祭りを彩る山車(だし)や神輿(みこし)。
町を練り歩く勇壮な姿は館山の夏の風物詩にもなっています。
じっくりと眺めてみると、いずれにも手の込んだ彫刻が施されていることにお気付きでしょう。
これらの彫刻の多くは「後藤流」と呼ばれる一派の作品たち。
今回は後藤流の名を世に知らしめた宮彫師、後藤義光について調べてみました。
(2012/07掲載:K)
安房で名を馳せた後藤流の系譜
「安房後藤流」「房州後藤流」などともよばれる一派の元祖となったのは、千倉に生まれ育った後藤利兵衛橘義光(ごとうりへいたちばなよしみつ、以下初代義光)。江戸末期から明治期にかけて活躍した宮彫師(みやほりし)で、石彫りの武田石翁、波の彫刻で名を轟かせた武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)と並び「安房の三名工」のひとりに数えられる人です。ダイナミックな表現を得意とし、躍動感あふれる龍の彫刻をいくつも残しています。
この初代義光は多くの門人を育てたことでも知られ、二代目義光となった長男も含めると16人もの弟子を育てたことになります。直系は五代目まで続きますが、門人やそのまた門人も後藤を名乗るものが多く、この一派を総称して後藤流とよばれます。門人や二代目以降については別の機会にゆずるとして、今回は初代義光に絞って紹介したいと思います。
後藤流の祖、初代後藤利兵衛橘義光(ごとうりへいたちばなよしみつ)
初代義光は文化12年(1815)、北朝夷村(現在の南房総市千倉)の宮大工の家に生まれました。幼名を若松といいます。千倉の愛宕神社には14歳のころの作品が残されていますが、それを見る限り幼少期より才能豊かな少年だったことが伺えます。23歳で江戸京橋の宮彫師、後藤三次郎恒俊(ごとうさんじろうつねとし、以下恒俊)の門人となりました。この恒俊は安房でも多くの彫刻を手掛けていますが、鴨川市の誕生寺祖師堂の仕事に取り掛かっている際に、若き初代義光が仕事場を訪れ、それをきっかけに恒俊の門人になることを決めたという話も伝わっています。
宮彫師となった初代義光は、最初は主に相模の国で活躍します。彼の名を世に知らしめたのは、今の横須賀市にある西叶神社の再建の際に手がけた向拝、本殿の彫刻でした。このころから「義光」を名乗るようになり、ここから後藤義光の系譜が始まります。
42歳になった初代義光は、鎌倉から生まれ故郷の北朝夷村に戻り、安房を中心に活躍するようになります。同時に多くの門人も育成しますが、なかでも幸吉郎義信、利三郎義久、庄三郎忠明、喜三郎義信の4人は特に評価が高く、後に「四天王」とよばれることになります。
安房に拠点を移した初代義光は、45歳で手がけた千倉の円蔵院(えんぞういん)をはじめ、次々と仕事をこなしていきます。寺社の彫刻はもちろん、山車や神輿、また、個人宅の欄間なども数多く手がけました。初代義光の特徴は、その作品にしっかりと自分の銘を入れるということ。そのおかげで、初代義光の作品は後生特定しやすくなっています。
こうして最後まで安房に多くの作品を残した初代義光は明治35年に生涯の幕を閉じました。齢88歳、米寿の祝いの直後だったといいます。江戸から明治に名を刻んだこの名工は、現在は千倉の西養寺の墓に静かに眠っています。
初代義光の作品をめぐる
このように名声を博した初代義光のダイナミックな彫刻たち。館山周辺ではどこで見られるのでしょうか?
