ここで彼らは信仰や供養を越えた、遣る方ない心の行き場を見付けたのかもしれません。坂東は、そうした西国における戦乱を経験した武士を中心に起こりました。」
「中でも頼朝公は殊のほか信仰心の厚い武士として知られていますが、ここ那古寺は頼朝公が石橋山の合戦において平家に敗れたのち、7人の家来を引き連れて安房へ逃げ込んだ時に再起を祈願した寺だったんですね。
そのため戦に勝利し、鎌倉に武家政権を樹立した後には、観音様の御加護に感謝し、山上に本堂・三重塔・閻羅堂・鐘楼・地蔵堂・仁王門・阿弥陀堂の七基を建立しています。」
「こうして武士による政権が建てられると、もちろん彼らの都である鎌倉が中心地となり文化が育まれます。坂東観音霊場の分布を見て下さい。
鎌倉の杉本寺を1番札所として鎌倉内を回ったあと、鎌倉を中心にして時計周りに関東を一周していることがわかると思います。つまりご由緒ある寺が結ばれただけでなく、鎌倉に住む人々からみた巡礼コースであったと考えられます。
ところで、頼朝公の再起をご加護したお寺ということは後世の武士に非常に大きな影響をもったようです。那古寺を保護した武家はその後鎌倉公方の足利氏、里見氏と続きます。
つまり那古寺を保護することは、室町時代から戦国時代に至るまで、初代幕府を創立した源頼朝のこの地における正統な後継者であることを示す一つの指標として意義を持ったということです。里見氏は一族から住職を輩出するほどの厚い信仰を捧げています。」
「この点は巡礼地として非常に大事な意味を持つんですね。つまり、戦乱の絶えない当時において、札所が土地の強力な武家によって守られていなければ、容易に発願できないわけです。祈願や供養を目的としている巡礼者からは要所の関税も徴収してはならない程、巡礼は武士や庶民の生活に根ざしていましたので、巡礼地として認められることはこうした道中安全の側面とも密接に関っていました。」
「那古寺が最後の寺となっていることに、那古寺の山号である補陀洛が関係しているという説もあります。
補陀洛とはサンスクリット語の『ポタラカ』の音訳であり、観音さまが住まわれる浄土、信仰の到達地点として古代インドから信じられてきた場所を指します。南インドの海上に存在するとされた補陀洛浄土を求めて古来多くの人々が海を渡りました。」
「ここ那古寺は館山湾を一望できる海に面した場所にあり、なおかつ山号が補陀洛であることは観音信仰上の到達地点と深い関係があるでしょう。
今となってはあまり聞きなれない補陀洛という言葉ですが、チベットのポタラも補陀洛ですし、実は日光も、補陀洛を二荒(ふたあら)と表記した後、音読みの二荒(にこう)が日光になったと伝えられています。」
「鎌倉時代の人々は、念願の成就や親族の供養、そして何より戦乱のない世を祈りながら関東中を歩きました。神奈川から東京、埼玉、群馬、栃木、茨城を通って千葉に入り南端の那古寺にて33個目のご朱印が押印されます。その時、道中での出来事や自らの願いに対する思いや悩みが人それぞれの形でこみ上げるのではないでしょうか。
そして帽をとり、荷を下ろして、眼前に広がる館山湾を望んだのかと。多くの人は、そこから海路を渡って鎌倉に戻ります。海路より近づいて見える三浦半島は、さぞかし発願の頃とは変わって見えるのだと思います。
これが、800年もの間人々に親しまれてきた坂東三十三観音巡礼の道だったのですね。」
鎌倉時代より始まった坂東三十三観音巡礼の道。1300kmともいわれる関東の道のりをこれまで幾人の人が歩き、どのような思いで那古寺に辿りついたのでしょうか。 住職の御話より、那古寺が坂東三十三観音巡礼の最後のお寺であることには様々な要因が重なっていることがわかりました。一つは、鎌倉と館山との立地上の関係性。海を隔てて対面しているこの二つの土地は、海路を使って多くの人々や文化の往来があったようです。こちらは現在旧安房博物館にて「中世の安房と鎌倉」というテーマで展示解説されておりますので、この時期に是非ご覧になってください。 また二つ目は、源頼朝による手厚い保護を受けた歴史的な背景。これ以降有力な武家が那古寺を保護することによって、巡礼者が常に守られてきたのですね。そして最後に、観音様が住まう場所としての補陀洛という山号。海に面した那古寺は、修業の到達地としての条件を十全に備えたお寺であったことがわかりました。 以上のご解説により、那古寺がなぜ最後のお寺なのか、この謎に極めて近くまで迫ることができたのではないかと思います。那古寺住職石川良和さん、ありがとうございました。 |
