里見八犬伝の舞台として、戦国時代の里見氏の活躍などで有名な南房総館山。それよりさらに昔、創世記に遡って房総の歴史を紐解いてみると、実は館山が房総の中心だったという誇らしい事実が浮かび上がります。千葉の上総と下総、なぜ上下が逆転しているのかという謎にも迫ってみましょう。
(2011/11掲載:H)
館山人ってどこからきたの??
太古の昔、館山にはどんな人たちが住んでいたのでしょうか?
今から1万~2千年ほど前、日本は縄文時代と呼ばれる時代。千葉県でも多くの貝塚が発見されてきたように、縄文人が各地で独自の生活を営んでいました。その頃の彼らはクルミやドングリの実を主食とし、副食には魚介類を食べていたようで、各地に形跡が残されています。しかし、この後に起こったある重大な出来事によって米作りや諸産業など現代にも残るさまざまな文化が生まれ、彼らの生活は一変。この伝説は連綿と言い伝えられ、研究者たちの興味の対象とされてきました。
平安時代の神道資料『古語拾遺』によると、縄文時代の終わりごろ、「忌部」(いんべ)という天皇家の親戚である氏族的職業集団が現在の徳島県から海を渡って館山に辿り着いたと記されています。
もとより2千年もの昔の出来事。きちんとした資料はほとんど残されておらず、忌部氏に関する史実はいまだに謎に包まれています。それでも彼らが館山に上陸し、豊かな恵みと繁栄をもたらしたことを示す伝承や痕跡は決して少なくはありません。
まずは簡単に忌部族とはどんな氏族であったのかについて触れてみましょう。
スーパークリエイター集団、忌部氏(いんべ)氏の登場
ここでいう忌部氏とは阿波忌部氏のこと。古代朝廷にて祀りごとを司り、次々と新しい産業を生み出すことで日本の文化を支えた優秀な氏族として知られています。彼らが創りだした主な産業は次のように実に多岐にわたっています。
神事・麻栽培/加工・農業・鉄・織物・養蚕・製紙etc
-驚きませんか? 現在へと受け継がれる技術の数々。これらの技術を周囲がまだ木の実を食べていた時代に突然作ってしまったのです。いわばスーパーマンのような忌部氏ですが、その技術力をもって勢力を拡大したかと思いきや、戦った形跡はどこにも見当たりません。新しい技術を身につけた部族が侵略を行わず、逆にその技術を各地に伝え歩き尊敬されたという話は、世界的にもあまり例を見ないのではないでしょうか。忌部の「忌」の字は、もとは「森羅万象に対して畏敬の念」を表現する文字でした。今では「忌み嫌う」などマイナスな意味合いで使われますが、これは仏教の受容に従い意味が変化してしまったため。決して嫌われていたわけではないようです。念のため。
忌部氏は独自の麻文化を持っていたことで知られます。神事の占いや祭祀から、衣服や紐などの日常生活に至るまで、「大麻」(おおあさ)は彼らの生活には欠かせないものでした。麻は現在では厳格な取り締まりの対象になっていますが、天皇が儀式の際に着る神衣や神社の鈴縄には今でも麻が用いられるなど、その文化は確実に受け継がれています。「忌」の字にせよ「麻」の文化にせよ、後世の文化変容によって表に出ることが許されなくなったものの、実は彼らこそが日本の文化や習慣を創りだし、支えてきた氏族であることが浮かび上がります。そうです、忌部氏は今でいう最高の「クリエイター」だったに違いありません。
房総のルーツは四国、阿波徳島?
忌部氏は徳島の阿波を開拓すると、「麻」が良く育つ土地を求め、黒潮に乗って旅を続けました。
その際に上陸した土地が黒潮の北限、ここ館山にある布良だと言われています。肥沃な南房総の土壌は麻栽培に適していたため、ここに移住することを決意したようです。先住民たちと争うことなく様々な技術を伝授したため、南房総の文化レベルは一気に飛躍。禽獣を避ける方法や米作をはじめとする栄養価の高い作物の栽培、鉄器製作など、彼らがもたらす技術に先住民はさぞ驚き、また喜んだことでしょう。
これらを裏付ける資料として、阿波忌部氏と南房総との繋がりを示す例を何点か紹介しておきます。
地名の一致
阿波(あわ)と安房(あわ)のほか「白浜」「勝浦」など、徳島と南房総には地名の一致が多く見られる
忌部の神々
安房神社、洲崎神社、下立松原神社など館山周辺の多くの神社には、忌部氏の神々が祀られている
忌部氏の墓
富山(とみやま)は忌部氏族長である天富命(アメノトミノミコト)が指揮を執った場所であり、墓があると言い伝えられている
旧制安房中学校の校歌
旧制安房中学校(現在の県立安房高校)の校歌には「富命のおりしくに~」という一節がある
さらにもうひとつ。
房総の「総」は「○」の古語
「○」に当てはまる一字はお分かりでしょうか? 正解は「麻」。つまり房総の「総」の字は忌部氏がもたらした主要文化のひとつ「麻」だったのです。
麻の生育がよかったことが南房総に流れ着いた忌部氏の移住の決め手となったというのは前述のとおりですが、なんとこの土地に「総」つまり「麻」とネーミングまでしてくれたのですね。自分たちの崇める神聖な植物の名前を付けてしまうほどですから、さぞかし南房総を気に入ったのでしょう。ちなみに房総と呼ばれる前は「総州」と呼ばれていました。この総も同じですね。
結論!こうして館山は房総の中心になった
当時の日本では、地図上の南北における上下などはなく、都(大和朝廷)に近い行政区が「上」、遠い区が「下」とされるのが習いでした。忌部氏は上陸した館山を本拠地としてここから北上したわけですから、南ほど都に近く、北に行くほど都から遠ざかることになります。「上総」が南に、「下総」が北にあるという、地図で見ると上下が逆さまになったような地名の謎はこれで解決 ですね。
コラム「もう一つの言い伝え」
館山は海路の交易における総州(千葉)への入り口として大いに繁栄しました。武蔵国(東京・埼玉・神奈川)と下総の間は小舟しか通れない広大な湿地帯だったことも、その一因であったと考えられます。その後何百年もの間、漁業や農業で栄える館山の土地。その陰には、スーパークリエイター忌部氏の知恵と真心の物語が隠されていたのです。