なぜ館山は里見のまちなの?

里見という名前をご存知でしょうか?
江戸時代に活躍した曲亭馬琴(きょくていばきん)の小説、
『南総里見八犬伝』が有名ですが、
この物語のモデルになったのが実在した戦国大名、里見氏なのです。
館山の人が愛してやまない里見氏、
近頃、里見氏にまつわる話題がよく聞こえてくるようになりました。
今回は里見氏について、その歴史背景を少しおさらいしておきましょう。

(2012/04掲載:K)

10分でわかる! 里見氏の歴史

まずは里見氏とは何者なのか? その辺のお話から始めてみましょう。里見氏とは、簡単にいうと「戦国時代に安房国を治めた武将」です。房総の歴史の表舞台に華々しく登場してから江戸幕府によって倉吉に移されるまで、安房国を治めたのは170年間ほど。その間、お家騒動なども挟んで9人の当主が里見の歴史を紡いできました。今回はポイントとなる出来事をいくつか紹介することで、里見氏の概略をつかんでいただきたいと思います。あくまでも「ダイジェスト版」ということでご理解ください。

上野国から安房国へ ~ 安房里見氏の祖、義実(よしざね)

もともと里見氏は安房の出身という訳ではなく、そのルーツは上野国(こうずけのくに)、つまり今の群馬県にあります。鎌倉時代の始めごろに、この地を所領していた新田一族の一人が里見姓を名乗ったのが始まりとされています。それから200年ほどの間、里見氏は美濃国、陸奥国、常陸国など各地へと移住しましたが、そのなかの一人、安房国に移住したのが安房里見氏の初代とされている里見義実(よしざね)です。時は1400年代半ばごろ。室町時代のことです。
当時の日本は、足利家の将軍による治世下。京都に幕府が置かれ、関東には鎌倉公方足利成氏(かまくらくぼうあしかがしげうじ)が東の将軍的な役割として君臨していました。ところがこの足利成氏が関東ナンバー2の実力をもつ関東管領上杉氏(かんとうかんれいうえすぎし)と対立するようになると、関東地方は2つの勢力に分かれ、両者の間で覇権争いが繰り広げられたのです。その際、東京湾の制海権をめぐる抗争の舞台となったのが房総でした。この争いで足利成氏(しげうじ)方についた里見義実(よしざね)は安房国の国守としての権限が与えられました。
そのころ安房国には、水軍をもつ安西氏(あんざいし)や正木氏(まさきし)、神余氏(かなまりし)、丸氏(まるし)、東条氏(とうじょうし)などの武士がいましたが、義実は彼らを急速に従えます。そして安房国の主として、稲村城(いなむらじょう)を拠点に安房全域の支配へと乗り出したのです。
ちなみに、『南総里見発見伝』の舞台となったのはこの義実の時代です。このお話は江戸時代の作家、曲亭馬琴による完全なフィクション。混同される方も多いようですが、史実とは全く異なっているのでご注意ください。馬琴は一度も安房国を訪れることなくあのような壮大なストーリーを作りあげたといいますが、登場する地名などはかなり正確だったそうで、その取材力には感心するばかりです。

北条との40年戦争 ~ 武勇の豪傑義堯(よしたか)

16世紀に入ると足利氏と上杉氏の対立は収束し、代わって上杉氏の勢力圏に登場したのが小田原北条氏でした。鎌倉公方足利氏も、もはや権威だけの存在となってしまい、その権威は北条氏に巧みに利用されました。その結果、公方家内部で分裂が起こり、それが波及して関東周辺武士たちの家でも、同様にお家騒動が巻き起こります。このお家騒動は里見氏でも例外ではありませんでした。
義通(よしみち)から家督を継いだ義豊(よしとよ)は1533年に、叔父の里見実堯(さねたか)を殺害。これに危険を感じた実堯の子、義堯(よしたか)は、いったんは上総に引いて立てこもったものの、小田原北条氏の支援を頼りに反撃。義豊を安房から追い出すことに成功します。翌年、義豊を合戦で討ち取り、ここで分家筋だった義堯が里見家の家督を継ぐことになったのです。
この義堯は武勇の豪傑として知られ、安房から上総へと領土を拡大。稲村城から平群方面へ、さらには久留里城(君津市)へと城を移しました。これによって下総にも力が及びつつあった小田原北条氏との対立を生むことになり、この後40年間に渡り対立を深めていったのです。
今では、義実(よしざね)から義豊(よしとよ)までの時代を前期里見氏、義堯(よしたか)以降を後期里見氏の時代として区別していますが、前期里見氏の資料はかなり乏しく謎に包まれた部分も少なくありません。これは、この当主交代劇によって過去の歴史が隠滅、または改ざんされたためともいわれています。とはいえ、結果的にはこの内乱こそが里見氏の戦国武将としての独立性を確保することができた大きな要因となっており、里見の歴史を語るうえでは避けては通れない出来事といえます。

