源頼朝。
ご存知のとおり鎌倉幕府を開いた人です。
彼の登場を境に公家から武家へと政治の中心が移り、その後の日本は明治に入るまで武家中心の時代を迎えることになります。
鎌倉を舞台に独自の武家文化が花開いた時代。
その中心は鎌倉にありましたが、海を隔てた安房地域も、鎌倉の一体文化圏の一部として強く関わりをもつことになるのです。
頼朝ゆかりの地から鎌倉仏教文化の伝播まで、
安房と鎌倉の関係は思った以上に深いものでした。
(2012/08掲載:K)
貴公子頼朝の誕生
古都鎌倉。日本でも指折りの観光地であり、世界遺産登録に向けて動きはじめたことで改めて注目が集まっています。由緒ある寺社が無数に点在し、古いものと新しいものが混在する独特の空気感が人気ですが、鎌倉を語る際に避けては通れないのが鎌倉幕府の開祖、源頼朝です。まずは彼の素性について少々触れておきましょう。
平安時代の末期、頼朝は源義朝(よしとも)の三男として誕生します。この義朝という人物、京で活躍した河内源氏の流れをくみますが、当時の河内源氏は内紛によって凋落し不遇な時代を過ごしていました。それが東国に下向した義朝が周辺の豪族をまとめあげたことで関東での地盤を固め、一大勢力を築いたのです。源氏の「貴公子」として京の都で育った幼い頼朝は、貴族社会の一員として成長します。
義朝は保元の乱(1156)では平清盛とともに後白河天皇方につき勝利を得るものの、のちの平治の乱(1159)では平清盛に惨敗。敗れた源氏一派は東国へと敗走し、義朝は逃亡先で殺害されてしまいます。この戦が初陣だった14歳の頼朝は敗走の途中に一行とはぐれ、平家の追手に捕らえられました。本来であればここで頼朝の命は終わっていてもおかしくないのですが、奇跡的に殺されることだけは免れ、その代わり伊豆に配流されてしまいます。この戦いの後、世は平家一門の時代となり、頼朝は伊豆の地で20年の歳月を過ごします。
頼朝挙兵、石橋山の合戦!
伊豆に配流された頼朝は、この間に伊豆の豪族北条時政(ときまさ)の娘、政子との婚姻を結び、長女を儲けています。婚姻後は時政の館にも出入りしていることからも、配流中の生活はそれほど窮屈なものではなく、実際はかなり自由度が高かったことがうかがえます。
そのころの日本は、1179年の平氏の軍事クーデター(治承三年の政変)により後白河法皇が幽閉され、平氏が政治の実権を完全に掌握していました。軍事力を背景に政治を牛耳った平氏ですが、そのあまりの横暴ぶりに周辺の、特に関東一円の武士たちの不満はつのるばかり。そんな状況のなか、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に向けて平氏討伐の令旨(りょうじ)を出します。当の以仁王は、事前に計画を知ることになった平氏に討たれましたが、頼朝は慎重を期してしばらくは様子を見ていました。やがて平氏による源氏討伐の動きが出たところで、ようやく挙兵を決意します。これには舅の北条時政はじめ多くの周辺武士たちが従い、三浦半島一円に勢力を持っていた三浦氏も合流する手はずになっていました。
ところが、頼朝挙兵の動きを察知した平氏の動きは予想以上に早く、頼りにしていた三浦氏と合流する前に伊豆の石橋山で合戦となります。態勢の整わない頼朝軍はここで惨敗。山中をさまよったのち、父義朝とも縁が深かった安房へと敗走することになります。1180年8月のことでした。
頼朝、安房で再起を誓う!
伊豆真鶴崎から船で安房に向かった頼朝は、8月29日に猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸します。この時に頼朝に従っていたのは土肥実平(どいさねひら)などほんの僅かでしたが、ここから頼朝の破竹の快進撃が始まるのです。まず、上総の上総広常(かずさひろつね)と下総の千葉常胤(ちばつねたね)といった、関東で特に力のある豪族へと使者を送り支持を取り付けます。安房の有力豪族である安西景益(あんざいかげます)や伊豆ではぐれた武士たちとも合流を果たし、勢力を拡大しながら房総半島を北上、鎌倉をめざしました。
この際に頼朝が立ち寄ったとされる場所は、安房には無数に残っています。たとえば洲崎神社や那古寺へは戦勝祈願で訪れていますし、三芳にある平松城は安房を出発するまで頼朝が拠点とした安西景益の屋敷跡といわれています。これらの話は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記述によるものですが、『義経記』では最初に館山の洲崎に上陸したことになっています。
ともあれ、こうして東国の豪族たちに支持された頼朝は勢力を拡大しながらその年の10月6日、ついに鎌倉入りを果たします。石橋山での敗戦からわずか40日という快挙、それは頼朝に従った東国の豪族たちの力があってこそのことでした。むしろ、力のなかった頼朝が、さまざまな理由で利害の一致する豪族たちに担がれた感も強く、これらの東国の豪族たちは鎌倉幕府成立後も有力御家人として繁栄することになります。
山に囲まれた狭い鎌倉の土地を選んだのは、父義朝はじめ一族にゆかりの深い土地だったため。頼朝は、まずは鶴岡八幡宮を源氏の氏神として街の中心に据え、ここを基盤に鎌倉の街づくりを進めていきます。
鎌倉時代の仏教文化
