湊の鎮守。天正18年(1890年)には子易大明神として記録されています。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしていました。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されており、境内には「青面金剛」の文字を刻んだ庚申塔があります。寛政12年(1800年)の庚申の年に湊村の庚申講で建立したもで、手水石は文政13年(1830年)に相州西浦賀の鈴木弥吉という人物が奉納しています。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名づけられています。
湊の鎮守。天正18年(1890年)には子易大明神として記録されています。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしていました。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されており、境内には「青面金剛」の文字を刻んだ庚申塔があります。寛政12年(1800年)の庚申の年に湊村の庚申講で建立したもで、手水石は文政13年(1830年)に相州西浦賀の鈴木弥吉という人物が奉納しています。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名づけられています。