巧みな外交手腕で領土拡大 ~ 里見随一の知性派義頼(よしより)

上総に進出した義堯(よしたか)は、自身は久留里に居を構え、西には嫡子の義弘(よしひろ)を、さらに後方の守りとして岡本城に義弘の子、義頼(よしより)を配します。関東地方の勢力図は二転三転し、里見氏も上杉謙信と結んだかと思うと対立する武田信玄と組むなど、外交によって対北条氏対策を進めていきました。各地でしのぎを削る争いが繰り広げられましたが、義堯(よしたか)の死後、義弘(よしひろ)は、北条側からの度重なる和解申請を受け、1577年、ついに北条氏との長い諍いに終止符が打たれたのです。
義弘の没後は、跡を継ぐ予定だった義頼と、義弘の晩年の子である梅王丸(うめおうまる)との間に家督争いが勃発します。安房に強固な地盤を築いていた義頼(よしより)は上総に退いた梅王丸を捕らえ、その支援者も一掃。安房支配を確たるものにするばかりか、上総までを直接的な支配下に置くことに成功しました。
義頼はのちの時代に書かれた軍記ものに登場することが少ない武将の一人ですが、それは義頼が武力のみに頼ることをせず、外交戦略を巧みに利用したところが大きかったためです。1585年、関白になった豊臣秀吉は諸大名に向けて、武力での紛争解決を禁止する「惣無事令(そうぶじれい)」を通達。義頼はその意を受けて豊臣政権に服属する姿勢を示しました。世は群雄が割拠した時代から、天下人の時代へと移り変わったのです。
義頼は岡本城を居城としていましたが、時代の移り変わりを敏感に感じ取り、交易のための城の必要性を感じていました。そこで目をつけたのが館山城の麓にある高の島湊(たかのしまみなと)でした。港の開発を商人の岩崎氏に任せるなど、交易の拡大にも力を入れるようになったのです。

岡本城から館山城へ ~ 館山の基礎を築いた義康(よしやす)

義頼の死後、家督を継いだのは義康(よしやす)です。豊臣秀吉の権力はさらに強大になり、1590年には服属を拒んだ小田原北条氏は滅ぼされてしまいます。この北条攻めの戦いに義康も秀吉方として参加したのですが、ここで一つ、大きなミスを犯しました。小田原に合流する際、秀吉の命令を受けないままに三浦半島で北条軍と一戦を交えてしまったのです。それは北条氏が押さえる鎌倉を取り戻すための戦、つまりは北条攻めの一環であったにも関わらず「惣無事令(そうぶじれい)」違反を問われることになってしまいました。その結果、上総の領地は没収され、江戸に入った徳川家康に与えられてしまいます。これにより、上総から安房へと大勢の家臣たちが引き上げてくることになり、新しい城の整備が必要となりました。そこで急遽整備されたのが館山城です。
義康は館山城や城下町の整備を進める一方で秀吉のもとへもたびたび上洛。朝鮮出兵では徳川家康の指揮下で九州の名護屋(佐賀県)にまで出陣したこともあります。秀吉の臣下として九万石の大名となると、秀吉没後はいちはやく家康に服属。関ヶ原の戦いでは宇都宮にも出陣しています。その結果、鹿島郡で3万石の恩賞を与えられ、安房の9万石と合わせると計12万石を擁する関東最大の外様大名となったのです。

改易で倉吉へ ~ 悲劇の当主、忠義(ただよし)

世が安定してくると、豊臣家の下で働いた大名たちの存在が徳川家を脅かすようになります。そうした大名たちは幕府から難癖をつけられては取つぶしにあい、その難癖はついに里見にも及んだのです。
義康が31歳という若さで没すると家督はわずか10歳の梅鶴丸(うめつるまる)に譲られました。元服は将軍秀忠(ひでただ)の眼前で行われ、忠の一字をもらい忠義と名乗ります。側近たちは徳川幕府とのつながりを密にするため、政略結婚を試みました。まず、家康の娘、亀姫の子松平忠政(まつだいらただまさ)には義康の妹を嫁がせ、また、忠義は幕府の重鎮大久保忠隣(おおくぼただちか)の娘を娶ったのです。ところが、これが裏目に出ました。1614年四月、幕閣内での政争に敗れた大久保氏に連座するかたちで、忠義は安房の領地を没収され、さらに鹿島の替地として伯耆国(ほうきのくに、今の倉吉)に移されたのです。
ここに至って170年に及ぶ里見氏支配の歴史は終焉を迎えました。国替えとはいっても、伯耆国でもほとんど領地を与えてもらえず、1622年、忠義は29歳の若さにして失意のうちに没してしまいました。忠義の跡継ぎはいないとされており、ここに里見家の歴史は幕を下ろすことになったのです。