こうして瞬く間に時の人となった頼朝は、その勢いのままに平氏を滅ぼし、弟義経を討ち、そして1185年には「守護」「地頭」の任命権を朝廷から得たことで、つまり政治の実権を完全に掌握したことで実質的に鎌倉幕府が成立します。1192年には征夷大将軍に任ぜられ、ここに鎌倉幕府が完成しました。この鎌倉時代というのは日本で初めての武家政権であり、武力を背景にした政治形態です。そういう意味では血なまぐさい時代だったともいえます。権力者たちは魂の拠り所を求めたこともあってか、この時代には新しい仏教が発展することになります。ひとつは真言律宗であり、もうひとつは臨済宗(禅宗)でした。
真言律宗といえば鎌倉の極楽寺を開いた忍制(にんせい)が東国一円に広めたことで知られ、横浜市にある金沢称名寺も真言律宗の寺院です。臨済宗は中国(宋)に渡った栄西が持ち帰った禅宗の一派で、特に武家政権に重用されました。鎌倉には建長寺や円覚寺をはじめとする「鎌倉五山」とよばれる臨済宗の寺院が次々に建立されました。こうして幕府の庇護を受けて誕生した寺社が、安房との間に深い文化交流をもたらしたのです。
安房と鎌倉の仏教文化交流
安房と鎌倉の間で交流が活発だった背景には、鎌倉の寺社が安房で所領の経営をしていたことが挙げられます。たとえば円覚寺は現在の館山市西長田に、称名寺は鋸南町下佐久間周辺に、極楽寺は館山市宝貝周辺に所領をもっていたという記録が残っています。
仏教交流を裏付けるものとしては、館山市の萱野遺跡から出土した瓦があります。この瓦には三鱗・花菱文様が刻まれていますが、この文様は鶴岡八幡宮や建長寺、極楽寺といった鎌倉幕府と関わりの深かった鎌倉の寺社に限定して出土するものです。
また、館山市にある小網寺にも鎌倉と縁の深い品々が残っています。ひとつは称名寺を開いた審海上人の陰刻がある密教法具。来歴は不明ですが、称名寺と安房の交流を裏付けるもののひとつといえます。もうひとつは物部国光(もののべくにみつ)が手掛けた梵鐘です。
国光は当代随一の鋳物師として知られますが、称名寺や円覚寺の梵鐘も手掛けていることから、幕府と深い関係をもつ鋳物師であると考えられています。このことからも小網寺と鎌倉の結びつきの強さが伺いしれます。ちなみにこの小網寺の梵鐘は国の重要文化財に指定されています。
そしてもうひとつ重要なものに、近年房総で大量に発見された「やぐら」があります。やぐらとは中世の武士や僧侶階級の納骨所あるいは供養施設として造られたもので、山腹を方形にくりぬき壁は垂直、床や天井は水平に造られています。また、床面には納骨穴が掘られその上には五輪塔などの供養塔が安置されています。鎌倉市だけでもその数2000とも3000ともいわれていますが、きちんとした調査は行われておらず実数は把握できていません。
このやぐら文化は、これまでは鎌倉を中心とした地域独特のものとされてきましたが、1992年から96年にかけての調査により、房総にもかなりの数のやぐらが存在することが確認されました。房総全体では500基以上、館山市だけでも100基以上もあり、安房地域では館山市の九重地区、南房総市の丸山、富浦、三芳地区に数多く分布することがわかっています。なかでも館山市安東の千手院やぐら群では内部に数々の石造物が安置されています。これらの、やぐらの密集地域は鎌倉の寺社領とほぼ重なっており、このことからもやぐら文化は鎌倉から持ち込まれたものであることが容易に想像できると同時に、安房と鎌倉の仏教文化交流を裏付ける根拠にもなっています。
海で結ばれた2つの土地
このように鎌倉時代の安房と鎌倉は仏教文化を軸にした交流が盛んに行われていました。安房は鎌倉文化圏であるといってもよいほど関係は密であり、その背景には武士階級のつながりがあります。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、そもそも伊豆や三浦、さらには安房を含めた房総の豪族の後押しによって天下が取れた訳ですから、幕府そのものが安房に強い地盤を持っていたともいえます。また、東京湾の海上交通も仏教文化の交流には欠かせない要素のひとつでした。石橋山の合戦に敗れた頼朝が船で安房に落ちのびた例を出すまでもなく、安房と鎌倉の間は海路を使うことで陸路よりもはるかに短い時間で往来できたのです。
安房と鎌倉、つい「海で隔てられている」と考えてしまいますが、逆に「海で直接つながっている」と考えてみてはいかがでしょうか。里見水軍が活躍した戦国時代も、江戸に向けて東京湾を船が往来した江戸時代も、安房と鎌倉はもっともっと交流があったに違いありません。
陸路の移動があたり前となった現在では両者の間には直接的な文化交流も経済的な関わりも希薄に見えます。ところが、海路を意識したうでで改めて地図に目をやると、その関係はまるで違ったものに見えてきます。安房と鎌倉、さらには三浦半島や伊豆半島まで、海で直接つながったこれらの地域のつながりは、今後ますます増えてゆくことでしょう。
安房に新名所?! 7観音とやぐらめぐり
上述のように、安房には鎌倉にゆかりのある寺がいくつもあります。そのうち7つの観音様が、鎌倉ゆかりの7観音として注目を浴びつつあります。また、上で紹介した千手院やぐらも、整備が進んでいます。安房における鎌倉探し。鎌倉に興味をお持ちの方は、ぜひ一度安房の地にも足を運んでみてください。安房を通して鎌倉を見ることで、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれません。
※7観音めぐりについては現在調整中です。詳しいことがわかりましたら追って発表させていただきます。