現代における観音巡礼とは
さて、謎についての考察が終わったところで、巡礼とは一体どういうものであるのか、折角の機会ですので住職にお聞きしてみました。
「そうですね。昔頼朝公は、自分の戦勝祈願を仏様に賭けるほど信仰をもっていたのですから、この点では多くの人々の考え方は変化しているのかもしれません。しかし、これほどまでに安全で便利な世の中にあって、忘れてはならない大切なことを思い出す場所、それがお寺なのだと思います。
時代は進化を遂げて、スピーディに仕事が行われ、合理的でないものは排除される傾向をもって発展してきたと考えられてきました。しかし、速く仕事を終えたからといって余暇が増すわけではない、実際には速く終えた分仕事が増えたのです。じっくり考えてもいない発言がメディアを飛び交って、人々の不安を煽りたて、常に誰かに急かされるように次から次へと情報が目の前を過ぎ去ります。」
「しかし、心や思考というのは本来ある程度の時間をかけて経験して実践することで熟成していくものです。例えば、これはよく例にだすことですが、ご飯を炊く時のこと。昔は、手首を目安に水を量り、湯気や吹きこぼしの音を聞いて、炊きあがる頃には良い香りがします。そして最後にお米を味わうのです。
これは単に今はスイッチでできるから便利になったのだ、ということにはなりません。ここで重要なのは、昔は否が応にも5感すべてを活用して生活が行われたということだと思います。心は人間の様々な感覚をもとにできていますので、5感を使うと自然に心がこもるようになります。こうして人と人との心の触れ合いが自然と成り立っていたのですね。」
「どんなに生活が便利になって速く物事がこなせるようになっても、心と思考は人間であることを越えられません。だから、人間らしくじっくりと考え、その根本にある『呼吸』を整えることが大切なのだと思います。
那古寺の門にもある仁王様は、『阿』(あ)と『吽』(うん)の形をして構えています。これを『阿吽の呼吸』というのはご存知ですね。つまりお寺は、汚れたものを吐き出して、きれいな新しい空気を目一杯吸いこむ場所だということです。」
「こうありたい、こうなってほしい、という願いや祈りも呼吸をもとに身体を活性化させることで実現に向かっていきます。人間にとって一番根本的なことを、じっくり自然に養って心を癒す場所、そんな場所がお寺であり、観音さまの名を称えることなのではないでしょうか。
そんなじっくりとした時間の中に心と思考が歩調を合わせ、当たり前であることにきっと感謝し、生かされてきて良かったなぁと、ふと感じられるのだと思うのです。」
現代、今までには考えられなかった事件や問題が数多く報道されています。現代の抱える諸問題の核心には何があるのか? こうした問いに対して、由緒ある那古寺のご住職ならではのお話を賜ったように思います。巡礼、というと歴史や宗教の中のものと捉えられやすいですが、そこで行われている内実に立ち入ってみれば、昔あって今はないもの、急激な変化の中で見失ってしまっていることに、ふと気づくのかもしれません。
昔の人は、巡礼や日々の参拝の中から「呼吸」という人間にとって根本的な生命活動やリズム、そうした活動から感じられる「生」を自然と知っていたのかもしれませんね。忙しい生活やたくさんの情報に囲まれる現代人は、なおさら意識してゆっくり考える時間をもうける必要のあることを、住職のお言葉から学びました。坂東三十三観音巡礼とともに、南房総には安房国札三十四箇所の巡礼もあります。何か願い事や悩み事、それぞれの思いにより発願した際は是非一度心を休めて、古の道を辿ってみてはいかがでしょうか。
「中世の安房と鎌倉-海で結ばれた信仰の道-」
今回の記事にも登場した海路における鎌倉と館山の関係ですが、館山市立博物館分館において開催されました。
房総半島南端の安房地域は様々な地域と海路でつながっておりましたが、特に鎌倉幕府の成立後中心地となった鎌倉との文化的な交流が盛んであったことに注目が集まっております。本企画では、共通した建築や仏像などにおける共通点を基に安房と鎌倉の繋がりを浮き彫りにしました。興味ある方は市立博物館分館まで。(下記は企画展開催時の概要です)
期間 | 2012年3月3日(土)~4月22日(日) 休館日:毎週月曜日(3月26日、4月2日、4月9日の月曜日は開館) |
9:00~16:45(入館は16:30まで) | |
場所 | 館山市立博物館分館(“渚の駅”たてやま内) |
観覧料 | 無料 |
問合せ先 | 館山市立博物館分館 0470-24-2402 |