まずアクセスしやすいのが「やわたんまち」の舞台としても知られる鶴谷八幡宮です。向拝の天井に施された『百態の龍』が初代義光49歳の作となっています。ただし、一人で全てを手がけたわけではなく、実際は、55枚のうち十数枚は他の彫師の手によるものとされています。
次に出野尾(いでのお)にある小網寺。この向拝の龍は初代義光の傑作のひとつに挙げられるほど繊細です。明治25年といいますから78歳の作品になります。
ほかには、館山市内の寺社では
観音寺・本堂(78歳、館山市南条)
光明院・向拝(53歳、館山市波左間)
風早不動尊・向拝(78歳、館山市岡田)
観音院・向拝・欄間(81歳・87歳、館山市西長田)
などがあります。
祭りの見方が変わる? 山車・神輿は彫刻に注目
上に挙げた寺社の彫刻はいつでも目にすることができますが、初代義光の彫刻は各地の山車や神輿にも見ることができます。ところが、これらの山車、神輿は、普段はしっかりと保管されており一般の人の目に触れることはまずありません。見るチャンスは年に何回かのお祭りの期間中のみ。しかも、練り歩いている最中は彫刻の前に提灯などが下がるうえ、激しく動いているのでゆっくり鑑賞することはまず不可能です。
彫刻鑑賞の最大のチャンスは、祭りの準備に取り掛かる直前でしょうか。準備のスケジュールは地区の人などから事前に入手しておく必要があります。
これまでは彫刻については、地区の人たちでさえもあまり注目していなかったようですが、最近では彫刻が見直されるようになったこともあり、地区の人などみなさんの意識も高まってきているようです。たとえば、以前は昼間から提灯を下げていた山車も、今では明かりが必要になった際にのみ下げる地区も増えてきています。こうすることで、練り歩いている間や、休憩している時にもゆっくりと鑑賞できるようになりました。
館山市の祭礼で山車、神輿に初代義光の作品が見られるのは次のとおりです。ここに挙がっていないものも、その多くは門人たちの手によるものです。祭の際には各地区の彫刻に注目してみるのも面白いかもしれません。
※下記祭礼の日付は2012年のもの。館山のまつり以外は年によって変更になります。
長須賀地区祭礼(7月14日、15日)
長須賀 熊野神社・神輿
2日にわたる祭礼の1日目が神輿のお浜出。彫刻は太田道灌と山吹の里など。初代義光79歳の作。
那古のまつり(7月21日、22日)
寺赤組・山車
初代義光の遺作とも伝わる最晩年の作。館山市の有形文化財に指定されています。
船形のまつり(7月28日、29日)
大塚地区・山車
総けやき造りで安房地域では最大級。柱に施された昇り降り龍も必見です。初代義光86歳の作。
館山のまつり(8月1日、2日)
上真倉 神明神社・神輿
初代義光82歳の作。左右一面に鴉天狗の彫刻が施されています。
青柳 日枝神社・神輿
漆塗りの大神輿。楠正成や太田道灌など、彫刻は初代義光84歳の作。
やわたんまち(9月15日、16日)
南町 蛭子神社・山車
赤と黒の漆塗の山車。彫刻のモチーフは浦島太郎。初代義光82歳の作。
少し先の話になりますが、2015年は初代義光の生誕200年となる節目の年にあたります。それにちなんで、上で紹介した初代義光が手がけた6台の山車・神輿が一堂に集まるまつりが計画されています。これまでになかった機会だけに楽しみですね。
安房の三名工、あとの二人は?
せっかくなので、安房の三名工について補足しておきます。上で述べたように、あとの2名は石彫りの武田石翁と、波の彫刻で名を馳せた武志伊八郎信由(以下、初代伊八)です。三名工というと同じ時代に生きた人のようにも思えますが、実際にはこの3人それぞれ少しずつ活躍した年代が違います。特に初代伊八は初代義光に比べると随分年長で、同時代に彫師として活躍したわけではありません。
武志伊八郎信由(初代伊八)
(たけしいはちろうのぶよし)
宝暦元年(1751)~文政7年(1824)
鴨川出身の彫刻家。波の表現を得意とし、「波の伊八」との異名をもちます。その名声は関西にまでとどろき、「東に行ったら波を彫るな、伊八がいるから恥をかくぞ」と、他の同業者からも一目置かれる存在でした。その表現は葛飾北斎にも影響を与えたとされ、『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、いすみ市行元寺(ぎょうがんじ)の欄間彫刻に構図が酷似しています。
伊八は江戸の嶋村系の彫師で、伊八の名は5代まで続きました。
余談ですが、フランスの作曲家ドビュッシーの傑作のひとつ、交響詩『海(La Mer)』のスコア表紙にこの『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が使用されています。
武田石翁(たけだせきおう)
安永8年(1779)~安政5年(1858)
旧三芳村本織に生まれ、本名は鎌田周治。幼いころより細工が得意で13歳で名工、小滝勘蔵に弟子入りしました。のちに小滝家に婿養子に入ります。40歳ごろより石翁を名乗り、石工よりもより芸術的な石彫に精を出し一時江戸で活動していたこともありました。多くの石仏や狛犬、宝塔などを手掛けましたが、なかでも得意としたのは黒ろう石の精密な彫刻で、特に晩年に多くの傑作を残しています
※後藤流の話は館山市で社寺彫刻などを手掛ける稲垣祥三さんにおききました。
※彫刻などの画像は南総祭礼研究会に提供いただきました。