NHKの大河ドラマ化に向けて

さて、170年間に及ぶ里見の歴史のダイジェスト版、いかがだったでしょうか? 実際にはもっと複雑にさまざまな因果関係がからみあう壮大なストーリーなのですが、かいつまむと大体こんな感じになります。「関東最大の外様大名」というのが里見氏の繁栄を示す最大の賛辞になろうかと思うのですが、信長、秀吉、家康と天下争いを繰り広げた数多の大名たちと比べてしまうと、どうしても知名度は低く、南房総の外の人では知らない人も多いのではないかと思います。
じつは館山ではそんな状況を打破しようと頑張っている方々がいます。「里見氏大河ドラマ化実行委員会」がそれで、会長は里見の末裔であり里見流日本舞踊の先生でもある里見香華(さとみこうけ)さん。今回は、NHK大河ドラマ化に向けての意気込みを、里見会長と事務局の鈴木恵弘(よしひろ)さんにお聞きしました。
里見会長の胸に大河ドラマ化の思いが湧き上がったのはかれこれ20年も前のことといいます。里見氏やその関係者の末裔が集まる「全国里見一族交流会」の席でたまたま隣り合わせた方に語ったのが最初だそうです。その方は、その突然の思い付きに賛同してくださり、以来会長の心の中で思いを温めてこられたそうです。
その思いがようやく実を結んだのは2010年8月のこと。館山で里見氏大河ドラマ化実行委員会が組織され、倉吉、群馬県の里見ゆかりの地の皆さんと連携しての活動が始まりました。ドラマ放映のターゲットは2014年。この年は忠義が倉吉に移されてから400年、また曲亭馬琴による『南総里見八犬伝』刊行200年にあたる節目の年。2011年からは署名運動も始まりました。
「全国的には里見というと『里見八犬伝』のほうが知名度は高く、里見の正史は知らない方が多いと思います。今回の活動は、安房の国を治めた里見氏の正史に目を向けてもらいたいという思いと同時に、館山がロケ地になることで大きな経済効果も望めます」

実際、これまでに放映された大河ドラマのロケ地には莫大な経済効果がもたらされています。これは館山市にとっても確かに魅力的な話に違いありません。
現在、皆さんが協力してくれた署名は集計中で、今後はこの署名を携えて正式にNHKに要望を出すことになるそうです。正直なところ、2014年のドラマ化は難しいかもしれません。それでも「この活動を続けることで、少しでも里見氏の歴史に興味を持っていただければ」と里見会長。まだまだ始まったばかりですが、この活動によって里見氏の名前は地域外の人たちにも少しずつでも浸透していくことでしょう。そして大河ドラマ化が決定すれば、館山は大きく変わることになるのかもしれません。

国の史跡に指定された「里見氏城跡」

最近注目されている里見氏のもう一つの話題は、稲村城が国の史跡に指定されたことです。今年の1月、「里見氏城跡」として指定されたもので、南房総市の岡本城とセットでの指定。千葉県では27番目の国指定の史跡になります。
稲村城は、里見義通(よしみち)が居城とした城。つまり群雄が割拠した時代に築かれたもので、義豊(よしとよ)から義堯(よしたか)への当主交代劇の舞台となった城です。義堯は平群方面に居城を移したため、この稲村城は廃城になりました。城は丘陵を利用した山城で、東西約600m、南北約300m。標高64mの山頂の主郭からは館山湾や市街地を一望できます。
岡本城は、義頼が居城とした城で、義康が館山城に移るまで本城として利用されました。いずれも当時の姿をよく留めており、戦国時代の房総の山城の構造や変遷を知る重要な手がかりを伝えてくれています。整備はまだまだこれからですが、里見氏の歴史を知る貴重な資料としてこの地域の名所となっていくはずです。
里見氏が残してくれた大きな遺産。今後も里見氏は、館山にとって大きな存在でありつづけることでしょう。