元は足利氏の側近でしたが、徐々に勢力を伸ばし、1500年頃には稲村城を築き、安房を支配するための本拠地にしていました。その後、四代義堯(よしたか)は、房総半島全域に勢力を広げて、房総最大の戦国大名に成長したのです。しかし、豊臣秀吉が、1590年に北条氏を攻めたとき、里見氏も秀吉に従って戦ったにもかかわらず、軍令違反をしたため、安房以外の領地を全部取り上げられてしまいました。関が原合戦の時、九代義康は徳川方につき徳川家康から、鹿島(茨城県)で3万石の領地を新しくもらいます。里見氏の領地は安房と合わせて12万石になり、関東最大の外様大名になったのです。ところが1614年、十代忠義は、「伯耆(ほうき)の国倉吉(鳥取県)に国替えを命じる」という命令を突然受けたのでした。そして1622年、忠義は29歳の若さで病死し、里見家は断絶となったのです。